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2015年06月08日

螺旋の美

10年前に書いた詩です

「螺旋の美」

わたしは「繰り返し」について考えている
繰り返し、繰り返し・・・
何度も、何度もの繰り返しが
やがて
ものの形となって現れてくる

縦糸と横糸を
同じように繰り返しているうちに
一つの模様が現れてくる
世界はそうやって創造されたのだ!

目に見えない螺旋の回転が繰り返し繰り返し
うねり、反転し
全宇宙でうねっては繰り返し
銀河が、太陽系が、地球が創られた

そのうねりの内部にわたしが確かに約束され
あなたも約束されていた

今、わたしは想うのだが
わたしたちの目にはまだ見えないが

わたしたちのこのうねりの繰り返しという努力が
きっと、そのうねりのなかに
まだ見ぬあなたがたやわたしがひっそりと息づいているのだと・・・
「そうなんでしょう?」と宇宙に問いかけてみるのだ

たった一つの個性とは
飽くなき同じことの繰り返しの作業のなかでしか
生まれないことを

だから
生まれたわたしたちは
真に個性的であるのだと
いま想う

        螺旋の美
身土不二とは土を仲立ちにして
生き物同士がお互いに「行ったり、来たり」の繰り返しだ
死んでは新しく別な生き物としてよみがえる
その繰り返しだ

その螺旋はメビウスのようにつながり
たった今も繰り返されている
だれに命じられたわけでなく
寄せては返す波のように繰り返す
いや、波を起こす力と同じものが
生きるものをして繰り返させている

食についてあらためて考えたい

土は生き物を食べ
土の塊という消化器官を使って
こねる、微生物も加わってこねる
光や水やミネラルという消化液を使ってこねる
やがて
マジシャンが帽子からうさぎを取り出すようにして
新しい生き物を暗闇から飛び出させる

しかし、今の畑はどうなのだろう
生命循環の繰り返しを拒み
拒んだゆえの、力のない作物たち・・・

食べるという行為をさらに考えたい

その歯は螺旋階段であり
その消化器官は螺旋回廊である
食べられたものは螺旋運動を繰り返しながら
その生命の中心部に向かって飛び込む

血管 それは蔦のように枝分かれしながら
全身を這い上がる、這い上がる
繰り返し繰りえし、分岐していく
それは全宇宙を創造した同じ力で
螺旋運動を繰り返してできあがったものだ

食べられたものは、その螺旋街道をうなりをあげて突き進み
螺旋状に積み重なった細胞に勢いよく飛び込む、飛び込む
細胞の内部で用意された酵素に叩かれ、螺旋的に上昇変化しつつ
生命のふるさとのDNA螺旋に寄り添っていくのだ

食べ物は螺旋の印で刻印され、いろんな形に刻印され
繰り返し繰り返し刻印されつづけ
生命の輪廻転生を完成させる


さらに食についてさらに考えたい


1日3回、1年で1000回
繰り返し繰り返し
わたしたちは食べる、食べる、食べる
一口30回、カム、かむ、噛む・・・
飽くことなく噛み続ける

宇宙の深みから 命じられるままに
幾千万の螺旋運動を繰り返す
この飽くなき繰り返しこそが 
わたしという現象をつくり
わたしという波紋を周囲に広げてゆく
それは螺旋状の波であり その繰り返し生じる螺旋波紋は
無数の繰り返しゆえに
すべてを生み出していくだろう 

生命循環から切り離され
さらに無力に飲み込まれた綺麗なパッケージだけの食べ物
これら
生命の螺旋街道からこぼれた
食べ物たちはどうなるのだろう
毎日そうやって繰り返している
畑やあなたはどうなるというのだろう

終り

食べ物の螺旋街道からこぼれ落ちたジャンクを食べることで

あなたもジャンクな心身に成り下がり

生命螺旋運動からこぼれ落ちることのなきよう

そして、現在
螺旋街道に戻ろうと毎日の食に秩序性を取り戻そうとしているあなた

まだ曙光は見えなくてもひたすら食養を繰り返せば必ず見えてきます 光がね

posted by 変才冨田 at 01:54| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月07日

脳外科医が悪性の脳腫瘍になった

この本の題名は「医者が末期がん患者になってわかったこと」著者は岩田隆信

脳外科医自身が悪性癌になってからの葛藤の日々と、どうそれを克服するかのテーマです。

題名にあるように、自分ん体験を医療が患者のために活かして欲しいという願いがあふれています。

最後に体調不良の最中にテープ録音で書かれた論文が
「脳腫瘍治療の最近の考え方」
昭和大学脳神経外科
助教授 磐田隆信

この本をどう皆さんにご紹介するか・・・。

著者の岩田先生は1月末のある日に激しい頭痛に見舞われ、その年の12月に亡くなられています。
その間の闘病記であるのです。
IMG_0722[1].JPG

この本をわたしがご紹介する理由は一つです。
ここには普通の人の死を前にしたときの恐れや、不安、とまどいが率直に書かれています。
彼の態度を学びたいと考えたからです。
posted by 変才冨田 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「随所作主」とはこういうことだったのだ 神業のバランス感覚で命は動いている 3

https://www.youtube.com/watch?v=Cm9aMQfKWUs

これは必見です。

羽根一枚が世界を支えている。

きっと、羽一枚があなたの心身を支えているのだ。
posted by 変才冨田 at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 2 癌になった時の命に対する態度

前回の最後の三行は以下のように書きました。

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

随所作主の核心は「自分の命」をどう扱うかという問題です。

たとえば、癌を宣告されたとします。

医療側はいろんな治療提案をします。

現在は手術、化学療法(抗がん剤)、放射線などの提案になるでしょう。

(決して第四の選択肢に「食養をはじめとした生活習慣の改善」提案はないでしょう)

ほとんどの患者は専門医の助言(という名の命令指示)を受け入れるでしょう。

「先生、その治療を受けたとして見通しはどうですか?同じようなケースの患者さんはどうなりましたか?
先生、先生自身や家族がわたしと同じ状況になったとき、先生はわたしへの治療と同じ方針になりますか?
先生としての立場を捨てて、個人としての意見を離してほしいです」

こう言える人がどれくらいいるでしょうか。

先生任せにしないで「自分の命をどう扱うか」のシーンなのです。

「流されるまま」からどう転換していくかです。

最近十代で癌になった高校生のことを聞きました。

彼女は「随所作主」を発揮するチャンスを得ています。

自分の人生に対して自分を主人公にできるチャンスです。

それ(自分を主人公にする)をすることはとても深いところで自己認証作業をすることになっています。











posted by 変才冨田 at 13:13| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月06日

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 1

「随所作主 立処皆真」
これについては過去に何度も書いてきました。

再度揚げます
主体的に生きる、これが自己中心主義の意味なのです。

主体的に生きるとはすべての責任を一身に背負って生きるということでもあるのです。

人や条件のせいにしない、ということです。

禅では「随所作主 立処皆真」と言っていますね。

この解釈はいろいろ言われていますが、私は

「どういう場でも自分が主体的にかかわれば、最初はつまらないことと思っていてもこの世の本当のことがわかる」と解釈しています。

本当のことは自分が正面からそのことに向き合わなければ永遠にわからないと考えています。

一所懸命という言葉に通じるもので、懸命にかかわるということが「作主」、つまり主体的に生きるという意味なのでしょう。

けれど懸命にかかわったからといって
必ず真実がわかるわけではないですね。

自己の課題に向き合ったかどうかがカギになります。

他者の課題に懸命に頭を突っ込んでも、それは主体性を発揮したことにはならないわけです。

B級の映画を見て「つまらなかった」という人はその映画に対して「随所作主」で対峙しなかったからです。

懸命にその映画にかかわれば、世界の真実に行き当たるはずなのです。

なにごとにでも主体的にかかわれない人は「つまらない人」になっているわけで、つまらない人の周辺はすべてつまらないことだらけになるのです。

「随所作主」とはどんな時でも、どんな場でも主人公として自分を扱うということなんですね。

積極的にかかわらないと、人生の主人公にはなれないということなんですね。

明日はそのように生きたいですね。

ここまでが以前書いたもので、そのほか「随所詐主」で検索してでいればもう一度読んでください。
このことは私たちの人生にとって非常に意味の深い内容をもっているのです。

「随所作主 立処皆真」これはすごい言葉なのです。

その瞬間の時間に真正面からソレに向き合うとなにがこれまでと違うのか?

先ず、それを体験している時間が異様に濃密になり、その結果異様に長く感じます。

そのことから覚めれば異様に瞬間の出来事として感じます。

子供の頃夏休みがそれこそ一生続くかのような感覚がありませんでしたか?

それに比べて今は異様に時が早く過ぎる感覚になっていませんか?

わたしなんかもついこの間60歳になったと思っていたら、気づいたらもう66歳になろうとしています。

年齢を重ねるほど時間は加速度を持ちます。

これは何故か?

おそらく子供の頃は1秒を24コマで目の前のできごとを見ていたのです。

今は8コマくらいになっているのでしょう。

子供の頃は今の三倍も時間が濃密だったのです。

ですから体感時間は今の三倍です。

今は脳の情報処理スピードが遅くて16コマ分スベってしまっているのです。

情報処理スピードが遅くなっただけでなく

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

続く








posted by 変才冨田 at 23:52| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題10

最大の「風景異化」は自己へのまなざしが変化することでしょう。

その論議の前に必要なことがある。

そもそもあなたは自分へのまなざしを持ったことがあるのか?

持ったとしても、それは正確な自己認識なのか?ということですね。

自分への誤解が正されるとき、それはコペルニクス的転回で「まなざしの異化」をしたことになる。

たとえば

医師に「あなたは癌です」と誤診されたとします。

その後あなたは確実に「世界へのまなざし」が変わるはずです。

「わたしはなんら取り柄のない無価値の人間だ」と考えていたときのデザインから

「わたしはこのまんまで価値がある」とデザインを変えると

世界が輝いて見えるだろう。
posted by 変才冨田 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題9

自然界の多様性というのは、自然の様々な試みによって生まれたものだろう。

それは自然が豊かだからできたことだ。

有り余る水、そこに溶けた豊富なミネラル、そしてそこから生み出されたアミノ酸。

これらをどう組み合わせてどんな形や、それに付属した機能が付与できるか。

自然界は太古からそれを試してきたのだ。


我々もそれを見習うべきだろう。

我々は多様な生き方を試みるべきだ。

お金のくびきから逃れねば、結局はどう生きても同じだ。

それには「賃金労働者」になるべき必然性を超えねばならない。

そのためには個的能力を上げねばできないことだ。

百姓とは百のことができる能力があったということだ。

賃金労働者はどうだ。

それしかできないという必然性を持たされているのだ。

百のことができるにはそれに対応した「まなざし」が必要だ。

さまざまな役立つ要素の組み合わせは「風景異化」の手法で見つけられないか考えている。

たとえば
それにしか使えなかったモノをどう他に流用できるか。

それは成長の無い社会で特に必要とされるだろう。




posted by 変才冨田 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月07日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題8

以下の記事は昨年のものですが、大きなテーマで肝心なことが書かれています。


アートが社会を変えうるのだろうか?

そういう疑問がありますね。

震災の時に各芸術界はその無力を感じると云うメッセージがありました。

芥川龍之介も関東大震災において無力を嘆いています。

その時、彼は「芸術は生活の過剰から生まれる」といいました。

食うや食わずからは生まれないということでしょうか?

衣食足りて礼節を知る、ということですね。

他の解釈があれば教えてください。

衣食が有り余っているところのアートをなにもないところに移植できるだろうかということです。

ハナムラチカヒロさんはバングラディッシュに行ってなにをしようとしたか?

他のアーティスト達は過剰を持ちこみました。

大きな動物を造形したり、一緒になにかをつくるなどです。

おそらくそれが通用する可能性は子供たちかもしれません。

以下略

太字のところが考えたいところです。

絶対的窮乏状態は「生活の過剰(余剰)」がないので「まなざしのデザイン」の余地がありません。

太古の人が洞窟で動物を描けたのは、少しの「生活の過剰」があったからです。

けれどその動物へのまなざしは「食べ物」としてのまなざしだし、そこから視点が上がって食べ物を恵む聖なるものへの祈りになったに違いない。

今日のわたしたちは動物へのまなざしは多様だ。

動物は太古からなんら変化していないが、わたしたちは多くの「生活の過剰」を生み出したので

動物へのまなざしは多様になっている。

「捕えやすいかどうか、美味しいかどうか」から可愛がるもの(愛玩動物)としての見方ができたり、人間の代わりに解剖したり実験したりするまなざしもできた。

風景異化ができるのは土台に「生活の過剰」、つまり豊かさに関係するわけだ。

豊かさはものの見方の多様さにインパクトを与えるのだ。

ところが、一見豊かなわたしたちの日本で多様さが見られなくなっているのだ。

お金とか財産に対しての考え方が貧しくなっているのだ。





posted by 変才冨田 at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題7

「まなざしのデザイン」が可能な社会とはある意味では多様であるからではないかと考えます。

ある価値観からはそれに対応した「まなざし(視点)」があるわけで、

価値観が多様であるということは無数の「まなざしのデザイン」があるということですね。

ただ、強烈な一つの価値観があるとほかの価値観が覆い隠されてしまい、そういう時代こそ隠された価値観に照明をあてる必要性が出てきます。

隠された価値観ならなんでもいいわけでなく

次代の価値観を先取りしたものに注意させること。

それがアートに託された使命の一つと思います。


posted by 変才冨田 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月03日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題6

その人は危険遊具を幼稚園や保育所に販売されているのです。

彼「三輪車に乗ったからといって子供は自慢しないでしょう。けれど、一輪車なら自慢するでしょう」

という話です。

あるとき危険遊具のデモンストレーションを大勢の前でしたのです。

太った女の子が高い平均台の中ほどで、下を向いてしまい怖くなって動けなくなったそうです。

泣いてばかりで前にも後ろにも動けないで固まったのです。

大声で泣くばかりでみんな手をこまねいていたそうです。

体育館のなかはその女の子の鳴き声が響き渡り、みんなどうしたらいいのかとただ見守っていました。

その幼稚園の関係者がみかねて助けにいきました。

手を差し伸べた時、一喝する大声が会場に響き渡りました。

「なにすんねん!」

それはその遊具の考案者で安田先生といいます。

女の子は誰も助けてくれないのだと分かった時、泣きながら少しずつ前に進みました。

とうとう渡り終えて階段を下りた時、みんなが大拍手で迎えました。

「よく頑張ったね」「すごい!」

女の子はニッコリして「もう一回渡る!」といって二度目の挑戦に向かいました。

安田先生「あの時、助けていたらあの子は二度とこの遊具に近寄らなかったはず」

生命の本質は挑戦して自らを超えることを目指していると思えませんか?


さて、この危険遊具はあまり売れていません。

けれど安全な遊具はどこの幼稚園にも公園にもありますが子供たちはそれで遊んでいません。

ことの真相は「安全」は長期のまなざしでは「危険」、「危険」は「安全」なのです。

現代日本は「今だけ安全」思考で動いていますが、同時にそれは先には「危険」が待ち受けていることを知るべしです。

まなざしのデザインは
1 視野を広げればどう見える?

2 未来から見れば、それはどう見える?

3 視点を反対側に移せばそれはどう見える?

4 少しずらせればどう見える?

5 極小に見ればどう見える?

6 なぜそうなるのかの質問を繰り返していった先にあるものを考える

7 それは「何に似ているのか?」を比喩する

ざっと、考えただけでも「まんざしのデザイン」にはこれだけのデザイン法があるようです。

無駄→合理的  安全→危険  と変換できることもあるのです。


posted by 変才冨田 at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題5 

大坂都構想問題

ここには「まなざしのデザイン」問題が隠されている。

推進派は「二重行政の無駄」と言う。

そもそも「無駄」はダメなのかという問題は意図的にデザインされて隠されている。

「無駄」と言えば、それはダメに決まっているという意図的な暗示がなされている。

この「無駄」というデザインで古くは国鉄も民間企業とされ、新しくは郵政も同じ論法で民営化処理された。

国有企業は「無駄」がダメなのかというと僕はダメどころか赤字を出しても良いはずだと思っていた。

税金の無駄遣いだというが、税金で補てんすることで国民の足を守るという国の責任がある。

むしろ税金が使われることは国民にとって「無駄」ではないはずだ。

少なくともバブルの破裂で証券会社や銀行に税金を投入したことより有益だ。

「無駄」というデザインをすることで多くの人々の意識を操作している。

「無駄」って本当にダメなことなのだろうか。

無駄の対極には合理主義があって、同じ意味で合理って本当にいいのか?と考える。

言葉の上では合理とは理に適っているという意味だけれど、現代の意味はどうも違う。

目先のことだけに囚われている合理だ。

長期的な視野という「まなざしのデザイン」で考えれば今の合理はかなり不合理なはずだ。

ある危険遊具を販売している会社があって・・・。

続く




posted by 変才冨田 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題4

戦争中に「学徒動員」というのがありました。

全ての学生が兵士として動員されたのです。

神宮外苑に大勢の都内の学生が集結させられた壮行会が催されました。

たまたまその日は雨でした。

銃を肩に担いだ学生たちが雨中を行進しました。

カメラの眼はは学生たちのその足元の水たまりに移動します。

泥の中の行進です。

彼ら学生のこれからの運命を象徴するシーンでした。

勇壮であるべき壮行会を悲しみの雰囲気に変えてしまったのです。

これが「まなざしのデザイン」ですね。

声高に反戦を唱えられなくとも抗議はできるのです。

芸術はいのちの底からの奔騰する生命エネルギーから生まれたものであるゆえに

芸術の使命の一つに「いのちの軽視や損なうものへの抗議性」が含まれなければならないと考えています。






posted by 変才冨田 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題3

「思い込み」には生きるに都合がよいものと不都合なものの二種類があります。

「まなざしのデザイン」が必要になるときというのは「生きるに不都合な思い込み」をもっている時ですね。

ただ、なにが都合が良いか良くないかは、それこそまなざしの視点の広さや高さで判定されますから難しいものです。

たとえば

戦争中にの日本では戦争に順応することは「生きるに都合がよかった」ことはいくらでもあるでしょう。

平和主義者や戦争反対の態度を持ち続けた人に対して「非国民」とののしることは「その時点では生きるに都合がよかった」のではないでしょうか。

時代に流されることはエゴギョウでいう「水性」にとっては好都合なのですが、結果は多くの人が戦争で苦しみました。

では戦争の予兆ある戦前や戦時中に「まなざしのデザイン」をするということはどうだたのでしょう。

これは「聖戦である」という思い込みの世間の風潮に抵抗する「まなざしのデザイン」は可能であったのでしょうか。

当時はささやかな抵抗として言葉を必要としない芸術においてあったと聞きますが、いったん言葉で「戦争反対」を唱えるとたちまち牢獄生活が待っていたのでしょう。

そうなっては遅いので今こそ「まなざしのデザイン」が必要です。

わたしが考えるのは「戦争」や「兵器・武器」というものををどうわかりやすく「まなざしのデザイン化」できるだろうかということです。

芸術とは多数の人が幸せに生きることに寄与するものであろうと考えています。

生活を快適にするためにひときわ大きな視野をもたせる契機となるものが芸術に求められていると考えます。











posted by 変才冨田 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題2

観方というものは考え方で左右されるわけです。

考え方と一口で言っても大きくは潜在的にあって普段は自覚されないものと意識化されているものがあるようです。

前者は非言語的なイメージ、後者は言語化されています。


前者はとくにやっかいですね。

言語で潜在意識を説得にかかっても抵抗します。

思い込みとは前頭葉の意識をパスして自動的に作動するシステムですから

これも潜在意識の範囲に入るものと思われます。

この思い込みを外したときこそがハナムラ先生のいう「まなざしのデザイン」をしたときなのではないでしょうか。


posted by 変才冨田 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月22日

東京セミナー終了 悩みの解消法

今回もツンツンセラピーは大受けでしたね。

痛みが即座に快適へ変化するという現象を体感していただきました。

幸せの母体は苦であるとも言えるのです。

痛いのにさらに汗が出るほどの痛みを貰うと忽ち天国でしたね。

これは悩みの解消法のヒントなんです。

その悩みの根っこを探るとさらに深い悩みが掘り起こされますが、あら不思議なことにさっきまでの悩みが消失しますね。

掘り起こされたなやみはさらに深刻なのですが、
不思議なことに爽快な悩みに変化しているのです。

この辺りは夜学で深く悩みましょうょ。
posted by 変才冨田 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

未来に隠されたプレゼント

IMG_0258[1].JPG
寄らば大樹の陰か。ぬくぬくした環境だったのか。
それにしてもゴツゴツした幹からこんなにも可憐な花が生まれるのかと、感嘆です。

木枯らしの吹く季節に、幹の内部のどこに用意してあったのか・・・。
それは何処にあったのか
それは何処にあったのか・・・

それは、未来という今日に用意されていたのです

今はなにも見えないけれど
未来にはきっとあなたの為に、なにかが用意されているのです。
posted by 変才冨田 at 18:12| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

怒りを昇華

コメントがありました

『財産を残すことの意味』に触発されての投稿です・・・先生の言の波に触れ、キーを叩いた次第です。

『身体は天からの預かりもの』ということですね。借りた者は返すということ、然りとおもいます。そこから浮かんできたもの(アイデア)があります。返すということは、本の元に還(かえ)すことで、それ自体が循環させる行為・・ということだと思います。
 返さないで一人抱えているということは、宇宙(あらゆる生命)の健全な循環機能がゆがめられている(循環不全)、ということではないでしょうか。

 預かり物の中には善い物も悪い物もあるでしょう。それらを還す時に、キレイにしてお還しするということです。悪い物(汚れた物)はキレイにして還すのは当然ですが、それでは善い物はどうでしょう・・。実は善い物にも魔(汚れ)が潜んでいます。悪い物の中には悪魔が、善い物には善魔があるようです。どちらにしろ預かったもの、使ったものはキレイにして還す作法が必要に思えます。

私からのコメント
「善魔」ですか・・・、なるほどありそうですね。
いやいや、悪魔よりタチが悪いかもしれませんね。

「これは善いことだ」という思い込んで他者に押し付けたりしますからネ。
軽快を要するのは「正義」という名の善魔ですね。



捨てるという行為はその辺が欠けているように思えます。『断捨離』の捨の部分はその辺どうなんでしょか・・。汚れた物(苦悩)も預かりものです。キレイにして還しましょう。その作法はその人の生き方に係っているようです。生き方の問題です。先生の言われるように美しく生きるというのが、キレイにして還す行為でもあるのですね・・。

生き方のヘタ?な人は自分の怒りを捨てているに過ぎないのでは・・、怒りも預かりものならキレイにして還した方がいいように思いますが・・。身体的なものや、生き方のご指導を今後とも先生の言の波に乗せてお届けください。 拝

私からのコメント
汚れた怒りは私に由来する利己による怒りではないかと思います。
それを私憤というのでしょうね。

美しい怒りも存在するように思えます。
いわれなき差別や戦争など生命に対する冒涜に対して抗議する怒りは
公憤というのでしょう。

前者の怒りは血圧が上がりアドレナリンが分泌され自身を傷めます。
後者は冷静なので健康な怒りです。

私憤を捨てて公憤に進化させることが求められています。

この場合は捨てるのではなく抹消するということでしょうか。

これをエゴギョウから観ると・・・。

怒りは金性の間違った認識からの怒りが木性を傷害させ「肝を破った」結果としての怒りです。

その怒りのエネルギーは火性に達して血行障害に至るでしょう

木性の冷静な認識という知恵があれば金性の思い込みを修正してくれます。

美しい生き方というのはこの木性の冷静さが必要で、この冷静はやがて高い霊性に進化させてくれると思います。
posted by 変才冨田 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月16日

自己中心主義に生きる10 「随所作主 立処皆真」の本当の意味5 食べる意味

玄米ライフはあなたの健康をサポートしますが、食べるのはあなた自身です。
より効果を高めるために

最初の一口だけは100回噛むようにして習慣化しましょう。
口から胃までの間でトラブルが起きるのは「歯」「と「唾液」が関わってきます。ほとんどはそれが原因です。

噛み合わせや歯抜けは多くの問題を出します。噛み合わせや歯槽膿漏からの歯の弱りは現状仕方ない状況の方は唾液をしっかり出すことでカバーできます。唾液には菌を抑制する力があります。

口呼吸に陥ると口に雑菌が入ると同時に唾液の作用までが失われます。歯槽膿漏がこれだけ増加しているのは口呼吸の増加に連動しているのです。これが原因で喉に炎症が起きると免疫系の興奮から免疫系疾患の膠原病やアトピー、咽頭がん、喉頭がんの遠因をつくることになります。

唾液は胃の粘膜にフィットして粘膜を潤して強化します。胃がんの方でも150回噛めば痛みはなくなります。
唾液が食べ物を完全に包み込み胃粘膜に刺激を与えなくなったからです。その結果、出血が原因の黒便も一週間で消失しました。

唾液には生理活性物質が多く含まれており、それ自体が薬です。
それはあなたにとって最高の薬なのです。
しかもタダ!

ロダンカリという物質は胃を引き締めて胃下垂を治してくれます。
パロチンは美肌成分が多くて若返りのホルモンです。

そして唾液の元は血液なのですから、唾液をたくさん出すというのは口中に出血しているわけです。
出血すれば血管に隙間ができて、その隙間に向けて血行が回復します。首から上の血行が良くなるので、肌にも脳にも効きます。外界にある食べものは全て毒だからです。その毒を自己化するには多量の自己そのものである血液で練りこまねばならないのです。

最初に唾液を多量に出しておけば、それが消化器への信号となって活発に分泌します。
唾液も消化液も血液が変化したもので、再吸収されて再び新鮮な血液になります。
唾液を含む消化液の総量は7リットルに及びます。
食べた総量の7倍近くも分泌しているのです。

なぜかくも分泌液を出さねばならないのかを考えると生理的なだけでなく「生きる」という意味にも気づかせてくれます。

食べ物とは、そのままでは「毒」なのです。その「毒」を自己そのものにするには、自己そのものである血液が変化した唾液や消化液で練りこまねば自己に変化させられないのです。少ししか噛まない人は食べ物は弱い毒性を発揮するでしょうし、もう少し噛む人は微弱な毒性にできるでしょう。

世間に「デトックス」という言葉がありますが
デトックスせねばならない人は噛んでいない人なのです。

かくも身体という自然は「いのちを守るために」食べ物に対して全力で対応しているのです。
「随所作主 立処皆真」という言葉を噛みしめる必要があります。
いついかなる時でも場所でも主体性を発揮してあたれば、どんなつまらない些細と思えるようなことでも真実が立ち現われてくる、という意味でしょう。

食べるということにも全力で当たれ!
他者に対しても正面から向き合え!
全ての対象に対してもおろそかに扱うな!

最初の一口を100回噛むことは随所作主の心です。
最初に唾液を多量に出すことで、それが信号となって消化液も多量に分泌されます。

唾液は口中への出血をすることで首から上の血行を回復させ、消化器は多量の消化液という出血で消化器の組織も血行が回復します。

全ての疾患の遠因は血行不良ですから、よく噛むことが健康への道筋にのる条件なのです。決して玄米さえ食べればいいということではないのです。

よく噛むことは神業になります。
アイヌ語にカムイがあります。これは神居と書きます。神が居る場所とは口の中であると読みます。神は「噛み」に通じて、死んだ食べ物を再びあなたの生命に甦らせます。

死物を生き返らせるのですから、これは奇跡で神業です。

神業を実効する場所、それはあなたの口の中。

口の中で食べ物を噛みしめることは食べ物との対話なのです。
食べ物との全力でのコミュニュケーションです。それがあなたのいのちを未来へつなげてゆくのです。

なにかご質問などがあればブログ「あすなろ日記」にコメントでいただければ多くの人に役立ちます。
今後はメールでもラインでもご注文できます。
tetu.tomita@gmail.com
ラインはhiruandnで見つけてください。
ファックスは050−1193−9391
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2015年02月14日

「カーペ・ディエム」 10年間のメッセージは随所作主

「カーペ・ディエム」
今を生きる、とは今をつかみ取るということなんだ

あなたが いくらその人を愛しているからといって

きのうの彼女を抱くことはできないし

明日の彼女も抱くことはできないわけだ

さらには さっきの彼女さえ抱くこともできない

今日 たった今の彼女を抱きしめなさい

彼女の実質の手ごたえや肌の感触は 

今そのものの感触なんだ

その感触でさえ それは

次々に過去へと消えて 記憶だけが追走するだけなのだ

生きるとは本のページをめくるようなものだ

今、そのページが開かれているのなら
そのページをわしづかみ、食べてしまえ


10年間継続したこのブログの通奏低音はこの詩の内容そのものでした。

言い換えれば「随所作主」
どんな時もどんな場所でも主人公たれ
そうすれば
どんなつまらないことのなかにも真実が立ち現われてくる

posted by 変才冨田 at 01:18| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月10日

財産を残すことの意味

「身体は天からの預かりもの」とはよく云いますね。

レンタルDVDと同じで借りたら全て返さねばなりません。

財産を残す、というのはこの点でどうなんでしょうか。

天に返却しきっていない、という感じでしょうか。

以前書いた記事です。

「子孫に美田を残さず」の本当の意味3

「子孫に美田を残さず」と言った西郷翁の真意についてさらに考えてみます。

先ずはこれまでの文章を見てください。

この意味は「子孫を甘やかすことになってしまうから」という意味に普通はとられてしまうでしょうか。

わたしもついさっきまではそう思っていました。

でも、西郷さんの生き方から考えて子孫のことまで考えるだろうか・・・。

かれは一生を完全燃焼で終えました。

そのことから考えると

解釈を変える必要があります。

それは以下のようなことです。

西郷「子孫に財産を残すなんてことでは、それは世の中からなにかを奪ったまま生を終えることになるんでごわす」変な薩摩弁?

わたし「なるほど!」

西郷「じゃどん、おいどんは財産も稼いでもおらんでごわすが・・・。

   訊くが、おまんは財産を稼ぐために生まれてごわんどか?」

わたし「お金は道具だと思っていますので貯めるものではないですよね」

西郷「よかよか、その通りでごわす。世の中から与えられた道具なら使い切って世の中に返すのが筋じゃなかか」

ということなのではないでしょうか。

お金というのはその人の器量に合わせただけのお金が入ってくるわけです。

その人の器量でそれを使い切ることが世の中のためになるわけです。

子孫に財産を残したら、その額は器量を超えているのでろくな使い方をしない。

お金の使い方は、その人の生き様が反映しますから超過したお金の分だけ子孫の生き方を誤らせてしまうということになります。

稼ぎかたより先に使い方を覚えてしまった人たちは、人生の真実を知らないまま去ることになります。

どんな会社でも一族で継承すると三代目でつぶれるわけです。

稼ぐ能力に見合った使い方こそが使い切る人生になりそうです。

財産を残すことは、その人が十分な生き方をしていなかった証拠になります。

財産を使い切る=人生を使い切る

財産は残さないで今自分のために、世界のために使い切りましょう!

死んでなにが残るのか。

なにも残さないこと。

残ったものはすべて与えたものだけなのです。



付けたし
西郷翁は見えない美田をわたしたちに残してくれたように思えます。

モノは子孫にしか利用されませんが、見えないモノであれば全人類への遺産になります。

それは「美しく生きること」の意味を教えてくれたのではないでしょうか。

わたしはいつも「自己本位制」で生きることが必要だと言っています。

みんなが自己本位で生きれば本当のコミュニュケーションが成り立ちます。

一方が「自分さえ我慢すればいいから」などと思っていると、それは双方にとって悲しい結末になります。



さて
自分の一族に美田(財産)は残さないようにすべきですが

後世の人々のために美田を残さないといけません。

福嶋原発の事故で田畑は汚染されました。

これを元通りにすること、これはお金の問題ではありません。

田畑を汚染したのは政策によってですが

さらに田畑を、それどころか人心をも荒廃させる政策が進行しています。

資本というものの本能に突き動かされて、その結果

TPPが日本の姿や形をどう変えてゆくのか

国民どころかそれを遂行しようとする政治家さえも知らないまま進行しています。

知っているのはアメリカの政財界人だけなのでしょう。

(ここからが続きです)

子孫にはモノを残すのではなく考え方を残すべきです。

西郷翁が美田を残すなという真意は、逆からいえば見えないモノとしての生き方やそれを促す考え方をこそ
子孫に残すべきと言っています(たぶん)。

もちろん西郷は途方もなく大きな人だったので

自分の一族を見ているのではなく

子孫とはわたしたちのことです。



さらに続けます。

西郷翁は美田を、すなわち財産をつくるような一生ではなかった。

財産を作れない人が「子孫に美田を残すな」とはどういうことか。

つまり

財産をつくるような生き方をするなというわけです。

西郷翁は完全な無私の人だったので、そういう結論になるのは当然だったのです。

「私」という存在が想定されたとき、その瞬間に「私のモノ」という概念が成立するでしょう。

無私であれば「私の所有物」が成り立たないのです。

多くの怒りは「私」という頑固なものが抱くものです。

私の財産という意識がそもそもなければ「怒り」さえ希薄になるのでしょうね。

そこに存在できる「怒り」は公への憤りで、私憤はないのです。

私憤は勝手な私の妄想から生まれるので心の不健康なのですが

公憤は自分の立場を離れているので健康も害しません。

それにしても「無私」の人はそれ自体スケールの途方もない大きさを感じ

そんな人の存在自体が奇跡のように思えます。

自分の小ささに唖然とします。






posted by 変才冨田 at 12:41| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月08日

本当の理由5

そして、解決は常に現象と原因の間、中心に求めるのです。

腰痛原因を単純化する方法は「姿勢に中心軸をつくる」ことなのです。

右の腰痛がある人の多くは右に軸が偏っていることが多いのです。

では左に軸を置くことが解決法かというと、違いますよね。

一行目が正解です。

けれど、日常的にも社会的にも矛盾の解決を反対側に求めことが多いのです。

民主主義に矛盾が生じると、7たちまちファシズムに魅力を感じる土壌があるのです。

やってみましょう、体で一行目を実証しましょう。

中心軸をつくっ何が起こるか、簡単に実証できるのです。

2月14日は塚田農場で実技理論セミナーをやってみます。

本当の理由を見つける方法を

身体を実験的に使って体験的に感じましょう。

同じやり方で、違った局面でも通用するのです。

posted by 変才冨田 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月07日

本当の理由4

本当の原因は心なのか、それともほかにあるのか消去法で潰す必要があります。

一例として腰痛を上げます。

痛いという部分的な個所から視野を広げねばなりません。

痛いところにだけこだわっているからわからなくなるわけです。

現象を起こしているところに原因があるわけでなく、見えないところに、反対側に原因を探すのです。

左のひざが痛いのなら右の膝はどうなっているのか、ということです。

子供の非行ならその原因を親に探してみるということです。

そして、解決は常に現象と原因の間、中心に求めるのです。
posted by 変才冨田 at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本当の理由3

続き

インフルエンザに罹患した、ウイルスに感染したからだ。

抗インフルエンザ薬を飲もう!

終わり

いや、待てよ

なんでそうなったのか、そういえば最近疲れていたなー

それで免疫力を低下させてしまって感染したのか・・・

なんで疲れてしまったのかな?

仕事がきつくておそくまでやっていたからだな・・・

終わり

こういうパターンで終わってしまうことも多いでしょう。

追究力が足りないのですね。


たとえば

腰痛になった。

病院で診てもらうと「椎間板が外に出て神経に触っていますよ」

終わり

そこでなんでそうなったんですか?

と訊く人は少ないでしょうね。

訊いたとしても「ああ、それは老化ですね」

ああ、そうですか。

終わり

でも自分より年寄りでも腰痛で無い人もいるのにネ。

真剣に訊きつづけると医師もくたびれてしまい「心療内科に行きますか?」

ということになる。

現実に腰痛の70%心のは問題だと言われているのです。

はい、そこで終わり。

続く



posted by 変才冨田 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月06日

本当の理由1

病気になったとき、「どうしてなったんだろう?」と自問するときがあります。

次から次へと原因をたどっていけるルートであれば、それ自体が正解なのです。

途中で止まると、それは原因究明のコースからはずれてしまったということです。

インフルエンザに罹患した、ウイルスに感染したからだ。

抗インフルエンザ薬を飲もう!

終わり

これではおかしいわけで、原因究明のコースをはずしています。

ウイルスの先になぜ行けないのでしょうかね。

続く













posted by 変才冨田 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マクロビオテイックの本質3 世界は狭い、フスマの内と外

続きから

処刑された後藤さんはフスマを開けて、つぶさに見たことを「フスマのこちら側の人々(わたしたちがいる場所)に知らせようとしたんでしょう。

後藤さんの拡大された意識から見て「自己責任論」なんてのははるか下での雑音でしかないのでしょう。

アメリカ・インディアンの青年が、その部族の居留地に原子力発電所が計画されたとき猛烈に反対しました。

「俺から見える地平線まで、全て俺自身なんだ」という世界観から反対していたんです。

ある部族の長老が白人を泉まで案内して「この泉はわたしなんだ」と言うのです。

自己を世界サイズに拡大した結果、全ての現象は自己の内部でのことという

ある意味「ホ・オ・ポノポノ」の説く世界観になってきます。

極限にまで意識を拡大して考え、感じること。

これがマクロビオテイックの本質なのです。

食の意味というのは、無限に拡がっている世界を代表した食物を取り込むことによって

自己を世界とつなげ、同一のものになろうとする行為だといえます。

ここから

「ニンジンをわたしが食べる」から

「にんじんがわたしを食べる」という大逆転の見方が出てくるのです。

「食べるとは、食べられることも意味する」わけですね。






posted by 変才冨田 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月05日

マクロビオティックの本質2 現代の世界をどう考えるか

私たちは今生きている世界をどう理解するのでしょうか。

世界は地獄の様相です。

今に始まったわけでなく、わたしたちが生まれる前から、そして生まれてからも地獄です。

人類史的に最近の事柄だけでも

第一次、第二次世界大戦

その最中に行われた数々の蛮行として、2発の原爆を市街地に投下したこと。

アウシュビッツの大量虐殺、日本も人を「マルタ」と言って731部隊が人体実験をしました。

戦後になっても世界各地で民族的紛争から大量の虐殺行為がありました。

最近ではクロアチア地域で、ポルポト派も何十万人といわれる虐殺などひどいことをしました。

今は「イスラム国」が世界の耳目を集めています。

こうしたことがどこか遠い場所で行われていると感じないと、わたしたちは生きていけないのかもしれないので鈍感を装います。(自分たちには関係ない・・・、と)

わたしたちの視野の狭さは救いなのかもしれませんね。

けれど、その視野狭窄こそが次の蛮行を許すことになってしまい、次蛮行の温床にもなっていることを考えると、
わたしたちは共犯になっているわけです。

マクロビオテイックの考え方では、これは「大いなるいのち」の意味なのですが

ここから命はつながっているとする思想になる関係上(大きないのちは小さないのちの集まりです)

共犯意識を持つことになります。

テロで大勢が殺されたり、後藤さんが処刑されたときも、どこか感情が傷ついたはずです。

これはつながっている関係上、わたしたちも痛いわけです。

虐殺を実行する人々の心情に対しても痛いはずです。

つながっているので「自分が実行した」ような感情の傷つきがあるはずです。

そうした蛮行は許されないと人類は常に言ってきたわけです。

けれどそれがやむことはなかったのです。

「許せない」では解決できない証明です。

では、どう考えればいいのか・・・、どう世界に向き合えばいいのか。

マクロというのは視点を拡大するということです。
視点を拡大していのちを解釈するわけです。

拡大するということは拡大した分だけ、自分自身が拡大されたことになります。

世界で起きていることは自分自身の内部で起きていることと実感が持てます。

茶の間でグルメ番組を見ている最中に、フスマ一つ隔てたとなりの台所では人々がひしめいており銃殺やらの阿鼻叫喚地獄が展開しています。

フスマを開けることができますか?

続く







posted by 変才冨田 at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月03日

マクロビオテイックの本質

落ちた花びら.JPG

落ちた花びらは死んだ姿なのでしょうか。
花びらが自分自身を花びらであると考えているとしたら、それは「死んだ」わけです。

生きている花.JPG全体の命.JPG




自分は花であると考える花と、自分は椿の樹だと考える花があるとしたら?

その死生観は天地の差があるでしょうね。

いのちの視野を「拡大する」こと、これがマクロビオテイックなのです。

以前書きましたね。

多くの人は仕事とは作業を完璧にこなせれば良い、と考えています。

それは「人生にはパンのみあればよい」という考え方があるからです。

仕事(作業のみ)をしてお金を稼いで、それでごはんを食べる・・・。

これに対して「人はパンのみにて生きるに非ず」ということが聖書に書いてあります。

これは「パンも必要だが、それだけではないよね」と言っているのです。

それはディズニーにおいては「仕事とは作業+ミッション」ということと同じなのでしょう。

ミッションがパン以外のことを指します。

わたしたちはなぜ仕事をするのか?

1 「お金を得て日々の糧を得るのだ」

これだけの仕事観だと最初の煉瓦職人と同じです。

もう一回書きますね。
煉瓦を積んでいる職人に問いかけます。

「あなたはなにをしているのですか?」

職人A「見た通りレンガを積んでいるのさ」

職人B「塀をつくっているのさ」

職人C「公園をつくっているんだよ!」

最後の職人さんはパン以外のこと、ミッションをもっているわけです。

ミッションがあるというのは視野が拡大した状態なのですね。



なにごとにも視野を拡大させてゆく考え方、これがマクロビオテイックなのです。
このスレッドからは余計なことですが、

仕事をする理由には以下の二つを満足させる必要があります。

1 仕事で賃金を得る →作業をこなせばよい

2 仕事を通して自分の心の目的を達する。→ミッションを果たす

心の目的とは「人と幸せな関係を築く」にあります。

仕事とはありがたいもので、この二つをかなえてくれるわけです。

ところがこのミッションの部分がなくなっている状況がある。

そういう場合は「無力感に覆われる」「仕事が嫌いになる」「惰性で仕事をする」「つまらない気の抜けた失敗が重なる」などが生じます。

逆にミッションを経営者が重視しすぎると、スタッフに過密労働を課すことになります。

ミッションをもったスタッフは独りブラック企業化しやすいのです。

企業から見ればスタッフが自主的にブラック企業家化してもらえればいいわけです。

したから残業代はいらないでしょう、ということになりかねません。

自主的に奴隷化してしまいます。

今評判のブラック企業というのはスタッフに「やる気」を注入することで搾取して経営しています。

パンを十分に処置したうえでのミッションでなくてはいけません。





posted by 変才冨田 at 22:36| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月01日

命はつながっている2

以下は以前に送られてきたある方からのメールです。

「1本のホウキが生んだ、世界の奇跡」

ニューイングランドにある精神病院で働く、名も知れぬ、普通のお掃除のおばさんのお話です。

彼女のはたらく病院の地下室には、「緊張型精神分裂病」と診断された10歳の少女の患者がいました。

何に対しても反応を示さず、ただ暗い地下室のベッドにうずくまっているだけ。
少女はもう回復の見込みはないと、考えられていました。

世界から見放され、一言も話す事なく、胎児のように丸まったまま、決して動こうとはしなかったのです。
以前は可愛らしい少女だったのですが、いまや日々、やせ衰えていくばかり。

彼女は、そんな少女の個室のまわりを、毎日掃除をしにやってきました。そして、ドアの隙間から食事をホウキの柄で中に押し込みます。

彼女にも同じくらいの歳の娘がいたせいか、少女を不憫に想いますが、そこはただの掃除婦、もちろん何もしてあげる事はできません。

そこで彼女は、せめてそこを去る前に、うずくまる少女の肩をホウキの先でそっとつつくことにしました。
「ねぇ、あなたは一人ではないんだよ。少なくとも、ここにあなたを気にかけている人間がいるんだよ」

という思いを伝えたかったのです。。

掃除のおばさんには、この程度のことしかできませんでした。ほんの小さな愛の実践です。ホウキの先ほどの。。。。

でもその程度しかできなくても、ただただ、伝えたかったのです。だから来る日も来る日も、彼女はホウキの先で、その少女を優しくつつき続けました。

そして何週間経ったある日の事。。。小さな変化が起こりました。

ただ死を待つばかりだった少女が、なんと、自分の手で食事を受け取るようになったのです。

さらに時が経つにつれ、少女は座る事もできるようになり、掃除婦のおばさんと話をすることまでできるようになったのです。

こんな事ってありえるのでしょうか?偉いお医者さんたちも、完全にお手上げだったのに。。

こうして少女は、やがて奇跡ともいえる回復を遂げることができたのです。

それから何年か経った、あるうららかな春の日。。。
その精神病院の院長は、アラバマ州の一人の紳士から、ある依頼を受けました。
その紳士のお子さんが、重度の障害児で、世話をしてくれる人を探しているというのです。

その頃、あの奇跡的な回復をとげた少女は20歳になっていました。

院長は、自信を持ってその彼女を、紳士に紹介しました。

彼女の名は、アニーサリバン。

そう、ヘレンケラーの偉業を生み出した教師です。

地下室でただ死を待つしかなかったあの少女です。。
ヘレンケラーの世界的偉業、それはアニーサリバンが、創りだしたという事は今や万人が認めるところです。

でも、ちょっと思い出してみてください。

そのアニーサリバンを創りだしたのは、誰なのでしょう?

ヘレンケラーとサリバンの業績だけを見ていると、見落としてしまいがちですが。

しかし、その奇跡の「真の生みの親は」は誰だったのでしょうか?

どんな大木も、どんな大企業も、どんな大成功も、もとを辿れば、すべて小さな種から始まっていることを忘れたくないなと、私は思います。

以上、素晴らしいメールをありがとう。

これぐらいなら出来る。
みんなで「これデキ」を楽しもう。

あなたの一言や、一つの行動から奇跡は起こり、やがてそれは、希望の常識になるかもしれません。

あなたが絶対にあきらめないで下さい。

奇跡は毎日、どこかで起こっているのだから。

感動共有しよう。
この世は素晴らしい。
人は素晴らしい。


私から最後に

人の世に光あれ!


追伸
今朝後藤さん、殺害のニューズが流れていました。
世界はまさに地獄の様相です。

少女に爆発物を身に着けさせ自爆させるなんて身の震えが止まりません。
この日本でも「殺してみたかった」と19歳の女子大生が殺害しています。

こうしたニュースの後で普通にグルメ番組が流されています。

世界は狭くなっています。

茶の間の隣の部屋では無数の人々が不条理に殺されているのです。

茶の間の平和とすぐ隣の部屋の地獄は共存していますが、あなたはそれに耐えられるのだろうか。

一体世界になにが起こっているのでしょうか。


この掃除婦のおばさんのように自分ができることから世界へつなげていくしかありません。


posted by 変才冨田 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月30日

命はどのようにつながっているか

1.“いのち”のつながり
・紅タナゴ→池にたくさん生息していたのに激減→原因を探す。→池の底にヘドロがいっぱいだった。
 →酸素不足になったためだろう。

・なぜ、ヘドロがいっぱいになったのか?→そこはため池(人工池)で、水田が干上がると栓を抜き、水田へ水を流していた。→その水とともにヘドロも水田へ行き、稲穂の栄養分となっていた。

⇔田んぼが無くなったため栓を抜く必要がなくなり、タナゴが生息できない程ヘドロが増加。
 ⇒田んぼの存在。→紅タナゴの存在に必要。→田んぼに“紅タナゴのいのち”が偏在している。

・さらに言えば→紅タナゴがいなくなった原因が、田んぼがなくなったため。
→そもそも、なぜ田んぼが無くなったのか?→日本人が米を食べなくなったから。

⇒日本人の中に“紅タナゴのいのち”が偏在していた。
・テレビでこの特集をしていたが、その対策会議を人々は“パン”を食べながらしていた。

・いのちは連続体→ウェーブでつながっている。

posted by 変才冨田 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

無能のレベルから抜け出す

無能のレベルに達して、それ以降成長しない原因があります。

これは社内での昇進などという狭いものだけに適用されるわけでなく、人の成長にすべてかかわっているものです。

それを理解するためには「見えないモノ・見えるモノ」の関係があるのです。

見えるモノ(現象や形あるモノ)はその前に「見えないモノ」が在ることで成り立つということです。

見えないものが見えるものをつくっているのです。

なにかを創るときに、まずは「意図」するという見えないものがあるのです。

形態形成場という考え方があります。

その固有の形をつくる「場」が先ずあるのです。

その場に物質が呼びこまれて、その場が要求する形ができあがるのです。

確かにわたしたちの身体は緊密にモノでぎゅうぎゅうに詰まって見えるのですが、原子レベルから素粒子レベルにまで入り込むと、隙間だらけです。

原子と原子の間は空間が広がっており、そこには「場」があるだけです。

「場」とは「磁場」のことで、振動だけがあるのです。

肝臓には肝臓の、心臓には心臓の、大根には大根の、カブラにはカブラの・・・、それぞれに固有の振動する場があることで細胞はその場にふさわしい形や働きをするわけです。

心臓に相応しくない振動が表れれば、心筋細胞も変調になります。

さて職場という「場」があります。家庭という「場」、クラスという「場」もあります。

この場の状態が悪ければ、そこで活動する人たちにも影響が出ます。
posted by 変才冨田 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする