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2016年04月04日

この世界の中心的な構造を理解すれば、すべては解決する

この世界の中心法則を理解することは生き方に関わってきます。

魚は水を理解はしていないでしょうが、皮膚感覚で水を納得しているので自由に泳げるわけです。

この世界の中心法則とはなにか。

それは「無常」ということです。

これは仏教の哲理でもあるのですがマルクスの弁証法的唯物論でも言われています。

「すべては生成変化する」

そして

「すべては連関(つながっている)しつつ変化しあっているとも」

これは仏教でも「縁が因果法則の元」であるとも言います。

さて、「無常」を理解するだけではダメで腑に落としてこそ生き方が変わります。

「無常」を胃の腑に落とせばあなたはただちに「明るく」生きることができます。

人の煩悩の原因は「無常」がわからず、永遠に変わらないことを願っているからです。

「永遠の愛」などないのです。

永遠の愛を誓ったのに裏切ったという「憎しみ」が生じます。

続く
posted by 変才冨田 at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月03日

幸せな人生を創造するなんでもない方法3

以下は5年前の記事です。

「今日で7号食が三日目です」という女性がいらっしゃいました。

彼女は7号食のベテランです。

何回もできるというのは日常化しているわけで、日常化できるのは動機が強いからです。


動機は「いつまでも美しくありたいから」ということです。

もう一つは身体的な危機感です。


この二つの動機が7号食を成功させているわけです。


この場合の「願望実現」とは「美と健康への欲求」ということですね。

どのような願望も動機の強さが成功に比例的に働くわけです。


そういう意味では

7号食という短期間ではなく日常的に「美と健康」を追求できる動機こそが必要です。


7号食を実行する動機よりも日常の「快楽食」への動機の方が強いのです。

ですから、太ってきて体型の崩れや身体の違和感という現象をつくりだすわけです。


いけない習慣にはいけない動機があるのです。

動機の底にある欲求がなぜ生まれるのかを考えることは

良い習慣に切り替えることになります。


こういうことは仕事にも言えます。

突貫的な仕事をするときは強い動機がありますが(7号食をする動機も同じですね)

(私のように「締め切りに追われているとか」)

やはり良い仕事の習慣を創造するには動機をこそ強化すべきです。

「願望実現」の願望の生まれる原因になる欲求を考えればよいでしょう。

あなたの願望はどのような欲求から生まれているでしょうか。


ダイエットや健康を実現するには

基本食が楽しいという動機をどう強化するかが課題です。

仕事も同様で、日常的な仕事の動作を実行することが仕事成功への必須です。

日常的な繰り返しの仕事をどう楽しくするかも、その底にある動機の強化なのです。

保険業界では人が動く大きな理由に

1 恐怖からの回避欲求 

2 安心への欲求

その他「これをすると1万円収入が増えますよ」よりも「これをすると1万円損をしますよ」の方が強烈に人を動かすといいます。


みなさんはどう思われますか。

ここから新しく書きます。


1も2も「楽しい」ということは書かれていませんね。

人が動く動機は恐怖や不安からの回避があると言うのです。
詳しく言うと恐怖感であり不安感という感覚から逃げるということなのです。

一言で云えばわたしたちの内部にある「獣の感覚」に従わされているということです。

こういうことは仕方のないことでもあるのです。

恐怖心を失うと危険なところに平気で出かけて命を失う恐れがあるので、こういう装置に従うようにできているのです。

けれども、わたしたちの脳はそうした不安や恐怖を感じる下位の脳の上に大脳皮質と言う発達した新皮質を創造したのです。
それには理由があるはずです。
動物のように恐怖感や不安感では「よりよく活きられない(つまり、もっと楽しくしたい)」ので、それらの感覚や情動を乗り越える脳を創造したわけです。

大脳辺縁系という動物の脳でもおそらく発達した哺乳類ほど「楽しさ」は感じているでしょう。
子犬も子猫も楽しそうにじゃれていますからね。
けれどその「楽しさ」も感覚的です。ですから永続性がありません。
猫じゃらしなどのなにか外部からの刺激に対して反応しているだけなので依存的といえます。

「楽しみたいという」自発性を促す欲求はあるようで、動かなくなった毬を自分で動かしてじゃれていますね。
けれどマリを自分で作ることはできないのです。
だからここで進化はストップするのです。

ところが

毬をつくればもっと楽しめるじゃあないか・・・
ということで
毬のイメージを脳に保存して(毬・楽しいというセットで保存)
毬のイメージを実現しようします。
毬をイメージするとセットになっている楽しさも感じることができワクワクします。
毬をつくるためには適当な材料が必要です。
材料集めに「ワクワクして頑張ります」

ところが材料が集まっても、それをどう毬にするのか。
これも毬のまあるいというイメージがあるので手で丸く固めていきます。
「もっといい方法がないか?」
ということで固める道具のイメージを作ります。
これは手で固めるイメージからスタートしています。

つまり遊ぶための道具をつくるための道具を作る、という飛躍した意味を持ちます。
道具作りもワクワクと夢中でやります。
どこにも頑張っているという辛いイメージはないですね。
それが人間の誕生ですね。

ここから判ることは働くことが辛くなり理由はどこにもないということです。
仮にあったとしても、それは楽しい辛さなのです。







posted by 変才冨田 at 18:34| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幸せな人生を創造するなんでもない方法2

要は「つまらないこと、苦手なこと」を楽しんでできるようにすればいいわけです。

「今、辛いけど努力すればそのうち楽しくなるだろう」

これは、やがては

「一向に楽しくならないのは自分の努力がまだ足りないからだ」

と、さらに我慢して努力する。

こういう人はどんな成功を思い描いているのか顔を見てみたいです。

不憫でなりません。

ガっついているのです。

実は最小の努力で最高の結果を望んでいます。

貪りは楽しからずや、という言葉もあります。

本音は努力したくないのです。

けれど、努力しないと幸せになれないという「思い込み」があるので
我慢して苦しそうな顔して努力しようとします。

顔は他者に見せるためにあるので、その顔を誰に見せようとしているのでしょうか。

おそらくは両親に見せないと立つ瀬がなかったのでしょう。

両親は楽しく勉強ができるということを知らなかったのでしょう。

楽しく勉強をしている顔を見たら「勉強していない」と思って叱責したかもしれません。

楽しんではいけない!そうした暗示を与えているのです。

そうした暗示が心に入っている人には「今を生きている人」は1人もおりません。

さて、幸せになる方法は「今を生きる」以外にありません。

そして、その「今が楽しくてしかたない」ということです。

どうやればそのような状況を創造できるでしょうか。

続く




posted by 変才冨田 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幸せな人生を創造するなんでもない方法

冨田先生! 塚田農場 銀座店の尾形瞳です!
つんつん爪楊枝してもらった火性のワガママ女です! 昨日はお忙しいところ、 本当に勉強になるお話をありがとうございました!
楽しすぎて、全然眠くならなかったです。笑 ブログ読み返します(^-^)/ ぜひ塚田農場にも食べにきてくださいねー♪♪

回答
彼女から題の質問がありました。
さて、なぜ眠くなるのかにはいくつかの理由があります。

@睡眠学習に意欲が高い。
A講師の声に催眠効果がある。
B子供の頃にインストールされたOSに勉強すると早死にするという暗示がある。
などが考えられます。

対策
わたしの講演では眠る人はあまりいませんが、それでも眠くなる人は昨晩夜更かしをしているのです。
そう思うようにしているのです。
講演している最前列でいびきをかいて眠られると、窓から飛び降りたい衝動に駆られ
その人を身代りに落としたいと願います。

眠くなるのは講師やその話の内容にあるわけではありません。
まして講師の顔にあるわけでもありません。

例外として
電話帳を棒良読みするセミナーでは眠くなる可能性があります。

棒読みではなく唄うように電話帳を朗読されれば眠らないでしょう。


さて、ニーズを感じられなければ集中できないのです。
この話を聴いた後でテストがあり、合格すれば1万円プレゼント
あるいは、合格しなければ1万円徴収されます。

そういうセミナーであれば眠らないでしょう。

要はあなたのニーズなので、原因はあなたにあるのです。

それは生きる幅がまだ狭いのでニーズも小さい。

様々なことに興味を持つ人はどんな内容でもそれなりにニーズが生じるのです。

そこで対策ですが

面白くない講師の話をする講師を観察するところから始めます。

頭の先から靴まで観察します。

そして講師自身がその話に退屈していないのかを観察します。

嘘をついているかどうかも観察します。

眼をよくしばたたせる人は嘘つきです。
わたしを観察してはいけません。

講師の姿勢を観ます。
それで、ああこの人は右の腰痛があるなーとわかります。
今朝のこと、右重心で奥さんに後ろから抱き付いて背負い投げをくらったな、くらいはわかります。

話の内容も「どうして面白くないのか、自分だったらどう話すのになー」と考えるのです。

どうですか、眠る暇なんてなくなりますよ。


さて、これは昨年の文章なのですが重要な問題が孕んでいますので、再度考えます。

重要な点は
「さて、ニーズを感じられなければ集中できないのです」

「要はあなたのニーズなので、原因はあなたにあるのです。

それは生きる幅がまだ狭いのでニーズも小さい。

様々なことに興味を持つ人はどんな内容でもそれなりにニーズが生じるのです」

というところですね。

セミナーなどでどうしても眠ってしまう、という相談は結構多いのです。

脳は成長したがっています。

なのに眠ってしまうのには二つの理由が考えられます。

脳は興味のある場面では集中力を発揮します。

@眠ってしまうのは興味が薄いわけです。

愉しければ絶対に眠りません。

A興味はあるのに眠ってしまう。
この理由は情報の未整理にあります。
入力された多くの情報がネットワークを組んでいないのです。
知識として脳のなかで孤立しているので有機的につながっていない。
情報がネットワークを組んでいると新しい情報はそこにすぐに組み込まれますので
新しい発見として脳は楽しみます。

では、どうやってネットワークを組むか。
それは一段上のマクロな視点が持てれば組めます。
これがハナムラ先生のいう「まなざしのデザイン」なのですね。

学び方はこれに尽きます。

一段視野を上げたセミナーで学べばいいのです。
そうすると脳は楽しくなり集中制を勝手につくるわけです。

そんなセミナーがあるのですか?

ありますよ。

確か冨田というのがやっているセミナーがそうじゃあないかな・・・。










posted by 変才冨田 at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月26日

ハナムラチカヒロ先生との対談

以下はハナムラ先生のファイス・ブックでの発言です。

本日の午前中は♭にて冨田先生と対談を。
先生とはこれまで散漫に対話を重ねてきたが、これをきっちりと記録して発信することにする。

冨田哲秀先生は2014年から♭に入居しているバイオライン研究所の所長で、東洋思想による食養学の専門家。
食と身体と精神と環境がいかに結びついているのかという観点から、膨大な研究をされている民間の研究者だ。
僕自身のまなざしのデザインや風景異化論とも非常に呼応していて、いつも二人で話しこんでしまうが、その内容が非常に刺激的で、二人で話するのがもったいないので、これを映像や本などの媒体で、社会化していければと考えている。
僕自身は、この冨田先生の膨大な経験をちゃんと理論化して、自分の研究の中にも取り入れたいと考えている。

対話の大きなテーマとしては「生命と環境の進化」について。
一回目の本日の対話のテーマは「姿勢」で、2時間ほど対話した。

姿勢は「姿(すがた)の勢い(いきおい)」と書くが、動くエネルギーと動物の身体の構造とには密接な関係がある。
内臓系が集中する動物の前面と、体壁系で構成される背面との関係が、実は人間の「欲望」と「意思」と関係している。
人間の前面と背面は、足の内側と外側の筋肉とつながっていて、それが最終的には足の裏の構造、特に親指と小指と中の3本から構成されるアーチへとつながる。
だから足型を見ると実は、その人の身体のどこに問題があり、どういう性格をしているのかは全て理解できるというのが、概ねの冨田先生の話の骨子だ。

その他にも、進化する際の「まなざしの高さ」が動物の判断力とどう関係するのか、内臓や四肢と脳がいかにつながるのか、意識と無意識が近代以前の文明と近代の文明との違いにどう影響しているか、など多岐に渡って話をさせて頂いた。
これらをテキストに起こして、対談本として育てていきたい。

それを仕込みつつ、まずは自分の今書いている「風景のジャメヴュ」を完成させねば。

終了

最近、冨田短命論が出てきたのか「死ぬ前になんとかトミタの考えていることを文章で残しておこう」
ということがあるようだが、あいにくと僕は100歳までは生きているだろう。

けれど、その前に「ボケが入るだろうと」とも予測されての企画になったらしい。

さて、この対談の前に何回も夜に「与太話」を繰り広げてきた。
その内容は縦横無尽、横断歩道、言語道断なもので、これは残しておきたいということになっていた。

対談とはなにか。
それは会話ではなく相手の発言に触発され、誘導されどこに行きつくのかわからないけれども
終わった後思考の跡がこれまで以上に整理され、止揚された状態で残るということです。

第一回目は「姿勢」がテーマでした。

姿勢を裏付けているもの、我々を立たせ、起たせる動機がある。
その動機は「腹が減った」に他ならず、その欲求が起因となって人を立ち上がらせ、その目的に適った姿勢を取ることになる。

欲求は腹から(内臓)生じて、それを実現するために背中という壁が前面の柔らかい内臓を持ち上げて立ち上がる。
その結果を人は「姿勢」と呼ぶわけだ。

その姿の勢いは内臓の欲求に対応するだろう。
欲求のない「姿勢」は目的を失っているので「立ちすくみ」ということになるだろう。

背中は精神を生み出し、内臓は心という欲求を生み落とし

精神は督脈(背中)、心は任脈(お腹)に運ばれ頭蓋骨内で合流する。

二つの力は頭蓋骨内で渦を生じさせ、意志を生み出す。

精神と欲求に裏付け指示された意志は脚を目標に向けて踏み出す。

とまあ、こういう感じで始まったのが第一回目の対談でした。



posted by 変才冨田 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

現代的奴隷制度

先日はありがとうございました。
ブラック企業。 そこに染まってしまうと、元の自分とずれてしまっていることを意識できないので大変だなと思います。
当時、ブラック企業で働いている時に周りをみてそう思いました。 僕は、1年で退職しましたけれど (^^)

コメント
「元の自分とずれてしまっていることを意識できないので・・・・」

千尋が働いていた湯屋はブラック企業で、多くの女性たちがそこで名前を失っていました。

周囲の期待に応えようとするほど自分を見失ってしまい、もともとのゾ分の名前を忘れてしまいます。

こういう人たちの別名を「現代的奴隷」と言います。
潜在脳はこれに気づき、最終手段が「鬱」になって自分を取り戻そうとするのです。
posted by 変才冨田 at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

本日は夜学です

今回は「する」ということを考えます。

「する」ことでなにが得られるのか。

「しない」ことでなにを失うのか。

教育で「しない人」を「する人」に変化させられるのか。

人を育てるとはどういうことなのか。

仕事ができる人がなぜ人を育てられないのか。

しない千尋がなぜ「する」人になれたのか。

このあたりが判ればだれでも「する」人になれるわけです。
posted by 変才冨田 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

その働きは自覚的か無自覚か?  それが問題だ

千尋はハクに「ここでは働かないと消されるか豚にされてしまう」と聞かされ
湯バーバに頼んで働くことになりました。

名前を取られて「千」に変えられ
寝る以外は働かされるというブラック企業も青ざめるような魔界の湯屋で一所懸命働きます。

他の者たちはすでに元の名前を忘れてしまっていますが、ハクに「自分の名前を忘れるな」と忠告されています。
このあたりが非常に重要なところです。

ブラック企業では名前を忘れてしまった人たちが大勢います。

それに気付いて鬱になる人や自殺という手段で自己を取り戻す人もいます。

働くことそのものが目的化すると名前を忘れてしまいます。

なんのために働くのか、それを忘れてしまった人々は奴隷化するわけです。

よく働いていると湯バーバに褒められて、そのことで「褒められる」ために働くことをしません。
賃金が多いというのは「褒められた」ことと同じで、それが労働の目的になってしまいます。

今、自分がなんのためにどういう「意味づけをして働いているのかを自覚している人は奴隷になれません。

どんな長時間労働でも自覚的な人は名前を忘れないのです。



posted by 変才冨田 at 23:39| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

潜在意識に働きかける1

多くの病気は潜在意識が引き起こしていると思うのです。

なぜなら 顕在的な意識では病気になろうとしても無理なのです。

胃に穴を穿けるなど意識でできるものではないのです。

一種の超能力ですね。

潜在意識にはこの意識を超える能力があるのです。

ですから、治癒へと導くためには潜在意識の協力が不可欠なのです。

潜在意識の扉を開けるには病になった理由が物語られる必要があるのです。

その物語は間違えてても一向に構わないのです。

本人がそれを「本当だ」と思えればいいのです。

民族固有の神話も、個人的な思い出の中に宿る誰にも語られなかった神話があります。
それは自分の存在への意味づけです。

それらは間違いや思い違いであったとしても、そしてそれが現実を生きにくいものとしていたとしても

存在への意味づけなのです。

マイナスにであれプラスに作用してであれ、それは自己存在の物語です。

潜在意識はその物語で生きています。

マイナスに作用しているのなら、それで病気を表現しているのなら

新しい建設的な意味づけをすればいいのです。

どのような病も物語られることを欲しています。

潜在意識に新しい物語を吹き込めば風向きが変化して病は癒されます。

その物語が間違っていたとしてもいいのです。

なぜなら潜在意識は癒されたがっているからです。

太古の昔のシャーマンはこれをやっていたのです。

「あなたの病は狐が憑依しておるからで、今追い出してやったぞ」

こういう物語で実際に平癒する人もいたのです。


仕事でうまくいかない!

それも病として捉えれば

潜在意識がそのようなうまくいかないという物語を信じているからなのです。




posted by 変才冨田 at 01:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月12日

「生きる力」は自覚的な「する」が引き出す  千尋に見る覚醒

これも過去記事ですが、最後に追加します。


人は気分のよくないときは力を発揮できないのです。

一番気分がよいときとはどんなときでしょうか?

そう、遊んでいるときなのです。


人が智恵を発揮するときも遊んでいるときなのです。

頑張っているときは緊張過度でうまくいきません。


「智恵を出さない人は助けない」

そう云った大臣が辞任しましたね。

現在被災して気分がよいわけがない人たちに「知恵を出せ」と強要したのです。


でも、「智恵を自ら出す人が救われる」ことは真実です。

でも、誰かに助けてもらうわけではありません。

上から目線で助けてやろうというのは、実際には助けられないのです。


さて千尋は湯屋で智恵をだしました。

それこそ起きて寝るまでの長時間労働です。

けれど、千尋はそこの労働で自己を回復したのです。

両親と車の中でのあのアンニュイな千尋はいなくなりました。

わたしたちの労働と千尋が湯屋でした労働に違いがあったのでしょうか。

あるのです。

同じ労働という名がつきながら天地の差があったのです。

それは主体的な、つまり自覚的な労働であったか、無自覚の労働であるかの違いです。

前者は建設的、後者は浪費的(時間の)です。

posted by 変才冨田 at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

現実に、たった今に働きかける方法

現実世界と抽象世界

日々ニュースで流れる世界の映像は抽象的世界。

目の前のあなたの眼に流れている映像は現実世界。

前者の人々は手で触れることはできませんが

後者の人々は手で触れることができます。

確かめるには

目の前の女性にタッチしたら確実にビンタがもどってくるかもしれません。

痛いおもいをします。

相互に影響をしあっているのが目の前の現実。


ところが目の前の人は、あなたが目の前にいないときは別な現実を体験しています。

それぞれの人の目の前にはあなたの知らない無数の人々がいます。

そして、その無数の人々の目の前には無数の人々が折り重なって存在しています。


それは前者の世界そのものです。

つまり

目の前の人からあなたと世界はつながっているわけです。

目の前の人は世界を代表しているのです。

目の前の人を認証して幸せにしよう。

そして目の前のモノを認証しよう。

あなたの持ち物は世界の人々が無数に重なって出現したモノです。

要らないものは「ありがとうございました」と言って捨て

要るものとはあなたの意識が認証したもの。

それはあなたの一部。

だから、それらを見失うとはあなたの一部が見失われたこと。

置き場所を確定するとはそのモノを認証したことです。

そして

そして

目の前ではなく、目の奥

つまり、あなた自身の認証をしよう。

今どこに自分が存在して、何をしているのか、一瞬一瞬の自分の住所を知っておこう。

それは世界のスタート。

「隗より始めよ」というように

あなた自身を好きになって、あなたから幸せにしましょう。

自分を好きになれない人がどうやってコミュニュケーションがとれますか?

世界を変えるにはあなたから。

posted by 変才冨田 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

自分が何をしているか分からない なぜ人は仕事をするのか?

あなたはどうしてそれをしているのですか?

仕事であれ、何気ない日常であれ行為には理由があるはずです。

理由なき行為は「意味づけができていない」ので、何をしているのか無自覚状態です。

人が仕事をする理由に「しなければ上司や嫁やクライアントに怒られるから」というのがあります。笑

でもよく考えてみればそういうことはみなさんも思い当たるでしょう。

僕もよく怒られるので仕方なくやっているということはあります。
image.jpg
こんな人が僕をいつも怒っています。
天罰が起きたのでしょうね。さっき彼女から頭が締め付けられそうな頭痛で死にそうと相談を受けました。
一瞬死んでしまえと思いましたが、化けて出て怒られるので思いとどまり
「締め付けられる頭痛は熱した油の摂取があったんじゃあない?」
「天ぷらに厚揚げを連日食べていた」ということでした。
酸化した油が頭に回って痛いのですネ。
この場合は「干しシイタケ中位を一つ、切り干し大根一つまみを400CCの水から煎じて三分の一になったら少し醤油を落として飲用します」

そして、聴覚トレが良いのです。

けれど話しているうちに頭痛が取れてきたと言うのです。
これは私と話しただけでよくあるという癒し効果なのですね(笑)

さて、余計な話でした。

人はなぜ仕事をするのか?
ここから始めなければ、人の行動は全て夢遊病となります。

続く


さて、この記事を書いてから上記の女性から「本当はもっとかわいいから!」と抗議ありました。
そうなんです、そこで以下の写真も掲載(脅えて)
IMG_1602[1].JPG



posted by 変才冨田 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「自分がなにをしているのか分からない」という状況の現代人3

コメントがありました。

おはようございます! 七号食や伝田式聴覚トレーニングをしていると、自然にあるべき方向に行動できるようにも思います。

ですが、しばらくして、食生活がおかしくなってくると、自分の軸が狂ったり、神経がおかしくなって、判断能力が無くなってきます。

七号食を数回していたら、少し、そういうことがわかるようになってきました。

また、食事だけでなく、他の影響、人間関係のストレス(たぶん自分の考え方)、運動不足、睡眠不足などから、食事に対する判断がおかしくなることも感じます。 「変になってるわ〜私」と分かるようにはなってきました。

普段から、「中庸」ということを意識はするようになりました。 たまには、変なことをする、変なものを食べるということもありますが、どこへ戻るのか知っているだけでも、七号食をしてよかったと思います。

どこへ戻るのかということは、
軸を確認できるということかなと思います。 そして、それは、頭で考えていただけではできないということなのかなあとも思います。

身体を整えるということですかね。 前の風邪が治ってから、1月、またまた、ひどい風邪をひいてしまったのは、何かがおかしかったのかな〜と思います。 無理矢理、調整させられる感じ。

わたしのコメント
自分が何をしているのか分からない状況は、自分が住所不定になっているホームレス状態だということです。

お片付けの本でベストセラーになっている「トキメキの・・・」著者である近藤まりえさんによれば

先ずは「一気に捨てる」捨て方は「ソレを心臓にあててみてトキメクかどうかで決めるそうです
二番目に残されたモノの住所番地を決める、というものがあります。

自分自身をモノであると考えたとき自分の生きる中心軸を失ったときこそ、それは「自分がなにをしているか分からない」という漂泊した感覚になるのではないでしょうか。


7号食をしつつ自分の活きる軸を考えてみませんか?

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posted by 変才冨田 at 09:16| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「自分がなにをしているのか分からない」という状況の現代人2

以下は原発のベテラン労働者の告発です。

現場に職人が少なくなってから、素人でも造れるように、工事がマニュアル化されるようになりました。

マニュアル化というのは図面を見て作るのではなく、工場である程度組み立てた物を持ってきて、現場で1番と1番、2番と2番というように、ただ積木を積み重ねるようにして合わせていくんです。

そうすると、今、自分が何をしているのか、どれほど重要なことをしているのか、全く分からないままに造っていくことになるのです。

こういうことも、事故や故障がひんぱんに起こるようになった原因のひとつです。

 また、原発には放射能の被曝の問題があって後継者を育てることが出来ない職場なのです。原発の作業現場は暗くて暑いし、防護マスクも付けていて、

互いに話をすることも出来ないような所ですから、身振り手振りなんです。これではちゃんとした技術を教えることができません。

それに、いわゆる腕のいい人ほど、年問の許容線量を先に使ってしまって、中に入れなくなります。だから、よけいに素人でもいいということになってしまうんです。

 また、例えば、溶接の職人ですと、目がやられます。30歳すぎたらもうだめで、細かい仕事が出来なくなります。

そうすると、細かい仕事が多い石油プラントなどでは使いものになりませんから、だったら、まあ、日当が安くても、原発の方にでも行こうかなあということになります。

 皆さんは何か勘違いしていて、原発というのはとても技術的に高度なものだと思い込んでいるかも知れないけれど、そんな高級なものではないのです。

 ですから、素人が造る原発ということで、原発はこれから先、本当にどうしようもなくなってきます。

終了

仕事が細分化という名の分断が起きてマクロな視点が持てなくなってきています。

広島、長崎の原爆を製造していたマンハッタン計画の現場でも同じ状況であったようです。

時のルーズベルト大統領は「この二発の原爆を作るのにおよそ十万人が関わっていたが、自分がなにを作っているのかわからない人々が大半だった」と述べています。

例えば恐ろしい地雷が開発されています。

戦闘が終了して死体が散乱している戦場後で占領した側が死体の処理をします。

その横たわった死体の下に地雷が隠されていて死体を移動した瞬間に地雷が吹きあがり上空で爆発して
周辺100メートルに存在する人々に散弾が振りかけられ全員死亡するそうです。

このような兵器は人間が設計しているわけです。
その兵器の設計やアイデアに関わった人々は「自分がなにを作っているかわかっていた」はずなのですが
本当の意味では「自分がなにをしているのか分からない」といえます。

キリストは磔にされるときに、自身を十字架に磔にした人々を「神よ彼らを許したまえ、彼らは自分がなにをしているのか分かっていないのですから」と言ったそうです。

もっと卑近な例を挙げましょう。

ストレスから自分をなだめて「ストレス食い」になっているときにも
やはり「自分がなにをしているのか分かっていない」のです。

朝起きると食卓に食べ物が散乱して冷蔵庫のなかが荒らされているので気味が悪かったという女性がいます。
誰かが侵入したと思ったのですが、これが続いたとき自分の仕業だと気づいたそうです。

夜中に夢遊病のようにして食べ物を漁っていたのですね。

けれど誰も彼女を笑えません。
多くの人が「自分の今の行為の説明をキチンとできない」という状況があるのです。


で、以下の記事も書いたのです。

判断力が低いというのは

自分が何をしているのか分からない

ということです。


広い意味での痴呆状態に現代人はなっています。

怖いですねえ。

前回、「人生には意味も意義もない」と書きましたが、

その本意は判断力が低下してしまっている状態の人は「自分がなにをしているのか分からない」ということですから、やること為すこと意味も意義もないというの当たり前ですね。

神経が鈍感ということが最悪の状況ということです。

で、打開策として以下のようなことも提案しました。

ゆっくりやろう! ということです。

不倫議員さんなど、毎日多い時で400回も女性へlineをしていたとか。

ほぼ夢を見ているような日常だったのではないでしょうか。

フワフワと脚が地に着いていないような状態ですね。

この議員さんをわたしたちは笑えません。

多くの人が「今まさに自分がやっていることも、その意味もわからなくなっている」

おそらくそうなったのはスピードを増している日常と関係しそうです。

そのスピードにどんどん脱落し、脱落した人は「負け組」ということなのですが

その果てしなくスピードを加速させるウオーキング・マシンから落ちた方がいいのではないでしょうか。

どうやって落ちるかの方法は「試しになにもかもゆっくりやってみる」から始めるのです。

もっとも効果が高い方法は二つです。

@食事を超ゆっくりやってみる。
歯の感触や味の変化をひたすら観察するのです。
100回噛むという意識ではダメなのです。
100回に意識が飛んで「今食べている」という事実を見逃してしまうからです。
増してや食事しながら他のことを考えているという状態こそ「自分がいま食べてるという事実をわからない」ことにしてしまっているのですから。

A15分だけ超ゆっくり呼吸の瞑想をやってみる。

「自分がなにをしているのか分からない」のは認識が滑っているからです。

今、やっていることをしっかり確認するには「ゆっくり」やって観察する以外にないのです。

目の前で起きていることをジット観るということをするのです。

聴覚トレなども最適ですね。

音の豊かな変化、遠くで聴こえている山鳥のささいな音にも気づくように注意して聴くのです。

もう一度、言います。

「頭が良い」とは今自分がなにをしているかが判っている脳のことなのです。

ハナムラ先生が気づいた「知恵」とはそういうことのようです。


7号食の取り組みにこれを生かしてやってみませんか?

7号食を単なる「ダイエットをしている」では、まだ「自分が何をしているのか分かっていない」状況なのですよ。







posted by 変才冨田 at 00:15| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

自分が何をしているのか分からない、という状況の現代人

不倫議員さんなど、毎日多い時で400回も女性へlineをしていたとか。

ほぼ夢を見ているような日常だったのではないでしょうか。

フワフワと脚が地に着いていないような状態ですね。

この議員さんをわたしたちは笑えません。

多くの人が「今まさに自分がやっていることも、その意味もわからなくなっている」

おそらくそうなったのはスピードを増している日常と関係しそうです。

そのスピードにどんどん脱落し、脱落した人は「負け組」ということなのですが

その果てしなくスピードを加速させるウオーキング・マシンから落ちた方がいいのではないでしょうか。

どうやって落ちるかの方法は「試しになにもかもゆっくりやってみる」から始めるのです。

もっとも効果が高い方法は二つです。

@食事を超ゆっくりやってみる。
歯の感触や味の変化をひたすら観察するのです。
100回噛むという意識ではダメなのです。
100回に意識が飛んで「今食べている」という事実を見逃してしまうからです。
増してや食事しながら他のことを考えているという状態こそ「自分がいま食べてるという事実をわからない」ことにしてしまっているのですから。

A15分だけ超ゆっくり呼吸の瞑想をやってみる。

「自分がなにをしているのか分からない」のは認識が滑っているからです。

今、やっていることをしっかり確認するには「ゆっくり」やって観察する以外にないのです。

目の前で起きていることをジット観るということをするのです。

聴覚トレなども最適ですね。

音の豊かな変化、遠くで聴こえている山鳥のささいな音にも気づくように注意して聴くのです。

もう一度、言います。

「頭が良い」とは今自分がなにをしているかが判っている脳のことなのです。

ハナムラ先生が気づいた「知恵」とはそういうことのようです。











posted by 変才冨田 at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

本日の対話 ハナムラチカヒロ氏「知恵とは今じぶんが何を感じているのか、自分になにが起きているのかがわかっていること」

ハナムラ先生との対話です。

ハナムラ「夢から目覚めてわかった!と叫びました。知恵とは今なにが起きているのかがわかっていることだと」
わたし「ほうほう」
ハナムラ「ヴイッパサナーの観察する瞑想法はその知恵を獲得する唯一の方法だとわかった」
わたし「ほうほう!」

ここから5時間くらいの対話が始まりました(笑)

世の中の多くの人は(全員ですが)自分がなにをしているのか分からない、という無明にいる。

わからないのは、自分の周囲で、世界でなにが起きているのかがわからないからだ。

自分の身体の観察を経て、その観察の仕方で世間を、社会を、世界を、宇宙を観察する。

それが般若(知恵)に至ること、それが悟りへの道筋になっている、などの話でした。



ハナムラ「聖書にもキリストが磔になって処刑されるとき、神よ彼らを許したまえ。彼らは自分がなにをしているのかさえ分かっていないからです。というのがあってキリストも仏陀に近い線を行っていたのではないだろうか」

ということは

殺人の罪に対して未成年や心神耗弱状態であったという理由で無罪や減刑がなされたりしますね。
自分のしていることの意味をわかっている犯罪は確信犯といったりしますね。

わたしたち人間の大半が「なにをしているのか分からない」という無明状態であるということは
本質的に罪が問えないのかもしれない。

問えるとしたら「お前はアホであることを無意味に続けていたので罰する」ということくらい。


ハナムラ・わたし「頭を良くした。とても良くしたい。性能を上げたい。だけでなく、これまでの配線を抜いて違う配線につくりなおしたいものだ」
という結論でした。



posted by 変才冨田 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月17日

食べるということの意味を掘り下げてみよう   食べ物を認証するっていう意味がわかる

以下は2013年の記事です。

今、これを読むと私自身のテーマの発展が見えます。

執念深く、ずっと掘り下げてきたのですね。

食べることの本質的な意味

いったい「外界のモノを食べる」とはなんなのか?

マクロな視野で観れば

それは自然界の命の大循環システムに組み込まれている行為といえます。

この世界は全てはつながっていますが

命あるモノ同士は食べ合うことでつながっています。

食べ合うことで命をリフレッシュしているのです。

物理法則にエントロピーの増大という絶対法則があります。

それは秩序あるものは無秩序へ向かうということです。

命もその法則から逃れることはできません。

いのちは秩序を保っていますが、これも「やがては無秩序へ」と向かいます。

即ち組織の崩壊、つまり「死」です。

ですから

そのままでは地球の命は全て滅亡します。

そのエントロピー増大の法則から逃れる手段として生命はリフレッシュを選びました。

生殖をして次代を産み、フレッシュな命を創りだすのです。

生命は死に合うことで食べ合う契機をつくり、生命大循環を創造しました。

自己の死を否定する(自己肯定)ことは新たな生命の否定になるわけです。


さて

食べるとは子孫を生み出すこととセットになっています。

食と性は表裏になっているのですね。

したがって「食」にも子孫繁栄の原理が貫徹しています。

カタカムナでは「ムスビ」と言いますが、これは男女のセックスのことも表現しています。

結婚という時にも「ムスビ(結)」が入っていますね。

これはお互いの性器をつなげる(結び)という意味なのです。

陰(女)と陽(男)が結んで、子孫が誕生します。

結ぶことは新たな生命をつくるということになります。

おむすびというモノ。

これも陰(右手)と陽(左手)の結びです。

片方だけではおむすびさえ作れないのです。

「食べる」とは結びです。

陽性の生きたあなたが陰性な死物と結び合って

新たな明日の生命へと向かうのです。

いわば「食べる」ことの本質は結婚と同じ意味があることに気づくべきです。

その一食はそれとの結婚なのです。

あなたが「美味しそう!」と叫ぶ時

それは食卓に置かれたお見合い相手を気に入ったということです。

結婚式が厳粛であるように食卓も実は厳粛な意味をもっています。

生死に関係するからです。

なぜ、結婚式で飲食を共にするのか。

食と性の切ろうとしても切れない意味があるからです。


けれど

気に入った相手と結婚しても不幸になるかもしれないように

美味しいというだけでそれを食べては不幸になるかもしれません。

相手を選ぶ真眼が必要ですね。

けれど、問題の相手(食べ物)でも

よく噛むことです。

噛むことはカミ、神にて通じて

あなたに同化することでしょう。

噛むことは結婚生活そのもので

相手を噛むことで理解してコミュニュケーションをとるのです。

食べるとは食べられるものとの対話になっているのです。

いえ対話とはどちらが主体になって食べているというものではなく
お互いが食べあっているのです。

私がニンジンを食べている=ニンジンがわたしを食べている
という関係です。

その対話をしないで「早呑込み」すると

相手は自己と同化しにくくなり、出て行きたがります。

それが病気の症状ということです。
posted by 変才冨田 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月16日

「する」ことからしか始まらないでしょう?2

「しない」と決めている理由

前回は

出来ない=しない という関係が成り立つと書きました。

「できない」と言うのは「しない」と言っているに等しいという関係ですね。

この関係を心のなかに堅持している人は、「わたしは変わらない」と妄想しています。

こういう人を「頑固」というのです。

この世界は「変化する」が法則ですから、そのなかにあって「変わらない」というのは妄想であるし、

傲慢というものです。

真実は「できない」と「しない」は全く関係しないのです。

この関係性を等価にしている原因は「できなきゃダメ」という思い込みにあるのです。

出来なくとも(完成しなくとも)そこへ少しでも近づければいいのです。

近づいた分だけ力がついているのですから。

できなければダメ、その妄想は根深いですね。

もう一つあります。

それは「バカにされたくない」という生き方です。

続く

posted by 変才冨田 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

「する」ことからしか始まらないでしょう?

誰も最初は力が無かった。

精子も放出された時は受精能力はないそうです。

卵子へと目指す困難な旅のなかで受精能力を獲得するのです。

つまり、受精する資格は旅への挑戦で与えられるということです。

エントリーすることで能力は磨かれ始めるってことなんですね。

なにもしないうちに「できない!」って決めている。

それは「宝くじは買わないと当たらない」という原則を知らないことと同じです。

そういうことで

「できない」=「しない」という関係ができあがっています。

ある人が「できない」って言っている場合は「しない!」って言ってるとかんがえればいいのです。

なぜ、その人が「しない」と決めているかを考えればいいわけです。

「しない」と決めているということは、言い換えれば彼は「死んでいる」わけです.

実践することで能力を獲得するわけですから、「しない」人が「成長」できるわけもなく

成長しないというのは、この世界においては老化後退しかなく、それはもはや「終わっている」ということなのです。

つまり挑戦し続けるということでしか成長できないということなのです。

出来るかできないかに拘る人は多いですが、それは大きな誤解です。

できる、できないは成長と関係のない言葉です。

挑戦しましょう。たとえ事が成就しなくともあなたは成長しているのです。

大成功です。


次回は「しない」と決めている理由を探ります。








posted by 変才冨田 at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月11日

出家の思想 5 意義は実行との関係性でしか語れない

生命の利己性がとかく通説としてありますが

実相はそれもあるし他利性もあるという

二面性で理解しないといけないのでしょうね。

生命は生命全体としてどうすることが有利なのかを考えているようで

生命全体としての利己性を優先させているのではないでしょか。


もうひとつ

また射精直後の精子は受精能力がないが、子宮腔を移動している間に先体(アクロソーム)が形成され、受精能を獲得する。

これも非常に注目するところですね。

これは「生命は行動の中で発展成長するものである」ということなのですね。

人生においても同様で

今は引き出されていない能力なのだけれど

行動することで能力は形成されるということです。

行動はなにより勝る学習なのです。

「Yes,I can」といいますが

出来るかどうかは行動が伴っていけば、という前提ですね。

「わたしにはできない!」と言い張っている人は

実行ができないという意味であって、

それができるかどうかではないのです。

「失敗を恐れる心」が実行を止めているだけなのです。

成功するか失敗するかは

新たな行動に踏み出す勇気だけにかかっていそうです。


posted by 変才冨田 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

出家の思想3 判断力とはなにか キツイ一発

判断力が低いというのは

自分が何をしているのか分からない

ということです。


広い意味での痴呆状態に現代人はなっています。

怖いですねえ。

前回、「人生には意味も意義もない」と書きましたが、

その本意は判断力が低下してしまっている状態の人は「自分がなにをしているのか分からない」ということですから、やること為すこと意味も意義もないというの当たり前ですね。

神経が鈍感ということが最悪の状況ということです。
IMG_1458[1].JPG
これは近所のお寺さんの掲示板にあった文言です。
これはキツイ一発ですね。

posted by 変才冨田 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

出家の思想 2

浮世(世間)のあたり前を語るくらいなら、それはもはや死んでいる。

本当の「あたり前」は実は怖いのです。

あなたは「自分は死なない」と思っているでしょうが、本当は「死ぬのはあたり前」なんです。

どうですか、怖いでしょう。

あなたは「わたしは存在している」と思っているでしょうが、それはとんでもない妄想なんです。

そうです、あなたは存在していないのです。

本当の「あたり前」って怖いですね。

人生に意味意義があるとあなたは思っているかもしれませんが、そんなものは元々ないのです。

無いので意味があると思える神様をひねり出して、その神様に人間を創造させたという妄想を編み出したのです。
神も仏も、そんなものはないのです。
もちろん「あの世」なんてものもないのです。

全て人の存在は無意味なので幻覚と妄想の作品ばかりです。

世間的な価値とは全て妄想の産物です。

アートは人々にそれを教えてくれるものでなければなりません。

世間的な価値が無意味なのだ気づかせてくれる、それがアートであり

アーティストというものは出家した人たちでもあるのです。

多くの人が「在る」と思っているものを「無い」と言うわけです。

それに気づくとずいぶん「楽」になるのです。

先日、小劇場の作品を観てきましたが、どれも無意味を競っていようなもので、そこに意味があるのかと考え込んでしまいました。

いわゆるナンセンス劇場なのですが僕はその無意味さに腹を立てていたのです。

僕は小劇場は衝撃場になってほしいと思います。

世間や浮世の無意味を突き付けて欲しいと思います。

そのために小劇場の役割は世間の価値は無意味だと指摘することに意味も意義もあるように思えます。




posted by 変才冨田 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月06日

出家の思想 拘りからの自由

ここでいう出家とは広い意味での価値観の変更をいう。

今ではない世界へ精神をずらしていくということだろう。

そういう意味ではやくざの世界へ行くのも一つの出家の形といえる。

今棲んでいる世界から違う世界への移行なのだ。

パラダイム・シフトの変更ということだ。

いったいそれはどういうことだろうと、考えてみた。

例えばある人が「禁酒」を決断して実行するとします。

それがうまくいくかどうかはパラダイム・シフトに関係するのです。

それは「飲むか、飲まないか」の選択として存在する間は出家できていないのですね。

出家(パラダイム・シフト)するとは「お酒がない世界」に移行するという意味なのです。

娑婆で飲むか飲まないかを患うのではなく、刑務所や入院して酒がない世界へ行くということなのです。

強制的に入所、入院しなくても意識で「それがなくなった世界」に入れば禁酒は成功します。

禁酒や禁煙が苦しいわけは、それが「在る」からなのです。

煙草を吸うか吸わないかという選択をしている間は苦しいわけですが、「僕はもうたばこは吸えない世界に居る」と考えれば難なくやめられます。

台湾では宗教的に肉が禁じられていて、その周波の人たちは肉を食べない代わりに肉もどきの料理を食べます。
大豆のタンパク質でハムやソーセージや豚肉のそっくりさんを作っています。

これは吸うか吸わないかの選択の世界ですね。

禁じられているから食べないけれど、本音は食べたいのでそういったモドキをつくるわけです。

パラダイム・シフトは変更されていません。精神的には酒池肉林の世界から出家できていないのですね。

自分の立っている舞台自体を変えてしまうこと、それが出家の思想なんですね。

こうした考え方はなんにでも応用できます。

7号食を成功させるのもこれです。

好きなものを、たとえばパンを食べるか食べないかで葛藤を起こしてしまうのですが、

パンのない世界を創造すればいいのです。

パンからの出家ですね(笑)

たとえばアトピーの「痒み」の世界からどう出家するかということです。

これは「痒み」に拘っているのです。

掻くか掻かないかの選択で悩んでいるわけです。

続く




posted by 変才冨田 at 20:11| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

スマナサーラ長老かく語りき 「存在欲を少なくする」

この意味はハッキリしないと思われるので、おそらくこうではないかと独断と偏見で解します。

この場合の存在欲は動物としての欲です。

わたしたちの存在の仕方は二面あって、それは人という動物的側面と人間という社会的側面があります。

で、長老のおっしゃる存在欲は動物としての脳から人間へと拡大したもののことのようです。

もっとも原始的な「生きたい、死にたくない、食べたい、飢えたくない」からスタートして「美味しいものを食べたい」「他人より出世したい、偉くなりたい、良い家に住みたい、「他人より親や自分の子供が大切」「子供に遺産や会社を譲りたい」
これらは全て動物としての存在欲です。

親や先祖を大切にというのはあたり前に見えて、利己的な存在欲ということなんですねえ。

「子供が勉強しないで悩んでいます。どうすればするようになるでしょうか」
わたし「子供が勉強しないからといってなんであなたが悩むのですか?」
「だって、将来が心配でしょう・・・」
わたし「なんであなたが心配するのですか?」

心配すべきは本人でいいのです。本人が将来困るものです。

このあたりは利己が隠れていますねえ。

つまるところ子供が勉強しなければ将来困ったことになって、自分にそのしわ寄せがくることを恐れているのです。
存在欲が脅かされることを心配しているのですね。

子供に勉強しなさいというのは「存在欲」から発しています。

わたし「あなたは自分の子が勉強しないということで悩んでいるのですが
隣の子が勉強しないのはどうしてあなたの悩みの種にならないのですか?」

長老は利己に根差し「存在の欲」は小さすべきとおっしゃるのです。
(そういう解釈でいいのかな?自信はありません)

で、私は長老のおっしゃる「存在の欲」を小欲であると言い換えます。

すると反対の「大欲」は利己の反対の欲だということができます。

小欲から大欲への道筋に生き方を変えていくことが人間進化と私は考えています。

利己に根差した「存在の欲」をどう扱うのかというと、それは否定しないことです。
肯定すべきと思うのです。
利己主義は悪くない、ということです。

「存在の欲」を否定するのではなく大らかに認めてあげましょう。

それを否定すると野性的な生命エネルギーが萎んでくるでしょう。

利己性をコントロールして、そのエネルギーで大欲を実行できるような人間性に進化させればいい。



posted by 変才冨田 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は小劇場の演劇を観てきました。2 遊民化とファシズムについて

4本に流れているもの、

その共通項は「遊民」現象ということです。

「行き場」を失って、文字通り「所在なさげ」な状況をこの四本は表していました。

「行き場」を失った人々はどこに存在しても一時的で仮住まい的な感覚で生きるのでしょう。

責任感の持ちようもありません。

そういえば当日いただいたパンフレットにその他の劇の案内もありました。

それは日本人旅行者が中東の紛争に出会って避難場所で滞留しているという劇です。

そこでも「紛争」という問題からは傍観的で当然ながら紛争に対しては責任を持てない人々が描かれ、その場ではまさに日本人旅行者は「遊民化」しています。

この日本人旅行者のような人々は国内にも実は大勢います。

日本の今の状況に対しての「遊民」は多数です。

小劇場におけるテーマ追及の不徹底性やギャグでお茶を濁すという流産化現象です。

ところで世の中には「ニッチ商品」というものが多数あります。

大量生産では賄えない少数者へのニーズに応える商品ですね。

BL研究所などもまさに「ニッチ」で生きている感じですね(笑)

僕は小劇場ならではの今日的で大劇場ではテーマにならないものを扱っていただきたいと思います。

二時間以上の大作ではなく30分が適正で、その時間でないと表現できないものはたくさんあるはずです。







posted by 変才冨田 at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月24日

今日は小劇場の演劇を観てきました。

4演目あって、それぞれ30分でした。

終了後に合評会を演者と観客がともにするという企画です。

今回参加した理由は最後の演目の演者を友人だったからです。

一本目から三本目までは正直言って「なんだか判らん」に尽きました。

なんでこういうものを演っているのか、その動機が判らない・・・。

時間の浪費になっている、早く終わってくれ・・・。

一本目
朝、若い自堕落そうな夫婦の場面から始まります。

夫は会社に行きたくない理由を一生懸命考えています。

雨でさえ「行けない」理由にしてしまうダメダメオ君です。

そんなダメ男君だからこそヒーローになるという妄想があります。

密かに超能力を持っており、地球滅亡の危機にヒーローになります。

と、まあこういうトホホな内容でした。

これなんか「会社に行きたくない!」を題名にして、ひたすらこのテーマで突っ走ったらどうだったでしょうか。
これは「学校へ行きたくない」と同質であり、行きたくない」のに「行かされる」事態になるのは「怒られるから」であり(現に劇中では奥さんに怒られている)、なぜ人は行動原理の中核に「怒られるから」があるのか・・・、とまあ追求すれば面白いのではないでしょうかネ。

二本目
「水取り」という題名でした。

日常よく見かける行列ですね。

この場合は名水を汲むために長い行列で並ぶ人たちの言動で話が進みます。

長い時間行列をどうして人は並ぶのか?

これも追及できるテーマですよねえ。

こういう追及があるのかと楽しみにしていると、なんだかギャグの連続で吉本新喜劇をシュールにしたような内容で残念でした。

人がなにかをする場合はなんらかの意義を付けようとします。

この行列の人たちにもそれぞれの「意義」を語らせることで、意義の虚構性、欺瞞性を表現できたのではないでしょうか。

ところでこの主演の女優さんがなかなか凄い役者でした。
「こんなおばさんいるよねー」というリアリテイがあり、漫画のような演出との違和感が面白いと思いました。

三本目
これはもう、この女優さんは病んでいるのではないかと・・・。
なにを言いたいのか分からなかったし、本人も明確でないのでしょう。
衝動と感覚だけの、全てを放り投げた感じですね。

おそらく食べ物が悪くて「気力」が無いのでテーマを追究できないのでしょう。
とうとう小さな舞台で素っ裸になってしまい、後はもう・・・。

おそらく「セックス・ワーク」がテーマだったのでしょうが、なぜ性で仕事になるのか、そのあたりをなんとかテーマを投げて欲しかった。

四本目
「あの頃は良かったよね」
僕の友人が出ており登場人物は二名の女性です。???
友人は男性です。

二人が街を歩きながらの会話劇です。
同窓会の後で友人の噂話から始まります。

彼は普通の男性のいで立ちで登場しますが、会話で女を演じていることがわかります。

扮装は男で役は女です。

アレレ、と不思議な感覚になります。

で、劇は進むのですが照明が少し明るくなり

口調が変わります。

劇のセリフがどうもおかしいという会話なのです。

それは劇の練習をしており、さっきまでの会話は劇で
今の会話は劇を練習している状況でのセリフです。

劇と劇中劇が同時進行という、見ている側の意識の切り替えが必要になります。

このセリフがおかしくないかと言えば

一方はどちらでもいいじゃあないか、と。

一方が拘ることで、一方がめんどくさいこと言う奴だと皮肉りたくなる。

こういうことはわたしたちの会話で「ある、ある」という共感が出ます。

で、そうした昔を思い出す会話が続き「あの頃は良かった、幸せだった」と
全て幸せなことは過去形だよね・・・、と展開されます。

でも、今幸せでキラキラしていることもあるよ。と例が出されますが

それもその人の子供時代のキラキラした話です。

ここからの展開をテーマにしてもらうと面白くなった気がします。

なぜ幸せは記憶の中にしかなく、今なぜ幸せを感じないのか?

最後の合評会で面白かったのは
「この四本になにか共通の流れがあるのではないか?」と出演者の話でした。

それって、いったいなんだろうと、私も考えました。

あるのですね!

それは非常に現代的な世相なのですが・・・

続く




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2016年01月19日

特攻隊員になるな!

特攻隊は戦中にあっただけではありません。

現代にもあるのです。

ブラック企業は常に特攻隊員を求め、つくりあげています。

ワタミの社訓などは良い例ですね。

以下引用
「365日24時間死ぬまで働け」、「出来ないと言わない」などと社員に呼びかけていることが週刊文春が入手したワタミの社内冊子からわかった。

『理念集』と名付けられた冊子は、ワタミグループ全社員に配布され、渡辺氏が著書で「ワタミの仕事すべてに直結し、根底で支えている思想の原点」、「この理念集を否定したときは、君たちにこの会社を去ってもらう」としている重要文書だ。また、入社内定者に配布される人材開発部作成の『質疑応答』では、勤務時間について、『「仕事は、成し遂げるもの」と思うならば、「勤務時間そのもの」に捉われることなく仕事をします。

なぜなら、「成し遂げる」ことが「仕事の終わり」であり「所定時間働く」ことが「仕事の終わり」ではないから』と記載されている。ワタミでは2008年に入社3カ月の女性社員が1カ月141時間の時間外労働で抑うつ症状となり、飛び降り自殺。昨年2月に、過労による自殺として労災認定されている。
引用終了  http://ameblo.jp/bellet/entry-11545655483.html

この会社で仕事をするということは特攻隊員に志願させられたようなものですね。

そして、人の特性をこの会社は旨く利用します。

それは、人は全て自分の為す行為に対して意義付けをしたいということを知っています。
意義付けをしないと脳はストレスに感じるからです。

無限に働かせるためには順番としては「24時間働け」は最初からいえば受け入れられません。

そこで耳障りのよい社訓から受け入れさせます。
例えば、
明るく、のびのび仕事しよう。などと社訓にあります。
どうですか、良いでしょう。
さらに
一、常に謙虚なれ 常に感謝せよ
一、他人の喜びや悲しみを共有せよ
一、約束を守る、嘘をつかない
一、愚痴、陰口を言わない
一、笑顔で元気よく挨拶をする
と続くのです。
どうですか?良いでしょう。
一人一人の社員が人間性の向上のため、
   夢を持ち、夢を追い、夢を叶える努力をする
一人一人の社員が、人として美しい生き方を追求する

誰しもが「そりゃあそうだね」と言いそうですね。
そうやって、イエス反応をたくさんつくってから
継続こそ力なりが受け入れられ
退社したくなる自分を恥ずかしい存在と責めるようになります。
ブラック企業を止められないようになります。

こういう手法は新興宗教の手法だし、自己啓発セミナーにハマりこませる手法です。

振興宗教の教義をみると、そこには「親孝行」「先祖を敬う」「人に親切にする」などが謳われています。
これでは宗教ではなく倫理道徳です。

気づいたら特攻隊員になっています。

道徳的、倫理的に人を縛っておいてから働かせるわけです。

そういう巧緻な網にひっかからないためには
1 企業の目的は倫理道徳の達成にあるのではなく、利益追求が第一なのであると判っておくことです。
2 企業理念はどこも立派ですが、利益にならないことは一切しない、ということも分かっておくことです。
3 多くの人々は道徳的、倫理的で、多くの企業は本質的にそれを守らない。
 企業はそれを従業員に一方的に求めるのみです。

倫理道徳を守りたくない企業に倫理道徳を教わることがそもそも間違いなのです。

同じ意味で

国家が国民に倫理道徳を教え込もうとする意欲は本能的なものです。
過去の戦争を俯瞰すると、多くの国は国民にウソをついて、戦争を国民にけしかけてきました。

素直に従う国民を欲するもの、これが近代の国家です。

倫理道徳は個人が生きる規範であって、それは自分で体得して成長するものです。
国が国民に、企業が働く人に倫理道徳教えてきたら、それは危ない状況だと気づくことですね。


今や、あからさまなブラック企業でなくとも、日本の多くの企業はブラック化しています。

成長できなくなった資本主義末期の企業は生き残りをかけて糖衣錠をかなぐり捨てて、露骨な本能剝き出しつつあります。

昔ならば「五時から男」
「サラリーマンは気楽な稼業」
などの雰囲気がありましたが

今や五時には仕事を終えられません。

長時間労働によって人間性そのものを蝕まれつつあります。

人間性の回復を何処に求めればよいのでしょうか。

僕は昨年起こった戦争法案反対のシールズ運動にその方向性を感じるのです。

この運動は一つの政治運動として発生したものではなく
人間性回復を目指した
ニュー・ルネッサンス運動と期待しています。




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2016年01月07日

眼差しのデザインを提唱するハナムラチカヒロ先生

車後ろにぶつけた人。

「ボディーも心も凹んだ・・・」

「良かったじゃない、ボディーはお金がかかるけど、心はタダで治るから」

別な人「車が身代りになって今年の厄を引き受けてくれたのね」

「夫が言葉の暴力をして離婚したけれど、経済力が無くて離婚できない」

「じゃあ、夫を犬だと思いなさい。毎月一回お金を咥えて帰ってくる犬なんてめったにいない。しばらく飼っておいてへそくり貯まったら捨ててやればいいじゃない」

こういうことを日常の眼差しのデザインと言います。
乾燥している日常に潤いを与えますね。

観方を変えることでさっきまで見えていた風景を異化(ちがったものに)します。

すると行動も変わりますね。

眼差しのデザインを違う言葉で表現すれば「知恵」とも言えそうですね。

物事には多面性が必ずあり、自由自在に観測点を変えられる人のことを自由人といいます。

眼差しのデザインは打開しようのない現実からの一時避難です。
避難する術を持たない人が鬱になるのです。

心の想像力で観測点を変えるのです。

こうしたことには法則技法があるのです。

それを考えよう、と提唱されているのがハナムラチカヒロ先生です。

近いうちに私とコラボした講演会をします。

posted by 変才冨田 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

癌の対処と生き方 2

これも2013年の記事からの引用で再開します。

乳がんの相談がありました。

それも一日で二件。

乳がんは確かに増えている・・・。

「転移はしていないけれど全摘出しましょう。そうでなければ放射線と抗癌剤で」

という医師の判断なのだそうです。

この時、本人に正しい判断が求められるわけですが、患者側には判断する材料を持ち合わせていないことが多いわけです。

なにもしなければどうなるか・・・。

そのあたりのことを医師に訊く患者は少ない。

また訊いたとしてもそれだけでは正しい判断をするには不十分です。

自分で調べるというような生きるエネルギーの少ない人は自分の命を他者に任せることになる。

こうしたことは日常にあります。

自分が判断しないといけないことを人に判断を委ねます。

委ねた結果うまくなければ人のせいにします。

原因を人のせいにする人は生きるエネルギーがそもそも低い。

終了

エネルギーが低いので、考えられない。そこで依存する・・・。

ここれも主体と依存の問題がありますね。

要はがん治療の仕方の是非なのではなく(自然療法か医学的治療かという是非)

ガン宣告をされた時のその人の生き方の問題なんですね。

癌という病が問題なのではなくて、癌宣告されたときのその人の生きる姿勢が顕在化したわけです。

人は癌にならなくとも必ず死ぬのです。

ガン宣告されて打撃を受ける人はそもそも「自分は死なない」と思っていたからですね。

日ごろから死生観を確立している人は、実は癌など歯牙にもかけないのです。
かえって時間が与えられたことを知って感謝するでしょう。


posted by 変才冨田 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

主体性と無知

確かに人生には節目というものがある。

竹の節目のようにグットそこで滞るのだ。

その場所は何かが終わろうとしているし、始まろうとしている結節点だ。

だから苦しい。

節目に差し掛かると誰だって苦しい。

その苦しみと対峙しないでよそ見をすると、その生みの苦しみは流産してしまい、その後は惰性で生きることになる。

節目は病気と同じように突然やってくるものではない。(例外的に事故など外的要因があるが)
着々と準備されているものなのだ。

いつ節目がやってくるか観察しておくことだ。
日常のどこかにきっと破調を見つけるはずだ。
その破調の先に何が潜んでいるのかを観察すれば、今何をどう考えるのかが明確になる。
人はその先にあるものに不安を感じ見なかったことにしてしまう。
明確ににしようとしないだろう。
「終わり」が怖いのだ。
怖いのは明確にしていないからだ。
明確になれば勇気が湧くだろう。

そうした日常の違和感としてある破調を流すこと、それを仏教では無知ともいうし無明ともいう。

日常の微かな違和感を感じる感性をこそ磨かねばならない。
感じれば動けるはずだ。
貴重な時間の浪費がなくなる。

仕事であれ恋人同士、友人同士、夫婦関係などで生じる日常の違和感がないだろうか。

そして、今の安倍政権の為すことに違和感を感じないだろうか。

なんとなく見過ごして、それを寛容だなどと流してはいけない。

竹だって節目に差し掛かった時は苦しい。
それを乗り越えた時すんなり伸びている。

最後に

あなたは日常の自分に主体性のなさを感じないだろうか。
自分が決めて取り組んだことにうまくいかなかった時、
誰かのせいにしていないだろうか。

責任を誰かに取らせようとしていないだろうか。
そういう時に違和感を自分に感じないようでは、そのツケは必ず大きくなって返ってくるだろう。
その時になっても多くの人は自分のせいだとは思えないだろう。

それを無知という。





posted by 変才冨田 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする