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2016年02月14日

「する」ことからしか始まらないでしょう?

誰も最初は力が無かった。

精子も放出された時は受精能力はないそうです。

卵子へと目指す困難な旅のなかで受精能力を獲得するのです。

つまり、受精する資格は旅への挑戦で与えられるということです。

エントリーすることで能力は磨かれ始めるってことなんですね。

なにもしないうちに「できない!」って決めている。

それは「宝くじは買わないと当たらない」という原則を知らないことと同じです。

そういうことで

「できない」=「しない」という関係ができあがっています。

ある人が「できない」って言っている場合は「しない!」って言ってるとかんがえればいいのです。

なぜ、その人が「しない」と決めているかを考えればいいわけです。

「しない」と決めているということは、言い換えれば彼は「死んでいる」わけです.

実践することで能力を獲得するわけですから、「しない」人が「成長」できるわけもなく

成長しないというのは、この世界においては老化後退しかなく、それはもはや「終わっている」ということなのです。

つまり挑戦し続けるということでしか成長できないということなのです。

出来るかできないかに拘る人は多いですが、それは大きな誤解です。

できる、できないは成長と関係のない言葉です。

挑戦しましょう。たとえ事が成就しなくともあなたは成長しているのです。

大成功です。


次回は「しない」と決めている理由を探ります。








posted by 変才冨田 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月11日

出家の思想 5 意義は実行との関係性でしか語れない

生命の利己性がとかく通説としてありますが

実相はそれもあるし他利性もあるという

二面性で理解しないといけないのでしょうね。

生命は生命全体としてどうすることが有利なのかを考えているようで

生命全体としての利己性を優先させているのではないでしょか。


もうひとつ

また射精直後の精子は受精能力がないが、子宮腔を移動している間に先体(アクロソーム)が形成され、受精能を獲得する。

これも非常に注目するところですね。

これは「生命は行動の中で発展成長するものである」ということなのですね。

人生においても同様で

今は引き出されていない能力なのだけれど

行動することで能力は形成されるということです。

行動はなにより勝る学習なのです。

「Yes,I can」といいますが

出来るかどうかは行動が伴っていけば、という前提ですね。

「わたしにはできない!」と言い張っている人は

実行ができないという意味であって、

それができるかどうかではないのです。

「失敗を恐れる心」が実行を止めているだけなのです。

成功するか失敗するかは

新たな行動に踏み出す勇気だけにかかっていそうです。


posted by 変才冨田 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

出家の思想3 判断力とはなにか キツイ一発

判断力が低いというのは

自分が何をしているのか分からない

ということです。


広い意味での痴呆状態に現代人はなっています。

怖いですねえ。

前回、「人生には意味も意義もない」と書きましたが、

その本意は判断力が低下してしまっている状態の人は「自分がなにをしているのか分からない」ということですから、やること為すこと意味も意義もないというの当たり前ですね。

神経が鈍感ということが最悪の状況ということです。
IMG_1458[1].JPG
これは近所のお寺さんの掲示板にあった文言です。
これはキツイ一発ですね。

posted by 変才冨田 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

出家の思想 2

浮世(世間)のあたり前を語るくらいなら、それはもはや死んでいる。

本当の「あたり前」は実は怖いのです。

あなたは「自分は死なない」と思っているでしょうが、本当は「死ぬのはあたり前」なんです。

どうですか、怖いでしょう。

あなたは「わたしは存在している」と思っているでしょうが、それはとんでもない妄想なんです。

そうです、あなたは存在していないのです。

本当の「あたり前」って怖いですね。

人生に意味意義があるとあなたは思っているかもしれませんが、そんなものは元々ないのです。

無いので意味があると思える神様をひねり出して、その神様に人間を創造させたという妄想を編み出したのです。
神も仏も、そんなものはないのです。
もちろん「あの世」なんてものもないのです。

全て人の存在は無意味なので幻覚と妄想の作品ばかりです。

世間的な価値とは全て妄想の産物です。

アートは人々にそれを教えてくれるものでなければなりません。

世間的な価値が無意味なのだ気づかせてくれる、それがアートであり

アーティストというものは出家した人たちでもあるのです。

多くの人が「在る」と思っているものを「無い」と言うわけです。

それに気づくとずいぶん「楽」になるのです。

先日、小劇場の作品を観てきましたが、どれも無意味を競っていようなもので、そこに意味があるのかと考え込んでしまいました。

いわゆるナンセンス劇場なのですが僕はその無意味さに腹を立てていたのです。

僕は小劇場は衝撃場になってほしいと思います。

世間や浮世の無意味を突き付けて欲しいと思います。

そのために小劇場の役割は世間の価値は無意味だと指摘することに意味も意義もあるように思えます。




posted by 変才冨田 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月06日

出家の思想 拘りからの自由

ここでいう出家とは広い意味での価値観の変更をいう。

今ではない世界へ精神をずらしていくということだろう。

そういう意味ではやくざの世界へ行くのも一つの出家の形といえる。

今棲んでいる世界から違う世界への移行なのだ。

パラダイム・シフトの変更ということだ。

いったいそれはどういうことだろうと、考えてみた。

例えばある人が「禁酒」を決断して実行するとします。

それがうまくいくかどうかはパラダイム・シフトに関係するのです。

それは「飲むか、飲まないか」の選択として存在する間は出家できていないのですね。

出家(パラダイム・シフト)するとは「お酒がない世界」に移行するという意味なのです。

娑婆で飲むか飲まないかを患うのではなく、刑務所や入院して酒がない世界へ行くということなのです。

強制的に入所、入院しなくても意識で「それがなくなった世界」に入れば禁酒は成功します。

禁酒や禁煙が苦しいわけは、それが「在る」からなのです。

煙草を吸うか吸わないかという選択をしている間は苦しいわけですが、「僕はもうたばこは吸えない世界に居る」と考えれば難なくやめられます。

台湾では宗教的に肉が禁じられていて、その周波の人たちは肉を食べない代わりに肉もどきの料理を食べます。
大豆のタンパク質でハムやソーセージや豚肉のそっくりさんを作っています。

これは吸うか吸わないかの選択の世界ですね。

禁じられているから食べないけれど、本音は食べたいのでそういったモドキをつくるわけです。

パラダイム・シフトは変更されていません。精神的には酒池肉林の世界から出家できていないのですね。

自分の立っている舞台自体を変えてしまうこと、それが出家の思想なんですね。

こうした考え方はなんにでも応用できます。

7号食を成功させるのもこれです。

好きなものを、たとえばパンを食べるか食べないかで葛藤を起こしてしまうのですが、

パンのない世界を創造すればいいのです。

パンからの出家ですね(笑)

たとえばアトピーの「痒み」の世界からどう出家するかということです。

これは「痒み」に拘っているのです。

掻くか掻かないかの選択で悩んでいるわけです。

続く




posted by 変才冨田 at 20:11| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

スマナサーラ長老かく語りき 「存在欲を少なくする」

この意味はハッキリしないと思われるので、おそらくこうではないかと独断と偏見で解します。

この場合の存在欲は動物としての欲です。

わたしたちの存在の仕方は二面あって、それは人という動物的側面と人間という社会的側面があります。

で、長老のおっしゃる存在欲は動物としての脳から人間へと拡大したもののことのようです。

もっとも原始的な「生きたい、死にたくない、食べたい、飢えたくない」からスタートして「美味しいものを食べたい」「他人より出世したい、偉くなりたい、良い家に住みたい、「他人より親や自分の子供が大切」「子供に遺産や会社を譲りたい」
これらは全て動物としての存在欲です。

親や先祖を大切にというのはあたり前に見えて、利己的な存在欲ということなんですねえ。

「子供が勉強しないで悩んでいます。どうすればするようになるでしょうか」
わたし「子供が勉強しないからといってなんであなたが悩むのですか?」
「だって、将来が心配でしょう・・・」
わたし「なんであなたが心配するのですか?」

心配すべきは本人でいいのです。本人が将来困るものです。

このあたりは利己が隠れていますねえ。

つまるところ子供が勉強しなければ将来困ったことになって、自分にそのしわ寄せがくることを恐れているのです。
存在欲が脅かされることを心配しているのですね。

子供に勉強しなさいというのは「存在欲」から発しています。

わたし「あなたは自分の子が勉強しないということで悩んでいるのですが
隣の子が勉強しないのはどうしてあなたの悩みの種にならないのですか?」

長老は利己に根差し「存在の欲」は小さすべきとおっしゃるのです。
(そういう解釈でいいのかな?自信はありません)

で、私は長老のおっしゃる「存在の欲」を小欲であると言い換えます。

すると反対の「大欲」は利己の反対の欲だということができます。

小欲から大欲への道筋に生き方を変えていくことが人間進化と私は考えています。

利己に根差した「存在の欲」をどう扱うのかというと、それは否定しないことです。
肯定すべきと思うのです。
利己主義は悪くない、ということです。

「存在の欲」を否定するのではなく大らかに認めてあげましょう。

それを否定すると野性的な生命エネルギーが萎んでくるでしょう。

利己性をコントロールして、そのエネルギーで大欲を実行できるような人間性に進化させればいい。



posted by 変才冨田 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は小劇場の演劇を観てきました。2 遊民化とファシズムについて

4本に流れているもの、

その共通項は「遊民」現象ということです。

「行き場」を失って、文字通り「所在なさげ」な状況をこの四本は表していました。

「行き場」を失った人々はどこに存在しても一時的で仮住まい的な感覚で生きるのでしょう。

責任感の持ちようもありません。

そういえば当日いただいたパンフレットにその他の劇の案内もありました。

それは日本人旅行者が中東の紛争に出会って避難場所で滞留しているという劇です。

そこでも「紛争」という問題からは傍観的で当然ながら紛争に対しては責任を持てない人々が描かれ、その場ではまさに日本人旅行者は「遊民化」しています。

この日本人旅行者のような人々は国内にも実は大勢います。

日本の今の状況に対しての「遊民」は多数です。

小劇場におけるテーマ追及の不徹底性やギャグでお茶を濁すという流産化現象です。

ところで世の中には「ニッチ商品」というものが多数あります。

大量生産では賄えない少数者へのニーズに応える商品ですね。

BL研究所などもまさに「ニッチ」で生きている感じですね(笑)

僕は小劇場ならではの今日的で大劇場ではテーマにならないものを扱っていただきたいと思います。

二時間以上の大作ではなく30分が適正で、その時間でないと表現できないものはたくさんあるはずです。







posted by 変才冨田 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月24日

今日は小劇場の演劇を観てきました。

4演目あって、それぞれ30分でした。

終了後に合評会を演者と観客がともにするという企画です。

今回参加した理由は最後の演目の演者を友人だったからです。

一本目から三本目までは正直言って「なんだか判らん」に尽きました。

なんでこういうものを演っているのか、その動機が判らない・・・。

時間の浪費になっている、早く終わってくれ・・・。

一本目
朝、若い自堕落そうな夫婦の場面から始まります。

夫は会社に行きたくない理由を一生懸命考えています。

雨でさえ「行けない」理由にしてしまうダメダメオ君です。

そんなダメ男君だからこそヒーローになるという妄想があります。

密かに超能力を持っており、地球滅亡の危機にヒーローになります。

と、まあこういうトホホな内容でした。

これなんか「会社に行きたくない!」を題名にして、ひたすらこのテーマで突っ走ったらどうだったでしょうか。
これは「学校へ行きたくない」と同質であり、行きたくない」のに「行かされる」事態になるのは「怒られるから」であり(現に劇中では奥さんに怒られている)、なぜ人は行動原理の中核に「怒られるから」があるのか・・・、とまあ追求すれば面白いのではないでしょうかネ。

二本目
「水取り」という題名でした。

日常よく見かける行列ですね。

この場合は名水を汲むために長い行列で並ぶ人たちの言動で話が進みます。

長い時間行列をどうして人は並ぶのか?

これも追及できるテーマですよねえ。

こういう追及があるのかと楽しみにしていると、なんだかギャグの連続で吉本新喜劇をシュールにしたような内容で残念でした。

人がなにかをする場合はなんらかの意義を付けようとします。

この行列の人たちにもそれぞれの「意義」を語らせることで、意義の虚構性、欺瞞性を表現できたのではないでしょうか。

ところでこの主演の女優さんがなかなか凄い役者でした。
「こんなおばさんいるよねー」というリアリテイがあり、漫画のような演出との違和感が面白いと思いました。

三本目
これはもう、この女優さんは病んでいるのではないかと・・・。
なにを言いたいのか分からなかったし、本人も明確でないのでしょう。
衝動と感覚だけの、全てを放り投げた感じですね。

おそらく食べ物が悪くて「気力」が無いのでテーマを追究できないのでしょう。
とうとう小さな舞台で素っ裸になってしまい、後はもう・・・。

おそらく「セックス・ワーク」がテーマだったのでしょうが、なぜ性で仕事になるのか、そのあたりをなんとかテーマを投げて欲しかった。

四本目
「あの頃は良かったよね」
僕の友人が出ており登場人物は二名の女性です。???
友人は男性です。

二人が街を歩きながらの会話劇です。
同窓会の後で友人の噂話から始まります。

彼は普通の男性のいで立ちで登場しますが、会話で女を演じていることがわかります。

扮装は男で役は女です。

アレレ、と不思議な感覚になります。

で、劇は進むのですが照明が少し明るくなり

口調が変わります。

劇のセリフがどうもおかしいという会話なのです。

それは劇の練習をしており、さっきまでの会話は劇で
今の会話は劇を練習している状況でのセリフです。

劇と劇中劇が同時進行という、見ている側の意識の切り替えが必要になります。

このセリフがおかしくないかと言えば

一方はどちらでもいいじゃあないか、と。

一方が拘ることで、一方がめんどくさいこと言う奴だと皮肉りたくなる。

こういうことはわたしたちの会話で「ある、ある」という共感が出ます。

で、そうした昔を思い出す会話が続き「あの頃は良かった、幸せだった」と
全て幸せなことは過去形だよね・・・、と展開されます。

でも、今幸せでキラキラしていることもあるよ。と例が出されますが

それもその人の子供時代のキラキラした話です。

ここからの展開をテーマにしてもらうと面白くなった気がします。

なぜ幸せは記憶の中にしかなく、今なぜ幸せを感じないのか?

最後の合評会で面白かったのは
「この四本になにか共通の流れがあるのではないか?」と出演者の話でした。

それって、いったいなんだろうと、私も考えました。

あるのですね!

それは非常に現代的な世相なのですが・・・

続く




posted by 変才冨田 at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

特攻隊員になるな!

特攻隊は戦中にあっただけではありません。

現代にもあるのです。

ブラック企業は常に特攻隊員を求め、つくりあげています。

ワタミの社訓などは良い例ですね。

以下引用
「365日24時間死ぬまで働け」、「出来ないと言わない」などと社員に呼びかけていることが週刊文春が入手したワタミの社内冊子からわかった。

『理念集』と名付けられた冊子は、ワタミグループ全社員に配布され、渡辺氏が著書で「ワタミの仕事すべてに直結し、根底で支えている思想の原点」、「この理念集を否定したときは、君たちにこの会社を去ってもらう」としている重要文書だ。また、入社内定者に配布される人材開発部作成の『質疑応答』では、勤務時間について、『「仕事は、成し遂げるもの」と思うならば、「勤務時間そのもの」に捉われることなく仕事をします。

なぜなら、「成し遂げる」ことが「仕事の終わり」であり「所定時間働く」ことが「仕事の終わり」ではないから』と記載されている。ワタミでは2008年に入社3カ月の女性社員が1カ月141時間の時間外労働で抑うつ症状となり、飛び降り自殺。昨年2月に、過労による自殺として労災認定されている。
引用終了  http://ameblo.jp/bellet/entry-11545655483.html

この会社で仕事をするということは特攻隊員に志願させられたようなものですね。

そして、人の特性をこの会社は旨く利用します。

それは、人は全て自分の為す行為に対して意義付けをしたいということを知っています。
意義付けをしないと脳はストレスに感じるからです。

無限に働かせるためには順番としては「24時間働け」は最初からいえば受け入れられません。

そこで耳障りのよい社訓から受け入れさせます。
例えば、
明るく、のびのび仕事しよう。などと社訓にあります。
どうですか、良いでしょう。
さらに
一、常に謙虚なれ 常に感謝せよ
一、他人の喜びや悲しみを共有せよ
一、約束を守る、嘘をつかない
一、愚痴、陰口を言わない
一、笑顔で元気よく挨拶をする
と続くのです。
どうですか?良いでしょう。
一人一人の社員が人間性の向上のため、
   夢を持ち、夢を追い、夢を叶える努力をする
一人一人の社員が、人として美しい生き方を追求する

誰しもが「そりゃあそうだね」と言いそうですね。
そうやって、イエス反応をたくさんつくってから
継続こそ力なりが受け入れられ
退社したくなる自分を恥ずかしい存在と責めるようになります。
ブラック企業を止められないようになります。

こういう手法は新興宗教の手法だし、自己啓発セミナーにハマりこませる手法です。

振興宗教の教義をみると、そこには「親孝行」「先祖を敬う」「人に親切にする」などが謳われています。
これでは宗教ではなく倫理道徳です。

気づいたら特攻隊員になっています。

道徳的、倫理的に人を縛っておいてから働かせるわけです。

そういう巧緻な網にひっかからないためには
1 企業の目的は倫理道徳の達成にあるのではなく、利益追求が第一なのであると判っておくことです。
2 企業理念はどこも立派ですが、利益にならないことは一切しない、ということも分かっておくことです。
3 多くの人々は道徳的、倫理的で、多くの企業は本質的にそれを守らない。
 企業はそれを従業員に一方的に求めるのみです。

倫理道徳を守りたくない企業に倫理道徳を教わることがそもそも間違いなのです。

同じ意味で

国家が国民に倫理道徳を教え込もうとする意欲は本能的なものです。
過去の戦争を俯瞰すると、多くの国は国民にウソをついて、戦争を国民にけしかけてきました。

素直に従う国民を欲するもの、これが近代の国家です。

倫理道徳は個人が生きる規範であって、それは自分で体得して成長するものです。
国が国民に、企業が働く人に倫理道徳教えてきたら、それは危ない状況だと気づくことですね。


今や、あからさまなブラック企業でなくとも、日本の多くの企業はブラック化しています。

成長できなくなった資本主義末期の企業は生き残りをかけて糖衣錠をかなぐり捨てて、露骨な本能剝き出しつつあります。

昔ならば「五時から男」
「サラリーマンは気楽な稼業」
などの雰囲気がありましたが

今や五時には仕事を終えられません。

長時間労働によって人間性そのものを蝕まれつつあります。

人間性の回復を何処に求めればよいのでしょうか。

僕は昨年起こった戦争法案反対のシールズ運動にその方向性を感じるのです。

この運動は一つの政治運動として発生したものではなく
人間性回復を目指した
ニュー・ルネッサンス運動と期待しています。




posted by 変才冨田 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

眼差しのデザインを提唱するハナムラチカヒロ先生

車後ろにぶつけた人。

「ボディーも心も凹んだ・・・」

「良かったじゃない、ボディーはお金がかかるけど、心はタダで治るから」

別な人「車が身代りになって今年の厄を引き受けてくれたのね」

「夫が言葉の暴力をして離婚したけれど、経済力が無くて離婚できない」

「じゃあ、夫を犬だと思いなさい。毎月一回お金を咥えて帰ってくる犬なんてめったにいない。しばらく飼っておいてへそくり貯まったら捨ててやればいいじゃない」

こういうことを日常の眼差しのデザインと言います。
乾燥している日常に潤いを与えますね。

観方を変えることでさっきまで見えていた風景を異化(ちがったものに)します。

すると行動も変わりますね。

眼差しのデザインを違う言葉で表現すれば「知恵」とも言えそうですね。

物事には多面性が必ずあり、自由自在に観測点を変えられる人のことを自由人といいます。

眼差しのデザインは打開しようのない現実からの一時避難です。
避難する術を持たない人が鬱になるのです。

心の想像力で観測点を変えるのです。

こうしたことには法則技法があるのです。

それを考えよう、と提唱されているのがハナムラチカヒロ先生です。

近いうちに私とコラボした講演会をします。

posted by 変才冨田 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

癌の対処と生き方 2

これも2013年の記事からの引用で再開します。

乳がんの相談がありました。

それも一日で二件。

乳がんは確かに増えている・・・。

「転移はしていないけれど全摘出しましょう。そうでなければ放射線と抗癌剤で」

という医師の判断なのだそうです。

この時、本人に正しい判断が求められるわけですが、患者側には判断する材料を持ち合わせていないことが多いわけです。

なにもしなければどうなるか・・・。

そのあたりのことを医師に訊く患者は少ない。

また訊いたとしてもそれだけでは正しい判断をするには不十分です。

自分で調べるというような生きるエネルギーの少ない人は自分の命を他者に任せることになる。

こうしたことは日常にあります。

自分が判断しないといけないことを人に判断を委ねます。

委ねた結果うまくなければ人のせいにします。

原因を人のせいにする人は生きるエネルギーがそもそも低い。

終了

エネルギーが低いので、考えられない。そこで依存する・・・。

ここれも主体と依存の問題がありますね。

要はがん治療の仕方の是非なのではなく(自然療法か医学的治療かという是非)

ガン宣告をされた時のその人の生き方の問題なんですね。

癌という病が問題なのではなくて、癌宣告されたときのその人の生きる姿勢が顕在化したわけです。

人は癌にならなくとも必ず死ぬのです。

ガン宣告されて打撃を受ける人はそもそも「自分は死なない」と思っていたからですね。

日ごろから死生観を確立している人は、実は癌など歯牙にもかけないのです。
かえって時間が与えられたことを知って感謝するでしょう。


posted by 変才冨田 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

主体性と無知

確かに人生には節目というものがある。

竹の節目のようにグットそこで滞るのだ。

その場所は何かが終わろうとしているし、始まろうとしている結節点だ。

だから苦しい。

節目に差し掛かると誰だって苦しい。

その苦しみと対峙しないでよそ見をすると、その生みの苦しみは流産してしまい、その後は惰性で生きることになる。

節目は病気と同じように突然やってくるものではない。(例外的に事故など外的要因があるが)
着々と準備されているものなのだ。

いつ節目がやってくるか観察しておくことだ。
日常のどこかにきっと破調を見つけるはずだ。
その破調の先に何が潜んでいるのかを観察すれば、今何をどう考えるのかが明確になる。
人はその先にあるものに不安を感じ見なかったことにしてしまう。
明確ににしようとしないだろう。
「終わり」が怖いのだ。
怖いのは明確にしていないからだ。
明確になれば勇気が湧くだろう。

そうした日常の違和感としてある破調を流すこと、それを仏教では無知ともいうし無明ともいう。

日常の微かな違和感を感じる感性をこそ磨かねばならない。
感じれば動けるはずだ。
貴重な時間の浪費がなくなる。

仕事であれ恋人同士、友人同士、夫婦関係などで生じる日常の違和感がないだろうか。

そして、今の安倍政権の為すことに違和感を感じないだろうか。

なんとなく見過ごして、それを寛容だなどと流してはいけない。

竹だって節目に差し掛かった時は苦しい。
それを乗り越えた時すんなり伸びている。

最後に

あなたは日常の自分に主体性のなさを感じないだろうか。
自分が決めて取り組んだことにうまくいかなかった時、
誰かのせいにしていないだろうか。

責任を誰かに取らせようとしていないだろうか。
そういう時に違和感を自分に感じないようでは、そのツケは必ず大きくなって返ってくるだろう。
その時になっても多くの人は自分のせいだとは思えないだろう。

それを無知という。





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2015年12月15日

無知の罪

多くの人は自分の姿勢を知らない。

真っ直ぐに立っていないという事実を知らない。

そして、それが自分のいのちの問題であるということも知らない。

無知の罪は未来になって腰痛や膝痛となって現れるわけではない。

すでに歩くだけで、立っているだけで疲れるという罰を与えられている。

その事も知らない。

疲れるので歩かない。

それは歩かないわけでなく、真実は「歩けない」という罰をすでに背負っているわけだ。


生理痛や筋腫など、どうしてそれが自分に与えられているのかも知らない。

美味しいものをたくさん食べて、それ自体が自分に与えられている罰であることも知らない。

食べ物を知らない、ということも知らない。

多くの人は無知である罪を知らず、

従って

与えられた罰の意味も知らない。

己があらゆることに無知であることを知ることが

自己変革の第一歩であり

それゆえに

いのちの質を、生きる質を高めてくれるだろう












posted by 変才冨田 at 23:33| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月14日

7号食実行者が多かった今年、来年は四つの認証シリーズをやります。

今年は札幌、山形、仙台、東京、名古屋、三重、大阪、神戸、広島、大分、沖縄と7号食の講習で忙しく動いていました。
その結果、何百人かの方々が実行されて大きな変化を体験されました。

同時に歩くこと、真っ直ぐに立つことの意味や意義も同時にお話しをしてきました。

その結果、多くの方々が「中心軸できた輪」や重心調整用インソール「姿美人」も体験されました。

また、認証ワークシリーズとして「食べ物をどう認証するか」「他者をどう認証するか」「お金をどう認証するか」ということもお話してきました。

わたしにとってこの認証ワークは多くの学びになりました。

来年はこれに加えて「身体の各部や全体と心を認証する」というテーマが増えます。

来年はこの「認証の四つのテーマ」を発展させて、皆さんのお役に立てればと考えています。

最終的には「世界を認証する」という大きなテーマに至るでしょう。

posted by 変才冨田 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月13日

旅のテーマを決める

旅のテーマとは本質的なことですね。

それが決まらないと寄り道をしてしまいます。

いえ、寄り道は良いのですが、寄り道で見たものに幻惑されてテーマを忘れてしまいます。

いえ、本当はそれでもよいのですが(ほとんどの人生はなんとなくソレで生きるそれはそれでことんあり、いいのです)、旅の途中で出会ったものですからそれなりに意味があると思われます。

テーマただ、決めておけば優先順位がおのずと決まるのです。

大テーマやそれにともなって小さなテーマも出てきます。

多くの人は小さなテーマにこだわって(どうでもよいプライドや沽券、勝ち負け、小さなメリットなど)
大きなテーマにとってそれがどれだけのものかを判断できなくなります。

半眼でつねに遠くをみつめ半眼で近くを見るようにしておきます。

テーマは遠くにあるのです。

posted by 変才冨田 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月11日

幸せになる唯一の方法 2

幸せになれる人っていうのは、幸せを感じる能力があるってことなんですねえ。

幸せを見つけられる人は、どこかで不快で苦しい状況にある人なんです。

従って「苦労は買ってでもしろ!」っていうわけですが、しなくていい苦労をわざわざすることもないわけです。

必然性のある苦労からは逃げてはいけません。

主体的に(自己中心に)活きている人はどんどん苦労をしています。

けれど、苦労をぼやきながらどこかで楽しんでいます。

逆にしないでいいことを押し付けられて(そういう人は自己を全うしない生き方をしている)
我慢の苦労をしている人は、本来しないでいいことなので必然性のない苦労をしており、これは消耗しています。

したがって「幸せになる方法」っていうのは一生を賭けて悔いがないことをすることなんですねえ。

その一生を自覚するということが大事です。

それは「自分は死なない」と思っている人は「幸せになれない」っていうことなんです。

毎日死んでいる(毎日死へ向かっていますから)ということを自覚する人は、いろんな意味で幸せになる土台を持っているのです。

一日を終えるときに、どれだけその一日の経過を認証できたか。

毎日奇跡が起きているのだけれど、その奇跡を認証できる状態が幸せを感じる土台だと考えるのです。

そうなっていない僕は毎日そうありたいと思っています。


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2015年12月10日

幸せになる唯一の方法 1

7号食があけて11日目のお味噌汁が美味しいでしょう。

五臓六腑に染みわたり「よくぞお味噌汁が存在してくれて、ありがとう」

そんな気分になりますね。

みんな幸せを感じます。

味噌汁自体は何も変わっていませんね。

こちらが変わったのです。

美味しい料理とか一般的には云いますが

本当は美味しさを感じるのはこちらなんですねえ。

普段はまずいと思う奥様の料理でも断食あけなら美味しく感じるはずです。

奥様に好物を料理してもらっても不機嫌に不味く、ニコニコ出されればして美味しいですね。

男性の看護師に血圧測定されれば正常でも、美人看護師さんに測定されれば高血圧の診断になったりします。

水だって汗をかいて山を登れば途中の岩清水はとってもおいしいです。

ロープウエイで登ったら水も美味しくないでしょう。

つまり、感覚的なものはこちらがわに全ての原因があるのですね。


幸せになれる人っていうのは、幸せを感じる能力があるってことなんですねえ。

幸せを見つけられる人は、どこかで不快で苦しい状況にある人なんです。












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2015年12月03日

身体は道具なのか、あなたの一部なのか?

例えばです。
あなたのどの指かが切断されたとします。

この時あなたは、自己の少しの喪失感があるでしょうか。

では、片腕を無くしたら?

両腕両足を失ったら?

肝臓を一部切除したら?

子宮や乳房を切除したら?

そうなっても自己の喪失感がないのならば、あなたは身体を道具だと考えている。

その道具を使っているモノこそ本体だと考えている。

人生を生き抜いているのはあなたの身体という道具ではなく本体だと考えている。


いったいわたしが何を云いたいのか考えてください。
posted by 変才冨田 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月17日

老師の「無為の為」の周辺を考えてみる

美味しいカボチャを食べた。

それは頂いたかぼちゃだった。

その人は

@意識的に野菜も植えるのだが、なにもしないのにカボチャができることがあるそうだ。

種をそのあたりに落としていたら、かってにかぼちゃができていたりするそうだ。

いただいたかぼちゃはそれだった。

Aリンゴ園の奇跡で有名な木村秋則さんは自然栽培を提唱されおり、実際に無農薬無肥料でリンゴができています。

@が「無為」でAが「無為の為」です。

Aはなにも余計なことをしないように意識を配ります。
文字通り「なにも為さないことを為す」わけです。

余計なことを為すのは「有為の為」ということになりそうです。

余計なことの中身には「こうなったら都合が良い」という利己的な願望が入りやすいのです。

そうすると対象物への観方がゆがんできます。

自分に都合よく観るまなざしになってしまうのです。

自己や他者、対象物を「あるがままに」観れば、その性質や状況に沿った対策を選択できます。

その対策に「なにも手を下さずに対象をジッと観る」ということがあるわけです。

意識的に手を下さない。それが「無為の為」です。

手を下さないことに努力する。

その考え方の背景には「存在への畏敬の念や尊敬」があるように思えます。

「無為の為」というのは「あるがままに観る」ということとつながっているのですねえ。

ここからやや難しくなりますが・・・。

あらゆる事物は「自己運動」をしています。

それが本質なので、そこから主体性という意味が起ち現われているのです。

こう動け!という命令は成立しない。それが真実です。

自然界はその原理で動いています。

だから、命令者はいないのです。

わたしたちの身体も自然物なのでそうなっています。

胃も肝臓も心臓も自分が動きたいように動いているのです。

そうなっていながら周囲と調和がとれている・・・。

命令はされていないけれど、周辺の臓器や全体の身体の状況を感じて動いているのです。

合唱団の唱和のように、唄いながら周辺や全体の声を聴いているのです。

それに干渉するのはその素直な自己運動をゆがめてしまい、かえってうまくいかない・・・。

これが命令者としての薬ですね。

○×遮断薬とか拮抗薬とかは、全て酵素やホルモンなどに命令しているわけです。

自由教育には「あるがままの自由運動にゆだねる」
そういう根本的な哲学があるようです。

ところがわたしたちは「努力することの価値」をずっと教育されてきました。

意識的な努力をしないと言われてもよくわからない。

(このあたりは別なスレッドを立てます)


さて
必ずあなたは成長することができる。

なぜならこの世界の性質は自己運動にあるからだ。

そのためには変形した願望で自己を動かさないことだ。

あなたが真に望むものであれば、それは勝手に手に入る。

というよりも自己の内部に用意されていたものが勝手に現象化するだけだ。

作為された偽の欲求は無理に手に入れなければすまない。

なぜなら、それはあなたの内部にはないものだからだ。

真の欲求であれば、それはすでにあなたの内部に用意されている。

そういえば「青い鳥症候群」というものがある。

幸せはどこか遠くにあって、そこへ努力して向かっていく・・・。

「努力は裏切らない!」という言葉も聞こえてくる。














posted by 変才冨田 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

教育の究極の要点 「あるがまま」とはなにか 「不干渉」と「放任」

これは子供への「不干渉」にあると思う。

なぜなら教育の目的は自立自活できるようにすることだからだ。

自立自活は自由に直結する。

人間の積極的な本質は自由への希求があるからだ。

人は自由を求めて生きるのだ。

そして、自立が可能な理由は子供自身に自立する欲求があるからだ。

即ち、そうした欲求が備わっているということは、自由さえすでに備わって生まれてきたということだ。

最初は自分の指でさえ自由の使えないけれど、その脳はやがては自由に使えるということを知っている。

知っているから使おうと試みるわけだ。

知らなければ指は隣の樹の枝にしか見えず、使おうとするわけがない。

つまり、自由はすでにその子に在る。

使えることを生まれる前からあらかじめ知っている。

男の子がペニスをもって生まれるのは、ペニスというカギに合うカギ穴がこの世界に存在しているということをあらかじめ知って生まれている。

これは凄いことだと思う。

全て知っていて生まれるのだから、あとは思い出すだけだ。

従って親は手とり足とり教えなくてよい。

もしそれをしたら、それを干渉というわけだ。

自立とは「一人で為す」ことだから、一人でなにかをはじめたら「不干渉」を決め込むことだ。

独りで必死に思い出そうとしているのだから。

不干渉と放任とは違う。

放任は無関心からくるもの。不干渉は人間の本質を理解し認証しているからだ。

独りで思い出せて四肢を自由に使えることができた体験は

さらに高度な技も思い出すだろう。

子供が夢中になっている時というのは

脳が夢中になってシナプスの経路を手探りでなぞっている時だ。

あるがままにしておけばいい。

それは放任ではなく、あるがままの内部に成長意欲を持っているということを尊重しているということだ。

こういうことは子供への教育法だけではない。

大人の教育も全く同じだ。

子供の脳も大人の脳も同じく成長したがっており、思い出したがっている。

干渉はそのまま「制限」「禁止」となって記憶を遮断してしまう。

親は老師がいうように「無為」を為すことだ。

種は光と温度と水があれば勝手に芽を吹く。

種は自身の成長プログラムを保有している。

早く芽を吹かそうとして種の殻を割ったりすることが干渉だ。

水や温度やらの条件を与えて、あとは「無為」を為せばよい。

これが「あるがままに放っておくこと」であって放任とは違う。

あなたも意識的な偏った操作で脳に干渉しないことだ。

「あるがまま」にしておけば、あなたの脳は成長プログラムを再開させるだろう。











posted by 変才冨田 at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月21日

お金の話は定番にしたいくらいの内容があります。

命とお金を量りにかけて、

さて、

みなさんの頭の中ではどうなっているでしょうか?

@命<お金  A命=お金  B命>お金

何番ですか?

このあたりから明日の夜学が始まります。

posted by 変才冨田 at 20:13| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

利己主義の健康法

自分さえ良ければOK。

これを利己主義の健康法といいます。

言い換えれば「不健康法」ということです。

「わたしはコレ飲んでいるからお酒飲んでいても大丈夫なの!」

サプリメントの問題点はこれです。

サプリメントはそれに依存させて、今の生活習慣を変えられない害があるのです。

日頃の食べ物はめちゃくちゃでも高いお金を払ってサプリメントをせっせと飲んでいます。

めちゃくちゃ維持したいためにサプリを摂取しているのです。

お金に依存したやり方は、健康をお金に依存させていることだし、

それはいのちをお金に依存させているということです。

同時にそれはお金が無い人はできないことです。

お金で健康を買えると思っている人は、お金の無い人がそうできないことをどう考えているのでしょう。

何も視界には入っていないでしょう。

こういう健康法を利己主義の健康法といいます。

炭水化物を摂取しないでタンパク質と脂肪の多い食事法を推奨している人がいます。

そういう食事ができるのもお金がある人だけです。

みんながそれをするということはみんなアメリカ人と同じ高エネルギーを使用するということになります。地

地球環境はエネルギーの使い過ぎで、このままでは持続できないと予想されているのに平気でこうした食事法が提案されます。

これも自分さえ良ければという利己主義の健康法です。

みんなで共に健康になる方法こそが全てを矛盾なく進行させることになります。

多くの人ができる、これがキーワードです。

やった結果が多くの人に波及する健康法、これが7号食であり玄米菜食法です。

それは誰にでもできるからです。


posted by 変才冨田 at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

医学の思想と科学について

私は2007年に慢性腎不全と診断され、以来2ヶ月に1度の定期検診(尿・血液検査)を受けてきました。幸いこれまで大きな変化はなく過ごしてきました。先月の検査でクレアチニンの数値が上がり、また体重も2、3ヶ月で5キロほど増えていたこともあり、かかりつけの腎臓病専門医師から「次の検査までにこのままだと薬の治療も必要になってくる」といわれました(ご存知の通り、腎臓病はほとんど自覚症状がないまま進行し、悪化すると人工透析治療に至ることもあります)。自分で思い当たるとしたら、仕事での昼食を外食にしていること、仕事上のストレス、運動不足などが原因ではとみています。

ここはひとつ食事療法で抜本的に体質を改善していこうと思い、友人知人などに助言を請い、その中から2つを採用することにしました。1つが冨田式7号食です。もう一つが、同じく腎臓病を患い、徹底した減塩食を新食品成分表に基づきデータを自己管理しながら行い、それを定期的に医師に報告、医師からフィードバックを受けるということを2年間続け、見事体質を改善させたという方の経験談でした。まずは前者でデトックスを行い、その後後者を参考に腎臓病に対しての食事療法をしてみようと思いました。



冨田式7号食はWebから情報を得、食材を揃え、実行しました。合計16日を終え、体重は2キロ減り(直前に既に3キロ減っていました。これは仕事のストレスによるものと思われます)自覚としても体がスッキリした感じがしました。一方で、エネルギー(カロリー)不足からか、多少快活さが減退するような感じも。炊飯器の玄米モードで炊いたためか、美味しい玄米に比べたらイマイチでしたが、なんとか最後まで継続することができました。



これが終わり、食事療法について医師に相談したところ、食事療法については詳しくないので大学病院を紹介するといわれ、数日前に医大へ行き、管理栄養士の指導を受けてきました。



実はかなり以前栄養指導は一度受けたことがあります。その時は概要を説明されただけで、結局実践せずに終わってしまいました。今回もそうなることを危惧し、どうやったら学ぶだけで終わらず実践できるか、その具体的な方法と継続的なフィードバックを求めたかったのです。

しかしながら、今回の栄養指導も概要の説明を一方的にするだけで約束の30分を駆け足で終わらせられてしまいました。話を切り上げようとするのを止めて、こちらの意向を伝えましたが、「食品成分表を使って最初からやるのはハードルが高い」といって軽く却下されました。

自分としては、そのやり方にこだわるつもりはないが、意志のみに頼るのでなく取り組める方法と継続的なフィードバックにつきあってもらえるパートナーシップを求めたのですが、その意向は残念ながら伝わりませんでした。



前置きが長くなりましたが、アドバイスをいただきたく疑問に思っていることは、

玄米食的な「思想」と、「科学的な」栄養指導による腎臓病対応の食事療法の矛盾についてです。

玄米食は全体的な体質改善に効果があるものだと認識しています。一方、腎臓病に対する食事療法としては、たんぱく質と塩の制限をした上でそれを補いつつバランスのよい食事をとり目標カロリーを維持するというものです。


回答
先ずはその管理栄養士さんは玄米を知っていないのでしょう。
「玄米が栄養が多いために白米に比べカロリー値が高い」とおっしゃったのは意味不明です。
実際はほとんどカロリーは変わりません。

そのカロリーをしっかり燃焼してエネルギーを引き出すのは胚芽部分の豊富なビタミンやミネラルです。
白米食だけではエネルギーとして引き出せないので代謝異常から脚気になったりもします。

ですから、そもそもが誤認なのでこれについては回答しません。

さて、以下の質問についてです。
「玄米食的な「思想」と、「科学的な」栄養指導による腎臓病対応の食事療法の矛盾についてです。玄米食は全体的な体質改善に効果があるものだと認識しています。一方、腎臓病に対する食事療法としては、たんぱく質と塩の制限をした上でそれを補いつつバランスのよい食事をとり目標カロリーを維持するというものです。」

あなたがおっしゃるように「玄米食は全体的な体質改善に効果があるものだと認識しています」ということは間違いないですね。

私の考え方は
「全体は部分をコントロールする」ということです。

ですから、全体を強化することが腎臓病に大きな影響を与えると考えます。

身体は究極の民主主義で運行していますので、同時に改善をはかる必要があるのです。

腎臓だけが病気で他は大丈夫だとは考えないのです。

そのあたりが「玄米食の思想」ということですね。

科学は哲学によって支えられるものである。そういう意味で玄米食の思想は科学を支えるための土台だと思っています。

その哲学思想から導き出される方法論は運用できる現実的な科学であるということです。

玄米思想、これと(東洋医学は哲学に支えられています)科学は矛盾したものではないのです。

質問
一方、腎臓病に対する食事療法としては、たんぱく質と塩の制限をした上でそれを補いつつバランスのよい食事をとり目標カロリーを維持するというものです。

玄米食オンリーだとそのバランスが気になります。また、たんぱく質はとり過ぎてはいけないが重要なエネルギー源なので、炭水化物と共にほどよくとることと指導されます。その考えから、砂糖やマーガリンといった、東洋思想的な自然食の考えからすれば問題ありの要素を推奨したりします。

回答
タンパク質に関してはこれも白米と玄米はほぼ変わりはないです。
ですから玄米だからといって差し障りはないですね。

その栄養士さんは一言でいえば「自分が玄米が嫌いなだけ」なのではないでしょうか。

砂糖は空っぽの栄養素でかえって代謝異常を起こします。
カロリーだけを取り上げて判断するのは危険です。

マーガリンを勧められたというのも???
よほど勉強が足りない栄養士さんなのではないでしょうか。


最後に
若年性糖尿病で若いうちに失明し透析に至った女性の食養を十数年してきました。

彼女は顔色もほかの透析患者のように黒くなく、透析後に最初はすごい冷や寝込むという状態でしたが

玄米食とほぼ動物性を控えた食事で十数年元気に過ごしていました。

途中で結婚されてご主人に腎臓をいただきさらに元気です。

腎臓移植の際もご主人より先に退院しています。


腎臓病の食養は難しいですが可能です。

思い出しましたが

5歳の子供の末期がんを相談されたことがあります。
玄米を食べて末期がんは完全治癒したのですが、生まれつきの腎臓病でもあったのです。

医師には一生腎臓病の通院が必要と言われていたようですが、それも勝手に治っていました。

食養法も独学してください。

また、セミナーにもご出席されてご参考にしてください。









posted by 変才冨田 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月19日

食で人は成立する。

いつもお世話になってます。

嬉しいコメント頂きました。

明日のエゴギョウの東京セミナーに父・母と3人で参加させて頂きます。

父は長い間躁鬱病で苦しんでおり、昨年くらいはほぼアルコールでしか栄養をとれず、いつ死んでもおかしくない状態でした。

しかし、7号食セミナーに参加させて頂き、玄米甘酒を少しずつ飲ませたところ、少しずつ食欲と元気が湧きました。 体調を気にするようになり、病院嫌いだった父が自発的に検査を受けるようになりました。

そんな姿を目の当たりにして、人は食べ物からできていることを実感し、食の大切さがわかりました。

元気になったら夫婦喧嘩が多少多くなってきたようですので、明日のセミナーでエゴギョウを学び、家族のコミュニケーションに活かしたいと思います。 楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。

終了
そうですか。良かったですね。

先ずは玄米甘酒から始めれば良いよと言いましたね。覚えていますよ。

今日の話も役立つと思います。

10月の4日も東京で7号食と姿勢の話です
姿勢が変わると歩きが変わり、歩くと心身のエネルギー代謝がダイナミックに変化して、心に大きな影響をもたらします。
posted by 変才冨田 at 08:51| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

当たり前で無い考え方がトラブルを招く2

実は、あたり前ということが難しいですね。

「あたり前」が分からないので苦しむわけです。

健康生活の「あたり前」はまだわかりやすいですね。

夜更かしや過度な飲酒、ごはんを食べないなどは「あたり前」でないことはわかりますよね。

もっとも健康法ということになると原理原則を知らないと迷わされることも多くなります。

人を殺してはいけない。

これって「あたり前」ですよね。

けれど戦争になって眼の前に相手国の兵士がいたら殺すのは「あたり前」です。

兵士だけでなく一般市民だって殺害の対象になります。

無差別テロに対して非難をするのは「あたり前」ですが

アメリカも日本もかつての大戦では無差別テロをやっていました。

「あたり前」というのはその時の国の在り方でクルクル変わります。

そういう経験からクルクル変わらない基準が必要になって日本では世界に類例のない「平和憲法」をつくりました。

この憲法を基準にして、つまりこの憲法の考え方を「あたり前」として生活の土台としたのです。

安倍さんはアメリカにとっての「あたり前」を日本に適用しようとして憲法を蹂躙しています。


さて、「あたり前」をどう考えるか?

ここでは部分と全体の関係を考えねば分からなくなりそうです。

例えば「世間」というもの。これは個々人を取り巻く全体です。

この「世間の流れて行く方向性」というものが「あたり前」ということになりそうです。

その方向性と逆の方へ行くと「あたり前でない奴」ということになります。

みんなと同じことをしないのは「あたり前」でないので摩擦を生みます。

戦前の日本で戦争反対を言うのは大きな摩擦となり「非国民」と糾弾されて牢獄行でした。

安倍さんは「僕のあたり前」を「これから日本のあたり前」にしようと頑張っています。

安倍さんの「あたり前」とは「アメリカ支配層のあたり前」と重なっています。

アメリカの戦争に日本が参加するのはあたり前なのですね。

これからの一週間は日本の歴史が大きく変わる運命の一週間になります。

国のために戦争に行くのはあたり前となるのか

人殺しをしないのはあたり前がこれからも通用するのか

分岐点です。

IMG_0936[1].JPG
この「戦争アカン」の運動はあたり前だと思うのです。











posted by 変才冨田 at 00:33| Comment(4) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

引き寄せの法則 本当の意味2 旅に出る、というメイン・テーマがあってこそ起きる引き寄せ

以前に書いた記事を再揚してさらに続きを書きます。


これは少しも不思議なことではない。

それどころかあまりに当たり前な7ことです。

実は、これは引き寄せられの法則でもあるのです。

ある一点に神経を研いでいれば一瞬のチャンスで心身が動く。

意識がソレにとんがっていなければチャンスが来てもそれを察知しない。

いつもソノことを考え続けていれば、ソレはふっと目の前に現れる。

即座にあなたの腕は動きソレを手にするだろう。

後になって考えればソレは偶然やってきたもののように感じられる。

けれどそれは引き寄せたわけでなく、そう感じてしまうものだのだ。

偶然というものはないのだ。

神経を研ぎ澄ましているから目の前にソレは必ず現れる。

眼を開けていても眠っている人は大勢いる。

観察とは単に眺めているわけでなく、ソレのことをいつも考えているので

チャンスの尾っぽでも影でも判るのだ。

匂うから掴んでみたら、その先にソレがひっかかっているのを見つけるのだ。

観察とは全神経をソレに注いでいることなのだ。

チャンスは常に人が運んでくる。

人を認めていない人(認証できない人のこと)には引き寄せの法則は働かないようになっているのだ。

人を大切にしよう。

自分がその人にどんなチャンスを与えることができるのか考えてみよう。

それこそが自己を認証する手段なのだから。

自分が他者になにをプレゼント出来るのかを考えることが自己認証といえる。

(ここから続き)

偶然必要な情報やモノがやってくるわけでなく、それはいわばいつも前を通り過ぎている。

神経が鈍いので単にソレが見えていないだけなのだ。

神経を研ぎ澄ませたときソレは見えてくる。

ソレについて考え続けているという準備が引き寄せをつくるわけだ。

引き寄せる前にソレに意識を引き寄せておく必要があるのだ。

つまり、「一所懸命」という心の状態が引き寄せを起こす前提になっているのだ。

これを成就させるには絶え間ないソレへの意識化が必要で、

意識化するには「定まった視点での観察」が必要になる。

定まった視点とはその人の生きる方向性ということだ。

つまり、ここで何度も述べてきたことですが

散歩状態では意識化がないので目の前の事象は単に通り過ぎているだけになっている。

あなたが「旅に出る」というメイン・テーマこそが必要ということです。

メイン・テーマに沿った引き寄せが起きてくるようにしかなっていない。






posted by 変才冨田 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

セバスチャン・サルガドの映画を観てきました。

世界的な報道写真家であり、同時に故郷の荒れ果てて砂地になってしまったところを森に再生したことでも有名です。

世界中の少数民族に密着して数年取り続け、最後には難民キャンプや紛争地での報道も多数あります。

その経験は「人間にはだれでも残酷性がある」と思い知らされ

おそらく人間にあいそをつかし絶望して、次には自然を摂る方向に向きを変えました。

人が無意味に死ぬ様を見せつけられ魂を病みましたが自然が癒してくれたようです。

映画で一枚一枚見せられる極限下での人間の有様の記録は強烈です。

彼がなにを見ようとしていたかその眼差しには底なしの土性が感じられます。

「カメラを置いては泣いていた」と言うのです。

その悲しみは「自分ではどうしようもない」と見えたときにしか生まれない悲しみです。

映画を観終わってつくづく考えたことは

難民キャンプや紛争地というのは本質的には世界の最終的な排水溝だとうことです。

きれいな水は上流の人たちが使って徐々に水は汚れて、最後は難民キャンプであり、人々の非業の死のあるところが排水溝ということです。

そういう人々が不幸な分だけ上流の人々は幸福です。


文化とは生活の過剰から生まれる」といいます。

生活の過剰がありあまった人々のことを高等遊民というわけですが

一方ではこうした人々が文化を創造したわけです。

古代ギリシアの市民文化を背後で支えていたものは圧倒程な数の奴隷でした。

明治、大正の文化は小作農の貧困が支えていました。

わたしたちのどうでもよいような贅沢は誰が支えているのか。

その世界的な規模での貧富の総決算が汚水まみれの排水溝をつくってしまいます。

炭水化物を制限するような食事法はお金が無いとできない健康法です。

いや、健康法というよりそれはマクロな視点から見ればグロテスクな文化になっています。

posted by 変才冨田 at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月01日

全体性が部分を決める 2

先生、今回のブログはあらためてじぶんの軸を見つめ直すきっかけになりました。意味深い詩ですね。 見つけたら逃げなきゃと思ってた蜂が愛おしくさえ感じます 記事をシェアさせていただいてよいでしょうか。

コメント
大いにシェアしてください。

全体性と部分性の関係は深くて広いですね。
何十年もそれを模索し続けてきました。
わたしの人生上の、というより大きな哲学的課題です。

身体的にも、一つの症状は全体性からの表現だと考えてきました。

それを放置しておくと部分的な歪みがさらなる全体的歪みに発展します。

それはまさに身体全体と局部が弁証法的な対話をしていると思うのです。
その対話が建設的になるように、意識でもって食を正しく選び、正しく食べることで応援できます。

一個の人生においても同じですよね。

社会に包まれている部分が個人ですから、常に社会的思考を基盤にしたいと考えています。

ついでに元の文章を再揚しておきます。


全体としての構成をおよそ決めておかないと小説も脚本も書けないでしょう。

決めておかないと部分の流れがチグハグになってしまいます。

生命のプロセスも全体的なビジョンが先にあって部分的な進行が決められている。

ライオンの受精卵がライオンになるというビジョンに従って細部が決められて進行していく。

どこかが早くなっても遅くなってもいけない。

そこが乱れることをチグハグというわけです。


人生においても同じです。

ビジョンがない人生は部分的なところで散文状態になっており風に世間に流される。

メイン・テーマとは全体性であり、そこから戦略が生まれる。

戦略なき戦術は敗れるとは昔から言われてきたとおりである。

健康面も全く同じです。

健康に戦略的な観方がないとその時々でクルクルと健康法が軸無しでぶれてくる。


全体と部分を詩う金子みすず

読者から素敵な詩をいただきました。

富田さんのセミナーでお話を聞いていて、わたしの頭の中に浮かんでいた詩があります。

金子みすずさんの、私の大好きな詩の一つです。


「蜂と神様」

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は日本の中に

日本は世界の中に

世界は神様の中に

そうして、そうして神様は

小ちゃな蜂の中に


終わり


いい詩ですね。

部分と思えるものをさらに拡大して

極限まで拡大して、一気に極小の世界へ飛躍させます。

感動する詩とは、世界の真実を語っているのですね。




posted by 変才冨田 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月28日

全体性が部分を決める

全体としての構成をおよそ決めておかないと小説も脚本も書けないでしょう。

決めておかないと部分の流れがチグハグになってしまいます。

生命のプロセスも全体的なビジョンが先にあって部分的な進行が決められている。

ライオンの受精卵がライオンになるというビジョンに従って細部が決められて進行していく。

どこかが早くなっても遅くなってもいけない。

そこが乱れることをチグハグというわけです。


人生においても同じです。

ビジョンがない人生は部分的なところで散文状態になっており風に世間に流される。

メイン・テーマとは全体性であり、そこから戦略が生まれる。

戦略なき戦術は敗れるとは昔から言われてきたとおりである。

健康面も全く同じです。

健康に戦略的な観方がないとその時々でクルクルと健康法が軸無しでぶれてくる。


全体と部分を詩う金子みすず

読者から素敵な詩をいただきました。

富田さんのセミナーでお話を聞いていて、わたしの頭の中に浮かんでいた詩があります。

金子みすずさんの、私の大好きな詩の一つです。


「蜂と神様」

蜂はお花の中に

お花はお庭の中に

お庭は土塀の中に

土塀は町の中に

町は日本の中に

日本は世界の中に

世界は神様の中に

そうして、そうして神様は

小ちゃな蜂の中に


終わり


いい詩ですね。

部分と思えるものをさらに拡大して

極限まで拡大して、一気に極小の世界へ飛躍させます。

感動する詩とは、世界の真実を語っているのですね。










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2015年08月10日

戦争に行きたくない、というのは利己主義の極みだ

SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしているが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己主義的考え方に基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。
自民党の武藤貴也衆院議員の発言

いやー、武藤先生。あなたは偉い!
お仲間の谷垣幹事長は「舌足らずな発言だ」と言ったそうですが、なんのなんの良く舌が回っています。

きっとあなたが所属する日本会議の皆さんも会合では勇ましい発言が飛び出しているのでしょうね。

そうそう、あなたが所属する別な団体でも「マスコミを懲らしめてやらねば」という正義感あふれる発言をした人もいたのでした。

それはそうとあなたも戦後教育を受けてきたのですよね。
どうやってその利己主義を蔓延させるような教育の被害を受けずにすんだのでしょうか。

そして戦前の教育をどうやって身に着けたのでしょうか?

どなたの薫陶を受けたのでしょうか。とても気になるところです。

思うにあなたはとっても素直な人のように思えます。

いやらしい「腹芸」など一切せず単細胞的思考の真髄をきわめていらっしゃるようでとてもうらやましいです。
普通なら思っていても言えないようなことをスンナリ言えるのは、きっとあなたの村人も理解者ばかりなのでしょうねえ。

「戦争なんか行きたくない」人たちを利己主義の極みだというのですから
一旦事あらば真っ先に戦場にかけつけたいのでしょうねえ。勇ましいことです。

待望の「アカガミ」を待たずきっと志願されることと思います。

あなたの好きな言葉に「滅私奉公」があるようですが、滅私奉公した人たちの60%が戦闘で死なずに餓死したという統計があります。

今のうちに宴会会議で気勢をあげてよく飲み食いしておいてください。

「戦争に行きたくない」というのは非常に素直で真っ当な心情だと思うのですが
戦後教育は素直で真っ当な考えを表明できるように保障したのです。

あなたも素直に表明されているので、これは戦後教育の成果なんですよねえ。

エゴギョウ診断
火性 20点  土性20点(そばに居る人たちだけに向けられている)見えない人たちには0点

金性 30点(満点を突き抜けています)素晴らしい単純思考でレッテル貼りに卓越されています。
思い込み度数もとびぬけています。
水性0点 「今どういうときか考えろよ」と安倍さんはきっとひやひやしているかも。
木性 3点 ○×式の戦後教育の成果を体現されています。





posted by 変才冨田 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする