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2018年06月01日

米を食べる意味 4

穀物の炭水化物を糖質に変化させそれを主体に食べ始めた人類は大きくその脳も社会も進化させました

糖質は高濃度の脳のエネルギー源です。

得たエネルギーを使って高度の手作業が始まりさらに大脳を発達させました。


穀物食は高エネルギーだけでなく長期保存できるという点がエポックでした。

食料の安定供給は余剰時間を生み出し、それが生産道具などの製作を促しました。

つまりは穀物食が人という動物から人間という社会的動物に進化させたのです。

糖質制限食などは進化的に逆行です。


けれども面白いもので食料の保存は財産概念を生み出して
奪い合うものとしての意味ができました。

穀物を作る土地も財産としての意味を持つようになったのです。

私有財産の仕組みは穀物生産が生み出したものです。

穀物食は人類同士の闘争を以後長期にわたって繰り返されることになりました。

皮肉なことに戦は殺人道具を進化させて、それが生産道具の進化にも役立たれてきました。

兵器の発達が人類社会に発達にリンクしてしまったのです。


posted by 変才冨田 at 15:41| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月18日

所有感覚という洗脳が人間関係の最期の障害

活きるに都合の良い「与えられた価値観」は洗脳とは言いません。
まあ、都合の良い「思い込み」ってことですね。

負の洗脳というのは明らかにソレによって生きづらくなり
その生きづらさは誰かの生きやすさにつながっている場合です。
ハッキリと奪われるものと奪うものの存在があるわけです。

恋人同士 夫婦 親子 上司と部下
これらの人間関係の中でも洗脳があります。

平等な関係性が気づかれていないと、奪う奪われるという洗脳が存在するでしょう。
「家族という病」という本もこうしたことが背景です。

日大のアメフトクラブの部員が試合中にやった傷害事件も
部員と監督コーチは平等でない!ということから
監督の部員への洗脳が容易に行われていたのです。

レスリング界でもトラブルがありますが、
これも平等な人間関係が土台に失われていることが背景にあります。

役割が違うだけなのに人間の上下が持ち込まれています。

人間界はまだまだ猿と同じ域から抜け出ていないようです。


さて、原因はどこにあるか。

それは人間の奥深くに居座る所有意識があるように思えます。

自分のモノに手を出された時の不快感をというのは、
この世に「自分のモノ」と主張できるモノが存在するという思い込みです。

不快感が伴ってしまうので
@ 取り返す手段を講じる。
A 相手のモノを奪って不快感の代償を得る。
B 暴力を行使して咎める。
B 倫理道徳で相手に 説教する。
C 裁判に持ち込む、警察に訴える。

考えてみれば倫理道徳や各種法律などは人の所有意識から作られる必然性があったのですねえ。
聖書にも「汝、盗むなかれ」があります。

所有意識の芽生えとともに倫理道徳や法律が生まれたものと思われます。

持つものと持たざる者の関係が平等な人間関係を築けない障害になっています。

この問題は深いです。

「人類皆兄弟」と素朴に唱えられないものです。







posted by 変才冨田 at 13:37| Comment(1) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月04日

引き寄せの法則はない 引き寄せられの法則だった

引き寄せの法則とは天動説で自分を中心にした考え方だ。

自分にとって都合の良いことを考えるという幼稚性があるt

宗教的信念と同質です。

宗教も引き寄せの法則も自分の欲望を発端にしている。

では引き寄せの法則は単に妄想なのかというとそうではないt

真実は引き寄せられの法則だったのだ。

つまりは地動説ということになる。

意識や無意識が注目しているものに引き寄せられるのだ。

続く
posted by 変才冨田 at 23:35| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

子供の教育費は誰が負担するか?

教育した結果、その成果は誰が受け取りますか?
posted by 変才冨田 at 22:45| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月16日

有限と無限 2 意味ある偶然は必然性の道で起きる

目標が設定された。

その瞬間に有限が決定され、現在からの幅ができる。

ゴールに至る過程というのは無限と言える。

ゴール設定が意味のある無限を作った。

したがって過程で出会う全ては意味のある偶然だ。

意味のある偶然というのは意識が行こうとした道筋にだけ現れる。

僕は囲碁を随分熱心にやっていた時代がある。

そういう時は知らない街を歩いていると
決まって未知の囲碁クラブの看板を見つける。

偶然見つけちゃったなあと思うわけだ。

けれど囲碁を知らなければその看板を気付かず通り過ぎるだろう。

人は目標を持つことで偶然のチャンスと出会う。

その偶然は目標を持ったことで必要的に起きるものだ。

目標というのは人生の全体性を帯びており
大きな目標ほどその全体性が巨大になる。

大きな目標を持った人ほど意味のある偶然がいつも起きるだろう。
posted by 変才冨田 at 22:25| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

有限の中に無限がある ように、必然の中に偶然がある

例えば1センチから2センチの間にどれだけの長さがあるか。

1ミリの中にどれだけの長さがあるかい

0.1mmの中にどれだけの長さがあるか。

それは途方も無い眼の眩むような無限が横たわっている。

小学生のころ、降るような星空を見て、その星のさらに向こうを想像した時の眩みとそれは同じ性質だろうと思う。
きっと宇宙は有限なのだと思う。

無限を感じるのは有限を直感しているからだ。

無限は遠い先にあるのではなく、物差しの中にさえある。

必然というのは出来事の確率上という有限の中のことだ。

けれどもその必然の中に規定されているけれど、
偶然は無限にある。

全て偶然に起きたように見えているけれども
(目の前の一瞬の現象は0.0001mmの幅よりももっと小さな単位で起きたものだ。
0.0001mmの範囲での出来事以外は起きない。

漁に出かけるという有限の幅があって(目的とは設定された幅なのだ)
魚の群れに出会うのは偶然だ。
まして、その群れの中の一匹を釣り上げ得る確率は無限だったのだと思う。
その親が産卵してからそれが特定のその人に出会う確率なんて無限でしょう?
その漁師も存在できる確率は無限です。

魚も漁師も無限性の中の産物で、いわば偶然存在したもので、
その偶然の存在同士が海で出会うなんて奇跡的な確率です。

人が魚を食べ得るという有限性と魚が食べることができるもの

つまり、お互いに食べなきゃ生きられないという必然という幅の中で起きた偶然なのですネエ。

僕がここで言いたいこと。

人生に目的という制限を立てることがないと
期待する偶然は起きない。

すみません
かなり閃き的なことを論理立てるのは難しいです。
posted by 変才冨田 at 00:34| Comment(1) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月15日

事実と真実 2

失恋をした直後に枯葉が落ちるのを見て
無常を想い悲しい気分が起きる。

勇気凛々の時には枯葉を見てもなにも感じないでしょう。

枯葉が落ちるのは新芽に突き出されているという事実もあります。

枯葉の事実と新芽の事実という両側面の事実があります。

全て一つの見える現象には積極的と消極的側面があるわけです。

両方の事実が見えた時に真実を掴んだというのです。

種子法が廃止されたのは見える現象です。

積極的事実は
この法律を簡単に廃止した議員さんには日本の未来が見えていないということです。
これが大変だと思った人は日本の未来が見えているということです。

日本は戦後少しずつ日本を切り売りしてきましたが、売国政治は大胆にことを進めるようになりました。

国会周辺では二年前のように未来が見えない人たちを見える人たちが包囲することになるでしょう。


さて本題です。

「私が牛を食べる」という現象です。

反対側から見れば「牛が私を食べる」とも言えます。

この世界は交流の世界です。

全てがコミュニュケーションしています。

全ての生命あるものは食べる、食べられることでコミュニュケーションをしています。

食を通して世界とコミュニュケーションをして生きることができます。

牛ばかり食べていると牛の世界観に乗っ取られていきます。

米や野菜は世界の主軸です。
動物は植物の従属動物です。

主軸のものには宇宙のバランス良い情報が入っています。
動物は偏っていますよ。

宇宙とのコミュニケーションに命の情報が詰まっているのです。
野菜は宇宙の情報が入った詰め合わせセットです。




posted by 変才冨田 at 00:15| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

事実と真実

事実はあなたの色付きフィルターで洩れなく着色されたものです。

常に自分の願望という欲で都合良いように着色されます。

雨が降って嫌だと思うのも今日の自分の都合で感じています。

天気の良い日だって都合によっては嫌だと思うのです。

あなたがあの人を嫌ったり苦手なのも自分の都合という利己的欲望買ってから生まれます。

そうした自己都合を一切離してしまうと真実が目の前に立ち上がってきます。


自己の勝手な願望で他者を裁いていませんか?
posted by 変才冨田 at 23:11| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

人はその人の力量に応じた病気にしかなれない

その人のライフスタイルが病気を作る。
ライフスタイルはその人の力が源泉なので
病気もその人の力量に沿ったものになる。

したがってマイナス5のライフスタイルがマイナス5の範囲内の病気しか作れないということです。
@
プラス5のライフスタイルに変更すれば速やかに体調は回復するだろう。
原因になっているライフスタイルを改めるだけでなく、積極的に良いものを食べ良く歩く。
A
少なくとも0のライフスタイルを実行すれば時間はかかるが治る。
良いことはしないで、いけないことだけ止める。

7号食が素晴らしい効果を生んでいるのはAの効果が7で@の影響は3程度です。

つまり良いものを食べるよりいけないものをやめた効果の方が高いのだ。

サプリメントの効果が薄い原因はいけないことをやめていないからだ。

美味しいものは食べたい!
そして美味しいものは健康に悪い。

美味しいものはたくさん食べたい!

そこでサプリメントで補助をする。

効果が見られず気の安心だけに終わる。

美味しいものを10食べられる力があるから10のレベルに応じた病気になる。

僕なども甘党(企業秘密)だけれど限界は早い。
先日ケーキを驚くほど食べている人を見るだけで気持ち悪くなりました。

つまり砂糖による害もその人の力量に沿うということです。


さて
病気を治すのに、その人の力量以上のものを与えるとどうなるか。

サプリメントも薬物治療もこの分類です。
サプリメントはよくある食べもののエッセンスや混合物なのでまだマシですが、
(だから副作用も小さい)
薬物となるとその人がいくら頑張っても作れないものを摂取するので、その人の力量以上の力を行使したことになります。
過剰が次の病気を作ります。

直し方は自分の生活の中にあるのです。


別な分野でも同じです。

腕に蚊が止まっている。
蚊を取り除くには息を吹きかける程度の力で足ります。
ところが蚊に対する憎しみが強いとピシャリと叩きます。
過剰ですね。
叩かれた腕が痛いです。
これが2の力の症状に10の打撃で応じた結果です。
8が副作用です。
薬とはそういうものです。

最近ロキソニンの副作用情報が厚生省から出ています。
腸管を狭めて腸閉塞を起こす場合があるということです。

痛みに対して過剰な力が薬にあったということです。


子供の教育に過剰な力を使うと子供の意欲を失わせます。
これが副作用です。

余計なことをするということ。
余計と過剰は同じです。
posted by 変才冨田 at 01:11| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

所有感覚って? 2

過度な自己主張というのはどこかに存在の不安を抱えています。

他者や社会との縁が薄いのでそれを補償する行為として
自己主張があるようです。

別な言い方をすれば
孤独感を表出する「叫び」が自己主張です。

俺のことわかってくれよ!

ということです。

ところが
これが一層他者と自己の違いをクッキリと縁取るために
垣根がより高くなってしまいます。

これは私のモノでこれはあんたのモノで互いにこの所有物を不可侵でおきましょう。
そのために法律ができています。

ところでこのモノを所有しているという本体の私って
誰が所有しているのでしょうか?

最終的には私は私のモノ。

この命も身体も私のモノ、私のモノだから自由に使っていいじゃない!
誰に迷惑かけるわけでもない。

自殺しようが身体を売ろうが(売春 臓器売買)誰にも迷惑かけるわけでないから、どう使おうと自由でしょう。


これに反論できる人がいるでしょうか?
posted by 変才冨田 at 11:10| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月07日

私的所有感覚って?

断捨離という言葉は商標登録になっているそうです。
この概念を作った人はそれを捨てられないようです。

マクロビというのも商標登録した人がいます。
マクロビ食堂に使用料を払えと言ってきたそうです。

所有権の主張ですね。

う〜ん

所有感覚っていうのは不思議です。

この私的所有というのは単なる仕組みなんですが
人間性の奥深く浸透しています。
所有感覚は人格化しています。

幼稚園の頃です。

僕にはまだこの感覚が身についていなかったのでしょう。

僕のお弁当が次々に同級生についばまれて消えてゆくのをぼーっとして見ていた覚えがあります。

僕も隣の女の子のお弁当に箸を伸ばしたところ
ピシャリと言われました。

私のお弁当だから食べたらあかん!

さっきまで僕のお弁当に箸を何度も伸ばしていた子に宣言されたのです。

みなさん僕の衝撃をご想像ください。

それから僕は人のものに手は出せないけれど、出されっぱなしの人生が始まったのです。

幼稚園の頃に挫折です。

以来幼稚園での遊具争奪戦は戦う前に放棄して

一人遊び(池の亀の数を毎日数えていたらしい)が始まった。

ちなみに断固と拒絶した女子に
「あんなあ、うちのとこまで食べ散らかせんといてんか!」
女子に苦情を始めて言われ、以来この歳まで女子に苦情を言われっぱなしです。

で、この女子に中学1年生の時に「ずっと好きやった」
そう言われてポカーンとした思い出があります。


話は相当逸れていますね。
なんの話だったか、、、、

所有感覚のことですね。

マクロビという言葉を商標登録したのは
世界中に知られたマクロビオティックの大家である久司先生の弟子と聞いていますが
、マクロビの基本理念さえ理解していなかったようです。

食養法は技術ですが、その技術は哲学で支えられて本物です。

ここでいう哲学は「自分のモノと言えるものは宇宙には一切ない」ということです。

今現在 私的所有が認められているのはあくまで便宜的にということです。

蓄えなくとも生きていける展望が世界に啓かれれば誰も所有しようなどとは思わなくなります。

全ての人が生きていける食糧の確保と貧富の差を無くす仕組みができれば、の話しです。

わかりやすく言えば、この世界から貨幣やそれに準ずるものがなくなった状態です。


さて
所有感覚を生み出すもう一つの理由は自己主張です。

これは自分が考えたのだ!
みんなソレはわかってるよね!

過剰な自己主張ができるのは
他者との関係性が切れているからです。

自分の発想が自分独自の誰の助けをもらったものではない。

けれど、そんなものは何一つないのです。

先行した他者の研究や業績が新しい考え方を生み出す土台になっています

それを無視することは全体から自分を切り離す所業です。

商標登録や特許などは人類全体の利益から切り離し
自己利益のみを考えているという悪しき傲慢の表れです。




posted by 変才冨田 at 00:13| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

世界が遠ざかる頃

老人になると神経が鈍くなる。

水素風呂の効果が自覚できないのも老人です。

明らかに肌艶が良くなり、冷えもなくなり夜間頻尿もなくなりして
も本人は「わからない!」と言い張ります。
家族が見ても明らかに違うのにわからないと言うのです。

先日も孫さんに連れてこられた女性ですが、
インソール「姿美人」のテスト用を靴に入れて歩いたのですが、
歩幅が伸びて腰も伸びてスピードよく歩いたのに本人は「いつもと変わりない!」
それを聞いてお孫さんもビックリ‼️

神経が鈍くなるということは世界(身体も世界です)が失われていくという進行形なのですね。

そうやって徐々に死に支度です。
世界が徐々に遠ざかり、世界を失うことにも恐れが薄れ
平気で死ぬ準備をするわけです。

老人でなくとも神経が鈍い人はいくらでもいます。

宇宙の一角で棲んでいるという実感が薄れます。
世界のクオリティーが失われるほど日常は価値を失いますw

僕もかなり鈍いです。

ミューズボックスをしばらく聴いてなかった!

posted by 変才冨田 at 18:59| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自由になりたいは不自由でいたいから

人間の行動パターンって頑固なくらい変わりません。

自由に選んでいるように見えてパターン化しています。

かなり不規則なライフスタイルを持っている人でも行動は予測がつく。

僕などは完全にパターンにはまっています。

そういう私が
「自由になりたい」と言っているのです。

何をしても良いはずが何か全く違うことはしていないのです。

固定されたパターンを自由に選んでいるということです。
選択肢があってもいつもの行動パターンを外せないのです。

そういうことがあるからライフスタイルというものができるわけです。

アリの行動とどこか違うのですかねえ。

サラリーマンは自由にいくらでも好きなだけ眠っておきたいと思います。
そう思うことが自由への憧れです。
実際にいくらでも眠って良い自由が手に入ると
ちっとも自由な感覚がないのです。
ほかの自由を憧れるのです。

自由への憧れが欲しいのでいつまでも不自由な境遇が欲しいのです。
矛盾だらけの人生です。

つまり
自由は憧れの中にだけあって、永遠に自由にはなれないのです。
m
posted by 変才冨田 at 00:27| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

私の社会貢献

例えばBL研究所の「足楽です輪」や重心調整用インソール「姿美人」脳を活力付ける脳トレシステムは多くの人に役立つものです。

蒼の元米も素晴らしい玄米です。

これらは偶然に天からBL研究所に預けられ託されたものです。

ところがBL研究所の力不足で多くの人に知らしめる活動ができていないです。

社会に対して無責任であると思うのです。

もっとできる人に託さねばなりません。

来年の末までに多くの有能な人に預けなければなりません。

それが私の社会貢献です。
posted by 変才冨田 at 18:39| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月02日

偏り について2

当然この世界は偏っています。

ますます偏っているので人々は社会の偏った姿勢に沿わなければ苦しくなります。

一昔前の普通は、今では偏りとして認識されます。

人々は大きな偏りを普通と思うくらいに社会は偏っています。

真っ直ぐに立とうとすると偏った人々からは偏っていると非難されます。

僕から見れば頭痛や風邪で薬を食べようとしたり、病院に行こうとする人は偏った考え方と思います。

僕は一切病院に行かないというと偏っていると見られます。

偏食という偏りもありますが

なんでも食べますという人も
ある意味あいで「おかしなバランス思考」に偏っていると思うのです。

年頃の男が女ばかりに注意が向くことに対して
女に偏っていると非難はされません。

自然なことは「偏り」とは言いませんね。

社会は自然なものではないので
偏るものなのです。

さて
社会的動物である人間が偏るのは当たり前です。

偏っているので動きが生じて変化します。

安定は偏りのない状態ですから動きが生じません。

けれど、偏りは辛いので真っ直ぐに立つ安定を求めます。

安定を求めそれへと向かう生き方は現状が不安定だからです。


やがていっときの安定を手に入れたとき幸せを一瞬は感じますが、
周囲が変化するので再度不安定になります。

偏りが人生をダイナミックに変化させます。



posted by 変才冨田 at 01:36| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月01日

偏り について

1 性格的偏りは個性とも言います。

2 政治的偏りは偏向と言います。

3 趣味の偏りは場合によってはマニア アートなどになります。

4 仕事への偏りはマニア

5 他者への偏りは依存

ライフスタイルの偏りは「生き方」です。

人はそれぞれ偏りますが
偏りと感じるのは観察した人の偏り方で決まります。

右から見れば左の人は全て左に偏って見えます。

あなたは偏っているよっていう場合は
いう人の立脚点を点検せねばなりません。

この世界は相対的なので
「偏り」というものも観察している人の偏りも合算されたものです。

仏教では偏りのない状態を中庸と言います。
この中庸が難しいのです。

中庸とは客観的観察ができている状態を言うからです。

自分の利害得失を離れた評価ですから、中庸な見方ができる人とは
悟りを開いた人のことです。

けれど、この世界は相対的ですから中庸は成立しないのです。

けれど、科学はこの中庸な状態を目指しています。

科学は悟りへの道筋にあります。

期待や願望を持っている状態は欲望にコントロールされています。

利害得失の範囲内で生きていると偏りを生じるのです。

宗教は期待や願望という欲望で生まれていますから
宗教の世界は偏りが必然的に生じます。

中世期のような地獄に堕ちたくない、天国に行きたいというような
単純な欲望は流石に現代人には無くなっていますが
幸せになりたい、夢を実現したい、思い通りにしたいという欲望が
大きな偏りを作ります。

偏りは尖っているほどアートに近づきますが
破綻の危険も伴います。
芸術とは人間の欲望の限界を超えた地点にあるので
宗教を超えています。
宗教とは現実世界の妥協点で、うやむやにした怠惰で生まれ、
これが宗教はアヘンであるという理由です。

芸術はこの社会の仕組みを突破するので革新的になるのは必然です
芸術は次の世界へ誘います。
この偏りこそが素晴らしいです。
posted by 変才冨田 at 23:28| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

人々は残酷だ、けれど人は優しい 2 タゴール

あったはずの個性が集団に入ると希薄になるのは仕方ないことです。

仕方がないという理由は、
本来個性というものは集団意識から分化したからであろうと思うからです。
個人の集合が集団意識を生み出したのではなく、集団意識が個性に分化したのでしょう。

国民性とか民族性、県民性が基盤になって個性が生まれます。

ここからわかることは
「個人の一人一人が平和を希求し、
個人の心が平和になれば世界平和は達成される」
その考え方は誤っているということです。

個々の人間の本能が戦争を起こすわけでなく、
集団意識が戦争へ流れる。

注意すべきは集団の規制です。

集団意識は放っておけば危険です。
国家は危険です。

集団的組織が悪いことをしないように国家規模のルールがあり、
憲法は国という組織への足枷として作られています。

憲法の平和主義を実行するための各種ルールを変えてはいけないです。
個人が人間としての尊厳を失わないような手立てこそ
個性を豊かに育てる栄養です。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、 すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

この25条を国に守らせ、生活保護の受け方を周知させることです。


さて 本題です。

子煩悩で家族を大切にしている、
そういう選挙候補者のイメージを選挙民に植え付けます。

選挙民は、優しい人のようだからいいんじゃあない、
というイメージで投票をします。

けれど政党という集団に属していますからその議員は別人です。
生活保護などの福祉を冷たく切り捨てることなど平気です。
どんなに優しい人でも軍隊に入り戦場に行けば鬼になります。

私たちには個と衆の関係を混同するという錯誤があるのです。

では個人が培ってきた性格や生き方が集団に影響を与えることはないのか。

あるのです。

そのためには自覚的、自律的に生きる必要があります。

以下の引用は非常に重要な概念です。


25条は、国家に依存して貧困を救済してもらう恩恵的権利というよりむしろ、理不尽な政策や社会構造自体を排除する権利なのです。自分たちが連帯して力をつけ、悪辣な企業に要求して、自らの権利回復をはかる主張を憲法的に支える武器なのです。そう考えれば、生存権は立憲主義と矛盾するものでないどころか、そのような人権として強く主張することを通じてはじめて十分に実現される人権といえるのです。

引用終了

つまり国家に救済をお願いするような依存はかえって国家に好きなようにさせてしまうのです。
国民が国の主人公たるべく生きることは、自分の人生そのものを豊かにすることにつながるのです。

こういう時代であるからこそ個性豊かな人々が集団を引っ張って行くのです。
集団に溶け込んで個性を吸収されるようなことでは
自己として生きる意味が消え失せます。






posted by 変才冨田 at 21:11| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

老後破綻とは国家的姥捨山

引用「韓国は、全国民の3分の1が、時給300円のワーキングプア」と、はっきり朝鮮日報にも載ってるぐらいです。個人の問題ではないのです。個人の努力では、どうしようもできないです。「韓国経済の荒波」に一人で抵抗するとか、「韓国の社会構造」に一人で抵抗する話になりますから。
引用終了
韓流ドラマを見ていると豪華な広いマンションにイケメンの一人暮らしさんを見かけます。
一体どんな仕事なのか見えてきません。

ワーキングプアの3分の1の人たちはどんな想いでこうしたよそ行きのようなドラマを見ているのでしょうか。

日本もひどいものですが韓国の現在は将来の日本です。
20代の年収分布(割合)はどのようになってるの?

日本は
年収100万円:男女合計平均約27%
年収200万円:男女合計平均約22%
年収300万円:男女合計平均約17%
年収400万円:男性主体平均17%
年収500万円:男性主体平均13%
600万円以上:男女合計割合5.2%

ということで年収が200万円台以下がほぼ半数です。

少子化の原因ですね。

そして彼らがここから脱出できそうにない固定化が進んでいます。

年収300万円台でも結婚するには無謀な決意が必要です。
当初は共稼ぎだからなんとかなると思うのですね。
子供ができた頃に「やばい」と気づきます。
どちらかが大病したら破綻ですね。

半数は雇用の安全弁として非正規雇用になっていると思われます。
年金の積立も難しくリストラされて実家に戻って年金生活の両親に依存します。

結果両親の老後破綻を加速させます。

小泉さんと竹中さんがやった結果がこれです。

こうなるとわかっていたので事前に「自己責任論」を流布させていたと思えます。

ですから、本当の解決は政治によらねばならないでしょう。
政治的に作られたものは政治的に解決するものです。

けれど被害者である若い人が保守的です。
そうなるように仕向けたのも政治的教育というものです。

政治的に無力であると洗脳されたのです。

選挙に行かないように教育されたのです。


どうしましょう、この日本🇯🇵。


個人はどういう心構えが必要でしょうか。

副業は絶対です。

それも時間労働の副業では身体の破綻を招きますからやってはいけません。

副業はダメなどと言われて怯んでいるようではいけません。

ダメだという会社や他人があなたの将来の面倒をみてくれるわけではないです。

IT関係の副業もダメです。時間をかけて疲労するようなことではいけません。

ネットワークビジネスはどうでしょう。

モノを売るネットワークではいけません。

売れなくなれば収入もなくなりますし、やはりずっと動かねば収入になりません。

最近は仮想通貨のお誘いも多くなりました。

社会貢献にならないマネーゲームに手を付けてはいけません。

じゃあ、どうすれば良いのか。

国家的姥捨山に捨てられないように今動きましょう。

ご興味のある方は研究所に確かめてください。

新規の事業を一緒にやっていきましょう。
posted by 変才冨田 at 00:03| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

人々は残酷だ、けれど人は優しい タゴール

この言葉は深いですね。

自己という存在とは何かを突きつけてきます。

集団になると自己の中核である性格が隠れてしまいます。

人は一人では生きていけないので、自信のない人ほど集団に溶け込んでいきます。

そして自信のない人ほど人に対しては「優しい」

そういう人が集団に入り込むと自信がみなぎりたちまち勇敢になる。

軍隊も宗教団体も、ありとあらゆる集団は没個性にと向かう。

揺るぎないと思われている自己感覚はたやすく崩れます。

続く

posted by 変才冨田 at 12:44| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月24日

人はなぜ変化を拒むのか 6

野良猫の親が子に教えるのは
何を食べるか?
不安があればとりあえず逃げろ!

これだけです。

そのせいで僕は昨年何度も子猫を手に入れるチャンスを失っています。

人が変化を拒んでいるわけではないとこれまでに書きました。

どんな人も危険を感じれば動こうとするのです。

鈍感なために危険を感じていないので、一見変化を拒んでいるように見えるだけですよ。

そういう人が「老後破綻」のリスクが高いのです。

老後破綻には以下の内容があります。

@退職後になって時間ができたときに何が楽しいかわからなくなっている。
これは楽しみには年齢という賞味期限が関与しており
あとで楽しみは取っておこうという人が老後に体験します。

A筋肉の破綻
動くこと、歩くことを嫌って、筋肉も貯金するものだと知らない。
面倒がるものぐさタイプは確実に筋肉の貯金が底を早くつき
介護が早くなります。

Bお金の破綻
年金だけでなんとかできると考え深く検討しないタイプ。
真面目に生きた自分が老後破産するわけがないと思い込んでいる。
夫婦の片方が先に弱り医療費がかかるという予測がない。
これは「自分達が癌や大病になるわけがない」という傲慢です。
先の片方がなくなり、その場合の年金がどうなるか予測していない。

息子娘がいるから大丈夫という思い込み。
将来的に息子や娘の生活予測ができていない。
そもそも、年収が300万円時代になっていると知らない。
これからは確実にもっとひどくなります。

危険を感じるには「知る」ということが重要です。

このテーマの結論
「無知」こそが変化を拒む原因ということですね。

学ぶ機会はいくらでもあります。

Bの経済の破綻を防ぐ方法については提案があります。
BL研究所の新規の仕事は皆さんと一緒に進めています。

ご興味のある方はメールなどでお問い合わせください。

posted by 変才冨田 at 14:14| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月21日

カーリングに見る人の美しさ 人生に目的は必要か

一点を見つめるまなざしは美しいですね。

野良猫が雀を見つめるまなざしに似ています。

まさに「今を生きている」そのものです。

目的を持って生きている人と喪失している人のまなざしの違いでしょう。

視線がさまよっていると注意力も失われ
その人がどこで生きているのかわからなくなります。

さて
人生に目的は必要か。

旅と散歩の違いでもあるようで、
それぞれに価値があるので比較できません。

同時並行でやった方が楽しいでしょう!

旅先で散歩です。

緊張と緩和の連続です。

カーリングもそうなっているので楽しいのです。


マア人生に目的が必要な人が目的を持とうとし
それを問題にします。

それにしても
この競技もスケートもお金がかかりそうです。
冬季オリンピックは金持ち対象なのですね。

ちなみに僕はこの冬季オリンピックを普通のオリンピックと勘違いしておりました。

「マラソンはいつかな?」と訊きました。

ボケの進行は順調です。

posted by 変才冨田 at 15:21| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画 ナミヤ文具店の奇跡

時空が文具店の内部だけずれて
過去と未来が接続してしまいます。

そのシュチエーションが素晴らしい物語を創造しました。


この映画の主テーマは「選択と運命」

悩み相談を受けていた文具店の主人は
深夜だけシャッターの郵便受け口からお悩み相談の手紙を受け取り
早朝にその回答を牛乳瓶箱に置いておきます。

相談主は人気の少ない早朝に回答を受け取ります。

そこから物語が生まれるわけです。

相談者は選択肢が少なく
回答者は選択肢を増やして
より建設的な方向で回答します。

建設的な方向には未来があるのだけれど
不安も大きい。

安易な選択は楽だけれど未来が見えない。

不安な方向を選ぶということを考えれば良いですね。

楽で安易な選択は未来を創造しないからです。

安全安心ばかり求めると未来がつくれません。
posted by 変才冨田 at 14:30| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人はなぜ変化を拒むのか 5 強い人は鈍い人

進化の歴史をみると強いモノが淘汰されています。

恐竜がのさばっていた頃には我々のご先祖は小さくて彼らから逃げていました。

そして、よく変化していました。

弱いゆえに試行錯誤して生き残り戦略を立てていました。

卵を産むとたちまち食べられてしまうので胎生で育てて
哺乳するというきめ細かい方向で変化しました。

弱きものは変化することしか方法がないのです。
変化せざる得ないのです。

自分が危ういところを歩いていると自覚した瞬間に、自分の弱さを自覚します。
だから変化しようと動きます。

強い人と弱さを自覚していない人は変化を拒むのです。

アーティストとはその弱さを強烈に感じている人々です。
性格的にあるいは才能が尖っているのでバランスが悪いのです。
バランスの悪さが繊細さを生むようです。
バランスの悪さは弱さです。

バランスの良い人は動じにくいので、その分だけ鈍いです。

さて
変化を拒もうが変化を望もうが、本当は変化しています。

この世界は変化することが本質です。
身体も心も、それを包み込む環境も絶え間なく変化しています。

変化しようとしないのは「意識」です。

固定した意識と変化せざる得ない心と環境の間で乖離が生じて葛藤が起きます。

これが悩みを引きおこす「矛盾」というものです。

意識は固定してこその意識であって、認識を確実にするために
言葉というシャッターで瞬間を捉えて固定しましす。
ラベルを貼ってしまったら最後、ずっとラベルの中身はそのまま変わらないという思い込みになります。

実は中身は変化します。
posted by 変才冨田 at 00:13| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月17日

人はなぜ変化を拒むのか 3 単に神経が鈍いだけ2

人に過度な期待をするのは良くないことですが、
自分自身に期待は大いにしたい。

期待できるのは自身に企てがあるからです。
企画ない人は日常にワクワクしないでしょう。
企画ある人は時折妄想して人知れず微笑んでいるものです。

以前書いた「釣り師はなぜ長時間座っていられるか」でも書きました。

彼らの脳の中は静かな水面に今にも大きな魚が勢いよく飛び出してくることが見えています。
静かな水面しか実際には見えていないけれど、
脳の中は今まさに釣れているという映像が見えているのです。
ソレを人は妄想というわけです。
妄想が盛んな状態にある人は我慢できるのです。
というより我慢に見えるのは他者だけで、本人は我慢という心境ではないのです。
脳の妄想は本人には現実ですからね。

さて
変化を拒む人→拒んでいるつもりはない→現状で何が悪いと思っている→
自分が危険な状況だと思えない→神経が鈍い→
鈍いので先が見えない→見えないから動けない→変化を拒んでいると変化し続ける人に思われる

逞しい妄想ができる人に足りないのは行動だけだ
変化を拒む人に足りないのは妄想だ
妄想力は精神年齢だ
妄想力の衰えこそが老けたということだ。

妄想力は現状を変えようとする欲望指数だ。

ということは
現状認識力にこそ変化への希求が潜んでいると思われる。
posted by 変才冨田 at 23:15| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月16日

人はなぜ変化を拒むのか 鈍くなる原因

野良猫の神経の鋭さには驚きます。

私は野良猫を発見すると近づいて触ろうとします。

滅多に近づくことすらできません。

気配で逃げます。

昨年は野良猫が我が事務所にやってきました。

ところが手を背中にそっと近づけただけで背中の毛並みがぞわぞわと波打ち

猫パンチが飛んできます。

神経が行き届いています。

やはり生死の切所で生きている野生の神経ですね。


さて

私たちは社会的に保護されています。

親がおります。親戚や友人知人、友人もいます。

相互に扶助し合っています。病院があり、各種保険もあります。

保護が行き届き過ぎると神経が鈍ってきます。











posted by 変才冨田 at 11:20| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜ変化を拒むのか 2 単に神経が鈍いだけ

社会が安定期になるとその体制を維持するために価値観の固定化が始まります。

尖った思想は害になりバランスが必要必要とされます。

芸術もこじんまりします。

安定期の芸術は民衆を動揺させないものになります。

こういうときには時々天才が出現しますが理解されません。

あまりにも時代を先取りしているからです。

激動期にはダイナミックな芸術が出現して
時代の変化を促します。

ですから尖っています。バランスを崩す任務になっています。

現代は激動期ですから不調和なアートがこれから出るでしょう。

さて ミクロに見ます。

変わりたくない人は主観的に今で安定と感じているからです。

現状で安定している企業やお店は新しいことをしたくないのです。

本当は安定期にこそ次の手を打っておかねばなりません。

本当の意味で安定など無いのです。

どこかに問題があって現状安定を崩す原因が潜んでいるものです。

市場は常に変化しているので、ソレに適応できる柔軟な姿勢のない会社は崩れます。

現状の小さなアンバランスに気づくセンサーを失っている会社が
変化を拒むわけです。

個人においても全く同じです。

変化を拒んでいるわけでなく
ただ単に神経が鈍いのです。

頑固な人々とは、神経が鈍っているのです。



posted by 変才冨田 at 10:14| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月15日

エゴギョウ中級講座 人はなぜ変化を拒むのか

その解答は、「社会とは人がお互いに変化をしないでおきましょう」という暗黙のルールがあるからです。

社会が複雑化するほど、そのルールが強化されます。

この人間社会が約束で、つまり契約社会だからです。

昨日お金を貸した相手が「借りたのは昨日の私であって、今日の私とは違う!」

これでは社会が崩れます。

名とは人の固定化のためにもあるのです。

社会とは役割をお互いに演じてお互いに相手の役割を承認しています。

固定化された人格や思想の持ち主ほど信用されますし、信用もされませんr

信用するとか信用しないに値するためにも固定化が必要です。

くるくる思想や性格が変わるようでは信用不信用以前なのです。

ところがその固定化がガッシリ揺るぎもしないと困ります。

頑固と言われる人々です。

面白いもので変化と固定は順送りで繰り返しているのが社会です。

社会には激動期があり大きく価値観も変化します。

社会環境が変化して価値観も変化しているのに激動前の価値観をもったままの人々がいます。

頑固ものは化石です。

石に成り果てたわけです。

さて
時代とはソレを支える価値体系で支えられるものです。

時代が次の時代に変化するまでの間はその価値観で固定されるものです。

人が変化を拒む原因はここにあるのです。

むしろ、問題は変化を拒む人がいて困るなあと感じている人たちです。

彼らは時代の先駆者です。

次の時代のあり方を敏感なセンサーで感じわけて新しい時代の価値観を保有しています。

変化を拒む人がいると感じているのです。

全員がその時代に完全適応していたとしたら

変化を拒む人がいるということも感じないし問題にもならないわけです。

これがマクロに見た場合です。

次はミクロな視点です。

続く
posted by 変才冨田 at 23:57| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実は、信仰とは欲望が生みの親である

こういうことを書くと
何かを信仰されておられる方には怒られますか。

僕は、「欲望」は否定するものではないし、むしろ肯定しています。

ありえないことが起こって欲しい、ありえないからこそソレが起きて欲しい。

そういう欲望が信仰の元だと考えています。

神様を信じればきっと救われる(救われたい)。

あり得ることは信じないものです。

その場合は私は知っているというものです。

1➕1=2

これを信じているとは言いませんね。

1➕1=3

人はこれを期待します。

「信じたい」という渇望を起こします。

きっと神様なら私を助けてくれる。

「助かりたい」のです。

欲望が信じるという意識を生むのです。

周辺の人間が信じられず孤独な時には

私に繋がる過去世の人々や神様を信じようとします。

人々を信じない人々によって信仰が生み出されます。

唯一信じられるのは神だけということに信念を持っているのです。

人間嫌いが信仰を促進します。


さて、日本の土俗信仰である神々はどうか。

八百万の神々は人間味があります。

なんでもありです。

トイレにも神様がいます。

日常の中に神様は居ますので繋がり感が半端ではないです。

砂と石という風土から生まれたキリスト教世界。
土と水の温帯モンスーンという風土から生まれた日本の神々。

風土の違いが神の違いです。

けれど、私を守って欲しいという欲望が元になっています。





posted by 変才冨田 at 22:06| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

知らないから平気❗️

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54355

以前養鶏場でアルバイトをしていたという男性が
「僕は卵を食べたくない!」と言っていました。

ブリ養殖場で働いている人はブリを食べたくない。
養殖場で働く人は豚を食べたくない。
けれどブリ食べたくない人は豚を食べ卵を食べています。
卵を食べたくない人はブリも豚をも食べます。

お弁当のメーカーの社長は家族にうちの弁当を食べるな!
などと言って、けれどその社長は卵も豚もブリも食べる。

こうした奇怪なことが起きるのは「知らない」からです。

お互いが知らないことをいいことにして騙しあっている。

私たちは何から知るべきか。

まずは
健康とは何かについて知るべきだろう。
健康への無関心は「食べ物への無関心」に延長される。

健康に注意力を払えるようになれば
命と心を絶え間なく再生している「食べ物」のことを知りたくなるだろう。

同じ意味で
命と心を再生する食に関心が向けば
「食」を得るための「職」にも真剣なまなざしを向けるだろう。

自分の仕事を「知らない」という人々は多い。
知らないから我慢できるのです。

知らないから食も知らないで平気です。



posted by 変才冨田 at 13:07| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

奴隷労働の渦中で

コメントがありました。
やらされている感の職場で「こうなりたい!」という理想の自分の目標を問われても
正直に自分のモチベーションが上がるものなのか?
終了

奴隷労働とはやりたくないことをやらされていることを言います。
そういう意味で学校も同じです。
やりたくない勉強をやらされているという場合は、子供にとって奴隷学校ですね。

元々学校や職を選ぶときの問題もあります。

さらに「これやりたい!」と思って学校や職場を選んでも
やってみたら「思っていたことと違う」と失望して奴隷化するということも多いです。

こうして奴隷化状態が長くなると、脳は自主判断できなくなり流れに任せるということになります。

さて
やらされている仕事に対してどういう態度で接するか?
posted by 変才冨田 at 21:26| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする