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2015年08月07日

観察の瞑想法 ヴィッパサナー瞑想

現在スタッフの小野がヴィッパサナー瞑想に出ております。

10日間の修行で本日が二日目ですね。

この道場は世界各地にあり、日本には千葉と京都にあります。

毎月開催されており、毎回50人が参加しますが

その割にはずっと静寂になっています。

そのはずで、誰とも話してはいけない。

アイ・コンタクトさえしてはいけないのです。

50人いても独りなのです。

この瞑想は「自己の「今」の心身観察」に終始します。

身体が痒ければその痒さを、痛ければその痛みを

今まさに味わうという瞑想法です。

わたしが良く言っている

「今まさに食べているものの感触や味を味わい尽くす」

と同じですね。

これもヴィッパサナー瞑想化もしえませんね。

posted by 変才冨田 at 09:35| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月05日

ホムンクルス人形から思うこと2

エンゲルスの古典的名著に「猿が人間になるにあたっての労働の役割」というものがある。

この人形の巨大な手を見たときエンゲルスは正しかったと思う。

手を使うことで脳の容積を増やしシナプスの絡みを強化したのだ。

いや、手は自分自身がより精妙に動くために脳をつくったのだろう。

手によって強化された脳は夢想や想像ができるようになった。

手と脳との間での対話がお互いを進化させたといえる。

脳が描いたイメージを実現するために、さらに手は微細な動きを実現しようとした。

手が微細な動きができるように脳も微細な観察ができるようになった。

そうやって脳と手はそれこそ「手を取り合って」発達してきた。

では、なぜ手と脳は進化したのか?

それは食べ物への飽くなき欲望だった。

より確実にエサを手に入れるために舌を延ばし、それでも足りなくなったので

手が舌の替わりをするようになった。

枝を掴むだけの手の機能を拡大するために樹上から草場に降り立った。

自由になった手は多くの仕事ができるよういなった。

なかでも

自然界に存在するモノを道具として利用し

画期的な事件は

道具を自製つくったことなのだが、道具をつくるための道具をつくるに及んで

決定的に進化の方向が定まった。

道具をつくるための道具の製造はまさに労働である。

それは脳のイメージなくしては作れない。

やがてはイメージは言語化するに及んで社会を創造した。

労働が手をつくり脳の発達を促し、

結果として他者の脳との結びつきを強め(脳の外で起きた、他の脳とのシナプス結合は言語は起こした)

社会を創造するに至った。

手は偉大である。








posted by 変才冨田 at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月18日

セミナーの目的

いよいよ、横浜、東京セミナーが迫ってきました。

なぜ、わたしがこのようなセミナーをしているのかを改めて書き記します。

1 多くの人は食についての教育を受けていない。

食と命の関係など食に哲学的視点が欠けていること。

2 一般的に身体的な問題と人生の問題を分離する思考があること。

3 食が大切と言うものの本気でそれを信じていない。

健康問題と食は無関係と心の底では思っている。

4 身体的歪みを人生の問題と受け止めていない。

5 食と社会的問題がつながっていない。

このあたりを啓蒙することがわたしがセミナーをする目的です。



横浜 夜学 7月24日


「初めての人のためのエゴギョウ講座」


エゴギョウは非常に深くて広い心の改善ツールであり、思考ツールとしても優れています。

簡易版の50問の質問に回答すると東洋哲学の五行の形に変換されることで、あなたの心の癖が一望できるのです。

心の癖とはOS(オートメーションシステム)であり無意識の領域でもあるのです。

あなたがそこでなぜそう感じたのか、なぜそう考えたのか?

そうした「心の秘密」ともいえるあなたの無意識の領域がどのように形成されたのか?そうした問題も探究できるのです。



さらに、エゴギョウでは「観察」を重視しており、観察することが対人関係のみでなく自己との適切なコミュニュケーション能力につながると考えています。

では、観察するとはどうするのか?

他者を正確に観察する技法があって、その観察する技法がそのまま他者を認証する力に及びます。



今回は入門編ですが徐々に初級、中級と理解を深めていただけるようにセミナーを組んでいきます。



24日 横浜夜学 
場所 かながわ県民センター1501号室

時間 18時開場 
18時 計測開始 計測は詳細な血管年齢測定 
18時30分 講習開始
内容 「エゴギョウ入門」 参加費 2000円


参加お申し込みは  tetu.tomita@gmail.com まで<お問い合わせ先>
電話 050−1193−9391 メールはtetu.tomita@gmail.com



7月26日 東京定番セミナー


場所 蔵前「結わえる」


開場  9時30分

開始 10時    7号食講習「食と心身の仕組みを考える」
「初めての人のためのセミナー」

@第一部 七号食講習 16日で3s〜5kgは本当です
    食の考え方講習 

 *誰も教えてくれなかった食の哲学 食・生理・心身・疾病・環境は一本の筋

   13時30分 エゴギョウ中級講座 さらにエゴギョウを研究

          世界の見方で変わる生き方」

終了 17時


posted by 変才冨田 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月10日

身体と意識 5 身体感覚を失った意識はどうなるのか?

身体感覚を土台として意識は、その感覚がもたらす方向性で思惟しようとする。

それが正常だと思うのです。

身体からくる感覚を無視したり、あるいは希薄に感じるようになったら問題です。

糸を離されたタコは漂うばかりになるでしょう。

身体に自分の糸を離せという意識が傲慢というものでしょう。

身体感覚を失った意識は力が失せます。

力強く生きることを課題にするには身体感覚を養うということが必要です。

身体感覚とは「今、この瞬間の感覚」ですから、

課題は「今を生きる」に集約されてきます。


身体感覚とはどうしたものか?

それは中心感覚だと思われます。

ですからわたしはいつも「身体に中心軸を形成しよう」と提案しています。

それが重心調整用インソール「姿美人」や「中心軸できた輪」をお勧めしている理由なのです。

中心感覚は観念的なものではなく、今ただちに感じられます。

下腹部に力が入りドッシリと地に足を着けた感覚として感じられます。

大地を掴んでいる感覚がよみがえってきます。

それは「楽に歩ける」という感覚を今すぐにもたらしてくれます。

その感覚が「驚いた」という表情になるのです。

そその驚きの感覚はあまりにも不思議なので困惑する人は私を疑ってきます。

こういう反応の人々をわたしは「意識優越で生きている」というのです。

身体より意識を優位にする生き方をしてきた人々です。

そういう人々は自然という身体に今起きた現象を疑うわけです。

「先生、さっきより力をゆるめていませんか?」という言葉になるのです。

あさっての12日のセミナーは中心感覚を創るというテーマなのです。

ぜひどうぞ!

050-1193-9391


posted by 変才冨田 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

身体と意識 4

現代人は意識の優位性を身体に主張しています。

これは大きな視点では自然に対する人工的な意識の挑戦になっています。

意識は太古、言語を得てその意識を巨大にしてきました。

意識は自然環境に働きかけ、創造しあるいは破壊してきました。

自然は意識でどうにでもなる。

そう考えている、これが現代です。

意識の産物はこの社会で生産されたモノ全てです。

人類は自信という名の傲慢を手に入れました。

「血圧、血糖値、中性脂肪が高い? 大丈夫、薬飲んでるから!」

医学は自然という身体を制圧しようとしていますが、そうはうまくいっていません。

意識の傲慢から生まれた生活習慣病ですから、意識が自分自身を制圧しようとしています。

それは猫が自分の尻尾を追いかけているようなものなのです。


戦争がなぜ無くならないのか?

これも同じ構造になっていますから、人類は戦争を制圧できないのです。

人類の傲慢病の克服は社会史的にも個人史的にも大きな課題です。






posted by 変才冨田 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

身体と意識3

前回の続き。
近くにお寺があって毎月掲示板に意味深長な言葉が書かれています。

今月は「行き詰っているのはあなたの自我だけ」というものがあります。

自我とは、ここでは自己意識のことだと考えてください。

自己の能力を超えた評価を自他に求めているために「息詰まる」のです。

身体に大きなストレスを与えています。

さて、デール・カーネギーの言葉に
「気の塞いだ馬を見たことがあるか?しょげてる小鳥を見たことがあるか?
彼らが不幸にならないのは「いいかっこう」を見せようとしないからだ」
というのがあります。

多くの人が失敗への恐れをもっています。

大きな勘違いでしょう。

失敗したって身体はいつもと変わりなく心臓を動かし、胃は消化活動に専念しています。

それどころか本当の人の真価は失敗した後に現れるのです。

失敗してあなたの真価を見せつけよう!



posted by 変才冨田 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

身体と意識2

身体と心は表裏関係にあるので、身体も心も自然世界に属するものです。

意識とは言葉の世界であり、言葉の世界とは社会性と表裏なので、

意識とは人工的なモノであると規定できます。

「意識」と「身体・心」はどちらが根本的でしょうか?

「身体と心」が意識に優越しています。

いくら意識を強固にしたところで不摂生な生活を続けていては身体や心が折れてしまいます。

その根本的なところに誤解があって「頑張れば良い」と勘違いして

「頑張れない自分や他人(配偶者や子供も含む)」を攻撃している人が多いのです。

近くにお寺があって毎月掲示板に意味深長な言葉が書かれています。

今月は「行き詰っているのはあなたの自我だけ」というものがあります。

自我とは、ここでは自己意識のことだと考えてください。

自己の能力を超えた評価を自他に求めているために「息詰まる」のです。

身体に大きなストレスを与えています。





posted by 変才冨田 at 20:33| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月05日

意識と身体

ヒーリング系の人々に以下のような考え方の人がいます。

一人一人の心が平和でなければ世界平和は実現しない。

世界に平和がくるようにみんなが祈ればよいのだ。

祈りの力は大きい。

みんなが食を正せば醜い心は無くなって世界は平和になるだろう。

玄米を世界中の人々が食べるようになれば世界平和は実現する。

あるいは

これは肉で健康に良くないと思って食べるから悪いのだ。

身体に良いと思って食べれば健康に役立つのだ。

添加物が入っていると気にするからかえってストレスになって体に悪いのだ。

なんでも好きに美味しく食べれば健康にいいのだ。

どうでしょう?

posted by 変才冨田 at 01:03| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

身体は自我の道具なのか、身体の道具が自我なのか?2

身体は道具である。

意識が道具としての身体を使いこなすのである。

という考え方は現代的であろう。

自動車で云えば運転手が意識であり、意識が自由に自動車という身体を使いまわすということである。

では、次元を国家と国民ということに置き換えてみる。

国家意識のために国民は存在しているのだろうか。

それとも

国民が国家を使うものだろうか。

憲法の存在意義は後者の考え方なのである。

民主憲法とは国家が弐度と戦争のような悪さをしないために国民が国家に足枷をはめたもの、

それが憲法なのである。

したがって憲法を「守る義務は国民にはなく国家が守る義務を有している。

もっと具体的に云えば

公務員が憲法を守る具無があり

国民は彼ら公務員が憲法を守っているかどうかを監視する義務を持っているのである。

翻って

身体が主人公であり、身体を守る義務をもっているのは意識である。

身体の健康を守る義務は意識にある。

意識が国民という60兆個の細胞を守る義務を有する。

意識が好きなように身体を統制するものではない。

全細胞は完全な民主主義的な動きにあり、どこにもボスはいない。

従って意識は身体のボスとなって命令を下してはいけない。

意識が勝手に身体を酷使して、細胞間の民主的な連絡を寸断するから慢性疾患になるのである。

無理とは文字通り理に適っていないことであり

生活習慣の乱れとは「無理」を通していることなので

当たり前のようにして人々は慢性疾患になる。

国家が肥大して国家意識をもってしまいファシズムに成長するように

意識がいつの間にか身体を統制する時代になりました。

けれど、実際には土台は身体側にあるので慢性疾患や鬱になって意識に抗議をしています。

「え?中性脂肪が多い? 肝臓の数値が悪い? 頭が痛い?」

「大丈夫だよ、薬のんでるからね」

なんと人々は楽天的なんだろう・





posted by 変才冨田 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月03日

身体は自我の道具なのか、身体の道具が自我なのか?

みなさんはどう思われますか?
posted by 変才冨田 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月02日

子孫に美田を残すな 2

竜馬も西郷翁も寿命を全うしたわけではありません。

目的を達したかどうかという観点では非業の死を遂げたのです。

「なにをしたかではなく、なにに向かって燃え尽きたか」が重要です。

結果ではなく、プロセスが重要ということなのですが・・・、

「結果は出なくても一生懸命頑張ったからOK」というわけではない。

要は何処に向かって燃え尽きようとしているかが重要なのですね。

人生には方向性が重要です。

方向音痴では努力しても報われません。


西郷翁や竜馬のように己一個の生き方をのみ考えているような人には

子孫への財産のことを考えるような余地はないでしょう。

美田を残すな! と言ったとすれば、その真意は

財産のことを考えるような生き方をするな、という戒めと思われます。

子孫に向けた言葉ではなく、あなた自身に向けた言葉なのです。



posted by 変才冨田 at 18:48| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月24日

「子孫に美田を残さず」と「随所作主」の関係

この記事は大変よく読まれているようなので、最近気付いた「随所作主 立処皆真」との関係もあるので、連載書きます。

以前の本文

この言葉は西郷隆盛さんの言葉ですね。

この意味は「子孫を甘やかすことになってしまうから」という意味に普通はとられてしまうでしょうか。

わたしもついさっきまではそう思っていました。

でも、西郷さんの生き方から考えて子孫のことまで考えるだろうか・・・。

かれは一生を完全燃焼で終えました。

そのことから考えると

解釈を変える必要があります。

それは以下のようなことです。

西郷「子孫に財産を残すなんてことでは、それは世の中からなにかを奪ったまま生を終えることになるんでごわす」変な薩摩弁?

わたし「なるほど!」

西郷「じゃどん、おいどんは財産も稼いでもおらんでごわすが・・・。

   訊くが、おまんは財産を稼ぐために生まれてごわんどか?」

わたし「お金は道具だと思っていますので貯めるものではないですよね」

西郷「よかよか、その通りでごわす。世の中から与えられた道具なら使い切って世の中に返すのが筋じゃなかか」

ということなのではないでしょうか。

お金というのはその人の器量に合わせただけのお金が入ってくるわけです。

その人の器量でそれを使い切ることが世の中のためになるわけです。

子孫に財産を残したら、その額は器量を超えているのでろくな使い方をしない。

お金の使い方は、その人の生き様が反映しますから超過したお金の分だけ子孫の生き方を誤らせてしまうということになります。

稼ぎかたより先に使い方を覚えてしまった人たちは、人生の真実を知らないまま去ることになります。

どんな会社でも一族で継承すると三代目でつぶれるわけです。

稼ぐ能力に見合った使い方こそが使い切る人生になりそうです。

財産を残すことは、その人が十分な生き方をしていなかった証拠になります。

財産を使い切る=人生を使い切る

財産は残さないで今自分のために、世界のために使い切りましょう!

死んでなにが残るのか。

なにも残さないこと。

残ったものはすべて与えたものだけなのです。


付けたし
西郷翁は見えない美田をわたしたちに残してくれたように思えます。

モノは子孫にしか利用されませんが、見えないモノであれば全人類への遺産になります。

それは「美しく生きること」の意味を教えてくれたのではないでしょうか。

わたしはいつも「自己本位制」で生きることが必要だと言っています。

みんなが自己本位で生きれば本当のコミュニュケーションが成り立ちます。

一方が「自分さえ我慢すればいいから」などと思っていると、それは双方にとって悲しい結末になります。

続く
posted by 変才冨田 at 01:21| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月08日

螺旋の美

10年前に書いた詩です

「螺旋の美」

わたしは「繰り返し」について考えている
繰り返し、繰り返し・・・
何度も、何度もの繰り返しが
やがて
ものの形となって現れてくる

縦糸と横糸を
同じように繰り返しているうちに
一つの模様が現れてくる
世界はそうやって創造されたのだ!

目に見えない螺旋の回転が繰り返し繰り返し
うねり、反転し
全宇宙でうねっては繰り返し
銀河が、太陽系が、地球が創られた

そのうねりの内部にわたしが確かに約束され
あなたも約束されていた

今、わたしは想うのだが
わたしたちの目にはまだ見えないが

わたしたちのこのうねりの繰り返しという努力が
きっと、そのうねりのなかに
まだ見ぬあなたがたやわたしがひっそりと息づいているのだと・・・
「そうなんでしょう?」と宇宙に問いかけてみるのだ

たった一つの個性とは
飽くなき同じことの繰り返しの作業のなかでしか
生まれないことを

だから
生まれたわたしたちは
真に個性的であるのだと
いま想う

        螺旋の美
身土不二とは土を仲立ちにして
生き物同士がお互いに「行ったり、来たり」の繰り返しだ
死んでは新しく別な生き物としてよみがえる
その繰り返しだ

その螺旋はメビウスのようにつながり
たった今も繰り返されている
だれに命じられたわけでなく
寄せては返す波のように繰り返す
いや、波を起こす力と同じものが
生きるものをして繰り返させている

食についてあらためて考えたい

土は生き物を食べ
土の塊という消化器官を使って
こねる、微生物も加わってこねる
光や水やミネラルという消化液を使ってこねる
やがて
マジシャンが帽子からうさぎを取り出すようにして
新しい生き物を暗闇から飛び出させる

しかし、今の畑はどうなのだろう
生命循環の繰り返しを拒み
拒んだゆえの、力のない作物たち・・・

食べるという行為をさらに考えたい

その歯は螺旋階段であり
その消化器官は螺旋回廊である
食べられたものは螺旋運動を繰り返しながら
その生命の中心部に向かって飛び込む

血管 それは蔦のように枝分かれしながら
全身を這い上がる、這い上がる
繰り返し繰りえし、分岐していく
それは全宇宙を創造した同じ力で
螺旋運動を繰り返してできあがったものだ

食べられたものは、その螺旋街道をうなりをあげて突き進み
螺旋状に積み重なった細胞に勢いよく飛び込む、飛び込む
細胞の内部で用意された酵素に叩かれ、螺旋的に上昇変化しつつ
生命のふるさとのDNA螺旋に寄り添っていくのだ

食べ物は螺旋の印で刻印され、いろんな形に刻印され
繰り返し繰り返し刻印されつづけ
生命の輪廻転生を完成させる


さらに食についてさらに考えたい


1日3回、1年で1000回
繰り返し繰り返し
わたしたちは食べる、食べる、食べる
一口30回、カム、かむ、噛む・・・
飽くことなく噛み続ける

宇宙の深みから 命じられるままに
幾千万の螺旋運動を繰り返す
この飽くなき繰り返しこそが 
わたしという現象をつくり
わたしという波紋を周囲に広げてゆく
それは螺旋状の波であり その繰り返し生じる螺旋波紋は
無数の繰り返しゆえに
すべてを生み出していくだろう 

生命循環から切り離され
さらに無力に飲み込まれた綺麗なパッケージだけの食べ物
これら
生命の螺旋街道からこぼれた
食べ物たちはどうなるのだろう
毎日そうやって繰り返している
畑やあなたはどうなるというのだろう

終り

食べ物の螺旋街道からこぼれ落ちたジャンクを食べることで

あなたもジャンクな心身に成り下がり

生命螺旋運動からこぼれ落ちることのなきよう

そして、現在
螺旋街道に戻ろうと毎日の食に秩序性を取り戻そうとしているあなた

まだ曙光は見えなくてもひたすら食養を繰り返せば必ず見えてきます 光がね

posted by 変才冨田 at 01:54| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月07日

脳外科医が悪性の脳腫瘍になった

この本の題名は「医者が末期がん患者になってわかったこと」著者は岩田隆信

脳外科医自身が悪性癌になってからの葛藤の日々と、どうそれを克服するかのテーマです。

題名にあるように、自分ん体験を医療が患者のために活かして欲しいという願いがあふれています。

最後に体調不良の最中にテープ録音で書かれた論文が
「脳腫瘍治療の最近の考え方」
昭和大学脳神経外科
助教授 磐田隆信

この本をどう皆さんにご紹介するか・・・。

著者の岩田先生は1月末のある日に激しい頭痛に見舞われ、その年の12月に亡くなられています。
その間の闘病記であるのです。
IMG_0722[1].JPG

この本をわたしがご紹介する理由は一つです。
ここには普通の人の死を前にしたときの恐れや、不安、とまどいが率直に書かれています。
彼の態度を学びたいと考えたからです。
posted by 変才冨田 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「随所作主」とはこういうことだったのだ 神業のバランス感覚で命は動いている 3

https://www.youtube.com/watch?v=Cm9aMQfKWUs

これは必見です。

羽根一枚が世界を支えている。

きっと、羽一枚があなたの心身を支えているのだ。
posted by 変才冨田 at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 2 癌になった時の命に対する態度

前回の最後の三行は以下のように書きました。

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

随所作主の核心は「自分の命」をどう扱うかという問題です。

たとえば、癌を宣告されたとします。

医療側はいろんな治療提案をします。

現在は手術、化学療法(抗がん剤)、放射線などの提案になるでしょう。

(決して第四の選択肢に「食養をはじめとした生活習慣の改善」提案はないでしょう)

ほとんどの患者は専門医の助言(という名の命令指示)を受け入れるでしょう。

「先生、その治療を受けたとして見通しはどうですか?同じようなケースの患者さんはどうなりましたか?
先生、先生自身や家族がわたしと同じ状況になったとき、先生はわたしへの治療と同じ方針になりますか?
先生としての立場を捨てて、個人としての意見を離してほしいです」

こう言える人がどれくらいいるでしょうか。

先生任せにしないで「自分の命をどう扱うか」のシーンなのです。

「流されるまま」からどう転換していくかです。

最近十代で癌になった高校生のことを聞きました。

彼女は「随所作主」を発揮するチャンスを得ています。

自分の人生に対して自分を主人公にできるチャンスです。

それ(自分を主人公にする)をすることはとても深いところで自己認証作業をすることになっています。











posted by 変才冨田 at 13:13| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月06日

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 1

「随所作主 立処皆真」
これについては過去に何度も書いてきました。

再度揚げます
主体的に生きる、これが自己中心主義の意味なのです。

主体的に生きるとはすべての責任を一身に背負って生きるということでもあるのです。

人や条件のせいにしない、ということです。

禅では「随所作主 立処皆真」と言っていますね。

この解釈はいろいろ言われていますが、私は

「どういう場でも自分が主体的にかかわれば、最初はつまらないことと思っていてもこの世の本当のことがわかる」と解釈しています。

本当のことは自分が正面からそのことに向き合わなければ永遠にわからないと考えています。

一所懸命という言葉に通じるもので、懸命にかかわるということが「作主」、つまり主体的に生きるという意味なのでしょう。

けれど懸命にかかわったからといって
必ず真実がわかるわけではないですね。

自己の課題に向き合ったかどうかがカギになります。

他者の課題に懸命に頭を突っ込んでも、それは主体性を発揮したことにはならないわけです。

B級の映画を見て「つまらなかった」という人はその映画に対して「随所作主」で対峙しなかったからです。

懸命にその映画にかかわれば、世界の真実に行き当たるはずなのです。

なにごとにでも主体的にかかわれない人は「つまらない人」になっているわけで、つまらない人の周辺はすべてつまらないことだらけになるのです。

「随所作主」とはどんな時でも、どんな場でも主人公として自分を扱うということなんですね。

積極的にかかわらないと、人生の主人公にはなれないということなんですね。

明日はそのように生きたいですね。

ここまでが以前書いたもので、そのほか「随所詐主」で検索してでいればもう一度読んでください。
このことは私たちの人生にとって非常に意味の深い内容をもっているのです。

「随所作主 立処皆真」これはすごい言葉なのです。

その瞬間の時間に真正面からソレに向き合うとなにがこれまでと違うのか?

先ず、それを体験している時間が異様に濃密になり、その結果異様に長く感じます。

そのことから覚めれば異様に瞬間の出来事として感じます。

子供の頃夏休みがそれこそ一生続くかのような感覚がありませんでしたか?

それに比べて今は異様に時が早く過ぎる感覚になっていませんか?

わたしなんかもついこの間60歳になったと思っていたら、気づいたらもう66歳になろうとしています。

年齢を重ねるほど時間は加速度を持ちます。

これは何故か?

おそらく子供の頃は1秒を24コマで目の前のできごとを見ていたのです。

今は8コマくらいになっているのでしょう。

子供の頃は今の三倍も時間が濃密だったのです。

ですから体感時間は今の三倍です。

今は脳の情報処理スピードが遅くて16コマ分スベってしまっているのです。

情報処理スピードが遅くなっただけでなく

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

続く








posted by 変才冨田 at 23:52| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題10

最大の「風景異化」は自己へのまなざしが変化することでしょう。

その論議の前に必要なことがある。

そもそもあなたは自分へのまなざしを持ったことがあるのか?

持ったとしても、それは正確な自己認識なのか?ということですね。

自分への誤解が正されるとき、それはコペルニクス的転回で「まなざしの異化」をしたことになる。

たとえば

医師に「あなたは癌です」と誤診されたとします。

その後あなたは確実に「世界へのまなざし」が変わるはずです。

「わたしはなんら取り柄のない無価値の人間だ」と考えていたときのデザインから

「わたしはこのまんまで価値がある」とデザインを変えると

世界が輝いて見えるだろう。
posted by 変才冨田 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題9

自然界の多様性というのは、自然の様々な試みによって生まれたものだろう。

それは自然が豊かだからできたことだ。

有り余る水、そこに溶けた豊富なミネラル、そしてそこから生み出されたアミノ酸。

これらをどう組み合わせてどんな形や、それに付属した機能が付与できるか。

自然界は太古からそれを試してきたのだ。


我々もそれを見習うべきだろう。

我々は多様な生き方を試みるべきだ。

お金のくびきから逃れねば、結局はどう生きても同じだ。

それには「賃金労働者」になるべき必然性を超えねばならない。

そのためには個的能力を上げねばできないことだ。

百姓とは百のことができる能力があったということだ。

賃金労働者はどうだ。

それしかできないという必然性を持たされているのだ。

百のことができるにはそれに対応した「まなざし」が必要だ。

さまざまな役立つ要素の組み合わせは「風景異化」の手法で見つけられないか考えている。

たとえば
それにしか使えなかったモノをどう他に流用できるか。

それは成長の無い社会で特に必要とされるだろう。




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2015年05月07日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題8

以下の記事は昨年のものですが、大きなテーマで肝心なことが書かれています。


アートが社会を変えうるのだろうか?

そういう疑問がありますね。

震災の時に各芸術界はその無力を感じると云うメッセージがありました。

芥川龍之介も関東大震災において無力を嘆いています。

その時、彼は「芸術は生活の過剰から生まれる」といいました。

食うや食わずからは生まれないということでしょうか?

衣食足りて礼節を知る、ということですね。

他の解釈があれば教えてください。

衣食が有り余っているところのアートをなにもないところに移植できるだろうかということです。

ハナムラチカヒロさんはバングラディッシュに行ってなにをしようとしたか?

他のアーティスト達は過剰を持ちこみました。

大きな動物を造形したり、一緒になにかをつくるなどです。

おそらくそれが通用する可能性は子供たちかもしれません。

以下略

太字のところが考えたいところです。

絶対的窮乏状態は「生活の過剰(余剰)」がないので「まなざしのデザイン」の余地がありません。

太古の人が洞窟で動物を描けたのは、少しの「生活の過剰」があったからです。

けれどその動物へのまなざしは「食べ物」としてのまなざしだし、そこから視点が上がって食べ物を恵む聖なるものへの祈りになったに違いない。

今日のわたしたちは動物へのまなざしは多様だ。

動物は太古からなんら変化していないが、わたしたちは多くの「生活の過剰」を生み出したので

動物へのまなざしは多様になっている。

「捕えやすいかどうか、美味しいかどうか」から可愛がるもの(愛玩動物)としての見方ができたり、人間の代わりに解剖したり実験したりするまなざしもできた。

風景異化ができるのは土台に「生活の過剰」、つまり豊かさに関係するわけだ。

豊かさはものの見方の多様さにインパクトを与えるのだ。

ところが、一見豊かなわたしたちの日本で多様さが見られなくなっているのだ。

お金とか財産に対しての考え方が貧しくなっているのだ。





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2015年05月05日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題7

「まなざしのデザイン」が可能な社会とはある意味では多様であるからではないかと考えます。

ある価値観からはそれに対応した「まなざし(視点)」があるわけで、

価値観が多様であるということは無数の「まなざしのデザイン」があるということですね。

ただ、強烈な一つの価値観があるとほかの価値観が覆い隠されてしまい、そういう時代こそ隠された価値観に照明をあてる必要性が出てきます。

隠された価値観ならなんでもいいわけでなく

次代の価値観を先取りしたものに注意させること。

それがアートに託された使命の一つと思います。


posted by 変才冨田 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月03日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題6

その人は危険遊具を幼稚園や保育所に販売されているのです。

彼「三輪車に乗ったからといって子供は自慢しないでしょう。けれど、一輪車なら自慢するでしょう」

という話です。

あるとき危険遊具のデモンストレーションを大勢の前でしたのです。

太った女の子が高い平均台の中ほどで、下を向いてしまい怖くなって動けなくなったそうです。

泣いてばかりで前にも後ろにも動けないで固まったのです。

大声で泣くばかりでみんな手をこまねいていたそうです。

体育館のなかはその女の子の鳴き声が響き渡り、みんなどうしたらいいのかとただ見守っていました。

その幼稚園の関係者がみかねて助けにいきました。

手を差し伸べた時、一喝する大声が会場に響き渡りました。

「なにすんねん!」

それはその遊具の考案者で安田先生といいます。

女の子は誰も助けてくれないのだと分かった時、泣きながら少しずつ前に進みました。

とうとう渡り終えて階段を下りた時、みんなが大拍手で迎えました。

「よく頑張ったね」「すごい!」

女の子はニッコリして「もう一回渡る!」といって二度目の挑戦に向かいました。

安田先生「あの時、助けていたらあの子は二度とこの遊具に近寄らなかったはず」

生命の本質は挑戦して自らを超えることを目指していると思えませんか?


さて、この危険遊具はあまり売れていません。

けれど安全な遊具はどこの幼稚園にも公園にもありますが子供たちはそれで遊んでいません。

ことの真相は「安全」は長期のまなざしでは「危険」、「危険」は「安全」なのです。

現代日本は「今だけ安全」思考で動いていますが、同時にそれは先には「危険」が待ち受けていることを知るべしです。

まなざしのデザインは
1 視野を広げればどう見える?

2 未来から見れば、それはどう見える?

3 視点を反対側に移せばそれはどう見える?

4 少しずらせればどう見える?

5 極小に見ればどう見える?

6 なぜそうなるのかの質問を繰り返していった先にあるものを考える

7 それは「何に似ているのか?」を比喩する

ざっと、考えただけでも「まんざしのデザイン」にはこれだけのデザイン法があるようです。

無駄→合理的  安全→危険  と変換できることもあるのです。


posted by 変才冨田 at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題5 

大坂都構想問題

ここには「まなざしのデザイン」問題が隠されている。

推進派は「二重行政の無駄」と言う。

そもそも「無駄」はダメなのかという問題は意図的にデザインされて隠されている。

「無駄」と言えば、それはダメに決まっているという意図的な暗示がなされている。

この「無駄」というデザインで古くは国鉄も民間企業とされ、新しくは郵政も同じ論法で民営化処理された。

国有企業は「無駄」がダメなのかというと僕はダメどころか赤字を出しても良いはずだと思っていた。

税金の無駄遣いだというが、税金で補てんすることで国民の足を守るという国の責任がある。

むしろ税金が使われることは国民にとって「無駄」ではないはずだ。

少なくともバブルの破裂で証券会社や銀行に税金を投入したことより有益だ。

「無駄」というデザインをすることで多くの人々の意識を操作している。

「無駄」って本当にダメなことなのだろうか。

無駄の対極には合理主義があって、同じ意味で合理って本当にいいのか?と考える。

言葉の上では合理とは理に適っているという意味だけれど、現代の意味はどうも違う。

目先のことだけに囚われている合理だ。

長期的な視野という「まなざしのデザイン」で考えれば今の合理はかなり不合理なはずだ。

ある危険遊具を販売している会社があって・・・。

続く




posted by 変才冨田 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題4

戦争中に「学徒動員」というのがありました。

全ての学生が兵士として動員されたのです。

神宮外苑に大勢の都内の学生が集結させられた壮行会が催されました。

たまたまその日は雨でした。

銃を肩に担いだ学生たちが雨中を行進しました。

カメラの眼はは学生たちのその足元の水たまりに移動します。

泥の中の行進です。

彼ら学生のこれからの運命を象徴するシーンでした。

勇壮であるべき壮行会を悲しみの雰囲気に変えてしまったのです。

これが「まなざしのデザイン」ですね。

声高に反戦を唱えられなくとも抗議はできるのです。

芸術はいのちの底からの奔騰する生命エネルギーから生まれたものであるゆえに

芸術の使命の一つに「いのちの軽視や損なうものへの抗議性」が含まれなければならないと考えています。






posted by 変才冨田 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題3

「思い込み」には生きるに都合がよいものと不都合なものの二種類があります。

「まなざしのデザイン」が必要になるときというのは「生きるに不都合な思い込み」をもっている時ですね。

ただ、なにが都合が良いか良くないかは、それこそまなざしの視点の広さや高さで判定されますから難しいものです。

たとえば

戦争中にの日本では戦争に順応することは「生きるに都合がよかった」ことはいくらでもあるでしょう。

平和主義者や戦争反対の態度を持ち続けた人に対して「非国民」とののしることは「その時点では生きるに都合がよかった」のではないでしょうか。

時代に流されることはエゴギョウでいう「水性」にとっては好都合なのですが、結果は多くの人が戦争で苦しみました。

では戦争の予兆ある戦前や戦時中に「まなざしのデザイン」をするということはどうだたのでしょう。

これは「聖戦である」という思い込みの世間の風潮に抵抗する「まなざしのデザイン」は可能であったのでしょうか。

当時はささやかな抵抗として言葉を必要としない芸術においてあったと聞きますが、いったん言葉で「戦争反対」を唱えるとたちまち牢獄生活が待っていたのでしょう。

そうなっては遅いので今こそ「まなざしのデザイン」が必要です。

わたしが考えるのは「戦争」や「兵器・武器」というものををどうわかりやすく「まなざしのデザイン化」できるだろうかということです。

芸術とは多数の人が幸せに生きることに寄与するものであろうと考えています。

生活を快適にするためにひときわ大きな視野をもたせる契機となるものが芸術に求められていると考えます。











posted by 変才冨田 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題2

観方というものは考え方で左右されるわけです。

考え方と一口で言っても大きくは潜在的にあって普段は自覚されないものと意識化されているものがあるようです。

前者は非言語的なイメージ、後者は言語化されています。


前者はとくにやっかいですね。

言語で潜在意識を説得にかかっても抵抗します。

思い込みとは前頭葉の意識をパスして自動的に作動するシステムですから

これも潜在意識の範囲に入るものと思われます。

この思い込みを外したときこそがハナムラ先生のいう「まなざしのデザイン」をしたときなのではないでしょうか。


posted by 変才冨田 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月22日

東京セミナー終了 悩みの解消法

今回もツンツンセラピーは大受けでしたね。

痛みが即座に快適へ変化するという現象を体感していただきました。

幸せの母体は苦であるとも言えるのです。

痛いのにさらに汗が出るほどの痛みを貰うと忽ち天国でしたね。

これは悩みの解消法のヒントなんです。

その悩みの根っこを探るとさらに深い悩みが掘り起こされますが、あら不思議なことにさっきまでの悩みが消失しますね。

掘り起こされたなやみはさらに深刻なのですが、
不思議なことに爽快な悩みに変化しているのです。

この辺りは夜学で深く悩みましょうょ。
posted by 変才冨田 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

未来に隠されたプレゼント

IMG_0258[1].JPG
寄らば大樹の陰か。ぬくぬくした環境だったのか。
それにしてもゴツゴツした幹からこんなにも可憐な花が生まれるのかと、感嘆です。

木枯らしの吹く季節に、幹の内部のどこに用意してあったのか・・・。
それは何処にあったのか
それは何処にあったのか・・・

それは、未来という今日に用意されていたのです

今はなにも見えないけれど
未来にはきっとあなたの為に、なにかが用意されているのです。
posted by 変才冨田 at 18:12| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

怒りを昇華

コメントがありました

『財産を残すことの意味』に触発されての投稿です・・・先生の言の波に触れ、キーを叩いた次第です。

『身体は天からの預かりもの』ということですね。借りた者は返すということ、然りとおもいます。そこから浮かんできたもの(アイデア)があります。返すということは、本の元に還(かえ)すことで、それ自体が循環させる行為・・ということだと思います。
 返さないで一人抱えているということは、宇宙(あらゆる生命)の健全な循環機能がゆがめられている(循環不全)、ということではないでしょうか。

 預かり物の中には善い物も悪い物もあるでしょう。それらを還す時に、キレイにしてお還しするということです。悪い物(汚れた物)はキレイにして還すのは当然ですが、それでは善い物はどうでしょう・・。実は善い物にも魔(汚れ)が潜んでいます。悪い物の中には悪魔が、善い物には善魔があるようです。どちらにしろ預かったもの、使ったものはキレイにして還す作法が必要に思えます。

私からのコメント
「善魔」ですか・・・、なるほどありそうですね。
いやいや、悪魔よりタチが悪いかもしれませんね。

「これは善いことだ」という思い込んで他者に押し付けたりしますからネ。
軽快を要するのは「正義」という名の善魔ですね。



捨てるという行為はその辺が欠けているように思えます。『断捨離』の捨の部分はその辺どうなんでしょか・・。汚れた物(苦悩)も預かりものです。キレイにして還しましょう。その作法はその人の生き方に係っているようです。生き方の問題です。先生の言われるように美しく生きるというのが、キレイにして還す行為でもあるのですね・・。

生き方のヘタ?な人は自分の怒りを捨てているに過ぎないのでは・・、怒りも預かりものならキレイにして還した方がいいように思いますが・・。身体的なものや、生き方のご指導を今後とも先生の言の波に乗せてお届けください。 拝

私からのコメント
汚れた怒りは私に由来する利己による怒りではないかと思います。
それを私憤というのでしょうね。

美しい怒りも存在するように思えます。
いわれなき差別や戦争など生命に対する冒涜に対して抗議する怒りは
公憤というのでしょう。

前者の怒りは血圧が上がりアドレナリンが分泌され自身を傷めます。
後者は冷静なので健康な怒りです。

私憤を捨てて公憤に進化させることが求められています。

この場合は捨てるのではなく抹消するということでしょうか。

これをエゴギョウから観ると・・・。

怒りは金性の間違った認識からの怒りが木性を傷害させ「肝を破った」結果としての怒りです。

その怒りのエネルギーは火性に達して血行障害に至るでしょう

木性の冷静な認識という知恵があれば金性の思い込みを修正してくれます。

美しい生き方というのはこの木性の冷静さが必要で、この冷静はやがて高い霊性に進化させてくれると思います。
posted by 変才冨田 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月16日

自己中心主義に生きる10 「随所作主 立処皆真」の本当の意味5 食べる意味

玄米ライフはあなたの健康をサポートしますが、食べるのはあなた自身です。
より効果を高めるために

最初の一口だけは100回噛むようにして習慣化しましょう。
口から胃までの間でトラブルが起きるのは「歯」「と「唾液」が関わってきます。ほとんどはそれが原因です。

噛み合わせや歯抜けは多くの問題を出します。噛み合わせや歯槽膿漏からの歯の弱りは現状仕方ない状況の方は唾液をしっかり出すことでカバーできます。唾液には菌を抑制する力があります。

口呼吸に陥ると口に雑菌が入ると同時に唾液の作用までが失われます。歯槽膿漏がこれだけ増加しているのは口呼吸の増加に連動しているのです。これが原因で喉に炎症が起きると免疫系の興奮から免疫系疾患の膠原病やアトピー、咽頭がん、喉頭がんの遠因をつくることになります。

唾液は胃の粘膜にフィットして粘膜を潤して強化します。胃がんの方でも150回噛めば痛みはなくなります。
唾液が食べ物を完全に包み込み胃粘膜に刺激を与えなくなったからです。その結果、出血が原因の黒便も一週間で消失しました。

唾液には生理活性物質が多く含まれており、それ自体が薬です。
それはあなたにとって最高の薬なのです。
しかもタダ!

ロダンカリという物質は胃を引き締めて胃下垂を治してくれます。
パロチンは美肌成分が多くて若返りのホルモンです。

そして唾液の元は血液なのですから、唾液をたくさん出すというのは口中に出血しているわけです。
出血すれば血管に隙間ができて、その隙間に向けて血行が回復します。首から上の血行が良くなるので、肌にも脳にも効きます。外界にある食べものは全て毒だからです。その毒を自己化するには多量の自己そのものである血液で練りこまねばならないのです。

最初に唾液を多量に出しておけば、それが消化器への信号となって活発に分泌します。
唾液も消化液も血液が変化したもので、再吸収されて再び新鮮な血液になります。
唾液を含む消化液の総量は7リットルに及びます。
食べた総量の7倍近くも分泌しているのです。

なぜかくも分泌液を出さねばならないのかを考えると生理的なだけでなく「生きる」という意味にも気づかせてくれます。

食べ物とは、そのままでは「毒」なのです。その「毒」を自己そのものにするには、自己そのものである血液が変化した唾液や消化液で練りこまねば自己に変化させられないのです。少ししか噛まない人は食べ物は弱い毒性を発揮するでしょうし、もう少し噛む人は微弱な毒性にできるでしょう。

世間に「デトックス」という言葉がありますが
デトックスせねばならない人は噛んでいない人なのです。

かくも身体という自然は「いのちを守るために」食べ物に対して全力で対応しているのです。
「随所作主 立処皆真」という言葉を噛みしめる必要があります。
いついかなる時でも場所でも主体性を発揮してあたれば、どんなつまらない些細と思えるようなことでも真実が立ち現われてくる、という意味でしょう。

食べるということにも全力で当たれ!
他者に対しても正面から向き合え!
全ての対象に対してもおろそかに扱うな!

最初の一口を100回噛むことは随所作主の心です。
最初に唾液を多量に出すことで、それが信号となって消化液も多量に分泌されます。

唾液は口中への出血をすることで首から上の血行を回復させ、消化器は多量の消化液という出血で消化器の組織も血行が回復します。

全ての疾患の遠因は血行不良ですから、よく噛むことが健康への道筋にのる条件なのです。決して玄米さえ食べればいいということではないのです。

よく噛むことは神業になります。
アイヌ語にカムイがあります。これは神居と書きます。神が居る場所とは口の中であると読みます。神は「噛み」に通じて、死んだ食べ物を再びあなたの生命に甦らせます。

死物を生き返らせるのですから、これは奇跡で神業です。

神業を実効する場所、それはあなたの口の中。

口の中で食べ物を噛みしめることは食べ物との対話なのです。
食べ物との全力でのコミュニュケーションです。それがあなたのいのちを未来へつなげてゆくのです。

なにかご質問などがあればブログ「あすなろ日記」にコメントでいただければ多くの人に役立ちます。
今後はメールでもラインでもご注文できます。
tetu.tomita@gmail.com
ラインはhiruandnで見つけてください。
ファックスは050−1193−9391
posted by 変才冨田 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする