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2015年10月21日

お金の話は定番にしたいくらいの内容があります。

命とお金を量りにかけて、

さて、

みなさんの頭の中ではどうなっているでしょうか?

@命<お金  A命=お金  B命>お金

何番ですか?

このあたりから明日の夜学が始まります。

posted by 変才冨田 at 20:13| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

利己主義の健康法

自分さえ良ければOK。

これを利己主義の健康法といいます。

言い換えれば「不健康法」ということです。

「わたしはコレ飲んでいるからお酒飲んでいても大丈夫なの!」

サプリメントの問題点はこれです。

サプリメントはそれに依存させて、今の生活習慣を変えられない害があるのです。

日頃の食べ物はめちゃくちゃでも高いお金を払ってサプリメントをせっせと飲んでいます。

めちゃくちゃ維持したいためにサプリを摂取しているのです。

お金に依存したやり方は、健康をお金に依存させていることだし、

それはいのちをお金に依存させているということです。

同時にそれはお金が無い人はできないことです。

お金で健康を買えると思っている人は、お金の無い人がそうできないことをどう考えているのでしょう。

何も視界には入っていないでしょう。

こういう健康法を利己主義の健康法といいます。

炭水化物を摂取しないでタンパク質と脂肪の多い食事法を推奨している人がいます。

そういう食事ができるのもお金がある人だけです。

みんながそれをするということはみんなアメリカ人と同じ高エネルギーを使用するということになります。地

地球環境はエネルギーの使い過ぎで、このままでは持続できないと予想されているのに平気でこうした食事法が提案されます。

これも自分さえ良ければという利己主義の健康法です。

みんなで共に健康になる方法こそが全てを矛盾なく進行させることになります。

多くの人ができる、これがキーワードです。

やった結果が多くの人に波及する健康法、これが7号食であり玄米菜食法です。

それは誰にでもできるからです。


posted by 変才冨田 at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

医学の思想と科学について

私は2007年に慢性腎不全と診断され、以来2ヶ月に1度の定期検診(尿・血液検査)を受けてきました。幸いこれまで大きな変化はなく過ごしてきました。先月の検査でクレアチニンの数値が上がり、また体重も2、3ヶ月で5キロほど増えていたこともあり、かかりつけの腎臓病専門医師から「次の検査までにこのままだと薬の治療も必要になってくる」といわれました(ご存知の通り、腎臓病はほとんど自覚症状がないまま進行し、悪化すると人工透析治療に至ることもあります)。自分で思い当たるとしたら、仕事での昼食を外食にしていること、仕事上のストレス、運動不足などが原因ではとみています。

ここはひとつ食事療法で抜本的に体質を改善していこうと思い、友人知人などに助言を請い、その中から2つを採用することにしました。1つが冨田式7号食です。もう一つが、同じく腎臓病を患い、徹底した減塩食を新食品成分表に基づきデータを自己管理しながら行い、それを定期的に医師に報告、医師からフィードバックを受けるということを2年間続け、見事体質を改善させたという方の経験談でした。まずは前者でデトックスを行い、その後後者を参考に腎臓病に対しての食事療法をしてみようと思いました。



冨田式7号食はWebから情報を得、食材を揃え、実行しました。合計16日を終え、体重は2キロ減り(直前に既に3キロ減っていました。これは仕事のストレスによるものと思われます)自覚としても体がスッキリした感じがしました。一方で、エネルギー(カロリー)不足からか、多少快活さが減退するような感じも。炊飯器の玄米モードで炊いたためか、美味しい玄米に比べたらイマイチでしたが、なんとか最後まで継続することができました。



これが終わり、食事療法について医師に相談したところ、食事療法については詳しくないので大学病院を紹介するといわれ、数日前に医大へ行き、管理栄養士の指導を受けてきました。



実はかなり以前栄養指導は一度受けたことがあります。その時は概要を説明されただけで、結局実践せずに終わってしまいました。今回もそうなることを危惧し、どうやったら学ぶだけで終わらず実践できるか、その具体的な方法と継続的なフィードバックを求めたかったのです。

しかしながら、今回の栄養指導も概要の説明を一方的にするだけで約束の30分を駆け足で終わらせられてしまいました。話を切り上げようとするのを止めて、こちらの意向を伝えましたが、「食品成分表を使って最初からやるのはハードルが高い」といって軽く却下されました。

自分としては、そのやり方にこだわるつもりはないが、意志のみに頼るのでなく取り組める方法と継続的なフィードバックにつきあってもらえるパートナーシップを求めたのですが、その意向は残念ながら伝わりませんでした。



前置きが長くなりましたが、アドバイスをいただきたく疑問に思っていることは、

玄米食的な「思想」と、「科学的な」栄養指導による腎臓病対応の食事療法の矛盾についてです。

玄米食は全体的な体質改善に効果があるものだと認識しています。一方、腎臓病に対する食事療法としては、たんぱく質と塩の制限をした上でそれを補いつつバランスのよい食事をとり目標カロリーを維持するというものです。


回答
先ずはその管理栄養士さんは玄米を知っていないのでしょう。
「玄米が栄養が多いために白米に比べカロリー値が高い」とおっしゃったのは意味不明です。
実際はほとんどカロリーは変わりません。

そのカロリーをしっかり燃焼してエネルギーを引き出すのは胚芽部分の豊富なビタミンやミネラルです。
白米食だけではエネルギーとして引き出せないので代謝異常から脚気になったりもします。

ですから、そもそもが誤認なのでこれについては回答しません。

さて、以下の質問についてです。
「玄米食的な「思想」と、「科学的な」栄養指導による腎臓病対応の食事療法の矛盾についてです。玄米食は全体的な体質改善に効果があるものだと認識しています。一方、腎臓病に対する食事療法としては、たんぱく質と塩の制限をした上でそれを補いつつバランスのよい食事をとり目標カロリーを維持するというものです。」

あなたがおっしゃるように「玄米食は全体的な体質改善に効果があるものだと認識しています」ということは間違いないですね。

私の考え方は
「全体は部分をコントロールする」ということです。

ですから、全体を強化することが腎臓病に大きな影響を与えると考えます。

身体は究極の民主主義で運行していますので、同時に改善をはかる必要があるのです。

腎臓だけが病気で他は大丈夫だとは考えないのです。

そのあたりが「玄米食の思想」ということですね。

科学は哲学によって支えられるものである。そういう意味で玄米食の思想は科学を支えるための土台だと思っています。

その哲学思想から導き出される方法論は運用できる現実的な科学であるということです。

玄米思想、これと(東洋医学は哲学に支えられています)科学は矛盾したものではないのです。

質問
一方、腎臓病に対する食事療法としては、たんぱく質と塩の制限をした上でそれを補いつつバランスのよい食事をとり目標カロリーを維持するというものです。

玄米食オンリーだとそのバランスが気になります。また、たんぱく質はとり過ぎてはいけないが重要なエネルギー源なので、炭水化物と共にほどよくとることと指導されます。その考えから、砂糖やマーガリンといった、東洋思想的な自然食の考えからすれば問題ありの要素を推奨したりします。

回答
タンパク質に関してはこれも白米と玄米はほぼ変わりはないです。
ですから玄米だからといって差し障りはないですね。

その栄養士さんは一言でいえば「自分が玄米が嫌いなだけ」なのではないでしょうか。

砂糖は空っぽの栄養素でかえって代謝異常を起こします。
カロリーだけを取り上げて判断するのは危険です。

マーガリンを勧められたというのも???
よほど勉強が足りない栄養士さんなのではないでしょうか。


最後に
若年性糖尿病で若いうちに失明し透析に至った女性の食養を十数年してきました。

彼女は顔色もほかの透析患者のように黒くなく、透析後に最初はすごい冷や寝込むという状態でしたが

玄米食とほぼ動物性を控えた食事で十数年元気に過ごしていました。

途中で結婚されてご主人に腎臓をいただきさらに元気です。

腎臓移植の際もご主人より先に退院しています。


腎臓病の食養は難しいですが可能です。

思い出しましたが

5歳の子供の末期がんを相談されたことがあります。
玄米を食べて末期がんは完全治癒したのですが、生まれつきの腎臓病でもあったのです。

医師には一生腎臓病の通院が必要と言われていたようですが、それも勝手に治っていました。

食養法も独学してください。

また、セミナーにもご出席されてご参考にしてください。









posted by 変才冨田 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月19日

食で人は成立する。

いつもお世話になってます。

嬉しいコメント頂きました。

明日のエゴギョウの東京セミナーに父・母と3人で参加させて頂きます。

父は長い間躁鬱病で苦しんでおり、昨年くらいはほぼアルコールでしか栄養をとれず、いつ死んでもおかしくない状態でした。

しかし、7号食セミナーに参加させて頂き、玄米甘酒を少しずつ飲ませたところ、少しずつ食欲と元気が湧きました。 体調を気にするようになり、病院嫌いだった父が自発的に検査を受けるようになりました。

そんな姿を目の当たりにして、人は食べ物からできていることを実感し、食の大切さがわかりました。

元気になったら夫婦喧嘩が多少多くなってきたようですので、明日のセミナーでエゴギョウを学び、家族のコミュニケーションに活かしたいと思います。 楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。

終了
そうですか。良かったですね。

先ずは玄米甘酒から始めれば良いよと言いましたね。覚えていますよ。

今日の話も役立つと思います。

10月の4日も東京で7号食と姿勢の話です
姿勢が変わると歩きが変わり、歩くと心身のエネルギー代謝がダイナミックに変化して、心に大きな影響をもたらします。
posted by 変才冨田 at 08:51| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

当たり前で無い考え方がトラブルを招く2

実は、あたり前ということが難しいですね。

「あたり前」が分からないので苦しむわけです。

健康生活の「あたり前」はまだわかりやすいですね。

夜更かしや過度な飲酒、ごはんを食べないなどは「あたり前」でないことはわかりますよね。

もっとも健康法ということになると原理原則を知らないと迷わされることも多くなります。

人を殺してはいけない。

これって「あたり前」ですよね。

けれど戦争になって眼の前に相手国の兵士がいたら殺すのは「あたり前」です。

兵士だけでなく一般市民だって殺害の対象になります。

無差別テロに対して非難をするのは「あたり前」ですが

アメリカも日本もかつての大戦では無差別テロをやっていました。

「あたり前」というのはその時の国の在り方でクルクル変わります。

そういう経験からクルクル変わらない基準が必要になって日本では世界に類例のない「平和憲法」をつくりました。

この憲法を基準にして、つまりこの憲法の考え方を「あたり前」として生活の土台としたのです。

安倍さんはアメリカにとっての「あたり前」を日本に適用しようとして憲法を蹂躙しています。


さて、「あたり前」をどう考えるか?

ここでは部分と全体の関係を考えねば分からなくなりそうです。

例えば「世間」というもの。これは個々人を取り巻く全体です。

この「世間の流れて行く方向性」というものが「あたり前」ということになりそうです。

その方向性と逆の方へ行くと「あたり前でない奴」ということになります。

みんなと同じことをしないのは「あたり前」でないので摩擦を生みます。

戦前の日本で戦争反対を言うのは大きな摩擦となり「非国民」と糾弾されて牢獄行でした。

安倍さんは「僕のあたり前」を「これから日本のあたり前」にしようと頑張っています。

安倍さんの「あたり前」とは「アメリカ支配層のあたり前」と重なっています。

アメリカの戦争に日本が参加するのはあたり前なのですね。

これからの一週間は日本の歴史が大きく変わる運命の一週間になります。

国のために戦争に行くのはあたり前となるのか

人殺しをしないのはあたり前がこれからも通用するのか

分岐点です。

IMG_0936[1].JPG
この「戦争アカン」の運動はあたり前だと思うのです。











posted by 変才冨田 at 00:33| Comment(4) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

引き寄せの法則 本当の意味2 旅に出る、というメイン・テーマがあってこそ起きる引き寄せ

以前に書いた記事を再揚してさらに続きを書きます。


これは少しも不思議なことではない。

それどころかあまりに当たり前な7ことです。

実は、これは引き寄せられの法則でもあるのです。

ある一点に神経を研いでいれば一瞬のチャンスで心身が動く。

意識がソレにとんがっていなければチャンスが来てもそれを察知しない。

いつもソノことを考え続けていれば、ソレはふっと目の前に現れる。

即座にあなたの腕は動きソレを手にするだろう。

後になって考えればソレは偶然やってきたもののように感じられる。

けれどそれは引き寄せたわけでなく、そう感じてしまうものだのだ。

偶然というものはないのだ。

神経を研ぎ澄ましているから目の前にソレは必ず現れる。

眼を開けていても眠っている人は大勢いる。

観察とは単に眺めているわけでなく、ソレのことをいつも考えているので

チャンスの尾っぽでも影でも判るのだ。

匂うから掴んでみたら、その先にソレがひっかかっているのを見つけるのだ。

観察とは全神経をソレに注いでいることなのだ。

チャンスは常に人が運んでくる。

人を認めていない人(認証できない人のこと)には引き寄せの法則は働かないようになっているのだ。

人を大切にしよう。

自分がその人にどんなチャンスを与えることができるのか考えてみよう。

それこそが自己を認証する手段なのだから。

自分が他者になにをプレゼント出来るのかを考えることが自己認証といえる。

(ここから続き)

偶然必要な情報やモノがやってくるわけでなく、それはいわばいつも前を通り過ぎている。

神経が鈍いので単にソレが見えていないだけなのだ。

神経を研ぎ澄ませたときソレは見えてくる。

ソレについて考え続けているという準備が引き寄せをつくるわけだ。

引き寄せる前にソレに意識を引き寄せておく必要があるのだ。

つまり、「一所懸命」という心の状態が引き寄せを起こす前提になっているのだ。

これを成就させるには絶え間ないソレへの意識化が必要で、

意識化するには「定まった視点での観察」が必要になる。

定まった視点とはその人の生きる方向性ということだ。

つまり、ここで何度も述べてきたことですが

散歩状態では意識化がないので目の前の事象は単に通り過ぎているだけになっている。

あなたが「旅に出る」というメイン・テーマこそが必要ということです。

メイン・テーマに沿った引き寄せが起きてくるようにしかなっていない。






posted by 変才冨田 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

セバスチャン・サルガドの映画を観てきました。

世界的な報道写真家であり、同時に故郷の荒れ果てて砂地になってしまったところを森に再生したことでも有名です。

世界中の少数民族に密着して数年取り続け、最後には難民キャンプや紛争地での報道も多数あります。

その経験は「人間にはだれでも残酷性がある」と思い知らされ

おそらく人間にあいそをつかし絶望して、次には自然を摂る方向に向きを変えました。

人が無意味に死ぬ様を見せつけられ魂を病みましたが自然が癒してくれたようです。

映画で一枚一枚見せられる極限下での人間の有様の記録は強烈です。

彼がなにを見ようとしていたかその眼差しには底なしの土性が感じられます。

「カメラを置いては泣いていた」と言うのです。

その悲しみは「自分ではどうしようもない」と見えたときにしか生まれない悲しみです。

映画を観終わってつくづく考えたことは

難民キャンプや紛争地というのは本質的には世界の最終的な排水溝だとうことです。

きれいな水は上流の人たちが使って徐々に水は汚れて、最後は難民キャンプであり、人々の非業の死のあるところが排水溝ということです。

そういう人々が不幸な分だけ上流の人々は幸福です。


文化とは生活の過剰から生まれる」といいます。

生活の過剰がありあまった人々のことを高等遊民というわけですが

一方ではこうした人々が文化を創造したわけです。

古代ギリシアの市民文化を背後で支えていたものは圧倒程な数の奴隷でした。

明治、大正の文化は小作農の貧困が支えていました。

わたしたちのどうでもよいような贅沢は誰が支えているのか。

その世界的な規模での貧富の総決算が汚水まみれの排水溝をつくってしまいます。

炭水化物を制限するような食事法はお金が無いとできない健康法です。

いや、健康法というよりそれはマクロな視点から見ればグロテスクな文化になっています。

posted by 変才冨田 at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月01日

全体性が部分を決める 2

先生、今回のブログはあらためてじぶんの軸を見つめ直すきっかけになりました。意味深い詩ですね。 見つけたら逃げなきゃと思ってた蜂が愛おしくさえ感じます 記事をシェアさせていただいてよいでしょうか。

コメント
大いにシェアしてください。

全体性と部分性の関係は深くて広いですね。
何十年もそれを模索し続けてきました。
わたしの人生上の、というより大きな哲学的課題です。

身体的にも、一つの症状は全体性からの表現だと考えてきました。

それを放置しておくと部分的な歪みがさらなる全体的歪みに発展します。

それはまさに身体全体と局部が弁証法的な対話をしていると思うのです。
その対話が建設的になるように、意識でもって食を正しく選び、正しく食べることで応援できます。

一個の人生においても同じですよね。

社会に包まれている部分が個人ですから、常に社会的思考を基盤にしたいと考えています。

ついでに元の文章を再揚しておきます。


全体としての構成をおよそ決めておかないと小説も脚本も書けないでしょう。

決めておかないと部分の流れがチグハグになってしまいます。

生命のプロセスも全体的なビジョンが先にあって部分的な進行が決められている。

ライオンの受精卵がライオンになるというビジョンに従って細部が決められて進行していく。

どこかが早くなっても遅くなってもいけない。

そこが乱れることをチグハグというわけです。


人生においても同じです。

ビジョンがない人生は部分的なところで散文状態になっており風に世間に流される。

メイン・テーマとは全体性であり、そこから戦略が生まれる。

戦略なき戦術は敗れるとは昔から言われてきたとおりである。

健康面も全く同じです。

健康に戦略的な観方がないとその時々でクルクルと健康法が軸無しでぶれてくる。


全体と部分を詩う金子みすず

読者から素敵な詩をいただきました。

富田さんのセミナーでお話を聞いていて、わたしの頭の中に浮かんでいた詩があります。

金子みすずさんの、私の大好きな詩の一つです。


「蜂と神様」

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は日本の中に

日本は世界の中に

世界は神様の中に

そうして、そうして神様は

小ちゃな蜂の中に


終わり


いい詩ですね。

部分と思えるものをさらに拡大して

極限まで拡大して、一気に極小の世界へ飛躍させます。

感動する詩とは、世界の真実を語っているのですね。




posted by 変才冨田 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月28日

全体性が部分を決める

全体としての構成をおよそ決めておかないと小説も脚本も書けないでしょう。

決めておかないと部分の流れがチグハグになってしまいます。

生命のプロセスも全体的なビジョンが先にあって部分的な進行が決められている。

ライオンの受精卵がライオンになるというビジョンに従って細部が決められて進行していく。

どこかが早くなっても遅くなってもいけない。

そこが乱れることをチグハグというわけです。


人生においても同じです。

ビジョンがない人生は部分的なところで散文状態になっており風に世間に流される。

メイン・テーマとは全体性であり、そこから戦略が生まれる。

戦略なき戦術は敗れるとは昔から言われてきたとおりである。

健康面も全く同じです。

健康に戦略的な観方がないとその時々でクルクルと健康法が軸無しでぶれてくる。


全体と部分を詩う金子みすず

読者から素敵な詩をいただきました。

富田さんのセミナーでお話を聞いていて、わたしの頭の中に浮かんでいた詩があります。

金子みすずさんの、私の大好きな詩の一つです。


「蜂と神様」

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は日本の中に

日本は世界の中に

世界は神様の中に

そうして、そうして神様は

小ちゃな蜂の中に


終わり


いい詩ですね。

部分と思えるものをさらに拡大して

極限まで拡大して、一気に極小の世界へ飛躍させます。

感動する詩とは、世界の真実を語っているのですね。










posted by 変才冨田 at 22:20| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月10日

戦争に行きたくない、というのは利己主義の極みだ

SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしているが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己主義的考え方に基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。
自民党の武藤貴也衆院議員の発言

いやー、武藤先生。あなたは偉い!
お仲間の谷垣幹事長は「舌足らずな発言だ」と言ったそうですが、なんのなんの良く舌が回っています。

きっとあなたが所属する日本会議の皆さんも会合では勇ましい発言が飛び出しているのでしょうね。

そうそう、あなたが所属する別な団体でも「マスコミを懲らしめてやらねば」という正義感あふれる発言をした人もいたのでした。

それはそうとあなたも戦後教育を受けてきたのですよね。
どうやってその利己主義を蔓延させるような教育の被害を受けずにすんだのでしょうか。

そして戦前の教育をどうやって身に着けたのでしょうか?

どなたの薫陶を受けたのでしょうか。とても気になるところです。

思うにあなたはとっても素直な人のように思えます。

いやらしい「腹芸」など一切せず単細胞的思考の真髄をきわめていらっしゃるようでとてもうらやましいです。
普通なら思っていても言えないようなことをスンナリ言えるのは、きっとあなたの村人も理解者ばかりなのでしょうねえ。

「戦争なんか行きたくない」人たちを利己主義の極みだというのですから
一旦事あらば真っ先に戦場にかけつけたいのでしょうねえ。勇ましいことです。

待望の「アカガミ」を待たずきっと志願されることと思います。

あなたの好きな言葉に「滅私奉公」があるようですが、滅私奉公した人たちの60%が戦闘で死なずに餓死したという統計があります。

今のうちに宴会会議で気勢をあげてよく飲み食いしておいてください。

「戦争に行きたくない」というのは非常に素直で真っ当な心情だと思うのですが
戦後教育は素直で真っ当な考えを表明できるように保障したのです。

あなたも素直に表明されているので、これは戦後教育の成果なんですよねえ。

エゴギョウ診断
火性 20点  土性20点(そばに居る人たちだけに向けられている)見えない人たちには0点

金性 30点(満点を突き抜けています)素晴らしい単純思考でレッテル貼りに卓越されています。
思い込み度数もとびぬけています。
水性0点 「今どういうときか考えろよ」と安倍さんはきっとひやひやしているかも。
木性 3点 ○×式の戦後教育の成果を体現されています。





posted by 変才冨田 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月07日

観察の瞑想法 ヴィッパサナー瞑想

現在スタッフの小野がヴィッパサナー瞑想に出ております。

10日間の修行で本日が二日目ですね。

この道場は世界各地にあり、日本には千葉と京都にあります。

毎月開催されており、毎回50人が参加しますが

その割にはずっと静寂になっています。

そのはずで、誰とも話してはいけない。

アイ・コンタクトさえしてはいけないのです。

50人いても独りなのです。

この瞑想は「自己の「今」の心身観察」に終始します。

身体が痒ければその痒さを、痛ければその痛みを

今まさに味わうという瞑想法です。

わたしが良く言っている

「今まさに食べているものの感触や味を味わい尽くす」

と同じですね。

これもヴィッパサナー瞑想化もしえませんね。

posted by 変才冨田 at 09:35| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月05日

ホムンクルス人形から思うこと2

エンゲルスの古典的名著に「猿が人間になるにあたっての労働の役割」というものがある。

この人形の巨大な手を見たときエンゲルスは正しかったと思う。

手を使うことで脳の容積を増やしシナプスの絡みを強化したのだ。

いや、手は自分自身がより精妙に動くために脳をつくったのだろう。

手によって強化された脳は夢想や想像ができるようになった。

手と脳との間での対話がお互いを進化させたといえる。

脳が描いたイメージを実現するために、さらに手は微細な動きを実現しようとした。

手が微細な動きができるように脳も微細な観察ができるようになった。

そうやって脳と手はそれこそ「手を取り合って」発達してきた。

では、なぜ手と脳は進化したのか?

それは食べ物への飽くなき欲望だった。

より確実にエサを手に入れるために舌を延ばし、それでも足りなくなったので

手が舌の替わりをするようになった。

枝を掴むだけの手の機能を拡大するために樹上から草場に降り立った。

自由になった手は多くの仕事ができるよういなった。

なかでも

自然界に存在するモノを道具として利用し

画期的な事件は

道具を自製つくったことなのだが、道具をつくるための道具をつくるに及んで

決定的に進化の方向が定まった。

道具をつくるための道具の製造はまさに労働である。

それは脳のイメージなくしては作れない。

やがてはイメージは言語化するに及んで社会を創造した。

労働が手をつくり脳の発達を促し、

結果として他者の脳との結びつきを強め(脳の外で起きた、他の脳とのシナプス結合は言語は起こした)

社会を創造するに至った。

手は偉大である。








posted by 変才冨田 at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月18日

セミナーの目的

いよいよ、横浜、東京セミナーが迫ってきました。

なぜ、わたしがこのようなセミナーをしているのかを改めて書き記します。

1 多くの人は食についての教育を受けていない。

食と命の関係など食に哲学的視点が欠けていること。

2 一般的に身体的な問題と人生の問題を分離する思考があること。

3 食が大切と言うものの本気でそれを信じていない。

健康問題と食は無関係と心の底では思っている。

4 身体的歪みを人生の問題と受け止めていない。

5 食と社会的問題がつながっていない。

このあたりを啓蒙することがわたしがセミナーをする目的です。



横浜 夜学 7月24日


「初めての人のためのエゴギョウ講座」


エゴギョウは非常に深くて広い心の改善ツールであり、思考ツールとしても優れています。

簡易版の50問の質問に回答すると東洋哲学の五行の形に変換されることで、あなたの心の癖が一望できるのです。

心の癖とはOS(オートメーションシステム)であり無意識の領域でもあるのです。

あなたがそこでなぜそう感じたのか、なぜそう考えたのか?

そうした「心の秘密」ともいえるあなたの無意識の領域がどのように形成されたのか?そうした問題も探究できるのです。



さらに、エゴギョウでは「観察」を重視しており、観察することが対人関係のみでなく自己との適切なコミュニュケーション能力につながると考えています。

では、観察するとはどうするのか?

他者を正確に観察する技法があって、その観察する技法がそのまま他者を認証する力に及びます。



今回は入門編ですが徐々に初級、中級と理解を深めていただけるようにセミナーを組んでいきます。



24日 横浜夜学 
場所 かながわ県民センター1501号室

時間 18時開場 
18時 計測開始 計測は詳細な血管年齢測定 
18時30分 講習開始
内容 「エゴギョウ入門」 参加費 2000円


参加お申し込みは  tetu.tomita@gmail.com まで<お問い合わせ先>
電話 050−1193−9391 メールはtetu.tomita@gmail.com



7月26日 東京定番セミナー


場所 蔵前「結わえる」


開場  9時30分

開始 10時    7号食講習「食と心身の仕組みを考える」
「初めての人のためのセミナー」

@第一部 七号食講習 16日で3s〜5kgは本当です
    食の考え方講習 

 *誰も教えてくれなかった食の哲学 食・生理・心身・疾病・環境は一本の筋

   13時30分 エゴギョウ中級講座 さらにエゴギョウを研究

          世界の見方で変わる生き方」

終了 17時


posted by 変才冨田 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月10日

身体と意識 5 身体感覚を失った意識はどうなるのか?

身体感覚を土台として意識は、その感覚がもたらす方向性で思惟しようとする。

それが正常だと思うのです。

身体からくる感覚を無視したり、あるいは希薄に感じるようになったら問題です。

糸を離されたタコは漂うばかりになるでしょう。

身体に自分の糸を離せという意識が傲慢というものでしょう。

身体感覚を失った意識は力が失せます。

力強く生きることを課題にするには身体感覚を養うということが必要です。

身体感覚とは「今、この瞬間の感覚」ですから、

課題は「今を生きる」に集約されてきます。


身体感覚とはどうしたものか?

それは中心感覚だと思われます。

ですからわたしはいつも「身体に中心軸を形成しよう」と提案しています。

それが重心調整用インソール「姿美人」や「中心軸できた輪」をお勧めしている理由なのです。

中心感覚は観念的なものではなく、今ただちに感じられます。

下腹部に力が入りドッシリと地に足を着けた感覚として感じられます。

大地を掴んでいる感覚がよみがえってきます。

それは「楽に歩ける」という感覚を今すぐにもたらしてくれます。

その感覚が「驚いた」という表情になるのです。

そその驚きの感覚はあまりにも不思議なので困惑する人は私を疑ってきます。

こういう反応の人々をわたしは「意識優越で生きている」というのです。

身体より意識を優位にする生き方をしてきた人々です。

そういう人々は自然という身体に今起きた現象を疑うわけです。

「先生、さっきより力をゆるめていませんか?」という言葉になるのです。

あさっての12日のセミナーは中心感覚を創るというテーマなのです。

ぜひどうぞ!

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posted by 変才冨田 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

身体と意識 4

現代人は意識の優位性を身体に主張しています。

これは大きな視点では自然に対する人工的な意識の挑戦になっています。

意識は太古、言語を得てその意識を巨大にしてきました。

意識は自然環境に働きかけ、創造しあるいは破壊してきました。

自然は意識でどうにでもなる。

そう考えている、これが現代です。

意識の産物はこの社会で生産されたモノ全てです。

人類は自信という名の傲慢を手に入れました。

「血圧、血糖値、中性脂肪が高い? 大丈夫、薬飲んでるから!」

医学は自然という身体を制圧しようとしていますが、そうはうまくいっていません。

意識の傲慢から生まれた生活習慣病ですから、意識が自分自身を制圧しようとしています。

それは猫が自分の尻尾を追いかけているようなものなのです。


戦争がなぜ無くならないのか?

これも同じ構造になっていますから、人類は戦争を制圧できないのです。

人類の傲慢病の克服は社会史的にも個人史的にも大きな課題です。






posted by 変才冨田 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

身体と意識3

前回の続き。
近くにお寺があって毎月掲示板に意味深長な言葉が書かれています。

今月は「行き詰っているのはあなたの自我だけ」というものがあります。

自我とは、ここでは自己意識のことだと考えてください。

自己の能力を超えた評価を自他に求めているために「息詰まる」のです。

身体に大きなストレスを与えています。

さて、デール・カーネギーの言葉に
「気の塞いだ馬を見たことがあるか?しょげてる小鳥を見たことがあるか?
彼らが不幸にならないのは「いいかっこう」を見せようとしないからだ」
というのがあります。

多くの人が失敗への恐れをもっています。

大きな勘違いでしょう。

失敗したって身体はいつもと変わりなく心臓を動かし、胃は消化活動に専念しています。

それどころか本当の人の真価は失敗した後に現れるのです。

失敗してあなたの真価を見せつけよう!



posted by 変才冨田 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

身体と意識2

身体と心は表裏関係にあるので、身体も心も自然世界に属するものです。

意識とは言葉の世界であり、言葉の世界とは社会性と表裏なので、

意識とは人工的なモノであると規定できます。

「意識」と「身体・心」はどちらが根本的でしょうか?

「身体と心」が意識に優越しています。

いくら意識を強固にしたところで不摂生な生活を続けていては身体や心が折れてしまいます。

その根本的なところに誤解があって「頑張れば良い」と勘違いして

「頑張れない自分や他人(配偶者や子供も含む)」を攻撃している人が多いのです。

近くにお寺があって毎月掲示板に意味深長な言葉が書かれています。

今月は「行き詰っているのはあなたの自我だけ」というものがあります。

自我とは、ここでは自己意識のことだと考えてください。

自己の能力を超えた評価を自他に求めているために「息詰まる」のです。

身体に大きなストレスを与えています。





posted by 変才冨田 at 20:33| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月05日

意識と身体

ヒーリング系の人々に以下のような考え方の人がいます。

一人一人の心が平和でなければ世界平和は実現しない。

世界に平和がくるようにみんなが祈ればよいのだ。

祈りの力は大きい。

みんなが食を正せば醜い心は無くなって世界は平和になるだろう。

玄米を世界中の人々が食べるようになれば世界平和は実現する。

あるいは

これは肉で健康に良くないと思って食べるから悪いのだ。

身体に良いと思って食べれば健康に役立つのだ。

添加物が入っていると気にするからかえってストレスになって体に悪いのだ。

なんでも好きに美味しく食べれば健康にいいのだ。

どうでしょう?

posted by 変才冨田 at 01:03| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

身体は自我の道具なのか、身体の道具が自我なのか?2

身体は道具である。

意識が道具としての身体を使いこなすのである。

という考え方は現代的であろう。

自動車で云えば運転手が意識であり、意識が自由に自動車という身体を使いまわすということである。

では、次元を国家と国民ということに置き換えてみる。

国家意識のために国民は存在しているのだろうか。

それとも

国民が国家を使うものだろうか。

憲法の存在意義は後者の考え方なのである。

民主憲法とは国家が弐度と戦争のような悪さをしないために国民が国家に足枷をはめたもの、

それが憲法なのである。

したがって憲法を「守る義務は国民にはなく国家が守る義務を有している。

もっと具体的に云えば

公務員が憲法を守る具無があり

国民は彼ら公務員が憲法を守っているかどうかを監視する義務を持っているのである。

翻って

身体が主人公であり、身体を守る義務をもっているのは意識である。

身体の健康を守る義務は意識にある。

意識が国民という60兆個の細胞を守る義務を有する。

意識が好きなように身体を統制するものではない。

全細胞は完全な民主主義的な動きにあり、どこにもボスはいない。

従って意識は身体のボスとなって命令を下してはいけない。

意識が勝手に身体を酷使して、細胞間の民主的な連絡を寸断するから慢性疾患になるのである。

無理とは文字通り理に適っていないことであり

生活習慣の乱れとは「無理」を通していることなので

当たり前のようにして人々は慢性疾患になる。

国家が肥大して国家意識をもってしまいファシズムに成長するように

意識がいつの間にか身体を統制する時代になりました。

けれど、実際には土台は身体側にあるので慢性疾患や鬱になって意識に抗議をしています。

「え?中性脂肪が多い? 肝臓の数値が悪い? 頭が痛い?」

「大丈夫だよ、薬のんでるからね」

なんと人々は楽天的なんだろう・





posted by 変才冨田 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月03日

身体は自我の道具なのか、身体の道具が自我なのか?

みなさんはどう思われますか?
posted by 変才冨田 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月02日

子孫に美田を残すな 2

竜馬も西郷翁も寿命を全うしたわけではありません。

目的を達したかどうかという観点では非業の死を遂げたのです。

「なにをしたかではなく、なにに向かって燃え尽きたか」が重要です。

結果ではなく、プロセスが重要ということなのですが・・・、

「結果は出なくても一生懸命頑張ったからOK」というわけではない。

要は何処に向かって燃え尽きようとしているかが重要なのですね。

人生には方向性が重要です。

方向音痴では努力しても報われません。


西郷翁や竜馬のように己一個の生き方をのみ考えているような人には

子孫への財産のことを考えるような余地はないでしょう。

美田を残すな! と言ったとすれば、その真意は

財産のことを考えるような生き方をするな、という戒めと思われます。

子孫に向けた言葉ではなく、あなた自身に向けた言葉なのです。



posted by 変才冨田 at 18:48| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月24日

「子孫に美田を残さず」と「随所作主」の関係

この記事は大変よく読まれているようなので、最近気付いた「随所作主 立処皆真」との関係もあるので、連載書きます。

以前の本文

この言葉は西郷隆盛さんの言葉ですね。

この意味は「子孫を甘やかすことになってしまうから」という意味に普通はとられてしまうでしょうか。

わたしもついさっきまではそう思っていました。

でも、西郷さんの生き方から考えて子孫のことまで考えるだろうか・・・。

かれは一生を完全燃焼で終えました。

そのことから考えると

解釈を変える必要があります。

それは以下のようなことです。

西郷「子孫に財産を残すなんてことでは、それは世の中からなにかを奪ったまま生を終えることになるんでごわす」変な薩摩弁?

わたし「なるほど!」

西郷「じゃどん、おいどんは財産も稼いでもおらんでごわすが・・・。

   訊くが、おまんは財産を稼ぐために生まれてごわんどか?」

わたし「お金は道具だと思っていますので貯めるものではないですよね」

西郷「よかよか、その通りでごわす。世の中から与えられた道具なら使い切って世の中に返すのが筋じゃなかか」

ということなのではないでしょうか。

お金というのはその人の器量に合わせただけのお金が入ってくるわけです。

その人の器量でそれを使い切ることが世の中のためになるわけです。

子孫に財産を残したら、その額は器量を超えているのでろくな使い方をしない。

お金の使い方は、その人の生き様が反映しますから超過したお金の分だけ子孫の生き方を誤らせてしまうということになります。

稼ぎかたより先に使い方を覚えてしまった人たちは、人生の真実を知らないまま去ることになります。

どんな会社でも一族で継承すると三代目でつぶれるわけです。

稼ぐ能力に見合った使い方こそが使い切る人生になりそうです。

財産を残すことは、その人が十分な生き方をしていなかった証拠になります。

財産を使い切る=人生を使い切る

財産は残さないで今自分のために、世界のために使い切りましょう!

死んでなにが残るのか。

なにも残さないこと。

残ったものはすべて与えたものだけなのです。


付けたし
西郷翁は見えない美田をわたしたちに残してくれたように思えます。

モノは子孫にしか利用されませんが、見えないモノであれば全人類への遺産になります。

それは「美しく生きること」の意味を教えてくれたのではないでしょうか。

わたしはいつも「自己本位制」で生きることが必要だと言っています。

みんなが自己本位で生きれば本当のコミュニュケーションが成り立ちます。

一方が「自分さえ我慢すればいいから」などと思っていると、それは双方にとって悲しい結末になります。

続く
posted by 変才冨田 at 01:21| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月08日

螺旋の美

10年前に書いた詩です

「螺旋の美」

わたしは「繰り返し」について考えている
繰り返し、繰り返し・・・
何度も、何度もの繰り返しが
やがて
ものの形となって現れてくる

縦糸と横糸を
同じように繰り返しているうちに
一つの模様が現れてくる
世界はそうやって創造されたのだ!

目に見えない螺旋の回転が繰り返し繰り返し
うねり、反転し
全宇宙でうねっては繰り返し
銀河が、太陽系が、地球が創られた

そのうねりの内部にわたしが確かに約束され
あなたも約束されていた

今、わたしは想うのだが
わたしたちの目にはまだ見えないが

わたしたちのこのうねりの繰り返しという努力が
きっと、そのうねりのなかに
まだ見ぬあなたがたやわたしがひっそりと息づいているのだと・・・
「そうなんでしょう?」と宇宙に問いかけてみるのだ

たった一つの個性とは
飽くなき同じことの繰り返しの作業のなかでしか
生まれないことを

だから
生まれたわたしたちは
真に個性的であるのだと
いま想う

        螺旋の美
身土不二とは土を仲立ちにして
生き物同士がお互いに「行ったり、来たり」の繰り返しだ
死んでは新しく別な生き物としてよみがえる
その繰り返しだ

その螺旋はメビウスのようにつながり
たった今も繰り返されている
だれに命じられたわけでなく
寄せては返す波のように繰り返す
いや、波を起こす力と同じものが
生きるものをして繰り返させている

食についてあらためて考えたい

土は生き物を食べ
土の塊という消化器官を使って
こねる、微生物も加わってこねる
光や水やミネラルという消化液を使ってこねる
やがて
マジシャンが帽子からうさぎを取り出すようにして
新しい生き物を暗闇から飛び出させる

しかし、今の畑はどうなのだろう
生命循環の繰り返しを拒み
拒んだゆえの、力のない作物たち・・・

食べるという行為をさらに考えたい

その歯は螺旋階段であり
その消化器官は螺旋回廊である
食べられたものは螺旋運動を繰り返しながら
その生命の中心部に向かって飛び込む

血管 それは蔦のように枝分かれしながら
全身を這い上がる、這い上がる
繰り返し繰りえし、分岐していく
それは全宇宙を創造した同じ力で
螺旋運動を繰り返してできあがったものだ

食べられたものは、その螺旋街道をうなりをあげて突き進み
螺旋状に積み重なった細胞に勢いよく飛び込む、飛び込む
細胞の内部で用意された酵素に叩かれ、螺旋的に上昇変化しつつ
生命のふるさとのDNA螺旋に寄り添っていくのだ

食べ物は螺旋の印で刻印され、いろんな形に刻印され
繰り返し繰り返し刻印されつづけ
生命の輪廻転生を完成させる


さらに食についてさらに考えたい


1日3回、1年で1000回
繰り返し繰り返し
わたしたちは食べる、食べる、食べる
一口30回、カム、かむ、噛む・・・
飽くことなく噛み続ける

宇宙の深みから 命じられるままに
幾千万の螺旋運動を繰り返す
この飽くなき繰り返しこそが 
わたしという現象をつくり
わたしという波紋を周囲に広げてゆく
それは螺旋状の波であり その繰り返し生じる螺旋波紋は
無数の繰り返しゆえに
すべてを生み出していくだろう 

生命循環から切り離され
さらに無力に飲み込まれた綺麗なパッケージだけの食べ物
これら
生命の螺旋街道からこぼれた
食べ物たちはどうなるのだろう
毎日そうやって繰り返している
畑やあなたはどうなるというのだろう

終り

食べ物の螺旋街道からこぼれ落ちたジャンクを食べることで

あなたもジャンクな心身に成り下がり

生命螺旋運動からこぼれ落ちることのなきよう

そして、現在
螺旋街道に戻ろうと毎日の食に秩序性を取り戻そうとしているあなた

まだ曙光は見えなくてもひたすら食養を繰り返せば必ず見えてきます 光がね

posted by 変才冨田 at 01:54| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月07日

脳外科医が悪性の脳腫瘍になった

この本の題名は「医者が末期がん患者になってわかったこと」著者は岩田隆信

脳外科医自身が悪性癌になってからの葛藤の日々と、どうそれを克服するかのテーマです。

題名にあるように、自分ん体験を医療が患者のために活かして欲しいという願いがあふれています。

最後に体調不良の最中にテープ録音で書かれた論文が
「脳腫瘍治療の最近の考え方」
昭和大学脳神経外科
助教授 磐田隆信

この本をどう皆さんにご紹介するか・・・。

著者の岩田先生は1月末のある日に激しい頭痛に見舞われ、その年の12月に亡くなられています。
その間の闘病記であるのです。
IMG_0722[1].JPG

この本をわたしがご紹介する理由は一つです。
ここには普通の人の死を前にしたときの恐れや、不安、とまどいが率直に書かれています。
彼の態度を学びたいと考えたからです。
posted by 変才冨田 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「随所作主」とはこういうことだったのだ 神業のバランス感覚で命は動いている 3

https://www.youtube.com/watch?v=Cm9aMQfKWUs

これは必見です。

羽根一枚が世界を支えている。

きっと、羽一枚があなたの心身を支えているのだ。
posted by 変才冨田 at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 2 癌になった時の命に対する態度

前回の最後の三行は以下のように書きました。

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

随所作主の核心は「自分の命」をどう扱うかという問題です。

たとえば、癌を宣告されたとします。

医療側はいろんな治療提案をします。

現在は手術、化学療法(抗がん剤)、放射線などの提案になるでしょう。

(決して第四の選択肢に「食養をはじめとした生活習慣の改善」提案はないでしょう)

ほとんどの患者は専門医の助言(という名の命令指示)を受け入れるでしょう。

「先生、その治療を受けたとして見通しはどうですか?同じようなケースの患者さんはどうなりましたか?
先生、先生自身や家族がわたしと同じ状況になったとき、先生はわたしへの治療と同じ方針になりますか?
先生としての立場を捨てて、個人としての意見を離してほしいです」

こう言える人がどれくらいいるでしょうか。

先生任せにしないで「自分の命をどう扱うか」のシーンなのです。

「流されるまま」からどう転換していくかです。

最近十代で癌になった高校生のことを聞きました。

彼女は「随所作主」を発揮するチャンスを得ています。

自分の人生に対して自分を主人公にできるチャンスです。

それ(自分を主人公にする)をすることはとても深いところで自己認証作業をすることになっています。











posted by 変才冨田 at 13:13| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月06日

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 1

「随所作主 立処皆真」
これについては過去に何度も書いてきました。

再度揚げます
主体的に生きる、これが自己中心主義の意味なのです。

主体的に生きるとはすべての責任を一身に背負って生きるということでもあるのです。

人や条件のせいにしない、ということです。

禅では「随所作主 立処皆真」と言っていますね。

この解釈はいろいろ言われていますが、私は

「どういう場でも自分が主体的にかかわれば、最初はつまらないことと思っていてもこの世の本当のことがわかる」と解釈しています。

本当のことは自分が正面からそのことに向き合わなければ永遠にわからないと考えています。

一所懸命という言葉に通じるもので、懸命にかかわるということが「作主」、つまり主体的に生きるという意味なのでしょう。

けれど懸命にかかわったからといって
必ず真実がわかるわけではないですね。

自己の課題に向き合ったかどうかがカギになります。

他者の課題に懸命に頭を突っ込んでも、それは主体性を発揮したことにはならないわけです。

B級の映画を見て「つまらなかった」という人はその映画に対して「随所作主」で対峙しなかったからです。

懸命にその映画にかかわれば、世界の真実に行き当たるはずなのです。

なにごとにでも主体的にかかわれない人は「つまらない人」になっているわけで、つまらない人の周辺はすべてつまらないことだらけになるのです。

「随所作主」とはどんな時でも、どんな場でも主人公として自分を扱うということなんですね。

積極的にかかわらないと、人生の主人公にはなれないということなんですね。

明日はそのように生きたいですね。

ここまでが以前書いたもので、そのほか「随所詐主」で検索してでいればもう一度読んでください。
このことは私たちの人生にとって非常に意味の深い内容をもっているのです。

「随所作主 立処皆真」これはすごい言葉なのです。

その瞬間の時間に真正面からソレに向き合うとなにがこれまでと違うのか?

先ず、それを体験している時間が異様に濃密になり、その結果異様に長く感じます。

そのことから覚めれば異様に瞬間の出来事として感じます。

子供の頃夏休みがそれこそ一生続くかのような感覚がありませんでしたか?

それに比べて今は異様に時が早く過ぎる感覚になっていませんか?

わたしなんかもついこの間60歳になったと思っていたら、気づいたらもう66歳になろうとしています。

年齢を重ねるほど時間は加速度を持ちます。

これは何故か?

おそらく子供の頃は1秒を24コマで目の前のできごとを見ていたのです。

今は8コマくらいになっているのでしょう。

子供の頃は今の三倍も時間が濃密だったのです。

ですから体感時間は今の三倍です。

今は脳の情報処理スピードが遅くて16コマ分スベってしまっているのです。

情報処理スピードが遅くなっただけでなく

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

続く








posted by 変才冨田 at 23:52| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題10

最大の「風景異化」は自己へのまなざしが変化することでしょう。

その論議の前に必要なことがある。

そもそもあなたは自分へのまなざしを持ったことがあるのか?

持ったとしても、それは正確な自己認識なのか?ということですね。

自分への誤解が正されるとき、それはコペルニクス的転回で「まなざしの異化」をしたことになる。

たとえば

医師に「あなたは癌です」と誤診されたとします。

その後あなたは確実に「世界へのまなざし」が変わるはずです。

「わたしはなんら取り柄のない無価値の人間だ」と考えていたときのデザインから

「わたしはこのまんまで価値がある」とデザインを変えると

世界が輝いて見えるだろう。
posted by 変才冨田 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題9

自然界の多様性というのは、自然の様々な試みによって生まれたものだろう。

それは自然が豊かだからできたことだ。

有り余る水、そこに溶けた豊富なミネラル、そしてそこから生み出されたアミノ酸。

これらをどう組み合わせてどんな形や、それに付属した機能が付与できるか。

自然界は太古からそれを試してきたのだ。


我々もそれを見習うべきだろう。

我々は多様な生き方を試みるべきだ。

お金のくびきから逃れねば、結局はどう生きても同じだ。

それには「賃金労働者」になるべき必然性を超えねばならない。

そのためには個的能力を上げねばできないことだ。

百姓とは百のことができる能力があったということだ。

賃金労働者はどうだ。

それしかできないという必然性を持たされているのだ。

百のことができるにはそれに対応した「まなざし」が必要だ。

さまざまな役立つ要素の組み合わせは「風景異化」の手法で見つけられないか考えている。

たとえば
それにしか使えなかったモノをどう他に流用できるか。

それは成長の無い社会で特に必要とされるだろう。




posted by 変才冨田 at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月07日

ハナムラチカヒロ先生の提唱する風景異化問題8

以下の記事は昨年のものですが、大きなテーマで肝心なことが書かれています。


アートが社会を変えうるのだろうか?

そういう疑問がありますね。

震災の時に各芸術界はその無力を感じると云うメッセージがありました。

芥川龍之介も関東大震災において無力を嘆いています。

その時、彼は「芸術は生活の過剰から生まれる」といいました。

食うや食わずからは生まれないということでしょうか?

衣食足りて礼節を知る、ということですね。

他の解釈があれば教えてください。

衣食が有り余っているところのアートをなにもないところに移植できるだろうかということです。

ハナムラチカヒロさんはバングラディッシュに行ってなにをしようとしたか?

他のアーティスト達は過剰を持ちこみました。

大きな動物を造形したり、一緒になにかをつくるなどです。

おそらくそれが通用する可能性は子供たちかもしれません。

以下略

太字のところが考えたいところです。

絶対的窮乏状態は「生活の過剰(余剰)」がないので「まなざしのデザイン」の余地がありません。

太古の人が洞窟で動物を描けたのは、少しの「生活の過剰」があったからです。

けれどその動物へのまなざしは「食べ物」としてのまなざしだし、そこから視点が上がって食べ物を恵む聖なるものへの祈りになったに違いない。

今日のわたしたちは動物へのまなざしは多様だ。

動物は太古からなんら変化していないが、わたしたちは多くの「生活の過剰」を生み出したので

動物へのまなざしは多様になっている。

「捕えやすいかどうか、美味しいかどうか」から可愛がるもの(愛玩動物)としての見方ができたり、人間の代わりに解剖したり実験したりするまなざしもできた。

風景異化ができるのは土台に「生活の過剰」、つまり豊かさに関係するわけだ。

豊かさはものの見方の多様さにインパクトを与えるのだ。

ところが、一見豊かなわたしたちの日本で多様さが見られなくなっているのだ。

お金とか財産に対しての考え方が貧しくなっているのだ。





posted by 変才冨田 at 20:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする