◆BL研究所トップページ◆
◆7号食についてのQ&A等はコチラ◆
※水素風呂についてはこちら※
◆梅ごぼうの作り方◆
◆商品案内はこちらです◆

2016年08月30日

ヴィパッサナー瞑想 11

ヴィパッサナー瞑想の中心核は「今、この一瞬に注意する」ということです。

感覚→反応 これは意識が今の瞬間に作動していないのです。
条件反射で動いたのですね。

これでは動物の域を一歩も出ていません。

今の一瞬の感覚に気づくということを重要視するのです。

無意識に「怒る」のも同じです。

この無意識をコントロールするための修行が今の感覚に気づくということなのです。

無意識の莫大なエネルギーを建設的な生き方につなげるのです。

そのためには無意識に属する感覚に気づく必要があるのです。

気付けば自動的な条件反射がなくなりますよね。

子供や部下、夫が言うことを聞かない。→ムカッ

ムカッとしたことにいち早く気づくと次の言動が違ってきます。

このことを食という現場でどうなっているのか考えてみます。

ストレス食いについて検討します。
続く
posted by 変才冨田 at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月29日

ヴィパッサナー瞑想 10

さて、蚊が腕に止まったらどうしますか?

ヴィパッサナー瞑想10日間は「殺生の禁止」があります。

庭園に出てくつろいでいると蚊がやってきます。

わたしは  蚊の刺す刺激→感覚→反応をせっせとやっていました。

蚊を見た瞬間に叩いていたのです。

叩くとき一瞬ですが蚊に対する「憎悪」の感情に気づきました。

実はこの瞑想に出発する前に事務所に蛾が大量発生しました。

無数に飛び回り壁にもくっついています。

私はひたすら新聞紙で叩きまくっていました。

叩いているうちに快感さえ感じていたのです。

蚊や蛾を見る叩くという反応がすぐに起きる。

この反応の前に観察をしなさい、というのがヴィパッサナー瞑想です。

そのことが一体どういう意味があるのか?

これを皆さんは知りたいところでしょう。

一言で云えば「怒らない人」になれるのです。

前回書きましたように「怒っていない」という状態は「いつも機嫌が良い」ということなのです。

なぜ反応の前に観察を置けばこういう状態になれるのかですね。

続く


コラム
ところで何人かに「蚊が腕に止まったらどうしますか?」と尋ねました。

腕で吹く  孫はコップで取って窓に逃がしている

などがあり、みんな優しいなぁ〜。













posted by 変才冨田 at 14:53| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

ヴィパッサナー瞑想 9

身体の観察をすることで、なぜ釈迦が解脱できたのか?
釈迦の解脱については

それは動物の特性として刺激→感覚→反応
これを克服されたということが先ず挙げられるでしょう。
感覚→観察 反応しないで観察をおいたわけです。

わたしたちは「怒らないでおこう」そう決意していても
無意識に怒ってしまいますね。

さらに怒っているという事実にも気が付きません。

ここで怒るということについてコメント
わたしはそんなに怒らないという人もいるかと思いますが
見た目で判るような顔を真っ赤にして起こる状態だけが怒りではないのです。

静かな怒りの方が圧倒的に多いのです。
不機嫌も怒りの一種であるし、嫉妬や恨みも怒りです。
それどころか「悲しみ」も怒りのある種の状態なのです。

つまり「楽しくない」状態は常に「怒り」なのです。


さて、感覚が生じて即反応している状況からその感覚を観察するということを釈迦は勧めているのです。

まあ、判りやすくいえば「ちょっと待て!」ですね。
東尋坊の自殺の名所にもこの立札があります。

新聞記事をにぎわしているほとんどの事件は動物としての反応があるだけで観察がないのですね。
少しずつ怒りが蓄積され、それにも気づかないで不機嫌になり、いつしか爆発するわけです。

刺激→不快→反応をしています。
自分の不快の根っこを知らないまま時が過ぎます。

ここで不快の原因が判らなくとも良いし追求しなくて良いのです。
ただ自分の不快を観察するわけです。
わたしが不快になっていると考えるのではなく、そこに不快があると観察するだけです。
わたしと不快を切り離して相対化します。
それがヴィパッサナー瞑想の中心課題なのです。

そして観察を続けると消えていきます。
必ず消えてしまうのです。

瞑想であぐらを組むのですが、しばらくすると痛みがでます。
その痛みを観察します。
わたしが痛いのではなく、痛みがある そう観察します。
そうすると消えるのです。
わたしの場合も確かに消えました。
というよりその痛いという状況をほぐして解消してはいけないということだったので
もはや「諦めた」ということですが・・・(笑)

ここで皆さんに質問です。

自分の腕に蚊が止まったらどうしますか?






posted by 変才冨田 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

ヴィッパサナー瞑想 8

さて、5日目のことでしたが、個人瞑想の時間に庭園でボヤ―っと瞑想していたときに(そういうのは瞑想とは言いません、妄想に近いです)

ふと気づいたことがあります。

もうじき67歳になる自分が「今ここに存在している」という不思議です。

なぜ自分という生き物が今ここに居るのかと不思議に思えたのです。

一言で云えば「許されてここに居る」という感覚が体内の深いところからジワ―っと押し寄せてきました。

多くの人の力でここに運ばれてきた・・・。

こんな素晴らしい庭園で遊べる自分がとても幸せ者に思えてきたのです。

感謝だなー、と思うとなにか熱いものがこみ上げてきました。

66歳という人生の半ばでここに来れたのは、きっとこれからの66年という半生を今までとは違う生き方にする転機なのかもしれません。

さて、瞑想です。

4日目から頭頂部を観察です。

次に頭皮全体→額→眼→耳→口→右腕→ひじから手首まで→手のひら→手の甲→各指

左腕→ひじから手首まで→手のひら→手の甲→各指

胸全体→お腹全体→背中全体→右脚太腿→膝から下→足首から下

このように身体の各部をスキャンするように舐めていくように観察します。

何度も頭頂部からつま先まで繰り返して観察します。

90分で5、6回繰り返しているわけです。

わたしは30分だけの瞑想だったので3回くらい繰り返していました。

痒みがあればその痒みがそこに在ると、痛みならそこに痛みが在ると観察します。

観察だけであってほぐしたり掻いたりしません。

状況を観察するだけなのです。

痛みがあれば、痛い理由を探ってもいけないし座りなおして痛みを解消してもいけないのです。

痛みを観察するのみです。

なぜこのようなことをするのか・・・。

皆さんも疑問に思えませんか?

考えてみてください。




posted by 変才冨田 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

ヴィパッサナー瞑想体験 7 今日の朝学の確認事項です。

これから書くことはわたしなりの解釈なのでもしかしたら違うかもしれません。
最終的には体験して皆さん独自の発見をどうぞ。

ヴィパッサナー瞑想とは釈迦が発見した究極の瞑想法で「観察の瞑想」です。
自分が今なにをしているのか?
本当に今ソレをしたいのか?
今の自分はどういう状態なのか?

などを瞑想しますが。
先ずは最初の二つは三番目をするだけで判ってしまうのです。

最初の三日間は鼻と唇のさんかっけいにだけ意識を集中します。
空気が入ってくる感覚や出ていく感覚を観察するのです。
これは4日目からのヴィパッサナー瞑想に入る前の段かいです。

いわば集中力を高めるために行います。
鼻の内側の感覚やすぐ鼻の下の感覚状況を発見します。

まさに発見です。それは日頃からある感覚なのに意識が無視している感覚です。
観察とは無視されて置き去りになっている日頃の感覚を大切にするのですね。
その感覚を今瞬間瞬間に感じること、それが今を生きるに通じるわけです。

これはこのコースの一〇日目を目標にしているわけでなく
このプロセスそのものを味わうことが目的なのです。

目的は先(未来)にあるわけでなく今まさにそこに目の前、いえこの掌中にあるのです。
未来につながる今、未来を生む今です。

今を無視して未来に目標をもつなど妄想だというわけですね。

まだ目の前にない未来にわたしは一切の手を下すことができません。
できないことを考えているのは妄想なのです。
できないので誰の役にも立てない一生になります。

できないことに挑戦する!そういうと勇壮で価値のあることをしているような錯覚になりますが、
ストレスだけ溜まり不機嫌はいっそう募るだけです。

けれども今、目の前の現実には手を下すことができます。
できることしかできませんね。
非常に具体的な課題だけが目の前に見えます。

できないことを考えてソレを目標にするのは馬鹿げています。
今目の前のことであれば、みんなできることしか考えないでしょう。
目的は遠い先にはなくて目の前だけなのです。

そういう今現在瞬間に活きているということを腑に落とすための瞑想が最初の三日間です。
もちろん10日間はソレがテーマなのです。



posted by 変才冨田 at 01:05| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

ヴィパッサナー瞑想体験 6 いびきとツンツン・セラピー

セミの抜け殻と最後の姿を同時に見たのは偶然でしょうが、わたしにとっては「意味のある偶然」でした。

このことを考え抜くことはなにかを示唆されているようです。

嗚咽したのはセミのいのちと我がいのちを重ね合わせたのだろうし、

「ちゃんと相手を見つけて終わったか?悔いがなかったか?」とセミの骸に呼びかけたのは

わたしが私自身に問いかけたのでしょう。

一週間の命も80年の命も同じなのです。

いのちの本分をしっかり全うしたかどうかだけですね。

なにか切なくて、泣いてしまったのですが

泣いて感情を逃がすのではなく、泣くという反応をしないで観察するところでした。

それがヴィッパサナー瞑想の中心課題なのです。

そして、考えるだけではまだ足りない。

瞑想コースを終了してとんでもない夢まで見させられることになりました。

このことはこの連載の最後に書きます。

さて、10日間の生活は寝食を共にしますので、いろいろありました。

同居人のいびきがすごかったです。

女性の方に参加したスタッフの話ですが

眠るといきなり1人がスゴイいびきであったそうです。

三人部屋で一人はそれで眠れなくなったとか。

それがずっと毎日続いて「聖なる沈黙」が解かれた時に
「私いびき酷くなかった?」と言われたそうです。

そこで、もう一泊あったのでスタッフがツンツンセラピーをしました。

あごの骨の下の両サイドと真ん中が施術点です。

見事に決まってまったくいびきがなくなって二人は驚いたということでした。

さて、私の方も面白かったですね。

二日目に三名が井戸端会議のようにささやかないびきを洩らしていました。

三人で話し合っているかのような会話調いびきです。

そこへいきなり重戦車が乗り込んできたような迫力あるいびきが飛び込んできました。

さっきまでの平和ないびき三重奏が制圧されてしまいました。

この時から最後まで独裁体制が敷かれました。(笑)

明日から具体的に瞑想中になにをやっていたかを書きます。


posted by 変才冨田 at 21:48| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

ヴィパッサナー瞑想体験 5

この画像はセミの抜け殻だったのです。
それがこの枝にだけ13匹も連なっていたのです。
IMG_2009[1].JPG
その後で自室に戻ってから「アレはなんだ?」と自問したところ
唐突に嗚咽してしまいました。
その嗚咽の意味が自分でもわからずとまどいました。
胸をひくひくさせながら「なんで泣いている?」となんども考えていました。

わたしは何に感動したのでしょう。
あれを見たときに「これは生死のドラマなのか?」と考えていたことでした。
そうすると不思議なことですが
一匹のセミがキチキチキチと羽を振るわせる音をまき散らし空中を大きく回転し、わたしの足元に落ちました。
指で触れると少し羽を振るわせました。
脱皮して歓喜の生を全うした最後の姿です。
彼に呼びかけました。
「ちゃんと相手を見つけて終わったか?悔いがなかったか?」と。

瞑想のチャイムが鳴って去ったあともう一度確認しました。
仰向けになって静かに横たわっていました。
昆虫って死んだときには大概仰向けの躯をさらしているのはどうしてでしょうか。
最後に天空を見たくて全力で羽を地にぶっつけてひっくり返るのでしょうか。
最後は彼の瞳にどのような風景が映っているのでしょうか。

翌日にはその骸も消えていました。

興奮が収まって気づきました。
あれが「無常」ということなのだと。

わたしの「一生の姿」を見たのです。

全ては変化する。

全ての生命は水の一瞬の形であるゆえに
やがては溶けてしまうのです。

全ては「溶解」へと突き進んでいるのですね。

「なんちゃって瞑想」しかしていませんでしたが、ちゃんと気づきがあったのです。

この時わたしに浮かんだ考えは「解脱」とはこういうことではないのかと。
解脱とは生きながらにして「涅槃」に意志で往復できることと講和での話でしたが
それは単なる比喩であって
この世に在ってもこの世の価値の思い込みから抜け出ることを言うのではないかと。

自分が死なない。
そのように思っているうちは、この虚構の妄想の価値観が絶対と思ってしまうのですが
「自分もまたセミのように消滅するもの」と腑に落とせば、この世界に与えられてしまった思い込み(妄想)
から抜け出られるわけです。
どっぷりと泣き笑いの浮世で過ごして苦しい状況から抜け出て高いところから自分の右往左往を観察できる。
その高い場所を「涅槃」と言ったのではないでしょうか。





posted by 変才冨田 at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

ヴィパッサナー瞑想体験 4

さて、二日目ですが

早速ながら大胆な行動に出ました。

みんなが自主瞑想中に庭に出て植え込みに布団を被せて天日干しにしました。

板切れでパンパンとほこりをたたき出しました。

静かな雰囲気の中に「パンパン!!」です(笑)

で、第一回目のイエローカードを引き出しました。

コース・マネージャ
「これから派手なことする時は事前に相談していただけますか?」(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
わたし「大変、モーシワケナカッタです!」平身低頭 (~_~;)

個人瞑想の時間になると庭園に出ると白いリゾート風の椅子があって、そこですっかりくつろいでいると
コースマネージャー「あのー、自由時間ではなく瞑想をやるということなので散歩は4,5分だったらいいのですが瞑想をお願いします。他の人たちのてまえもあるので・・・」

わたし「タイヘン、モウーシワケナカッタです!!」
と云いながら翌日も庭園でくつろいでいました。

この庭園は素晴らしいのです!
IMG_2016[1].JPG
中央に見える建物の二階に瞑想ホールがあります。

さて、この庭で4日目に震えるような体験をしました。
IMG_2009[1].JPG
これなにか判りますか?



posted by 変才冨田 at 12:52| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

ヴィパッサナー瞑想体験 3

ついでに、べジ食の意味は殺生の禁止という意味のみではなく、他の動物の血肉を取り入れると、その動物の見えない精神性も取り入れることになるので、それは瞑想の障害になるということもあります。
ちなみに思い出しましたが、
ビバルディの演奏で有名なイタリアのイ・ムジチという室内楽団の首席バイオリニストにブッカレッカさんにお会いしたことがあります。
彼の上半身を見るとすごく気鋭な肌で、訊けばマクロビ食をして長いということでした。
肉を食べると演奏に濁りができるので肉は食べないということでした。

さて、本題です。

同室は6名でベッドでした。けっこうゆとりがありました。
その他の部屋を見ると、床に布団という形で部屋も狭く布団が隙間なく並べられています。

思うに、私の部屋は年寄りが集められていたようで優しくしてくれたみたいです。

参加者受付の当日
17時から受付が始まり、明日からのガイダンスと注意点の話がありました。
その後、毎晩行われる創立者の「ゴエンカ師」の講和です。
直接のゴエンカ師の語りを女性が通訳されています。
明日からの瞑想指導があり、30分だけ瞑想の練習でした。
その日は夜の9時30分にはすでにわたしは眠っていたようです。

第一日目から三日間の状況
16時に気持ちの良い鐘の音で芽を覚まし、さっそくシャワーを浴びました。
で、ホールにて瞑想開始です。
で、これが・・・。
辛かったのです。
あぐらを組んで座るのですが30分で痛みが起きて、何度も座り直し瞑想に集中しません。
少しは動いても構わないということでしたが、わたしは正座したり、膝を立てたり、再度あぐらを組むなどセカセカと忙しいことでした。
眼を閉じていないといけないのですが、わたしは30分を過ぎてずっと眼を開けており、周辺を見るとみんな静止しており立派だなぁ〜と感心しておりました。

それで決意しました。
10日間をどうやって過ごすか方針を決めたのです。

どうせ30分しか集中できないのだから最初の30分だけ集中して取り組み、残りの時間は
「楽しい妄想タイム」にすると決めました。
さらに独りでする1時間半の瞑想は全て自由時間とする。
もうこの時点で最初の規律を破っていますねエ・・・。

一日三回のグループ瞑想があるので合計90分は集中して瞑想する。
90分の講和も集中して聴く。
これを自分に律しました。

このように年齢を重ねると素直に云われた通りにしなくなるのですね。
自分ルールを勝手に決めるので周囲は振り回されます。

現実に私に振り回されたのがコース・マネージャーでした。


続く
posted by 変才冨田 at 19:25| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィッパサナー瞑想体験 2

費用とか食事やお風呂などの実際的なこおもお知らせします。

基本的に費用はかかりませんが、最終日に寄付をしたい人はどうぞということです。

スタッフは基本的にボランティアです。

この瞑想コースを体験した人たちが自主的に志願されています。

このコースでの質疑応答をしてくれる先生もボランティアですから、人件費は0です。

シャワーや水道代などの光熱費は実質お金があかりますし、宿舎や瞑想会場の建造費にもお金が要ります。

これらも含めて寄付で補っています。

主催団体は宗教法人ではなく社団法人です。

そういう点では非常に安全安心(悪意の洗脳教育を企図していない)な瞑想会で、お金を目的にしていないので仏教瞑想の趣旨に合致しています。

世界中にこうした施設が100か所以上あって、全て善意のボランティア団体です。

参加者には国際色豊かでいろんな国の人が参加されています。

年齢は20、30代が多く、私が参加したときの最高齢者が77歳でした。

職業もいろいろで学生、主婦、ヨガの先生、業界紙の記者、アーテイストなど多彩で

56歳の現役で世界中のアンダーグランドでの格闘技家なども参加されていました。

この方はスゴイです。完璧な股割りをして腕で歩くという技を見せていただきました。

参加の動機は「平静心」を養うためということでした。

ちなみにタイムスケジュールは以下で、世界中のどこでも同じプログラムです。
引用
午前 4:00 起床のベル

4:30 - 6:30 ホールまたは各自の部屋で瞑想

6:30 - 8:00 朝食と休憩

8:00 - 9:00 ホールでグループ瞑想

9:00 - 11:00 ホールまたは各自の部屋で瞑想

11:00 - 1:00 昼食と休憩

午後 12:00 - 1:00 指導者との面談

1:00 - 2:30 ホールまたは各自の部屋で瞑想

2:30 - 3:30 ホールでグループ瞑想

3:30 - 5:00 ホールまたは各自の部屋で瞑想

5:00 - 6:00 お茶と休憩

6:00 - 7:00 ホールでグループ瞑想

7:00 - 8:15 ゴエンカ師の講話

8:15 - 9:00 ホールでグループ瞑想

9:00 - 9:30 ホールで質問の時間

9:30 就寝/消灯

10日間はこれに従って行動していく。

ざっと毎日10時間程度瞑想する事になる。

規律は
【戒律】


コース中は
生き物を殺さない
盗まない
性行為を行わない
嘘をつかない
酒・麻薬をやらない



古い生徒は更に
正午以降食べ物を摂らない。
娯楽を行わず、装飾をしない。
贅沢な、高い寝台で寝ない。



などの戒律がある。



正午に食べ物を摂らないというものは、フルーツやお茶などならOKだが、量に規制はない。(とは言え食べ過ぎると瞑想に差し支えるとされている。)




瞑想参加中は指導者に従う。
瞑想参加中はいかなる宗教的儀礼をしない。
聖なる沈黙:10日目の朝まで身体・言葉・心、あらゆる他者とのコミュニケーションを取らないようにします。
一人で孤立して働いているような気持ちを培うように専念します。
男女は結婚していようが分離して生活します。
原則合宿参加中は歩行運動のみにとどめます。
断食は許可していません。
外部との接触はしません。
音楽機器、読書なども禁止。

引用終了

どうですか?
参加したくなった人は変人でしょう (笑)

生き物を殺さない・・・
皆さんは蚊が腕に止まったときどうしますか (笑)
僕は無意識にぴしゃりとやって殺してしまうなぁ・・・

そういう「戒律」なので食事は全てべジで肉は出ません。
牛乳は出ますから、動物性が禁止なのではなく、あくまで殺生に関係してべジ食です。

続く








posted by 変才冨田 at 01:46| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月14日

意味づけ

脳は意味のないことをすることにストレスを感じますが、このあたり難しいです。

意味づけの無いまま実行することで、手探りを続けることで意味が意識に立ち上がってくることもある。

誰かに指示をする時に意味を教えるのはスムーズに仕事を進めるためなのだが、意味を教えることはある種の方向性を暗示して誘導することでもある。

手探りでする場合は、その人の身の丈にあった意味を発見するが、誘導された場合は必ずしもその人の実力外か為にならない方向へ導いてしまうかもしれない。

徒弟制度や弟子制度では意味づけをしないですね。
職人技を身に着ける制度ですね。

意味づけをするのは、どこか遠いところで能率主義が采配しているようです。

最近は意味さえ教えないでマニュアル通りに実行させるようです。

意味をおしえることも非能率ということでしょうか。

派遣労働が主になるとチャップリンの映画「モダン・タイムス」さながらになります。

チャップリンもマルクスも予見していました。「労働の人間疎外」ですね。



病気の方に食養を教えるときに意味づけをしておくと実行に拍車がかかり、早く良くなります。

意味づけをしない場合は失敗に終わることがほとんどです。

このことを次回考えてみます。
posted by 変才冨田 at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

7号食レポート 知識と知恵の違いは?

7号食のセミナーに参加して一通りのことを知った段階は知識です。

実践すると体得ということが起き、これが智恵に昇華します。

智恵とは身体で判っているという状態で、このことを「腑に落とす」ともいいます。

全てのことは実践を抜きにしては机上の論理ということになります。

7号食を実践した人たちは食べ物に対して体得しています。

なんども実践すると、その理解は深化して深い知恵になります。

食べ物が自分の命を質、つまり運命を担っているのだという知恵を獲得します。

この内容物はあなたのこれからの三日間の元気な命がパックされています。
IMG_1110[1].JPG

これを実践すると命に対する深い知恵を体得します。
http://www.bl-oosaka.org/トミタ式7号食/トミタ式7号食中にオススメの商品/

posted by 変才冨田 at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

即利主義的考え方

現代は「すぐに役立つ」ということを求められています。

ハウ・ツー主義ということです。

「なぜそれをするのか?」

そういう問いかけよりも

「どうやってやれば早くてうまくいくのか?」

前者の問いかけは深く探索しようという姿勢を生み出しますが

後者は皮相なものの見方でおわります。

うわっスベリな生き方が生まれる理由です。

7号食二おいても

「ダイエットできるならしたい、やり方を教えて!」

7号食セミナーで深い意味付けにまで切り込んでいることの理由を考えて欲しいのです。

全てには意味があり、その意味づけをするあなたにも独自の意味づけがあるのです。

どういう意味づけをするかはあなたの深さや高さ広さを表現するのです。

posted by 変才冨田 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月24日

先日のカラス 刹那の命とわkっておれば潔い生き方になる

子カラスはまだいました。

よたよたしておりました。

少しは飛びますがまだ初心者で高いところにまでは飛べず、手すりにつかまっています

困った風ですが、困っていないかのように首を後ろに回して眠っているフリもします(笑)

先日は親カラスがひつこくわたしを威嚇して飛び回っていましたが、今日は二匹ともおりません。

もう子カラスを見放したのでしょう。

子離れしないといけないようです。

初飛行が親離れだったようで、親も得心したのでしょう。

いつまでも関わらないようで凄いです。

何を「為すべきか」はもうわかっているのでしょう。

考えてみれば生まれたての蚊でさえ自分が何を為すべきかわかっています。

だれに教えられたわけでなく人の肌にしたいよって、その繊細な針で刺し血を吸います。

人間だけなにを為すべきかわかっていないようです。

もうじきセミも鳴きだすでしょう。

セミなどは地中に居るときから地上に這い出すときになにをするのか分かっているのです。

メスは内臓を持たず卵巣だけでお腹を一杯にして出てきます。
オスも消化器官をもたないで空っぽのお腹を共鳴箱にして鳴くつもりで出てきます。

目的はたった一つ、交尾です。
決然としたものですね。
潔いです。

4年前に書いた詩です
「ひぐらし」の永遠と刹那について

ひぐらしはたった一つの事を為すために地上に這い出たのです
ただそれだけのために 消化器官も捨ててきたのです

雄のお腹が空洞なのは より鳴き声を遠くにいる雌に届けるため
雌のお腹は消化器官の替りに卵だけで一杯に膨れ上がっているのです

彼と彼女は
たった一つのことを実現するためにだけ この世界へやってきたのです

なんと、きっぱりとした、潔い生き方なのでしょう

ひと夏の限られた時だから 身を振り絞って鳴き続けるのです

もっとも大切のことだけを その凛たる鳴動は森を突き抜ける刃となって 語り続けるのです



人間だけはああでもない、こうでもないと迷っています。
posted by 変才冨田 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

自尊感情は一所懸命の時だけ生まれる 2

良い小指は親指の役に立って貢献しようなどとは思っておりません。
小指としての責任を全うするだけで一所懸命です。
良い小指は自分のことだけを考えているのです。
なぜ頑張れるか、それは体重を受け止めないでよけてばかりいると
小指自身が美しくなくなるからです。
しっかりやらないので血液も来なくなり爪さえ小さくなってしまいます。
増して浮指ともなればその存在は脳に忘れ去られます。
孤島の駐在員が無線で本国に連絡しなくなると本部もその孤島の存在を忘れるようなものです。
脳が悪いわけでなく小指自身が問題なのです。
ところがそうした小指は脳が血液を送ってくれないからと責任を転嫁するのです。
全力を出さない人は暇ですから他者のアラ捜しをするのです。
他者の責任にするためです。

何かの役に立とうなどと奢ったやわな心は「褒めてもらおう」などという邪心が見え隠れしています。
そんな心境では全力の出しようがありません。

結果として「役に立って良かったなー」が最善です。

この世界の繋がり方はそういう仕組みです。

稲は人に食べていただこうなどと思っていませんね。

栄養がどんどん根からやってくるから仕方なくタンクを作ってそこに溜めおきます。

満ちれば落ちます。まあ、イネにとっては実は「ウンチ」なんですねえ。

結果としてそれは再度芽を吹きます。

蟻は小さな実を見つけたら精一杯身体にくっつけて運びます。

全部巣に運べればいいのですが落としながら進みます。

落とされた小さな実は、あちこちで芽を吹きます。

それは運んでいる当の蟻にとっては大失敗なのですが、マクロには大成功です。

再度芽吹いた雑草は小さな種を落としてくれます。

蟻は一所懸命に小さな種を運んでいただけです。

一所懸命にしたことが結果として他の役に立っています。

鳥は蟻には運べない大きな実を食べます。

一所懸命に食べてはあちこちで糞をして、その種を遠くまで運んで糞に混ぜて落としているのです。

消化できなかったのは大失敗ですが、マクロには大成功です。

蟻も鳥も次の世代のための食糧を準備したのですから。

そして蟻や鳥の失敗分担作業で森が形成されるのです。


一所懸命やって失敗すれば、それはあなたの認識には捉えられなくても
大きななにかを創造しているかもしれない。

褒められようなどと考えてした行為は失敗してもなんの役にも立っていない。

一所懸命の失敗は世界を創造することに一役立っている。

考えてみれば教育者というのはろくでもない人々かもしれない。

自分一個の人生を全力で生きていない隙間があるから教えるという行為があるのかもしれません。




posted by 変才冨田 at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月08日

自尊感情の微妙な境

自尊感情は必要ですが自然にこの感情が育つわけではないですね。

他者の役に立ってこそ生じて育つものです。

ところがきわどい意味がありそうです。

他者の役に立つには自分が全力で自分の役目を全うしてこそです。

小指が寄ってきた体重をしっかり受け止めれば、体重は親指に向かいます。

親指は押し寄せる体重をはねのけて蹴ることができます。

もしも体重が小指が支えられなくて小指の外へ抜けていってしまったら

親指はその逞しい機能を発揮できません。

小指が頑張れなかった結果として親指も頑張ることができません。

小指がしっかり体重を受け止めることができれば親指がその機能を使えます。

幸せの仕組みは簡単なもので

自分の持てる機能を使い切ったら幸福感を感じるのです。

鳥の翼は大空をはばたくためにあります。

捕えられて狭い籠に入れられた飢える心配が無くなっても不幸です。

翼ははばたいて幸せなのです。

小指は体重が外へ流れてきたときにシッカリふんばって受け止める役目なのです。

その責任を全うすれば親指もその機能を果たすことができて、親指も幸せになります。

親指は小指に感謝します。

その時こそ小指に自尊感情が育つのです。

その存在する意味ある場所であなたは機能を使い切っていますか?

誰かの役に立って喜ばそうなどと思っている間はダメなのです。

あなたが存在する場は誰も存在することができません。

その存在する場ではあなたにしかできないことがあるのです。

自分だけにしかできないことを全力ですれば、結果として誰かが幸せになるのです。

自尊感情とはそういうときに芽生えます。

喜ばせて褒められようなどと思っているのは依存と言うのではないですか?

随所作主 立処皆真  とはそういうことのようですね。



ついでに
責任を全うしていない小指は

爪が天井向かずに壁に向いている

赤味があり膨らんでいる(鬱血)

薬指にピッタリくっついている

そのために靴の外側が片減りするのです。

そのために

脚の外側におかしな筋肉ができて硬直し、蹴れないので足首が太くなり

逆に内側の筋肉が育たないのです。

そのために歩行や姿勢を保つのに

おかしな過度な頑張りが必要になって、疲れるのです。

小指が責任を全うしなかったことから不幸がふりまかれてしまいます。

「足楽です輪」を作った理由です。

小指を「認証」することで小指に自尊感情を持っていただいたのです(笑)


http://www.bl-oosaka.org/%E5%90%84%E7%A8%AE%E5%95%86%E5%93%81/?logout=1






posted by 変才冨田 at 23:33| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

何を問題にするかがその人の問題

大きな問題があるのだが、ソレに気づかないこと、あるいは気づかなために本来は問題でないようなことを問題にしてしまうことが我々にはある。

問題の取り違えは意図的、あるいは無意識的にやっている。

大きな土台から突き付けられている問題は絶えず波のように押し押せてきているのだが

その因ってきたる出所が不明なとき、些細な問題を前面に出して意識を紛らわせることがある。

なんだか難しい言い回しですね。

本来の問題というのは「いかに生きるか」という人生上の、あるいはいのちの問題というものです。

たとえば、わたしたちは死生観を今のうちつくっておいた方がよい。

けれど、「自分は死ぬ」ということを自覚しないように日常を生きているのでつくりようがないですね。

この「自分は死ぬ存在だ」ということがわたしたちの最大の問題なのですが、

それを忘れるために日常の問題を極大化しているということがあります。

やがては死ぬ存在ということを腑に落とし、その影を日常に落としておけば

全ては「怒るにも意味ない」問題となるのではないでしょうかネエ。






posted by 変才冨田 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

怒りと期待過剰分の関係


「怒り」は他者への依存があります。

生き方が他者に寄りかかりすぎなので怒りがわいてきます。

他者への「期待度」が高すぎなのですね。

その過ぎた期待分だけ自己に都合がいいわけです。

期待することが全ていけないわけでなく、過剰分が利己に傾いているからです。

さらに「怒って」も他者が怒らないことを期待しています。

その気分には自分が上であるという上下感覚も見過ごせません。

他者の善意に依存しています。

暴走族が他者がよけてくれるだろうという他者の善意に依存していることと同じですね。

支配欲に見合った怒りを人は内臓するものです。
posted by 変才冨田 at 22:21| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月20日

癌になったら 1

癌になってから、「どうする?」

これでは遅いような気がします。

癌になる前に態度を決めておきましょう。

この場合の癌とは転移癌でほぼ治る見込みがない癌のことです。

悪性癌ですね。

先ずどこから考えるのかですね。

僕は最終的に自宅で死にたいのか病院で死にたいのかの選択から始めればよいと思います。

未来の選択を決めることで、つまり未来を原因にして現在を決めましょう。

あなたはどちらで死にたいですか?

僕は病気で死ぬなら癌が一番良いなーと思っています。

癌ならラッキーです。

続く



posted by 変才冨田 at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月02日

主体的な生き方をしているかどうかの見分け方

「人生は選択の連続だ」といわれているけれど、これには違和感がある。

なぜ、わたしが違和感があると思ったのか考えてほしいのです。

と、三年前に書いたまま放置されていました。

続きを書きます。

選択をする時に自分の頭で考えて選択するということが「主体的に生きる」ことでしょうか?

それは違うと思うのです。

それではゲームをしている人と変わらないようです。

目の前に与えられた選択肢から選んでいるようでは受動的です。

選択肢をどう増やすか、与えられた条件以外に自分でもっと条件を増やす生き方があるはずです。


posted by 変才冨田 at 23:08| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月19日

食への構え方 食の認証

食にあなたの全ての存在の仕方が表現されています。

そのことは重要な情報なので、今は納得できなくとも覚えておいてください。

納得理解はしていなくても「食べなければあなたの存在はない」のだということは理屈の上では分かるでしょう。

存在できるのも食べ物のお蔭だし、実はあなたが何を選ぶか、如何に食べるかも世界に対する存在の仕方や構え方を決定づけている。

食への態度は他の全ての態度に関与している。

続く



posted by 変才冨田 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

もう一度、最も大切な話

「随所作主 立処皆真」が幸せな成功のキーワード 1

「随所作主 立処皆真」
これについては過去に何度も書いてきました。

再度揚げます
主体的に生きる、これが自己中心主義の意味なのです。

主体的に生きるとはすべての責任を一身に背負って生きるということでもあるのです。

人や条件のせいにしない、ということです。

禅では「随所作主 立処皆真」と言っていますね。

この解釈はいろいろ言われていますが、私は

「どういう場でも自分が主体的にかかわれば、最初はつまらないことと思っていてもこの世の本当のことがわかる」と解釈しています。

本当のことは自分が正面からそのことに向き合わなければ永遠にわからないと考えています。

一所懸命という言葉に通じるもので、懸命にかかわるということが「作主」、つまり主体的に生きるという意味なのでしょう。

けれど懸命にかかわったからといって
必ず真実がわかるわけではないですね。

自己の課題に向き合ったかどうかがカギになります。

他者の課題に懸命に頭を突っ込んでも、それは主体性を発揮したことにはならないわけです。

B級の映画を見て「つまらなかった」という人はその映画に対して「随所作主」で対峙しなかったからです。

懸命にその映画にかかわれば、世界の真実に行き当たるはずなのです。

なにごとにでも主体的にかかわれない人は「つまらない人」になっているわけで、つまらない人の周辺はすべてつまらないことだらけになるのです。

「随所作主」とはどんな時でも、どんな場でも主人公として自分を扱うということなんですね。

積極的にかかわらないと、人生の主人公にはなれないということなんですね。

明日はそのように生きたいですね。

ここまでが以前書いたもので、そのほか「随所詐主」で検索してでいればもう一度読んでください。
このことは私たちの人生にとって非常に意味の深い内容をもっているのです。

「随所作主 立処皆真」これはすごい言葉なのです。

その瞬間の時間に真正面からソレに向き合うとなにがこれまでと違うのか?

先ず、それを体験している時間が異様に濃密になり、その結果異様に長く感じます。

そのことから覚めれば異様に瞬間の出来事として感じます。

子供の頃夏休みがそれこそ一生続くかのような感覚がありませんでしたか?

それに比べて今は異様に時が早く過ぎる感覚になっていませんか?

わたしなんかもついこの間60歳になったと思っていたら、気づいたらもう66歳になろうとしています。

年齢を重ねるほど時間は加速度を持ちます。

これは何故か?

おそらく子供の頃は1秒を24コマで目の前のできごとを見ていたのです。

今は8コマくらいになっているのでしょう。

子供の頃は今の三倍も時間が濃密だったのです。

ですから体感時間は今の三倍です。

今は脳の情報処理スピードが遅くて16コマ分スベってしまっているのです。

情報処理スピードが遅くなっただけでなく

目の前の出来事や世界の出来事を見ようとしなくなったのです。

つまり、無関心になったのです。

無関心の対極に随所作主があるのです。

続く


ここから新たに書きます。

世の中には「つまらない」ということはありません。

深く関わろうとしないことが「つまらない」をつくっているだけです。

見た目のカッコよさに拘る分だけ関われないのです。

他人のことを考慮しないで一所懸命関われば
他者に良い影響を与え感動さえ呼び起こすのです。


posted by 変才冨田 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月04日

この世界の中心的な構造を理解すれば、すべては解決する

この世界の中心法則を理解することは生き方に関わってきます。

魚は水を理解はしていないでしょうが、皮膚感覚で水を納得しているので自由に泳げるわけです。

この世界の中心法則とはなにか。

それは「無常」ということです。

これは仏教の哲理でもあるのですがマルクスの弁証法的唯物論でも言われています。

「すべては生成変化する」

そして

「すべては連関(つながっている)しつつ変化しあっているとも」

これは仏教でも「縁が因果法則の元」であるとも言います。

さて、「無常」を理解するだけではダメで腑に落としてこそ生き方が変わります。

「無常」を胃の腑に落とせばあなたはただちに「明るく」生きることができます。

人の煩悩の原因は「無常」がわからず、永遠に変わらないことを願っているからです。

「永遠の愛」などないのです。

永遠の愛を誓ったのに裏切ったという「憎しみ」が生じます。

続く
posted by 変才冨田 at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月03日

幸せな人生を創造するなんでもない方法3

以下は5年前の記事です。

「今日で7号食が三日目です」という女性がいらっしゃいました。

彼女は7号食のベテランです。

何回もできるというのは日常化しているわけで、日常化できるのは動機が強いからです。


動機は「いつまでも美しくありたいから」ということです。

もう一つは身体的な危機感です。


この二つの動機が7号食を成功させているわけです。


この場合の「願望実現」とは「美と健康への欲求」ということですね。

どのような願望も動機の強さが成功に比例的に働くわけです。


そういう意味では

7号食という短期間ではなく日常的に「美と健康」を追求できる動機こそが必要です。


7号食を実行する動機よりも日常の「快楽食」への動機の方が強いのです。

ですから、太ってきて体型の崩れや身体の違和感という現象をつくりだすわけです。


いけない習慣にはいけない動機があるのです。

動機の底にある欲求がなぜ生まれるのかを考えることは

良い習慣に切り替えることになります。


こういうことは仕事にも言えます。

突貫的な仕事をするときは強い動機がありますが(7号食をする動機も同じですね)

(私のように「締め切りに追われているとか」)

やはり良い仕事の習慣を創造するには動機をこそ強化すべきです。

「願望実現」の願望の生まれる原因になる欲求を考えればよいでしょう。

あなたの願望はどのような欲求から生まれているでしょうか。


ダイエットや健康を実現するには

基本食が楽しいという動機をどう強化するかが課題です。

仕事も同様で、日常的な仕事の動作を実行することが仕事成功への必須です。

日常的な繰り返しの仕事をどう楽しくするかも、その底にある動機の強化なのです。

保険業界では人が動く大きな理由に

1 恐怖からの回避欲求 

2 安心への欲求

その他「これをすると1万円収入が増えますよ」よりも「これをすると1万円損をしますよ」の方が強烈に人を動かすといいます。


みなさんはどう思われますか。

ここから新しく書きます。


1も2も「楽しい」ということは書かれていませんね。

人が動く動機は恐怖や不安からの回避があると言うのです。
詳しく言うと恐怖感であり不安感という感覚から逃げるということなのです。

一言で云えばわたしたちの内部にある「獣の感覚」に従わされているということです。

こういうことは仕方のないことでもあるのです。

恐怖心を失うと危険なところに平気で出かけて命を失う恐れがあるので、こういう装置に従うようにできているのです。

けれども、わたしたちの脳はそうした不安や恐怖を感じる下位の脳の上に大脳皮質と言う発達した新皮質を創造したのです。
それには理由があるはずです。
動物のように恐怖感や不安感では「よりよく活きられない(つまり、もっと楽しくしたい)」ので、それらの感覚や情動を乗り越える脳を創造したわけです。

大脳辺縁系という動物の脳でもおそらく発達した哺乳類ほど「楽しさ」は感じているでしょう。
子犬も子猫も楽しそうにじゃれていますからね。
けれどその「楽しさ」も感覚的です。ですから永続性がありません。
猫じゃらしなどのなにか外部からの刺激に対して反応しているだけなので依存的といえます。

「楽しみたいという」自発性を促す欲求はあるようで、動かなくなった毬を自分で動かしてじゃれていますね。
けれどマリを自分で作ることはできないのです。
だからここで進化はストップするのです。

ところが

毬をつくればもっと楽しめるじゃあないか・・・
ということで
毬のイメージを脳に保存して(毬・楽しいというセットで保存)
毬のイメージを実現しようします。
毬をイメージするとセットになっている楽しさも感じることができワクワクします。
毬をつくるためには適当な材料が必要です。
材料集めに「ワクワクして頑張ります」

ところが材料が集まっても、それをどう毬にするのか。
これも毬のまあるいというイメージがあるので手で丸く固めていきます。
「もっといい方法がないか?」
ということで固める道具のイメージを作ります。
これは手で固めるイメージからスタートしています。

つまり遊ぶための道具をつくるための道具を作る、という飛躍した意味を持ちます。
道具作りもワクワクと夢中でやります。
どこにも頑張っているという辛いイメージはないですね。
それが人間の誕生ですね。

ここから判ることは働くことが辛くなり理由はどこにもないということです。
仮にあったとしても、それは楽しい辛さなのです。







posted by 変才冨田 at 18:34| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幸せな人生を創造するなんでもない方法2

要は「つまらないこと、苦手なこと」を楽しんでできるようにすればいいわけです。

「今、辛いけど努力すればそのうち楽しくなるだろう」

これは、やがては

「一向に楽しくならないのは自分の努力がまだ足りないからだ」

と、さらに我慢して努力する。

こういう人はどんな成功を思い描いているのか顔を見てみたいです。

不憫でなりません。

ガっついているのです。

実は最小の努力で最高の結果を望んでいます。

貪りは楽しからずや、という言葉もあります。

本音は努力したくないのです。

けれど、努力しないと幸せになれないという「思い込み」があるので
我慢して苦しそうな顔して努力しようとします。

顔は他者に見せるためにあるので、その顔を誰に見せようとしているのでしょうか。

おそらくは両親に見せないと立つ瀬がなかったのでしょう。

両親は楽しく勉強ができるということを知らなかったのでしょう。

楽しく勉強をしている顔を見たら「勉強していない」と思って叱責したかもしれません。

楽しんではいけない!そうした暗示を与えているのです。

そうした暗示が心に入っている人には「今を生きている人」は1人もおりません。

さて、幸せになる方法は「今を生きる」以外にありません。

そして、その「今が楽しくてしかたない」ということです。

どうやればそのような状況を創造できるでしょうか。

続く




posted by 変才冨田 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

幸せな人生を創造するなんでもない方法

冨田先生! 塚田農場 銀座店の尾形瞳です!
つんつん爪楊枝してもらった火性のワガママ女です! 昨日はお忙しいところ、 本当に勉強になるお話をありがとうございました!
楽しすぎて、全然眠くならなかったです。笑 ブログ読み返します(^-^)/ ぜひ塚田農場にも食べにきてくださいねー♪♪

回答
彼女から題の質問がありました。
さて、なぜ眠くなるのかにはいくつかの理由があります。

@睡眠学習に意欲が高い。
A講師の声に催眠効果がある。
B子供の頃にインストールされたOSに勉強すると早死にするという暗示がある。
などが考えられます。

対策
わたしの講演では眠る人はあまりいませんが、それでも眠くなる人は昨晩夜更かしをしているのです。
そう思うようにしているのです。
講演している最前列でいびきをかいて眠られると、窓から飛び降りたい衝動に駆られ
その人を身代りに落としたいと願います。

眠くなるのは講師やその話の内容にあるわけではありません。
まして講師の顔にあるわけでもありません。

例外として
電話帳を棒良読みするセミナーでは眠くなる可能性があります。

棒読みではなく唄うように電話帳を朗読されれば眠らないでしょう。


さて、ニーズを感じられなければ集中できないのです。
この話を聴いた後でテストがあり、合格すれば1万円プレゼント
あるいは、合格しなければ1万円徴収されます。

そういうセミナーであれば眠らないでしょう。

要はあなたのニーズなので、原因はあなたにあるのです。

それは生きる幅がまだ狭いのでニーズも小さい。

様々なことに興味を持つ人はどんな内容でもそれなりにニーズが生じるのです。

そこで対策ですが

面白くない講師の話をする講師を観察するところから始めます。

頭の先から靴まで観察します。

そして講師自身がその話に退屈していないのかを観察します。

嘘をついているかどうかも観察します。

眼をよくしばたたせる人は嘘つきです。
わたしを観察してはいけません。

講師の姿勢を観ます。
それで、ああこの人は右の腰痛があるなーとわかります。
今朝のこと、右重心で奥さんに後ろから抱き付いて背負い投げをくらったな、くらいはわかります。

話の内容も「どうして面白くないのか、自分だったらどう話すのになー」と考えるのです。

どうですか、眠る暇なんてなくなりますよ。


さて、これは昨年の文章なのですが重要な問題が孕んでいますので、再度考えます。

重要な点は
「さて、ニーズを感じられなければ集中できないのです」

「要はあなたのニーズなので、原因はあなたにあるのです。

それは生きる幅がまだ狭いのでニーズも小さい。

様々なことに興味を持つ人はどんな内容でもそれなりにニーズが生じるのです」

というところですね。

セミナーなどでどうしても眠ってしまう、という相談は結構多いのです。

脳は成長したがっています。

なのに眠ってしまうのには二つの理由が考えられます。

脳は興味のある場面では集中力を発揮します。

@眠ってしまうのは興味が薄いわけです。

愉しければ絶対に眠りません。

A興味はあるのに眠ってしまう。
この理由は情報の未整理にあります。
入力された多くの情報がネットワークを組んでいないのです。
知識として脳のなかで孤立しているので有機的につながっていない。
情報がネットワークを組んでいると新しい情報はそこにすぐに組み込まれますので
新しい発見として脳は楽しみます。

では、どうやってネットワークを組むか。
それは一段上のマクロな視点が持てれば組めます。
これがハナムラ先生のいう「まなざしのデザイン」なのですね。

学び方はこれに尽きます。

一段視野を上げたセミナーで学べばいいのです。
そうすると脳は楽しくなり集中制を勝手につくるわけです。

そんなセミナーがあるのですか?

ありますよ。

確か冨田というのがやっているセミナーがそうじゃあないかな・・・。










posted by 変才冨田 at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月26日

ハナムラチカヒロ先生との対談

以下はハナムラ先生のファイス・ブックでの発言です。

本日の午前中は♭にて冨田先生と対談を。
先生とはこれまで散漫に対話を重ねてきたが、これをきっちりと記録して発信することにする。

冨田哲秀先生は2014年から♭に入居しているバイオライン研究所の所長で、東洋思想による食養学の専門家。
食と身体と精神と環境がいかに結びついているのかという観点から、膨大な研究をされている民間の研究者だ。
僕自身のまなざしのデザインや風景異化論とも非常に呼応していて、いつも二人で話しこんでしまうが、その内容が非常に刺激的で、二人で話するのがもったいないので、これを映像や本などの媒体で、社会化していければと考えている。
僕自身は、この冨田先生の膨大な経験をちゃんと理論化して、自分の研究の中にも取り入れたいと考えている。

対話の大きなテーマとしては「生命と環境の進化」について。
一回目の本日の対話のテーマは「姿勢」で、2時間ほど対話した。

姿勢は「姿(すがた)の勢い(いきおい)」と書くが、動くエネルギーと動物の身体の構造とには密接な関係がある。
内臓系が集中する動物の前面と、体壁系で構成される背面との関係が、実は人間の「欲望」と「意思」と関係している。
人間の前面と背面は、足の内側と外側の筋肉とつながっていて、それが最終的には足の裏の構造、特に親指と小指と中の3本から構成されるアーチへとつながる。
だから足型を見ると実は、その人の身体のどこに問題があり、どういう性格をしているのかは全て理解できるというのが、概ねの冨田先生の話の骨子だ。

その他にも、進化する際の「まなざしの高さ」が動物の判断力とどう関係するのか、内臓や四肢と脳がいかにつながるのか、意識と無意識が近代以前の文明と近代の文明との違いにどう影響しているか、など多岐に渡って話をさせて頂いた。
これらをテキストに起こして、対談本として育てていきたい。

それを仕込みつつ、まずは自分の今書いている「風景のジャメヴュ」を完成させねば。

終了

最近、冨田短命論が出てきたのか「死ぬ前になんとかトミタの考えていることを文章で残しておこう」
ということがあるようだが、あいにくと僕は100歳までは生きているだろう。

けれど、その前に「ボケが入るだろうと」とも予測されての企画になったらしい。

さて、この対談の前に何回も夜に「与太話」を繰り広げてきた。
その内容は縦横無尽、横断歩道、言語道断なもので、これは残しておきたいということになっていた。

対談とはなにか。
それは会話ではなく相手の発言に触発され、誘導されどこに行きつくのかわからないけれども
終わった後思考の跡がこれまで以上に整理され、止揚された状態で残るということです。

第一回目は「姿勢」がテーマでした。

姿勢を裏付けているもの、我々を立たせ、起たせる動機がある。
その動機は「腹が減った」に他ならず、その欲求が起因となって人を立ち上がらせ、その目的に適った姿勢を取ることになる。

欲求は腹から(内臓)生じて、それを実現するために背中という壁が前面の柔らかい内臓を持ち上げて立ち上がる。
その結果を人は「姿勢」と呼ぶわけだ。

その姿の勢いは内臓の欲求に対応するだろう。
欲求のない「姿勢」は目的を失っているので「立ちすくみ」ということになるだろう。

背中は精神を生み出し、内臓は心という欲求を生み落とし

精神は督脈(背中)、心は任脈(お腹)に運ばれ頭蓋骨内で合流する。

二つの力は頭蓋骨内で渦を生じさせ、意志を生み出す。

精神と欲求に裏付け指示された意志は脚を目標に向けて踏み出す。

とまあ、こういう感じで始まったのが第一回目の対談でした。



posted by 変才冨田 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

現代的奴隷制度

先日はありがとうございました。
ブラック企業。 そこに染まってしまうと、元の自分とずれてしまっていることを意識できないので大変だなと思います。
当時、ブラック企業で働いている時に周りをみてそう思いました。 僕は、1年で退職しましたけれど (^^)

コメント
「元の自分とずれてしまっていることを意識できないので・・・・」

千尋が働いていた湯屋はブラック企業で、多くの女性たちがそこで名前を失っていました。

周囲の期待に応えようとするほど自分を見失ってしまい、もともとのゾ分の名前を忘れてしまいます。

こういう人たちの別名を「現代的奴隷」と言います。
潜在脳はこれに気づき、最終手段が「鬱」になって自分を取り戻そうとするのです。
posted by 変才冨田 at 01:58| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

本日は夜学です

今回は「する」ということを考えます。

「する」ことでなにが得られるのか。

「しない」ことでなにを失うのか。

教育で「しない人」を「する人」に変化させられるのか。

人を育てるとはどういうことなのか。

仕事ができる人がなぜ人を育てられないのか。

しない千尋がなぜ「する」人になれたのか。

このあたりが判ればだれでも「する」人になれるわけです。
posted by 変才冨田 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

その働きは自覚的か無自覚か?  それが問題だ

千尋はハクに「ここでは働かないと消されるか豚にされてしまう」と聞かされ
湯バーバに頼んで働くことになりました。

名前を取られて「千」に変えられ
寝る以外は働かされるというブラック企業も青ざめるような魔界の湯屋で一所懸命働きます。

他の者たちはすでに元の名前を忘れてしまっていますが、ハクに「自分の名前を忘れるな」と忠告されています。
このあたりが非常に重要なところです。

ブラック企業では名前を忘れてしまった人たちが大勢います。

それに気付いて鬱になる人や自殺という手段で自己を取り戻す人もいます。

働くことそのものが目的化すると名前を忘れてしまいます。

なんのために働くのか、それを忘れてしまった人々は奴隷化するわけです。

よく働いていると湯バーバに褒められて、そのことで「褒められる」ために働くことをしません。
賃金が多いというのは「褒められた」ことと同じで、それが労働の目的になってしまいます。

今、自分がなんのためにどういう「意味づけをして働いているのかを自覚している人は奴隷になれません。

どんな長時間労働でも自覚的な人は名前を忘れないのです。



posted by 変才冨田 at 23:39| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする