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2015年02月14日

「カーペ・ディエム」 10年間のメッセージは随所作主

「カーペ・ディエム」
今を生きる、とは今をつかみ取るということなんだ

あなたが いくらその人を愛しているからといって

きのうの彼女を抱くことはできないし

明日の彼女も抱くことはできないわけだ

さらには さっきの彼女さえ抱くこともできない

今日 たった今の彼女を抱きしめなさい

彼女の実質の手ごたえや肌の感触は 

今そのものの感触なんだ

その感触でさえ それは

次々に過去へと消えて 記憶だけが追走するだけなのだ

生きるとは本のページをめくるようなものだ

今、そのページが開かれているのなら
そのページをわしづかみ、食べてしまえ


10年間継続したこのブログの通奏低音はこの詩の内容そのものでした。

言い換えれば「随所作主」
どんな時もどんな場所でも主人公たれ
そうすれば
どんなつまらないことのなかにも真実が立ち現われてくる

posted by 変才冨田 at 01:18| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月10日

財産を残すことの意味

「身体は天からの預かりもの」とはよく云いますね。

レンタルDVDと同じで借りたら全て返さねばなりません。

財産を残す、というのはこの点でどうなんでしょうか。

天に返却しきっていない、という感じでしょうか。

以前書いた記事です。

「子孫に美田を残さず」の本当の意味3

「子孫に美田を残さず」と言った西郷翁の真意についてさらに考えてみます。

先ずはこれまでの文章を見てください。

この意味は「子孫を甘やかすことになってしまうから」という意味に普通はとられてしまうでしょうか。

わたしもついさっきまではそう思っていました。

でも、西郷さんの生き方から考えて子孫のことまで考えるだろうか・・・。

かれは一生を完全燃焼で終えました。

そのことから考えると

解釈を変える必要があります。

それは以下のようなことです。

西郷「子孫に財産を残すなんてことでは、それは世の中からなにかを奪ったまま生を終えることになるんでごわす」変な薩摩弁?

わたし「なるほど!」

西郷「じゃどん、おいどんは財産も稼いでもおらんでごわすが・・・。

   訊くが、おまんは財産を稼ぐために生まれてごわんどか?」

わたし「お金は道具だと思っていますので貯めるものではないですよね」

西郷「よかよか、その通りでごわす。世の中から与えられた道具なら使い切って世の中に返すのが筋じゃなかか」

ということなのではないでしょうか。

お金というのはその人の器量に合わせただけのお金が入ってくるわけです。

その人の器量でそれを使い切ることが世の中のためになるわけです。

子孫に財産を残したら、その額は器量を超えているのでろくな使い方をしない。

お金の使い方は、その人の生き様が反映しますから超過したお金の分だけ子孫の生き方を誤らせてしまうということになります。

稼ぎかたより先に使い方を覚えてしまった人たちは、人生の真実を知らないまま去ることになります。

どんな会社でも一族で継承すると三代目でつぶれるわけです。

稼ぐ能力に見合った使い方こそが使い切る人生になりそうです。

財産を残すことは、その人が十分な生き方をしていなかった証拠になります。

財産を使い切る=人生を使い切る

財産は残さないで今自分のために、世界のために使い切りましょう!

死んでなにが残るのか。

なにも残さないこと。

残ったものはすべて与えたものだけなのです。



付けたし
西郷翁は見えない美田をわたしたちに残してくれたように思えます。

モノは子孫にしか利用されませんが、見えないモノであれば全人類への遺産になります。

それは「美しく生きること」の意味を教えてくれたのではないでしょうか。

わたしはいつも「自己本位制」で生きることが必要だと言っています。

みんなが自己本位で生きれば本当のコミュニュケーションが成り立ちます。

一方が「自分さえ我慢すればいいから」などと思っていると、それは双方にとって悲しい結末になります。



さて
自分の一族に美田(財産)は残さないようにすべきですが

後世の人々のために美田を残さないといけません。

福嶋原発の事故で田畑は汚染されました。

これを元通りにすること、これはお金の問題ではありません。

田畑を汚染したのは政策によってですが

さらに田畑を、それどころか人心をも荒廃させる政策が進行しています。

資本というものの本能に突き動かされて、その結果

TPPが日本の姿や形をどう変えてゆくのか

国民どころかそれを遂行しようとする政治家さえも知らないまま進行しています。

知っているのはアメリカの政財界人だけなのでしょう。

(ここからが続きです)

子孫にはモノを残すのではなく考え方を残すべきです。

西郷翁が美田を残すなという真意は、逆からいえば見えないモノとしての生き方やそれを促す考え方をこそ
子孫に残すべきと言っています(たぶん)。

もちろん西郷は途方もなく大きな人だったので

自分の一族を見ているのではなく

子孫とはわたしたちのことです。



さらに続けます。

西郷翁は美田を、すなわち財産をつくるような一生ではなかった。

財産を作れない人が「子孫に美田を残すな」とはどういうことか。

つまり

財産をつくるような生き方をするなというわけです。

西郷翁は完全な無私の人だったので、そういう結論になるのは当然だったのです。

「私」という存在が想定されたとき、その瞬間に「私のモノ」という概念が成立するでしょう。

無私であれば「私の所有物」が成り立たないのです。

多くの怒りは「私」という頑固なものが抱くものです。

私の財産という意識がそもそもなければ「怒り」さえ希薄になるのでしょうね。

そこに存在できる「怒り」は公への憤りで、私憤はないのです。

私憤は勝手な私の妄想から生まれるので心の不健康なのですが

公憤は自分の立場を離れているので健康も害しません。

それにしても「無私」の人はそれ自体スケールの途方もない大きさを感じ

そんな人の存在自体が奇跡のように思えます。

自分の小ささに唖然とします。






posted by 変才冨田 at 12:41| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月08日

本当の理由5

そして、解決は常に現象と原因の間、中心に求めるのです。

腰痛原因を単純化する方法は「姿勢に中心軸をつくる」ことなのです。

右の腰痛がある人の多くは右に軸が偏っていることが多いのです。

では左に軸を置くことが解決法かというと、違いますよね。

一行目が正解です。

けれど、日常的にも社会的にも矛盾の解決を反対側に求めことが多いのです。

民主主義に矛盾が生じると、7たちまちファシズムに魅力を感じる土壌があるのです。

やってみましょう、体で一行目を実証しましょう。

中心軸をつくっ何が起こるか、簡単に実証できるのです。

2月14日は塚田農場で実技理論セミナーをやってみます。

本当の理由を見つける方法を

身体を実験的に使って体験的に感じましょう。

同じやり方で、違った局面でも通用するのです。

posted by 変才冨田 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月07日

本当の理由4

本当の原因は心なのか、それともほかにあるのか消去法で潰す必要があります。

一例として腰痛を上げます。

痛いという部分的な個所から視野を広げねばなりません。

痛いところにだけこだわっているからわからなくなるわけです。

現象を起こしているところに原因があるわけでなく、見えないところに、反対側に原因を探すのです。

左のひざが痛いのなら右の膝はどうなっているのか、ということです。

子供の非行ならその原因を親に探してみるということです。

そして、解決は常に現象と原因の間、中心に求めるのです。
posted by 変才冨田 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本当の理由3

続き

インフルエンザに罹患した、ウイルスに感染したからだ。

抗インフルエンザ薬を飲もう!

終わり

いや、待てよ

なんでそうなったのか、そういえば最近疲れていたなー

それで免疫力を低下させてしまって感染したのか・・・

なんで疲れてしまったのかな?

仕事がきつくておそくまでやっていたからだな・・・

終わり

こういうパターンで終わってしまうことも多いでしょう。

追究力が足りないのですね。


たとえば

腰痛になった。

病院で診てもらうと「椎間板が外に出て神経に触っていますよ」

終わり

そこでなんでそうなったんですか?

と訊く人は少ないでしょうね。

訊いたとしても「ああ、それは老化ですね」

ああ、そうですか。

終わり

でも自分より年寄りでも腰痛で無い人もいるのにネ。

真剣に訊きつづけると医師もくたびれてしまい「心療内科に行きますか?」

ということになる。

現実に腰痛の70%心のは問題だと言われているのです。

はい、そこで終わり。

続く



posted by 変才冨田 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月06日

本当の理由1

病気になったとき、「どうしてなったんだろう?」と自問するときがあります。

次から次へと原因をたどっていけるルートであれば、それ自体が正解なのです。

途中で止まると、それは原因究明のコースからはずれてしまったということです。

インフルエンザに罹患した、ウイルスに感染したからだ。

抗インフルエンザ薬を飲もう!

終わり

これではおかしいわけで、原因究明のコースをはずしています。

ウイルスの先になぜ行けないのでしょうかね。

続く













posted by 変才冨田 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マクロビオテイックの本質3 世界は狭い、フスマの内と外

続きから

処刑された後藤さんはフスマを開けて、つぶさに見たことを「フスマのこちら側の人々(わたしたちがいる場所)に知らせようとしたんでしょう。

後藤さんの拡大された意識から見て「自己責任論」なんてのははるか下での雑音でしかないのでしょう。

アメリカ・インディアンの青年が、その部族の居留地に原子力発電所が計画されたとき猛烈に反対しました。

「俺から見える地平線まで、全て俺自身なんだ」という世界観から反対していたんです。

ある部族の長老が白人を泉まで案内して「この泉はわたしなんだ」と言うのです。

自己を世界サイズに拡大した結果、全ての現象は自己の内部でのことという

ある意味「ホ・オ・ポノポノ」の説く世界観になってきます。

極限にまで意識を拡大して考え、感じること。

これがマクロビオテイックの本質なのです。

食の意味というのは、無限に拡がっている世界を代表した食物を取り込むことによって

自己を世界とつなげ、同一のものになろうとする行為だといえます。

ここから

「ニンジンをわたしが食べる」から

「にんじんがわたしを食べる」という大逆転の見方が出てくるのです。

「食べるとは、食べられることも意味する」わけですね。






posted by 変才冨田 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月05日

マクロビオティックの本質2 現代の世界をどう考えるか

私たちは今生きている世界をどう理解するのでしょうか。

世界は地獄の様相です。

今に始まったわけでなく、わたしたちが生まれる前から、そして生まれてからも地獄です。

人類史的に最近の事柄だけでも

第一次、第二次世界大戦

その最中に行われた数々の蛮行として、2発の原爆を市街地に投下したこと。

アウシュビッツの大量虐殺、日本も人を「マルタ」と言って731部隊が人体実験をしました。

戦後になっても世界各地で民族的紛争から大量の虐殺行為がありました。

最近ではクロアチア地域で、ポルポト派も何十万人といわれる虐殺などひどいことをしました。

今は「イスラム国」が世界の耳目を集めています。

こうしたことがどこか遠い場所で行われていると感じないと、わたしたちは生きていけないのかもしれないので鈍感を装います。(自分たちには関係ない・・・、と)

わたしたちの視野の狭さは救いなのかもしれませんね。

けれど、その視野狭窄こそが次の蛮行を許すことになってしまい、次蛮行の温床にもなっていることを考えると、
わたしたちは共犯になっているわけです。

マクロビオテイックの考え方では、これは「大いなるいのち」の意味なのですが

ここから命はつながっているとする思想になる関係上(大きないのちは小さないのちの集まりです)

共犯意識を持つことになります。

テロで大勢が殺されたり、後藤さんが処刑されたときも、どこか感情が傷ついたはずです。

これはつながっている関係上、わたしたちも痛いわけです。

虐殺を実行する人々の心情に対しても痛いはずです。

つながっているので「自分が実行した」ような感情の傷つきがあるはずです。

そうした蛮行は許されないと人類は常に言ってきたわけです。

けれどそれがやむことはなかったのです。

「許せない」では解決できない証明です。

では、どう考えればいいのか・・・、どう世界に向き合えばいいのか。

マクロというのは視点を拡大するということです。
視点を拡大していのちを解釈するわけです。

拡大するということは拡大した分だけ、自分自身が拡大されたことになります。

世界で起きていることは自分自身の内部で起きていることと実感が持てます。

茶の間でグルメ番組を見ている最中に、フスマ一つ隔てたとなりの台所では人々がひしめいており銃殺やらの阿鼻叫喚地獄が展開しています。

フスマを開けることができますか?

続く







posted by 変才冨田 at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月03日

マクロビオテイックの本質

落ちた花びら.JPG

落ちた花びらは死んだ姿なのでしょうか。
花びらが自分自身を花びらであると考えているとしたら、それは「死んだ」わけです。

生きている花.JPG全体の命.JPG




自分は花であると考える花と、自分は椿の樹だと考える花があるとしたら?

その死生観は天地の差があるでしょうね。

いのちの視野を「拡大する」こと、これがマクロビオテイックなのです。

以前書きましたね。

多くの人は仕事とは作業を完璧にこなせれば良い、と考えています。

それは「人生にはパンのみあればよい」という考え方があるからです。

仕事(作業のみ)をしてお金を稼いで、それでごはんを食べる・・・。

これに対して「人はパンのみにて生きるに非ず」ということが聖書に書いてあります。

これは「パンも必要だが、それだけではないよね」と言っているのです。

それはディズニーにおいては「仕事とは作業+ミッション」ということと同じなのでしょう。

ミッションがパン以外のことを指します。

わたしたちはなぜ仕事をするのか?

1 「お金を得て日々の糧を得るのだ」

これだけの仕事観だと最初の煉瓦職人と同じです。

もう一回書きますね。
煉瓦を積んでいる職人に問いかけます。

「あなたはなにをしているのですか?」

職人A「見た通りレンガを積んでいるのさ」

職人B「塀をつくっているのさ」

職人C「公園をつくっているんだよ!」

最後の職人さんはパン以外のこと、ミッションをもっているわけです。

ミッションがあるというのは視野が拡大した状態なのですね。



なにごとにも視野を拡大させてゆく考え方、これがマクロビオテイックなのです。
このスレッドからは余計なことですが、

仕事をする理由には以下の二つを満足させる必要があります。

1 仕事で賃金を得る →作業をこなせばよい

2 仕事を通して自分の心の目的を達する。→ミッションを果たす

心の目的とは「人と幸せな関係を築く」にあります。

仕事とはありがたいもので、この二つをかなえてくれるわけです。

ところがこのミッションの部分がなくなっている状況がある。

そういう場合は「無力感に覆われる」「仕事が嫌いになる」「惰性で仕事をする」「つまらない気の抜けた失敗が重なる」などが生じます。

逆にミッションを経営者が重視しすぎると、スタッフに過密労働を課すことになります。

ミッションをもったスタッフは独りブラック企業化しやすいのです。

企業から見ればスタッフが自主的にブラック企業家化してもらえればいいわけです。

したから残業代はいらないでしょう、ということになりかねません。

自主的に奴隷化してしまいます。

今評判のブラック企業というのはスタッフに「やる気」を注入することで搾取して経営しています。

パンを十分に処置したうえでのミッションでなくてはいけません。





posted by 変才冨田 at 22:36| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月01日

命はつながっている2

以下は以前に送られてきたある方からのメールです。

「1本のホウキが生んだ、世界の奇跡」

ニューイングランドにある精神病院で働く、名も知れぬ、普通のお掃除のおばさんのお話です。

彼女のはたらく病院の地下室には、「緊張型精神分裂病」と診断された10歳の少女の患者がいました。

何に対しても反応を示さず、ただ暗い地下室のベッドにうずくまっているだけ。
少女はもう回復の見込みはないと、考えられていました。

世界から見放され、一言も話す事なく、胎児のように丸まったまま、決して動こうとはしなかったのです。
以前は可愛らしい少女だったのですが、いまや日々、やせ衰えていくばかり。

彼女は、そんな少女の個室のまわりを、毎日掃除をしにやってきました。そして、ドアの隙間から食事をホウキの柄で中に押し込みます。

彼女にも同じくらいの歳の娘がいたせいか、少女を不憫に想いますが、そこはただの掃除婦、もちろん何もしてあげる事はできません。

そこで彼女は、せめてそこを去る前に、うずくまる少女の肩をホウキの先でそっとつつくことにしました。
「ねぇ、あなたは一人ではないんだよ。少なくとも、ここにあなたを気にかけている人間がいるんだよ」

という思いを伝えたかったのです。。

掃除のおばさんには、この程度のことしかできませんでした。ほんの小さな愛の実践です。ホウキの先ほどの。。。。

でもその程度しかできなくても、ただただ、伝えたかったのです。だから来る日も来る日も、彼女はホウキの先で、その少女を優しくつつき続けました。

そして何週間経ったある日の事。。。小さな変化が起こりました。

ただ死を待つばかりだった少女が、なんと、自分の手で食事を受け取るようになったのです。

さらに時が経つにつれ、少女は座る事もできるようになり、掃除婦のおばさんと話をすることまでできるようになったのです。

こんな事ってありえるのでしょうか?偉いお医者さんたちも、完全にお手上げだったのに。。

こうして少女は、やがて奇跡ともいえる回復を遂げることができたのです。

それから何年か経った、あるうららかな春の日。。。
その精神病院の院長は、アラバマ州の一人の紳士から、ある依頼を受けました。
その紳士のお子さんが、重度の障害児で、世話をしてくれる人を探しているというのです。

その頃、あの奇跡的な回復をとげた少女は20歳になっていました。

院長は、自信を持ってその彼女を、紳士に紹介しました。

彼女の名は、アニーサリバン。

そう、ヘレンケラーの偉業を生み出した教師です。

地下室でただ死を待つしかなかったあの少女です。。
ヘレンケラーの世界的偉業、それはアニーサリバンが、創りだしたという事は今や万人が認めるところです。

でも、ちょっと思い出してみてください。

そのアニーサリバンを創りだしたのは、誰なのでしょう?

ヘレンケラーとサリバンの業績だけを見ていると、見落としてしまいがちですが。

しかし、その奇跡の「真の生みの親は」は誰だったのでしょうか?

どんな大木も、どんな大企業も、どんな大成功も、もとを辿れば、すべて小さな種から始まっていることを忘れたくないなと、私は思います。

以上、素晴らしいメールをありがとう。

これぐらいなら出来る。
みんなで「これデキ」を楽しもう。

あなたの一言や、一つの行動から奇跡は起こり、やがてそれは、希望の常識になるかもしれません。

あなたが絶対にあきらめないで下さい。

奇跡は毎日、どこかで起こっているのだから。

感動共有しよう。
この世は素晴らしい。
人は素晴らしい。


私から最後に

人の世に光あれ!


追伸
今朝後藤さん、殺害のニューズが流れていました。
世界はまさに地獄の様相です。

少女に爆発物を身に着けさせ自爆させるなんて身の震えが止まりません。
この日本でも「殺してみたかった」と19歳の女子大生が殺害しています。

こうしたニュースの後で普通にグルメ番組が流されています。

世界は狭くなっています。

茶の間の隣の部屋では無数の人々が不条理に殺されているのです。

茶の間の平和とすぐ隣の部屋の地獄は共存していますが、あなたはそれに耐えられるのだろうか。

一体世界になにが起こっているのでしょうか。


この掃除婦のおばさんのように自分ができることから世界へつなげていくしかありません。


posted by 変才冨田 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月30日

命はどのようにつながっているか

1.“いのち”のつながり
・紅タナゴ→池にたくさん生息していたのに激減→原因を探す。→池の底にヘドロがいっぱいだった。
 →酸素不足になったためだろう。

・なぜ、ヘドロがいっぱいになったのか?→そこはため池(人工池)で、水田が干上がると栓を抜き、水田へ水を流していた。→その水とともにヘドロも水田へ行き、稲穂の栄養分となっていた。

⇔田んぼが無くなったため栓を抜く必要がなくなり、タナゴが生息できない程ヘドロが増加。
 ⇒田んぼの存在。→紅タナゴの存在に必要。→田んぼに“紅タナゴのいのち”が偏在している。

・さらに言えば→紅タナゴがいなくなった原因が、田んぼがなくなったため。
→そもそも、なぜ田んぼが無くなったのか?→日本人が米を食べなくなったから。

⇒日本人の中に“紅タナゴのいのち”が偏在していた。
・テレビでこの特集をしていたが、その対策会議を人々は“パン”を食べながらしていた。

・いのちは連続体→ウェーブでつながっている。

posted by 変才冨田 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

無能のレベルから抜け出す

無能のレベルに達して、それ以降成長しない原因があります。

これは社内での昇進などという狭いものだけに適用されるわけでなく、人の成長にすべてかかわっているものです。

それを理解するためには「見えないモノ・見えるモノ」の関係があるのです。

見えるモノ(現象や形あるモノ)はその前に「見えないモノ」が在ることで成り立つということです。

見えないものが見えるものをつくっているのです。

なにかを創るときに、まずは「意図」するという見えないものがあるのです。

形態形成場という考え方があります。

その固有の形をつくる「場」が先ずあるのです。

その場に物質が呼びこまれて、その場が要求する形ができあがるのです。

確かにわたしたちの身体は緊密にモノでぎゅうぎゅうに詰まって見えるのですが、原子レベルから素粒子レベルにまで入り込むと、隙間だらけです。

原子と原子の間は空間が広がっており、そこには「場」があるだけです。

「場」とは「磁場」のことで、振動だけがあるのです。

肝臓には肝臓の、心臓には心臓の、大根には大根の、カブラにはカブラの・・・、それぞれに固有の振動する場があることで細胞はその場にふさわしい形や働きをするわけです。

心臓に相応しくない振動が表れれば、心筋細胞も変調になります。

さて職場という「場」があります。家庭という「場」、クラスという「場」もあります。

この場の状態が悪ければ、そこで活動する人たちにも影響が出ます。
posted by 変才冨田 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月12日

わたしの目標と目的 1

わたしの目標は毎月玄米を100t販売することです。

100tというどれくらいなのかというと、体重が50sの女性に換算すると二千人分です。

一日のお米の摂取量を200gとすると五十万日分ですね。

毎月に換算すると一人が毎月6s食べるとすれば約16,000人が毎月食べる量です。

つまり16,000人の愛用者がいなければ毎月100tは売れないわけです。

なぜこんなに売らないといけないのかというと

毎月100t売れれば粗利益にして1000万円の収入があるのです。

1000万円の収入があれば温泉宿泊付きの代替医療センターを運営しても赤字でも持ちこたえられるでしょう。

その場所は日本や世界の医療を根本的に変更するところです。

自然医療に自ら参加する医師や各種の治療家が団結して治癒にむすびつける場です。

そこで自然医療こそが本物の医療であるという証拠を作りたいのです。

それが100tの次の目標です。

目標は目的があって設定されます。

わたしの目的は・・・。




posted by 変才冨田 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

表現の自由と民主主義は矛盾するか

フランスでのテロはショックでした。

世界は新しい事態に突入しそうで不安感が募ります。

突然隣人がテロリストになるような不安があります。

利益を相反する国家同士が戦争という究極の解決策に奔る。

これが戦争の普遍的ともいえる形態でしたが、別な戦争状態があるということを知りました。

さて、このたびの事件のきっかけになったのは、イスラム世界では聖なる予言者と崇拝されるムハンマドを揶揄、風刺したことにあります。

それに対して対抗する手段としてテロなどはあってはならないことですが、

問題としたいのは、相手の価値観を認めない表現は無制限で許されるのか、ということです。

行動も表現の一形態と理解すれば、テロも許されることになってしまいます。

表現というテロ行為もあるわけです。

これはネット社会においてよくありますが

当人が望まない写真をネット上で公開されてしまい自殺に至ったり、将来にわたって悪しき影響を与え続けたりします。これも表現の自由で許されるわけではないですね。

では全て個人を風刺するような表現を許してはいけないのかというと、これも問題です。

秘密保護法は政治家個人の秘密を暴露すると罰されるようなことが危惧されます。

政治家の秘密のなかには国民の生命と財産を危険にさらすような事案があるとき

これを知ったメディアは個人のプライバシーの侵害になるとして報道しないようなことがあっては

それこそ民主主義の危機です。

要はムハンマドを信じ崇めるイスラム圏の人たちの存在で、フランスの雑誌社はなにか侵害されたのかということです。
なにもなかったはずです。

個人の「好き嫌い、信じること、信じないこと」に対してそれを批判したり揶揄してはいけないのです。

まして「それは禁止する」あるいは「自分の信じることを他に強制する」ことは相手の心へのテロ行為だと思うのです。

好きなタレントのことをミソクソに言われると誰だって不快に感じるでしょう。

タレントの不祥事に関係のない人たちがネット上で批判してブログ炎上ということもあります。

誰かがなにかを好きというだけでなんの不利益もうけない人たちが批判、嘲笑したりすることは無意味です。

民主主義はこうした無意味も許容するのか?

つまり、そうしたことはその個人の民主主義に対する成熟度に関係するのです。

表現の自由に対する理解度はその人の民主主義の染みつき方に決定されるのです。

「君が代」を卒業式において唄わせたい人たちはこの民度において未熟なのです。
「愛国心」を生徒に強制することは個人の心の中身の好き嫌いの問題ですから立ち入ってはいけないのです。

父母を敬いなさい、などという道徳も教えてはいけない。

自分の信じることを他者に強制することは心に対するテロ行為になっているということを理解できるかどうかは民主主義の熟成度を試されているということなのです。

政教分離は人類の到達した見解です。

個人の信仰心に対して政治は関与してはならない。

逆も言えます。

自分の信仰を拡大するために政治を利用してはいけないのです。

要は、個人の心の問題に関与してはいけない。そういうことです。

思うのも思わないのも自由であって、思いを罰してはいけないのです。

けれど、その思いが表現という行為になるとき注意が必要です。

他者の心を侵害してはならない。

あくまで他者の行為が自分自身や家族、友人知人のいのちや財産を危険にさらすと思われるときにのみ
批判するという「表現の自由」が許されるのです。

その他は「寛容」する心の広さと深さという度量が民度の熟成ということなのだと思います。

じゃあ、冨田さんが「肉食を批判するのは肉が好きと言う人たちへの心の侵害をやっていませんか?」

という問題になります。

みなさんはどう考えますか?









posted by 変才冨田 at 17:42| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月09日

終わることと始まること

12月も1月も基本的になにもしていません。

ブログの更新もブレーキがかかっていますね。

二十数年の垢を落としています。

二月から新しく始まります。

なにが始まるのか、いえなにが終わるのか

自分でも興味津々です。
posted by 変才冨田 at 22:31| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月07日

ファウストn恋人を観て4

ファウストは街に出てマルガレータに出会うことで愛欲という感情体験をします。

「愛している」という告白が世間に埋没する初発となり、愛欲を成立させるために「悪を行う」ことになります。
世間の価値観で生きている水性の高いマルガレータは木性を封印して火性で生きようとするファウストによって母殺しの罪を背負います。

愛する、とは実は善なる行為ではなく、「愛という善を欲し、常に悪を行う」ことになります。

では、冒頭の字幕の謎「悪を欲し、常に善を行う」とはなんなのか。

世間の価値観を破壊する→悪

新しい価値観の提示→善を行う

つまりこの謎さえも二枚が一枚、表裏になっているわけですね。

善に見えたり悪に見えたりするのは視点の違いだけであって、同じものを実は見ている「わけです。

単純な善悪はないのですね。

良いと思われる行いに悪もあるのです。

悪を行っている反対側では善になっているのです。

正しいことを言いつつ、、他者に勝とうとしていることがあるのです。

posted by 変才冨田 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ファウストの恋人を観て3

原典はそれからも大冒険があるのですが、今回の劇ではここまでです。

あらすじを書くと身も蓋もない感じですが、その内容は哲学的であり人生論的です。

先ず、最初に主催者から「これは総合芸術として企画された」とお話がありました。

役者による劇、大阪市音楽団の吹奏楽での生演奏、ダンス、サーカス的なパフォーマンス、映像などが同時進行で進められています。

総合芸術と呼ぶには謙遜し過ぎで、これは「統合芸術」と呼称すべきでしょう。
軸線上にこれらの要素が絡み合いながら進行する様子は五つの要素を掛け算したような効果になっていました。
医療分野においてもこうした統合が必要です。
鍼灸、漢方、ヒーリング、整体、慣行医学を一つのビルに収めたホリステック医院を見たことがありますが
単に横並びにしただけで決して統合されてはいませんでした。

ファストやマルガレータの心象はダンスや映像などで表現され、全体のテーマとなる軸は少ないせりふや字幕で端的に提示されていました。

冒頭と終幕に@「一枚の葉が二枚になるのか、二枚の葉が一枚になるのか」が提示され、これでこの企画の意図が明示されます。
原典においてもおうしたテーマがあるのかどうか不勉強で知りません。
もう一つはA「善を欲しながら、常に悪を行う」という謎めいた言葉が字幕で提示されています。

この線上で観劇することになります。

ここからがわたしの感想になります。

先ず、老ファウストはあらゆる学問の研究をして精通し人々の尊敬を得たのですが
「なにも自分はわからない、少しも賢くなってない!」と嘆きます。

このあたりは非常に現代的でゲーテはすでにそうなることを見抜いていたかのようです。

ゲーテの生きていた時代よりもいっそうその問題が鋭くなっています。

人類が生まれてから数百万年といいますが、相も変わらず人類は武器を手放せていません。

土台のところでは少しも賢くなっていないのです。

老ファウストは知識だけの頭脳を嘆きましたが、現代知識人はそれをどう聞くでしょうか?

そこに悪魔のメフィスト・フェレスがやってきて
「お前が体験したこともない世界を見せてあげよう」と誘い老、ファウストはその提案を呑み薬を飲み契約しました。

なぜ老ファウストが契約したのか。悪魔が自分の欠けていた部分を見せてくれるはずだと期待したのでしょう。

なにが欠けていたのか?

それは実体験に基づく感情体験だったのです。

それは愛欲が端的に導いてくれます。

つまり、ここで二枚の葉が提示されたのです。

愛欲と精神や魂の問題です。

身体的なものと精神的なもの。

形而下と形而上の二枚です。

この二枚が統合しないと本当のところが判らない、真理を得ることができない。

男だけでも女だけでも人間を解くことができないそういうことなのでしょう。

物質の粒子性と波動性など

この問題は東洋哲学的には端的に「陰陽合一、正反合一」ということですね。

わたしたちはこの二葉を認識しないといけないのですが、感覚的な制限からどちらかしか見えない性質をもっています。





posted by 変才冨田 at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月06日

ファウストの恋人を観て2

悪魔に誘われて街に降りてきたファウストは若返っています。
マルガレーテという女性に魅了され、ファウストは彼女を見て誘惑します。
マルガレーテはエゴ行では水性が高く世間の価値観に生きています。

若きファウストは愛欲を実現する為に、結果として愛を我が物にしようとしてマルガレーテの兄も母も死にいたらせ地獄に落ちます。

続く
posted by 変才冨田 at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月03日

アリとキリギリス問題

このテーマを続けます。

アリとキリギリス問題は底が深いですね。

働かざる者、食うべからず

あるいは

遊ばざる者、食うべからず

さて、どちらなのでしょうかね

わたしは両方を統合する生き方こそが必要と思うのです。

統合するとは5時までは我慢して働いて、あとは好きなことをするゾ!

ということではありません。

それは統合ではなく分裂的生き方になります。

中国の話に

一生遊んで暮らす方法がある

それは、遊びを仕事にすることだ

というのがあります。

仕事を遊びにすることだ、ではないのですね。

それは人の本質性に根差していて

ホモ・サピエンスとは「遊ぶ人」の意味があるのですね。

それは、「正しいことよりも楽しいことを選べ」ということでもあるのです。


現在の仕事では遊べない><

そう思いますか?

そういう人は「仕事に正面から向き合っていない」のです。

全力で向き合って取り組めば、それはきっと楽しくなるのです。

そう思う人は随所作主のスレッドをぜひとも読んでください。




posted by 変才冨田 at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月02日

アリとキリギリス問題

以下は
過去のブログの連載をまとめたものです。

最後に現在の見解を書きます。

あなたはアリです。 夏にキリギリスさんに「あんた、唄ってばかりではダメじゃない。ちゃんと冬のために蓄えていないと><」 と忠告をしていました。 そして冬がやってきました。 腹ペコで凍えそうになったキリギリスがやってきました。 キリギリス「なんでもいいから食べ物ちょうだい・・・」 恵んであげますか? 追い返しますか?

寄せられた回答では「一回は恵んであげて十分話し合って、来年は断るよ」が多いようです。

ヨーロッパではこうしたやり方は信じられない!ということになるようです。

「それではこの話の教育効果がないではないか」ということらしいです。

日本では年代によっては変化しており、恵んだり追い返したりと入れ替わっています。

原点は、もちろん追い返しています。


こうした例は現実にはいくらでもありそうですね。

子供がお小遣いをいっぺんに使ってしまって・・・、というケースです。

アリとしてのお母さんがキリギリスの子供にどう対応するかと同じですね。

アルコール依存症の父親やギャンブル中毒の息子に迷惑している家族という例も同じですね。

こういうケースで対応としては「諭せばわかる」かどうかですね。

分からないから家族は困っているのですね。

学校での暴力やいじめの常習の子供にも同じ事がいえます。

ヨーロッパのやり方に日本は近づいているようです。

「自助努力」を政府もいっているでしょう。

自助が出来ない人には厳しい世の中になってきています。

アリとキリギリスの話と生活保護の話を同列に置くような意図が隠されています。

生活保護を受けている人はキリギリスと同じだと混同させようとしています。


この物語は

「パンとパン以外のモノ」を対立的に解釈した物語のようです。

イソップの時代は容易に飢えたものですからパン以外のものを求める生き方に警告を発しているかのようです。

そしてわたしたちもそうした解釈をしているように思えます。

「パンを求める」というのは動物としての行動基本原理ですね。

野生動物の世界は操作できない自然環境条件下で、ひたすら食べるか食べられるかの世界を展開しています。

その世界を見て「そら見ろ、やはりこの世界は弱肉強食の競争世界なんだ」というわけです。

そこから「勝ち組、負け組」という言葉も飛び出しています。

先日のこと「公務員を20年間やったけれど、十年前から人間的な生活をしたいと思うようになって農業をしたいんです」という男性がいらっしゃいました。

公務員という場でパンを得ているわけですが、そこでは自分が人間ではなくなっているという実感なのですね。

まるでなにかの罰でそこに座らされているという感覚です。

皆さんはどう考えますか?

続く
先ず、「アリとキリギリス」は無関係なのでしょうか。

言い換えれば「パンとパン以外のもの」は無関係なのでしょうか。

「お金を稼ぐことと生きがい」とは無関係なのでしょうか。

この3つには構造上の同一性があるので、同じ内容の質問になっています。

現代日本は、というよりも資本主義世界においてはこの二つが分離しています。

わたしたちはパンとパン以外のものを統合する必要があります。

その必要性を感じた人が前回の「仕事を辞めたいという男性」なのですね。

言い換えれば

アリとキリギリスの生き方は統合されねばならないということです。

そこでアリの女性とキリギリスの男性が結婚をしました。

アリの奥さん「ちょっと、アンタ>< いつまでも雀にエサなんかやってないで自分の小遣いくらい稼いできたらどうなの!男のクセに」

キリギリスの夫「今、せっかくいい詩ができかかっていたのに邪魔するなよ」

キリギリスの夫、ぷいっとでかける。

とある公園

奥さんと違うアリ「待っていたのよ、また甘い声で唄をわたしに聴かせてよ」

キリギリスの素晴らしい歌にアリが聴き入っている。

アリ「ああ、あなたの歌を聴くとストレスがすっかり無くなってしまって、また一生懸命働こうという気になるわ」

キリギリス「そう言ってもらえると僕も嬉しいな、もっと頑張ってもっといい歌を作るからね」

これが統合ということですね。

芸術を大切にしない社会とはアリさんだけでつくったような社会なのです。

日本は世界の先進資本主義国のなかで最も芸術に助成金を出していないのです。

個人の生活においても芸術にお金を出さないで、お金を稼ぐばかりの生活はストレスを溜め込むのです。


働くことは「心の目的」にかなっています。

心が求めることが働くことで現実化できるからです。

別なカテゴリーに「心の目的」というものがあります。

そこで書いていることのテーマは「心はなんのためにあるのか」ということです。

心は人とつながるためにあるのです。

そのために心には人とつながるための装置がたくさんあるのです。

共感性などもその代表装置ですね。

人はなんのために働くのか?という疑問と心はなんのためにあるのか?という疑問は同じ解答になるのです。

働くことは、そのまま他者とつながることになるのですから、

働くことは人とつながりたいという心の目的に合致するのです。


ところが資本主義的システムは働くことがそのまま人とつながることに直結しないのですね。

資本主義のシステムというのは利益追求のためだけに人を働かせることですから

利益にならない「働き」は無視され捨て去られます。

むしろ人間関係をズタズタに引き裂かれます。

職場は殺伐として「心は悲鳴を上げ」ています。

労働の人間疎外が起きています。


人間らしい働きとは人と結合することに他なりません。

そういう意味では利益と直結しない(お金を稼げない)はたらきであっても、それは働きということです。

介護する人と介護される人の関係性は「はたらき」という視点からみれば同じ働きです。

あんたはお金をもらってるんだから世話をするのは当たり前、それは人間らしい働きではないでしょう。

あなたのおかげで楽になったわ、という感謝をあらわすことが「はたらき」なのです。

介護する人は感謝されることで「パン以外のものを手に入れる」ことができるのです。

仕事冥利とはパン以外のもののことですね。


キリギリスさんが冬に腹を減らして蟻さんの家のドアを叩いたとき

アリ「あら、なんの用なの。食べ物だったら何もないわよ!あれだけ夏に忠告したのに、言ったとおりね」

ではなく

アリ「まあ、いらっしゃい。ちょうどゆっくりと音楽を聴きたかったのよ。夏もずっと練習していたのですから、きっといい演奏が聴けるのでしょうね」

となったら労働と芸術が統合されているわけです。


でも


実は本当に言いたいことがあるのです。

このためにこのエウレッドを立てたのです。

アリは労働、キリギリスは芸術分化

そのように分離しているのですが

本当は分離してはいけないものなのです。

同時です。

日常の働きこそが芸術なのです。

人を善くするものは全て芸術です。

わたしたちは何気ない日常の仕事の中に芸術という魂をぶちこんでいくのです。

それはパンとパン以外のモノは同一である、ということなのです。

なにかを販売している人は自分の仕事を「販売芸術」だと思って取り組むのです。

現在の仕事にパン以外のものを創造する方法のことです。

それは芸術活動と同じです。

「つまらない」と思っている現在の仕事をどうとらえるかです。

「つまらない」仕事だと考えているあなたが「つまらない人」になっているだけなのです。
(カーク船長語録)

これは人間関係でも同じです。

「あいつはつまらない奴だ」と思っているあなたが「つまらない奴」になっているのです。

全ては関係性の深さ、浅さで決まります。

仕事との関係性が浅いのでその奥深さがわからず、つまらないことになっているだけです。

人間が創造したものは全て人の幸福に関係します。

つまらないわけがないのです。

人間は奥深いです。

終了
仕事との関係性が浅いのは、正面からその仕事に向き合っていないからです。
この辺りは別のスレッド「随所作主」に関係しています。

さて、
キリギリスを養えないような社会はよい社会とはいえないですね。
大阪市の橋本さんも政府も芸術にお金を出したがりません。

パンにしか興味がない、これを貧困といいます。





posted by 変才冨田 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自己中心主義に生きる10 自己中心主義に生きる6 「随所作主 立処皆真」の本当の意味5

先日の「人間観察研究会」でカタカムナのお話をしました。

もっと以前にこのブログでカタカムナについて書いていたことを再揚します。

カタカムナのことを振り返ります。

カタは偏る、片、固い、型、形式、個形ということ。物質が偏って集まって目に見える形に現象すること。

般若心経では色(シキ)のことです。

カムは神や噛むに通じており見えない力が物質に働いて見える形にすること。

これは空(クウ)ですね。

カタとは陽であり、カムとは陰のこと。


陰陽の左右です。

陰陽という対象物がシンメトリックに配置されているということは

中心があると云うこと。

中心にはカタカムナのナが有る。

ナとは旦那、刹那の那です。

那とは瞬間のこと。

刹那主義の刹那とは瞬間に生きること。即ち「今を生きる」という意味です。

今という瞬間を生きているのはあなた(汝れ)です。

生きているのは誰でも無いあなた自身ですから主体という意味が出てきます。

主体的である人だけが今瞬間に生きることができるという意味です。

今まさにこの瞬間を生きているのだと実感できる人は感性が鋭いのです。

完成の鋭い人だけしか今を生きているとはいえません。

(一般的な解釈での刹那主義は快楽主義と誤訳されています)

さてこの「那」はその意味を横滑りさせて「成る、鳴る、為る、生る」という現象化への意味を持たせつつ、ついに「ナ」は「名」へと移動します。

「名前」「氏名」「使命」「命名」の意味がなんとなく見えてきたでしょうか。

自分の「名」において生きること、これが社会的動物である人間というものの根源的動機なのです。

もしあなたに「名」がないとしたら社会的な動機の生まれようがないのです。

残るのは「腹減った、眠りたい、走りたい、休みたい、抱きたい、抱かれたい」という動物としての動機だけです。

宮崎駿さんの「千と千尋の神隠し」について以前書いたことがあります。

この物語は「名を忘れたために生きる動機を失った人」がテーマなのです。

再度揚げます。

いのちについて16「命」は人を一なるものが叩くと書きます。一なるものとはなんでしょうか。それは天のことです。

この場合はこの人の世に根底から働く社会発展の法則性のことです。天の声を聞いて、その命令に突き動かされること。それが「使命」ということ。天の声に従い天に使わされるいのち、それが「天命」です。

さらに、「命メイ」とは「名メイ」です。「命名」といいますが、天の声である「命」を実行する人に相応しい「名ナ」が「命名」されるのです。

アニメ「千と千尋の神隠し」でのこれが主要テーマでした。名を忘れた「白ハク」は天から「命名」された名を思い出すことで与えられた使命を自覚したのでした。主人公である千尋もその家族も投げやりな心から名を忘れることになりました。

「顔なし」のお化けも人としての名を忘れ欲望むき出しの「胃袋」だけの存在になっていました。この「顔なし」は現代日本人の顔です。底なしの欲望の顔を見せた「胃袋だけの人々」が大勢いました。献金だけが目当ての政治家や、税金に群がる高級公務員、堀江や村上の名も思い出します。

「お金の原理」だけが優先し「いのちの原理」を蔑視する現代をどうしたいのか、一人ひとりの精神の戸に「一なるものが」ドンドンと叩いています。そのノックを聞いた人は、その精神の扉を勇気をもって「人に光があたる輝かしい未来」を開けなければいけません。今こそ夢や理想を語らねばなりません。

「いのち」を語るとき、「いのちをどう使い切るか」それを抜きにしては「いのち」を語りきれません。

名前は単なる記号化というとそうではありません。

もし記号ならばAD1032−Bという名だっていいのです。

名前にはその人の生きる方向的な本質性が隠されています。

その本質性に気がついた人だけが今を生きることになります。


たとえばこれを恋愛について考えてみます。

ナ(那・名)において、つまり誰でも無いあなたの奥底から「好き」が動き

その気がカムにため込まれ、その力がきわまった時、再度ナにおいて主体が動き相手のナをうごめかし、カタで現象(抱きあう)が起きます。

 ナ   カム   カタ(ムスビ)
好き   愛する  抱きあう

その後「好き」は「尊敬」へと発展します。

この素朴な好きに打算的な条件が混入されると「尊敬」への発展が阻害され

打算条件が無くなると「嫌悪・軽蔑」へと変化します。

芥川龍之介自身の「恋文」を読むと・・・

芥川はただ一点「好き」であることを貫徹して、しかも彼女に対して主体的に決めなさいと有る意味では突き離しています。

別な個所では「お金もないし生活は不安定だし、年寄りも3人いる」とマイナス材料を書いています。

それでもあなたは僕を「好き」でいられますか?と暗に訊いています。

恋愛とは個性と個性の結びつきなのだと強調しているのです。

その他の雑多なことは世間的であって、僕はそういうことでは生きられないと云います。

その時代の制約を乗り越え近代的自我で覚醒した人であったのです。

現代では、最近でもかなりの年齢差をものともしないで結ばれた人がいましたね。

相手の女性は現代の良い意味での象徴だと思います。


最後にもう一度復習

「カタ」とは現象のことです。
「カタッ」と振動が起きることです。

「カム」とは現象を作り出す背後の目に見えない力のことです。
「カムイ」のカムですから神のことですね。
この神は人格的なものではなく自然神のことだと思ってください。

「ナ」とは主体性、自律性ということです。
「ナ」は成る、鳴る、生る、為るであり、刹那の那、名は個性です。

、あなたの個性において,一瞬の時間に生ききることを為せ!
そうすれば
振動が生じて、鳴り、成るのだというわけです。

「カム」は「カタ」の原因だけれど、「カム」を動かすのは
主体性に他ならないといっているのです。

「カタカムナ」は深いです。

仕事で何事かを為すためには、主体性こそが重要なのですね。

posted by 変才冨田 at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自己中心主義に生きる9 自己中心主義に生きる5 「随所作主 立処皆真」の本当の意味4 2008年の記事から始めます

この「自己中心主義に生きる」というスレッドは2015年のテーマで長い連載になります。

2008年の記事から連載の発端にします。


「名の意味」16

ところで皆さんは「カタカムナ」と言う言葉を聴かれたことはあるでしょうか。

一万八千年前の文明の名前なのですが・・・。
ここでは詳しく話しませんが、検索で調べてください。

この言葉には日本語の音の意味が隠されています。
カタは偏るという意味で、物質の素がある場所に偏って集められ物質化するという意味です。
また片方ということで、この世界は見える世界だけでなくその反対に見えない世界があるという意味の表明です。

カムとは見えない陰になっている部分で、この見えないけれども全ての物質を産み出す世界という意味です。
物質に対する機能(はたらき)という意味なのでしょう。
たとえばカムは神(カム)であり噛む(カム)でもあるのです。
神も噛むも物質を現象化させます。
噛まないで食べていたのでは体をつくれなくなり、
やがてはそのからだは消滅してしまいます。
アイヌ語に「カムイ」という言葉、これは「神居」で、したがって
口の中に神が居るという意味になります。

カムとはさまざまな物質を口の中で混合して「結び」(ムスビ)、結んだ結果新しい命を帯びた物質を飛び出させるのです。

そして「ナ」です。
カタカムナ語では「ナ」とは旦那、刹那、那覇の「ナ」です。
これは主体となるモノの意味です。
名主というのはその地域で主体となるモノという意味で那が名に転じているのです。
名も那も同義反復です。

「名」が主体をあらわすということで、さんざんここで書いてきたことの意味が端的にすんなりと現れてきました。

前回に書いた
「名」は「ナ」で、これは「成、生、変、化、鳴、産・・・」ル
で、全て「ナ」です。
に「那」を加えると
主体的な思想やそこから生産される行動こそが
全てを生成変化させる素だとわかりました。

だれも替わりに食べてくれません、噛んでくれません。
食するということが主体性の元、始まりということです。
主体的にできることをしたので、身体は大きくなれたということです。

結ぶとは陰と陽を結合させるという意味であり
結ぶことができるのは主体以外にない、
すなわち「名」をもつあなたがあなたの「名」において実行する以外にすべての現象は起こせないということなのです。

毎日ごはんをやむにやまれず食べるように
今できることをすれば新たな地平が切り開かれてしまうのです。
posted by 変才冨田 at 15:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月01日

自己中心主義に生きる8 自己中心主義に生きる5 「随所作主 立処皆真」の本当の意味3の本当の意味4

「随所作主 立処皆真」の意味は、いつでもどこでも自分を主人公にする、主体的に対象に向かう。

すると、本当のことが見えてくるのだというのです。

食べるシーンではどうでしょうか。

テレビや新聞、本を見ながら食べる。

これは対象に正面から向かっていません。

上司が部下に何か意見を求められて、よそ見をしながら立ち話をする。

これも随所詐主になっていません。

医師が患者を観ないでパソコン画面ばかり見入っている。

これも医師の主体が失せています。

そうした結果、なんら食の、部下の、患者の真実が見えてこないのです。

ためしに明日こそは口の中の食べ物の声を正面から聴いてみませんか?

他者の話を膝を正面に向けて聴いてみませんか?

「味わう」という言葉は素晴らしいです。

呑み込みが早い、というのは褒められたことではないのです。

物事の上面だけをみて「わかった」という人は多いですね。

正面から向かえば、そう簡単にわかったとは言えないということがわかります。

どの場面でも時でも主体的に向かうこと、それがすべてを味わいきるということでしょうね。

先ずは「自分が決める!」これが随所作主の始まりです。
posted by 変才冨田 at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月30日

自己中心主義に生きる 7

やっと続きを書きます。

この連載はけっこう待っている人が多いようです。

この自己中心主義の原理は「すべては自分からしか始まらない」ということからきているのです。

自分がオギャアと生まれたときからスタートしたわけですから、それからも自分からしか何も始まらないのですね。

この「すべては自分からしか・・・」の「すべて」が肝心です。

これは原因のすべては自分にあるとも言っているわけです。

これは考えてみれば、結果的に「ホ・オ・ポノポノ」の世界観につながります。

目の前に起きているすべての現象は自分が決めたことしか起きていないということです。

その考え方は、実は希望につながるのです。

自分で決めさえすれば目の前に起きる現象も変えられるということなのですから。

「今日一日は怒らないゾ」と決めることが「怒らない」自分を想像でき

怒るようなきっかけも周囲に起こらなくなるのです。

先ずは自分が決めることからスタートするのです。

それが自己中心主義なのです。


posted by 変才冨田 at 22:19| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月26日

「まぁ、まぁ・・・」の囁き

○23日セミナー参加しての感想〜  先生の言われる表現と、自分が何となく考えている表現が妙に繋がるときがあります。

西洋は○(まる)、×(ばつ)の金性タイプの文化で、東洋は白黒とはっきり分けない、灰色の土性タイプの文化ということでした。東洋で女性性の仏教が誕興隆したのもうなずけます。

 灰色(寛容)を言い表すのに、間(ま)というものもあるな〜と思いながら聞いていました。日本は間の文化でもあるんですね・・。よく、人の争い事を仲裁するとき『まぁ、まぁ、』となだめすかす事がありますが、これは『間ぁ、間ぁ、』ということでしょうか・・。

お互い間(ま)をとって心にゆとりをもって考えましょう、そうすれば対立も無くなるよ・・ということを伝えているんだと思います。〜以上勝手ながら灰色ということから思いを巡らせた次第です。

〜あと、出来ましたら、二つのタイプ〈冷えからくる風邪、インフルエンザからくる風邪〉の風邪を手助けするレシピを教えて下さい。聞き逃した所がありましたのでよろしくお願いいたします。 合掌

回答
まるほどね・・・。「まぁ、まぁ・・・」ですか。
勉強になりました。

「ま」行は唇で柔らかな音(ね)を出しますね。
「ぁ」と小さいのはお互いの火性を小さめに(わがままをセーブ)出しましょう、っていうことですねぇ。

自分自身で「まぁ、まぁ」と囁ければいいのですよね。

後の質問は後ほどに書きますね。
posted by 変才冨田 at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月18日

自己中心主義に生きる5 「随所作主 立処皆真」の本当の意味3

さらに[随所作主 立処皆真]を考えてみます。

[随所作主 立処皆真]を徹底すると、この世界はすべて本当のことで真実であるということがわかります。

さっきまで嘘、幻に見えていたことが、実は真実であったということがわかります。

幻に見えていた原因は自分にあって、なにも知らないくせにそれを知っていると幻を見ていただけです。

真っ向から向き合わないではすかいに構えて見ていたから、すべては斜めに、あるいは逆立ちに見えていただけと知ることになります。

まっすぐにものごとを観る。
それが主体的にものごとに接するということで「随所作主」なのです。
それができた瞬間に、すべては本当の姿を現すということなのでしょうね。

自己中心主義の勧めとは、すべてに責任を負うという覚悟を決めることで、主体を回復させ、その結果として世の中の真実を見極めることなのです。

誰かのせいにしたり条件のせいにしたりしているうちは覚悟が足りないということなのでしょうね。



posted by 変才冨田 at 10:07| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月16日

自己中心主義に生きる4 「随所作主 立処皆真」の本当の意味

[随所作主 立処皆真]

これをさらに読み込んでいくと深いナーと感じます。

先ずは
随所作主
これはどんな場においても主体的、つまり主人公であれ、ということで間違いないでしょう。

次の
立処皆真

そうすれば、お前の眼前にはすべてが真実として立ち現われてくるだろう、ということなんでしょう。

ものごとをその時代の社会的な価値観である「倫理道徳」で考えている限りは幻にしか見えないゾ、そういうことなのでしょう。

9歳までに両親に植え付けられたOS(自動思考システム)で生きている人は本当の意味での主体性が形成されていないので、そういうまなざしを変えない限りは、真に生きたことにはならないといっているようです。

金性の高い人はそうした他者や社会の思い込み(倫理道徳やら正義観)を自分の考えであると錯覚して生きているので、

その結果として木性の真理に近づこうという観察眼を損なってしまうわけです。


随所作主の基盤は火性で生まれ、鍛えられれば火性の完成形なのです。

その力が金性の曇ったまなざしに修正を加えたり、完全否定に働きます。

その結果「曇り」がなくなって世界の本当の姿が見えてくる。


また、随所作主とはブッダが宣言した「天上天下唯我独尊」に通じるものがあります。

火性の神経を鋭敏にすることが、今まさに経験していることが自分にとっての唯一世界になるわけです。

目の前のできごとを肌感覚として実感すること、それができるのは主体としての自分だけであること。

主体的に生きる、とはそうしたことだと思います。

したがって、「随所作主 立処皆真」の極限の意味とは

自分を主体として認識した瞬間に自己が真実としての存在であると認識できるということなんでしょう。

それに近づいた人は

自己の第一課題が痛切にわかるはずです。

他者の課題に干渉、介入したりしなくなります。

随所作主に遠い生き方をしていると人間関係がドロドロしてしまうのです。














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2014年11月14日

自己中心主義に生きる3「随所作主 立処皆真」

主体的に生きる、これが自己中心主義の意味なのです。

主体的に生きるとはすべての責任を一身に背負って生きるということでもあるのです。

人や条件のせいにしない、ということです。

禅では「随所作主 立処皆真」と言っていますね。

この解釈はいろいろ言われていますが、私は

「どういう場でも自分が主体的にかかわれば、最初はつまらないことと思っていてもこの世の本当のことがわかる」と解釈しています。

本当のことは自分が正面からそのことに向き合わなければ永遠にわからないと考えています。

一所懸命という言葉に通じるもので、懸命にかかわるということが「作主」、つまり主体的に生きるという意味なのでしょう。

けれど懸命にかかわったからといって
必ず真実がわかるわけではないですね。

自己の課題に向き合ったかどうかがカギになります。

他者の課題に懸命に頭を突っ込んでも、それは主体性を発揮したことにはならないわけです。

B級の映画を見て「つまらなかった」という人はその映画に対して「随所作主」で対峙しなかったからです。

懸命にその映画にかかわれば、世界の真実に行き当たるはずなのです。

なにごとにでも主体的にかかわれない人は「つまらない人」になっているわけで、つまらない人の周辺はすべてつまらないことだらけになるのです。

「随所作主」とはどんな時でも、どんな場でも主人公として自分を扱うということなんですね。

積極的にかかわらないと、人生の主人公にはなれないということなんですね。

明日はそのように生きたいですね。


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2014年11月07日

自己中心主義のすすめ2

以下は前回の記事です。

この場合の自己中心とは利己主義のことではありません。

利己的な生き方を乗り越えたその向こう側に自己中心があります。

利己的な生き方が悪いわけではありません。

むしろそれを経験しないではもっと向こうにある自己中心的な生き方に向かえないでしょう。

利己主義では「割に合わない」ことを悟ったときに自己中心へ向かうのでしょう。

同時に利己主義は狭いものの見方で成立するものです。

狭いものの見方は他者依存にもなります。

逆に自己中心主義で生きることは全体的なものの見方になってしまうもので、それは主体性を呼び起こすものでもあるのです。

そのあたりのことを書いてみたいと考えました。

続く
二回目

この話題って実はなかなかむつかしいです。

どのあたりから話をもっていくかが難しいところです。

利己主義で生きると当然ながら他者の顰蹙をかってしまい他者からの協力が得られないことになります。

その結果、利己主義に偏って生きると利己を実現できなくなるのです。

人間は誰しもが幸福に生きたいと願っています。

その幸福観を変更する必要があるのです。

人間とは人と言う動物と違って社会的動物です。

社会的に生きることが幸福になる道に沿っているわけです。

他者との協力関係の内容に幸不幸の内容が含まれています。

一般的には利己主義は排斥され、社会貢献は評価されています。

けれどそのバランスに問題があって、社会や他者の期待に添いすぎて多くの人はストレスを高めています。

世間や親、会社の上司の期待に応えようとして自己不全状態に陥っている人が多いのです。

自己中心主義とは利己と利他の中間にあたるもので中庸の道でもあるのです。

中庸とは利己と利他をいったりきたりするバランスのことではなく、

同時にそれを実現する道、それが中庸です。

5時までは会社に従順で5時からは自分のために時間を使う。

そういう意味ではないのです。

自己を5時からとそれ以降で分離してはいけないのです。





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2014年11月04日

アトピーやクローン病など免疫異常で苦しむ人へ

以下は2006年の記事ですから、このブログを書き始めたころですね。

アトピーの女性の経験から 「食養学入門」は名著であるうえに役に立つ^^

「食養学入門」は最初から名著にする予定でした。
そこで名著と言われる物を調べ上げた結果、次のことがわかった。
名著には
1 前書きと後書きがある。
2 巻末に謝辞がある。
3 著者の名前がなんとなく偉そうである。
4 難解に書いてある。
5 字が小さいうえに厚い。
6 役に立たない。


そこで1と2はなんとか条件を満たし、
3についてはペンネームを採用して楽々クリアー。
4については精一杯難解に書いたつもりであったが
これは意外なことに「わかりやすかった!」という反響・・・。
著者の頭の程度の限界を突破できなかったということ。
5については困った。
字が小さくて分厚い本ということで
どちらも満たすのはひじょ〜に困難で
結局は
字を大きくすることで、厚みを稼いだのであった。

6については役に立たないように、ハウツーを書かないことにして
原理原則と哲学的傾向を強調した。
これなら役に立たないはず。

出版後にいくつかの反響がありました。
「座右の銘がわりにしています」というのがけっこうありました。
うんうん、座右の銘ね〜。こういうのは役に立たないし、名著っぽいですね〜。

ところが、ところがなのです。
ある重いアトピー性皮膚炎の女性が
この本に書いてある通りにしたのだそうです。
その結果は見事にきれいになっていました。
名著である上に役立ったというわけです。
これはハンサムである上にお金持ち、
というくらいにまれなことなのです。

「本を読んで腑に落ちた」という
彼女に経験を聞いてみたいところです。
お〜〜い、聞かせてくださ〜〜い!








富田先生、大変お返事が遅くなりました。

先日は小野さんにお誘い頂いて研究所へお伺いできた事、大変嬉しく思います。

富田先生とお会いでき、沢山のお話を聞かせて頂きありがとうございました。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。
私がアトピーを自然治癒力で治すと決意してから役10年。

ステロイドを止めた当時、「これでやっと楽になった。」とステロイドから解放された安堵感と同時に、薬に頼らず自分の治癒力で治すという未知の世界に対する希望と不安が入り混じった気持ちと、治すと決めた自分自身に対する責任感を重く感じたのを今でも覚えています。

それからの10年間、七転八起、五里夢中、‥色んな四字熟語が並びそうなくらい様々な想いを経て、今ようやく長い長いトンネルから抜けることが出来る確信が持てるようになりました。

先生の「食養学入門」はトンネルの最後に出会った御本ですが(きっと今だから理解できたのだと思います)、私はこの本で健康のみならず、世の中のからくりがきれいにとけたような印象を受けました(腑に落ちました!)。

自然の原理、ものの正しい考え方が分かりやすく書かれています。アトピーが良くなってくるとどうしても「またぶり返したらどうしよう。」という不安が生じてくるのですが、この考え方を知ることによって後戻りしない確信を得ることが出来ます。

私は全てのお蔭様で健康を回復することができました。「アトピーで良かった」と思ったことは一度もありませんが、アトピーが入り口で多くの学びや出会いのチャンスが与えられた事に、とても感謝しています。

これからも自分自身や世の中ををよりよく知るために、チャレンジを続けていきたいと思います。今後ともどうぞ宜しく御指導下さい。



posted by 変才冨田 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする