基本食の考え方でもっとも本質的なことは
以下のことです。
なぜ主食が穀物であらねばならないのかという
本質的な解答です。
「光子体としての自己」
私たちの究極の姿は光の集合体です。
光は身体から絶えず流れ出ています。
生物フォトンといわれるものもそれです。
手のひらと足の裏から放射せれています。
出るばかりでは光子不足となり光子体として、ボデイを維持できなくなります。
光を補充しなければいけないわけですが、
その手段が太陽光を浴びることなのです。
都会で暮らす人は日常的に光不足があり、
その兆候がまず心理的異変となってあらわれます。
欝などがそれです。
初期の欝の治し方は昼間に森や山を散策することです。
十分に太陽光を摂取できると、夜間正常な眠りになります。
ところで心理的異変を起こす人によくあるのは
お米を食べていない、ということがしばしばあります。
これも光との関係です。
お米の種というものはカプセルです。
そのカプセルの中になにが入っているか、ということです。
栄養素が入っているのでしょうか?
そうではありません。
事実としてはそうなのですが
それは真実ではありません。
カプセルの内部に詰め込まれているのは光の凝縮体なのです。
それをビタミンだといったり、炭水化物だといったりしているわけです。
光合成により光をそうした物質に変換したのです。
種を発芽させ、苗を植え込み、長期間光を受け止めます。
野菜はきわめて短期間で、その季節のみの光だけ受けるのです。
お米は長期間光を受け止めます。
お米は光の一時集積所なのです。
お米を食べるということは、多量の光を食べるということなのです。
消化器官を通して内部から組織に投光する、これが食というものの意味なのですね。
白米にして食べるのは光のカケラを食べるということ。
完全な光ではないわけです。
ハウス栽培の野菜はガソリン(これもかつては過去の光の集積した微生物だった?)が主になっており、今現在の光は少ないのです。