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2017年08月20日

自分が自分であることから降りる

人間の自由は、最終的には自分という檻から脱出できるかどうかにかかっている。

自由を希求するものの最終ミッションは自分からの離脱だろう。

運命をコントロールできるどころか、それは宿命さえリセットしてしまう。

自分であるということを辞められるのか?

それはできる。

その方法は外に向かって開環を50%することだ。

元々いのちの性質は外に向かって開かれている。

いのちは解放系だということ。

外界の物質を取り込み自己化しつつ

徐々に自己であったなにかを外へ向けて排出している。

動物は人も含めてこれでいのちを躍進させている。

社会的動物である人間もこの自然界のモデルがふさわしい。

外から思想やなんらかの不定形なものを自己という固定化されたものが誘引している。

固定化された自己が50%

外から自己化されるものが50%流入し

固定化されていた50%の半分が失われ

流入してきたもので補われる。

7年もすれば今の自分であったはずのものは一切失われているというのが真実だ。

つまり自分というものは元々無い。

常に置き換えられている自己なので、いつでも離脱できる。

自己があるという幻想を抜け出す

それが悟りだ。

スリランカ仏教の伝道師であるスマナサーラさんのいうような

オカルトのような悟りを仏陀はしたわけではない。

涅槃(あの世)と現世をいったりきたりできたという超能力を獲得することが悟りではない。

では、どこまで自己から離脱できるだろう。

最低の自己保存欲求からは離脱できないけれど

自分の損得だけを考える思考からは抜けられるだろう。






posted by 変才冨田 at 19:14| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

男女の仲では判断力は機能させないという自然の掟を乗り越える

以下はブログ読者からのライン

こんばんは(happy face)
今日のYahoo!ニュースでとても興味深く、納得できる言葉をを見付けました(happy laugh)
フランスの劇作家の言葉ですが、「人間は判断の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶の欠如によって再婚する」お見事って言葉でしょ。

座布団100枚!

横浜市のゴミ分別検察ツールの検索ボックスに入力された「捨てたい物 旦那」の言葉への回答です。これ、AIの回答らしいです。続きがあって、「忍耐力を養ってみたらどうかな❗️」です。勿論、横浜市の資源処理課の職員さんがいろいろかき集めたそうです(happy face)ウィットに飛んでて暑さを吹き飛ばす回答ですよね(happy)

私も作って見ました。

人間は美しい誤解で恋愛し
都合の良い夢を見て結婚し
別の誤解で離婚して
新たな誤解に巻き込まれて結婚する。

つまり判断力というものは男女の仲では機能させないのが
自然の掟です。

私のは座布団一枚かなあ。

けれども
地球人も進化して宇宙人になれば
宇宙的判断力が機能します。

宇宙の陰陽を代表して男と女が宇宙の片隅でひっそりと結びを作ります。
posted by 変才冨田 at 14:24| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月18日

愛する人たちを残して逝くとき

海老蔵さん 辛そうですね。

手紙という高倉健主演の映画がありましたね。

奥さんが逝く時に遺書で遠くの離島郵便局に手紙を送っているので取りに行って見てくださいとありました。

遠路はるばるその手紙をいけ取りに行くのでした。

受け取って、開いてみると

ごく短く

私のことは忘れて、と書かれてありました。

残された人はこれからも生きていかねばならない。

いつまでも死んでいる自分のことに気を奪われてうつ状態になって欲しくない。

そのために

紋切りで

私のことは忘れて

と短文で書かねばいけないのですね。

余計なことを書くと未練を残すのですね。

逝くときに

残された方は

お前のことは忘れない‼️

逝く方も

私のことは忘れないで‼️

ということになりがちですね。


喪失感で相手を鬱にしない

元気に生きさせるという

最後の別れってどういうものでしょう。


下記は10も前に書いたものです。


2006年の記事「いのちについて4」からの引用です。

もう5年前の記事なのですね・・・。

このときと考え方は同じですね。

(進歩してない?)


いのちについて4

1 死について

いのちについて語るときに死について語らねばなりません。生死は表裏一体であるからです。

生とはなにかを俯瞰するとき、その視野に死が入っていなければ生の意味が捉えられません。

人は必ず死にます。生あるものはすべて死にます。

今事務所の外では車が走り、人々が歩いています。話し声も聞こえます。

さまざまなざわめきを作り出している人々ですが、その大半は50年もすればこの世には存在していません。

けれどやはり外では人々のざわめきは変わらないでしょう。流れる川の水は違っても、流れが止まることはありません。

諸行無常ということですね。

世界は常に変化流動のなかにあります。この世界は変化で成り立っているのです。その変化のなかにわたしたちの「生死」があります。

宇宙から眺めれば、個人の生死は真に一瞬で泡沫(うたかた)のような現象です。

宇宙という大海から泡の一つとして生まれた一瞬のいのちです。

そのいのち達が、たまたま同時代という舞台で居合わせています。みんな儚いいのちの仲間です。
その儚さを古人は以下のように謡ました。

「人生五十年 化転のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬもののあるべきか・・・」これは信長が桶狭間に奇襲をする前に舞ったとされる幸若舞です。

「一期は夢よ、ただ狂え」「世の中はちろりにすぐる ちろりちろり」
「ちろり」とはちょっと光がきらめくように過ぎてゆく、という意味です。

儚いからこそ光芒を放ついのちです。

自分のいのちも他者のいのちも、その切なさを感じるとき、愛しく狂おしくなりただただ抱きしめたくなります。


10年前のこと。ある印象的な記憶があります。

「死ぬのが怖い・・・、どうなるのか考えるだけで怖い・・・」

電話口の向こうで、小鳥が鳴くようにか細い声でそう言われたのは末期癌の60代の女性でした。

わたしは言うべき言葉もなく、ただウンウンと聞くのみでした。

けれどいまわのきわの彼女はけなげで立派でした。

息も絶え絶えになったとき、自ら酸素マスクをはずし「みんな、ありがとう。幸せだった!

とっても幸せだった・・・」と、

全員の鼓膜に最後の声を刻み込み旅立たれたのでした。

病室に居合わせた人々の胸は感動で満たされ、その残されたかすかな笑顔をいつまでもいつまでも見つめていたのです。

厳粛な静寂のなか、病室に居合わせた人々を一瞬のうちに温かい渦で包んだ彼女でした。

死する人が生き残る人々を励まし、希望を与えた一瞬でした。

死が避けられないものであれば、死する意義とはこういうものではないかと思ったもの



posted by 変才冨田 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

種とは何か 想と現実化

今年4月に菜園を借り整地しました。
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そして、本日の状態です。IMG_0312.JPGIMG_0311.JPG
僅か数ミリの在来種のタネがこんなに以前の現実を変えました。
小さいですが期待もしていなかった収穫です。
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タネって凄いです。
こんな小さなカマキリの命も産み落としました。
IMG_0315.JPG
タネには現実を変える力があるのです。
この数ミリのタネには何が詰まっているのでしょうか。
目に見える化学的な物質の向こうに想がいっぱいに詰め込まれていると思うのです。

この想に水や光、必要な養分という物質が縁として触れた時、
想は現実化へと動き始めるのです。

私たちの人としてのタネは卵子や精子ですね。
やはり想を持っています。
異性という縁に触れた時、歓喜して想を現実化します。

石には想がありません。
ですから光や水に触れても劇的変化を起こしません。
あくまでも想が全ての原因なのです。

外部の環境は縁という引き金であって因ではないですね。
原因はこちらの想にあるわけです。

私たちの一代の人生においてのタネは何処にあるでしょう。

私たちの想が詰め込まれているタネは頭脳にあります。

あなたの想が全ての原因です。

想とはヴィジョンでしょう。

そのヴィジョンにふさわしい縁に(他者や全ての環境)触れた時にだけ
ヴィジョンは現実化へ一歩踏み出します。

あの人は運が良いとか世間では言いますが、

その人のヴィジョンにふさわしい縁に出会った時にだけ
ヴィジョンは反応してそれを掴むのです。
それはヴィジョンを持ち続けている人の特権でしょう。

ヴィジョンのない人にはチャンスもないのです。

想をいつも育てましょう。

次回は
想の質の話しです。

posted by 変才冨田 at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

鈴虫寺と煩悩 2 思い通りの人生で良いのか?

鈴虫寺での説法が良かったようです。

ご住職
ある朝のこと雪が階段に積もっておりました。
参詣の方がこけて怪我しないように雪かきを始めました。
これが大変な労力で、最初はお客様に為に為そうとしたのに途中で
こんな雪の日になんで来るのだ‼️とお客様が悪い‼️と思うのです。
けれど仕方ないと夢中で雪かきを続行して、いつの間にか終わって
気づいて上を見ると綺麗になっていた。

これは「結果自然成けっかじねんなり」という禅語につながります。

終了
この禅語の解釈は色々あるようですが、

僕なりの解釈をしました。

人の行為の最初は目的的で始めますが、

途中で目的から外れ、それでもやむ得ない気持ちで
目的さえ忘れて為す境地(夢中になる)になる。

意図を放してたった今に無我夢中になることが自然で

そうした行為は結果もなるようになっている。

こんな解釈でどうですかね。

無我夢中の時間をどれだけ経験するかは人生の質に関わってきそうです。

意図が生まれた時点ではなんらかのメリットやデメリット、

損得意識がありますよね。

無我夢中の境地は誰が悪いとか良いとかの意識も吹っ飛んでいます。

そうした後の結果はなるようになっている。

それこそが最良の当たり前の結果が目の前に広がっている。

それは「遊び抜いた結果仕事になっていた。仕事になるまで遊び抜け、ではなくその後も
仕事になっても遊び抜け‼️」ということにつながります。

人間の脳は遊んでいる時こそがパワー全開です。


本屋さんの本棚には「思い通りに生きられる」そういった内容の本が並べられています。

その想いのレベル、質によっては悩みの温床になりそうです。

その想いのレベルが低いと他人の迷惑になります。

自分の意図にいつまでも拘らずに、最初の目的意識から自由になることは

無我夢中になる為に必要なことです。

無我夢中になれる人は自由な人です。

メリットばかり考える、損をしたくないという意識が強いというのは、

そういう意識に縛られているので不自由な生き方になります。

無我夢中の時間はそこから解き放たれている時間で自由です。

思うに

自我こそが自分の牢獄ということですね。


他者と感動を分かち合って生きることは

自分の牢獄を半壊させるようなものです。

共感できる生き方は感動を呼び起こし

無我夢中のスイッチになるでしょう。

自分を解き放つということは

自分を忘れることなのです。





posted by 変才冨田 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鈴虫寺と煩悩

人の悩みの大半は

思い通りにならないことを

思い通りにしたい

そういう欲望から生まれるようです。

え?

わかっちゃいるけどやめられない

そうですよね。

それを諭すお坊さんも

煩悩の塊なんですからね。

うちのスタッフが
結婚できる願いが叶うということで有名な
鈴虫寺にお参りに行きました。

曰く「先生のお陰で素直にお参りできなかった‼️」

文句を言われたのです。

鈴虫寺では説法が面白いということで有名です。

「みなさんが良縁をお願いするときに個人の名前をあげてはいけません。キムタクなどとお願いしてはいけません。私にふさわしい人が見つかるように とお願いしてください」

如何ですか?

良いですね。

自分を棚に上げておいて、結婚相手は完璧な男をお願いする人が多いですね。

これは結婚相談所でも同じようです。

私にふさわしい相手と言ったときに眼差しのデザインが生じて、考え方が変化し結婚できるような資格ができてますね。

会社でも同じですね。

良い社員を願っていてもそうはなりません。

会社や特に社長にふさわしい人がやってくるのです。

夫や子供を見てため息が出る奥さんは

思い通りにならないため息ですね。


さて、鈴虫寺では年中鈴虫の音が聞こえるそうです。

8代目のご住職が年中鈴虫の鳴き声を参拝者に聴かせたいと思い

工夫を重ねて成功しました。

クーラーと暖房機があって、これは鈴虫のため鳴き声んだそうですね。

つまり、思い通りにならないことを思い通りにしたわけですね。笑

これはハウス裁判した冬のキュウリですね。

キュウリは身体を適当に冷やしてくれるので夏に食べ物です。

冬食べると冷えます。

鈴虫は晩秋にその鳴き声を聴きたいものです。

思い通りにならないことを思い通りにできると

案外つまらないものになります。

お寺の広告営業に利用された鈴虫も気の毒です。

どうにもならないことはどうにかしてはいけない
と思うのです。

せっかくふさわしい人が見つかるようにと願いなさいという
ご住職が思い通りにしてはいけないことをやってしまっています。

現代仏教は煩悩を抱えています。

posted by 変才冨田 at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

仕事が憂鬱 2

全体性が見えると憂鬱でなくなると前回書きました。

部分しか見えないと不安が先に立つからです。

けれどその全体性を見通せるようになるためには興味を持つことが必要なのです。

興味は「好き」の母胎です。

要は「好き」になれば良いのです。

好きになれば脳は息を吹き返します。

そうなれば右回転が始まり、脳は加速して賢くなります。

そのための鍵が興味を持つことなのです。

やる気しない
興味ない

これが口癖になっていると
やがては
効率ばかりに気がとられて

疲れた 嫌だ が口癖になります。

それでも仕事しないと困ったことになるので

考えることも面倒になるので
「言われたことだけコツコツやれば良い」と
我慢してやるようになります。

西洋のことわざに「20歳で死んで60歳で埋められる」ということになるでしょう。

人のやっていることに無関心になると

効率が悪いことやってるとバカにするようになり、誰もがバカに見えてきます。

自分が一番バカな状態であるとは気がつかないくらいバカになっています。


さて、若い時は生活を考えてはいけません。

中村文昭さんは

「頼まれごとは試されごと」と言います。

「なんでも言ってください、任せてください‼️」

という構えが未来を切り開く原動力になります。

どんなことにも興味があろうがなかろうがあたって行けば

関係性が深まり興味が湧くのです。

なぜ子供がお母さんを好きになるのか?

それは自分の面倒を見てくれている母の存在に気付き

注意が注がれ興味が湧き、やがて好きになるのです。

生みの親より育ての親なんです。

関係性が深まり好きになるのです。

今目の前にある仕事に全身で当たることがないと関係性が強化されません。

「今日1日の全力実行が人生の全て」です。

いつか頑張れるはずと思っていると

それはすでに両脚を棺桶に入れた状態です。

今日何も進んでしなかったということは

今日一日中死んでいたのですから。


posted by 変才冨田 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

若い働き人に告ぐ 働くことが憂鬱ですか?

働くことが憂鬱だという人がいます。

働いていないともっと憂鬱になるのにそう言うのです。

問題点は自分だけがそうだと思っているところです。

多くの人は働くことが憂鬱だと知らないのです。

土曜日が最も快活で日曜日は明日からの出社を考えて憂鬱が始まり、月曜日が最も憂鬱な曜日です。

月曜病ということです。

火曜日から諦めて耐えて土曜日が待ち遠しいです。

多くの人がそのようになっています。

サラリーマンマンという奴隷状態がそうさせています。

本来人は拘束されることが嫌いなのです。

したくないことを「させられる」憂鬱ですね。

起業家はどうか?

この人たちも憂鬱は変わりません。

クライアントに拘束させられ、彼らに希望に沿ってさせられているのです。

多くの人が憂鬱ですね。

けれど多くの人はそれを口に出しません。

大人だから言わないのです。

未熟な人は口に出します。

働くことが「罰」を受けている感覚は

休みが多いほど良いということになるし、

1日の仕事の中身に隙間を作りたくなるのです。

労働は密よりも疎が良いということになります。

そういう人の思考法に「能率」という言葉は違った意味になります。

仕事を端折る(はしょる)ことが能率になります。

外形として仕事をしたようになっておれば良いのです。

本来の仕事とはワークとミッション(魂や志し)が統合されたものですが、

仕事を罰として感じている人はミッション抜きの能率を考えます。

作業の背景にあるもの、つまり全体性の中で個別の作業が本来生じているのですが、

ミッションの抜けた作業にしてしまうと部分的なものだけがパーツとして視野に入っているだけなので、能率よくするほど肝心なものが抜け落ちます。

さて、働くことが憂鬱だと公言するようになると

困った事態が生じます。

経営者は積極的に仕事を任せることに不安感を増して

仕事を任せなくなり、極めて限定的な仕事だけ回すことになります。

その結果、経験値が得られなくなり暦の上だけで年齢を重ねることになるでしょう。

それだとその仕事さえ誰かに奪われかねません。

いつでも交代可能な仕事をしているからです。

あなたにしかできない仕事を得るには

その仕事を生じさせている全体性を知って、そこにも嗅覚を伸ばさねばなりません。

全体性を知ることは周辺が明るくなってよく見えるということです。

目の前が暗いのは目の前の部分だけにスポットライトをあてているからです。

先が見えないことをしているから憂鬱になるのです。

自分の人生全体と仕事の未来を含めた全体性を重ねることです。

これが憂鬱から脱出する建設的なやり方です。

これをもする気になれないのであれば、あなたは一生憂鬱な生き方を選ぶことになるでしょうね。





posted by 変才冨田 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

奪う生き方と与える生き方

表題を利己で生きるか利他で生きるかに変えても良い。

人という動物は利己で生きたがっている。

謂わば「欲しい!欲しい‼️」と生きたがっている。

それは至極真っ当な生き方で良いですよね。

一方の利他で生きたがっているのは社会的動物としての人間です。

人間とは抽象的な存在でジンカンとも読み、人と人の間にいる仮想の存在だ。

社会的というより世間的存在だといった方がわかりやすいでしょう。

この世間では本音である「欲しい、欲しい‼️」を多少は引っ込めて

利他を建前に生きる。


さて、この利己と利他は矛盾なのでしょうか?

対立概念で考えて良いのでしょうか?

これが今回皆さんに考えて欲しい宿題です。
posted by 変才冨田 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

小さくなってしまった男達 2

ずっと以前のことを思い出しました。

僕は女性は即物的、現実的なもので

非社会性がその性質という思い込みを持っていました。

男性は生きがいや人生論が好きで概念的なものに惹かれるとも。

事実は逆です。

むしろ女性は全ての面に全開しているようです。

男性は明日のことより今の酒です。

もちろん、基本的には性差よりも個人差でしょうが

女性は今と未来に大きな関心を寄せています。

夢は女性の方が抱いています。

男は疲れ果てているのでしょうか。

未来を夢見た社会的貢献行為には無関心です。

自分の周辺5メートル範囲にしか関心がない男が多いです。

明治維新は男達が担いましたが

これからの世直しは女がやるでしょう‼️

そう思うのは僕のセミナーにそうした女性が多く来ているからでしょうか。

男より女の方が僕の概念的な話に共感を寄せてくれます。
posted by 変才冨田 at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

待つ その意味 1

果物は熟さねば落ちない。

こちらの都合では落ちない。

やさいも米もジッと待ち続ける時期がある。

辛いね。

焦れることもあるよね。

雨だって止むのを待つ。

日照りも続けば辛いけれど、雨が降るまで待つ。

ジッと待つ。

子供の成長も待つ。

こうすれば良いのにという苦労しない方法を知っていても、子供が気がつくまで待つ。

恋人がいない。

それも待つ。

待たなければあなたに相応しい人に出会えない。

急いで募集すると魂が震える人に出会えない。


全てこちらの都合で意図的に動くと

熟す前の硬くて酸っぱい果物を手に入れることになる。


待っている間に本当にすべきことがある。

よく学び、よく遊んでいることだ。

ジッとソレを観察しておくことだ。

世界をより深く感じる感性を磨いておくことだ。


そうすればあなたのレベルに共振する現象が

光を放って現れる。

「今を生きる」とは

その開いた花を萎れないうちに摘み取ることだ。

蕾をジッと観察して待つ人だけが

今を生きることができる。



以上は最近の短気な私への助言です 笑

posted by 変才冨田 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を増やす生き方 2

コメント
制限を自らの意思で選ぶと選択肢が細やかに増える。。

これには ビックリと言うか、またまた世界の領域が変わりますね。言葉になると衝撃的であり、何だかまたまたワクワクします。

だってこれって人間の特技ですよね。魔法使いです。笑

最近、ワークショップでハリー・ポッターのように実際に魔法の学校に入学するのが人気みたいですが、

これこそ魔法使いになれる技ですよね🎵創造方法。
ホウキもスティックも 不要ですねー。

私のコメント
強制や与えられた選択肢は人間をダメにします。
主体的に選択肢を増やす為には先に制限の世界に飛び込むことですね。

制限という子宮にこそ自由の胎児が育ちます。

その辺りを実感するには、7号食は絶好の体験になります。

7号食をすぐに実行できるセットも用意されています。

一番上のリンクにBL研究所があるのでどうぞ。

posted by 変才冨田 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

性格とは制限の仕方です。

以下は6年前の記事です。

私のOSに「禁止と制限」が大嫌いという好悪感情が中心にあるようです。

小さい頃、歳の離れた兄に散々禁止と制限を受けたことが原因のようです。

自分とは無関係でも禁止と制限のシーンを見たり話しを聞いただけでムカッときます。

昔からわたしは「きっと自分は野垂れ死にをするだろう」、そう思っていました。


映画「今を生きる」はまさしくそういう内容です。


今もそう思っていますし、「野垂れ死に」したいと思っています。

人の一生はどう生きたとしても同じで価値の高低はないでしょう。

ただ、これだけは言える。

「わたしたちは遊ぶために生まれてきたのだ」と。

面白く生きないといけません。

面白く生きるためには制限をかけてはいけません。

年齢や性別や人種や育ちなどは制限の理由にはならないです。無関係です。

人は変わります。

それは自然なことです。

もしも一向に変われない人がいるとしたら

それは自分自身に強い制限をかけているからです。

それはもはや制限の仕方が性格であるということです。

posted by 変才冨田 at 08:47| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

今を生きる 3

ウイリアム ロビンソンの「今を生きる」に呪文のように
カーペデイエムという言葉が繰り返されます。
これが「今を生きる」という意味ですが、本当はもっと強い意味があります。
「今、その花を摘み採れ‼️」ということです。
萎れるのは早いぞ、今しかないぞ」と唆かすのです。

あなたの前に色鮮やかな花が咲いているはずです。

見えないのなら
それはあなたの怠慢です。

いのちについて
ゴンドラの歌
1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日はないものを
2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)
の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬
に ここには誰れも 来
ぬものを
3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬも
のを

この詩は黒澤監督の映画で「生きる」に挿入された情熱を秘めた歌です。この歌は決して若い女性だけに呼びかけたものではありません。

主人公も定年間際の公務員なのです。彼は胃がんを宣告され余命が少ないことを自覚しました。自分と家族のことだけを考えて小市民的に生きてきた人生を変えようとします。戦後の荒廃した街の空き地を児童公園にしようと考えたのです。

その場所は
雨が降るとぬかるみ、蚊が発生して苦情が寄せられていたところです。
やっとそこに公園が出来上がり、彼はその公園に設置したブランコに座り冒頭の「ゴンドラの歌」を口ずさみ、歌い終わってそのまま息を引き取ります。感動的なラストシーンでした。

この映画のメッセージは「今を生きよ」です。
そして、今こうしたい!と思ったときこそが「なにかに恋したときであり、朱き唇や燃ゆる頬、心に炎が灯ったとき」だと呼びかけているのです。
「いのち」には血潮が宿った時こそが「いのち」としての意味を立ち上がらせるのです。
「いのち」は「生命」とも書きますが「生」は人というどうぶつとしての一面だけを表現しています。
「命」は社会的動物としての人間として「いのち」を表しています。
「命」とは命令です。人を一なるものが叩くと書きます。一なるものとは天のことです。天とは過去から未来を包含した人類の希求するモノのことです。それが「天命」というものなのでしょう。

天命という命令がわたしたちの心のドアをノックしたとき「熱き血潮」がたぎります。

昨日徒歩で全国行脚をしているという北海道に住む若者が事務所に訪ねてこられました。(真っ黒に日焼けしています!)
彼は北海道の札幌にある「あじと」という会社の人で、その会社では何人もの若い人がごみを回収しながらの徒歩全国行脚をされています。発端は代表者である奥村大亮さんが始めたのです。別に強制しているわけでもないのに自発的に志願者が現れ恒例のようにして実行されているようですね。

彼、飴谷さんは腎臓の片方がほとんど機能していません。この暑いさなかの行脚は常よりも大変なはずです。
では、なぜ彼らは、それをするのでしょうか。いえ、彼らだけではありません。
日本にはそうした伝統が昔からあります。古くは江戸時代の「お伊勢参り」であり、現在も連綿と続けられている「四国八十八箇所霊場めぐり」ですね。
藩の領土内からは離れられなかった民衆ですが、こればかりは許されていたのです。一生に一度きりの大冒険の旅であったわけです。
東海道の宿場町が発展したのもこれがあったからです。
ある種の精神的熱気に支配されて延々と歩いたわけです。もちろん物見遊山の人々も多かったでしょう。
でも現代よりもはるかに危険な旅でした。体調をいつも保たねばなりませんし、なによりも足が頼りです。
そこで江戸時代は民間療法としての「お灸」が一般的な知識としてだれにもあったのです。有名な「足三里のツボ」はみんなが必須の知識としてもっていたのです。足と消化器が調整される特効的なツボです。

ところで当時はだれでもがこうして行脚をしていましたが、現代は稀有です。それを実行する人たちはそれこそ例外なく「熱い血潮」がたぎらなければ実行できないことです。
私「なにを考えて歩いていますか」
彼「死について考えながら、どう生きるかを考えています」
わたしたちは人生という時間の奔流に流されて生きていますが、ときどきは岸に這い上がって「浮世」を眺めるときが必要なのです。

なぜ?
そのとうとうと流れる時の果てに、永遠という死への淵が待っているという真実を知るためにです。
その真実を胃の腑に落とすことで、自己の存在の意味を自覚することができるのです。
知ることと自覚することは雲泥の差があるのです。
わたしたちはやがては死ぬことを知っています。けれど自覚はしていません。
「生きる」の主人公は癌の宣告を受けることで死を自覚し、それが「使命感」につながり生の燃焼へとつながったのでした。燃焼することで誰でも「朱きくちびる、燃ゆる頬となり、心のほのおが燃え立つ」のです。

「使命感」とは天にわたしの「命」を委ね、己の「いのち」を使っていただく幸せを感じるということです。
よく考えてみれば分かることですが、この世に「自分のモノ」といえるものは一つもありません。すべては一時的に与えられたもの、借り物にすぎないのです。「いのち」でさえ他者や環境とのつながりで支えられているものなのです。
ですから「使命感」を持って天命で生きるのはごく自然でストレスのない生き方になるのでしょう。

それにしても凡人はついに「死の宣告」を受けなければ、自覚に到れないのでしょうか。
父母から受け継いだいのちの炎を燃やすだけならたやすいことです。
「朱きくちびる」を一生絶やすことなく、その心の炎が消えぬまにその生をとじたいものですね。
ちなみにわたしの使命はみなさんに玄米を食べていただき、その上でしっかりまっすぐに立ち、歩いていただくことに貢献することです。

posted by 変才冨田 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁止と制限がなぜ生じるのか

火の性質は奔放で自由です。

社会を維持するためにはみんなが好き勝手にやっていては困るので

禁止や制限を加えます。

これは有益面です。

けれどこれが強化され過ぎると人も世の中も硬直化してしまい、

結果として楽しくない世界になります。

制限や禁止の多い会社や学校、はたまた夫婦関係においても

不幸になります。

楽しくない組織はいじめや暴力も生みます。

強化される理由はそれでメリットがある人達が存在するからです。

戦前は治安維持法があり国民は萎縮しました。

産軍一体のメリットがあり
戦争に反対する政党や団体を禁止して国民には制限をかけました。

戦後すぐに朝鮮戦争をするためにレッドパージを行い

ハリウッドでも自由な表現追求をする映画人を密告させて追放しました。


会社においても過剰な禁止や制限を作るのは会社のメリットに通じるからですが、

そういう会社は硬直して、やがては世の中から除外されていきます。

共通の価値観を失えば制限や禁止などに関係なく解消するところです。

逆に言えば共通の価値観が保持できない求心力を失った会社が

その告白として禁止や制限を作ります。

自信がないのです。

夫婦関係や恋人関係でも同じです。

自信を失った彼や旦那が奥さんや彼女の行動をいちいちチェックするのです。

生徒を指導できない学校が校則を強めます。

灘高などは校則はかなりゆるいです。

軍隊などは権力がないと維持できない組織です。

崩壊するときはあっという間です。

会社は給料支給で拘束できますが、それが無理なら

洗脳して自らに制限をかけさせます。

楽しく生きられる組織ができないものでしょうか。

信頼に根ざした組織が欲しいです。


posted by 変才冨田 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を増やす生き方

「人生は選択の連続だ」といわれているけれど、これには違和感がある。

なぜ、わたしが違和感があると思ったのか考えてほしいのです。

と、三年前に書いたまま放置されていました。

続きを書きます。

選択をする時に自分の頭で考えて選択するということが「主体的に生きる」ことでしょうか?

それは違うと思うのです。

それではゲームをしている人と変わらないようです。

目の前に与えられた選択肢から選んでいるようでは受動的です。

選択肢をどう増やすか、与えられた条件以外に自分でもっと条件を増やす生き方があるはずです。

選択肢を増やす方法は実践しかありません。

実践すれば周辺は必ず変化します。

同時に自分の意識も変化します。

これが選択肢が増える理由です。

受け身では常に選ぶだけの身になって

与えられた情報量でコントロールされるだけの人生になります。

パートナーシップとは組んだ相手と共に船出をして

つまり実践をすることで選択肢を増やし、その事がお互いの成長を促し

主体的力量を増すという事を目指すものです。

それが苦しいことが楽しいという状況を創造します。

最近BL研究所であった話しですが、

集配に来る郵便局の人の態度が悪くて担当者を変えるように郵便局に苦情を申し入れるということになってい

ました。

それは簡単に解決できることですが、それでは「楽しく生きる」というパートナーシップのコンセプトは達成できません。

相手の態度に不快になるのは相手に自分の感情をコントロールされているわけで、受動的ですね。

これでは楽しくなりません。

相手の態度に一喜一憂している間は本当の楽しさの境地を手に入れることはできません。

集配の人が悪いという固定した眼差しでいる間は成長できません。

相手の態度を決めているのはこちらかもしれないのです。

集配作業がやり易いように配慮すれば良いのです。

荷物がたくさんあれば手伝うことです。

相手が楽になるようにすれば良いのです。

これが自分を変化させるチャンスなんですね。

それを ここからはあんたの仕事でしょ!‼️

と区切りを付けてはいけません。

こちらは客であんたはお店。

客にサービスするのは当たり前という態度に問題があります。

安い居酒屋を探してクレームを連発する人がいましたが、

それではサービスをより悪化させるだけです。

いつでもどこでも相手を楽しくさせる生き方が問われるのです。

posted by 変才冨田 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

今を生きる 2 パートナーシップについて 2

パートナーシップを結ぶ相手は同じ方向を向いているという条件が必須です。

旅たって事を為すためにパートナーシップを結ぶのですから、

相手の首の向きが違うとさすらうだけになりますからね。

さらに旅の途中でパートナーシップの中身が喪失しているのに

惰性で続けている人たちは多いのではないでしょうか。

なかなか転職しない人の中にはしたい仕事があるのに

職場の人たちが良い人ばかりで辞めにくいということもあります。

微温状態の土性で停滞しています。

仕事という組織だけではなく、夫婦恋人なども同じです。

こうした見ているところが違うという解決できないトラブルを

トラブルが起きる前に解決できないものでしょうか。

それは可能です。

要はあなたがしっかりした軸と目指す方向性があるという前提です。

まだそれがしっかりした輪郭がない場合は少し先しか見えていないので、

今の現実だけで判断します。

現実と一言で言いましたが、現実の本質は過去現在、未来がたたみ込まれています。

この現実の三要素からどれに注目するかです。

それが判断力の高さを示します。

過去だけ見ている人たちはすでに死んでおります。

過去と現在だけを見ている人は判断力の低下があります。

現在だけを見ている人は難破船状態です。

未来だけ見ている人はファンタジーの世界で生きています。


現在と未来を見ている人は建設的思考の持ち主です。

この中でどれだけ先が見えているかで判断力の高低が決まるでしょう。

脚はしっかりり地に着け眼差しは遠くに向かっています。


posted by 変才冨田 at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月29日

今を生きる 1 パートナーシップについて1


全ての人は自己の判断力の範囲内の世界で暮らしています。

判断力の範囲は全員違いますから、その違った人々がチームを組んで何事かを為そうとした時にトラブルが生じます。

そのトラブルには解決可能なトラブルとどうにも解決できないトラブルがあります。

判断力とはどう見えているかで決定されます。

ということは、方向がまるで違うところをそれぞれが見ている場合は

解決不能です。

話せば分かるということではない次元です。

話せば分かるという次元のトラブルは遠近の違いがあっても

同じ方向を双方が向いている場合です。
posted by 変才冨田 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

世界を喪失しつつあるという感覚

最近僕の意識に不思議な流れが生じていますよ。

思春期にありがちで非常に青臭いことですが、

自分が自分であるということが不思議でなりません。

世界をこの独特な自分という感覚容器で日々感じているのですが、

この受容器を失えば全てを失うということが腑に落ちてしまい
困っています。

この感覚受容器の性能次第で世界が褪せばんだり
鮮烈になったりするのです。

老界に達するということは感覚の衰えを伴いますので、
日々世界は私から遠ざかるということになります。

いわば死というものが現実には毎日起きており

日々世界を失っているわけです。

例えれば
みなさんのポケットから歩くだけでお金がこぼれ落ちていると想像してください。

ポケットを抑えたくなり、それでもダメということが分かったら歩こうとしなくなりませんでしょうか。

僕が困っているわけが想像できましたか?

これは思春期に対して
老秋期の感覚でしょうか。

ポケットを抑えるような抵抗をしているわけですが
世界を失ってしまいそうな気分というのは切ないですね。

なぜなら世間的なことに意味を見出せない状況は
全ての意欲にも意味づけを失うからです。
存在を根底で意味づけする世界を失う感覚は困ります。

posted by 変才冨田 at 19:55| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月15日

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。3

さて、次はお化粧問題です (笑)

ある美容専門の先生のお話ですが

今の化粧は欠点を隠すことが主になっている。

シミやシワ、顔色の悪さを隠すということですね。

だから意識が欠点にばかり向いて、自分の顔の良いところをみつけられなくなっている、というわけです。

ナルホドですね。

欠点を隠すことにかなりお金を浪費しています。

僕から言えば隠す必要のない状況をつくっていただきたいです。

7号食や水素風呂もその一つですし、ライフスタイルを変えるということを土台にしておけば

化粧の意味づけも根本的に変わると思います。

最近はインナービュウティの方向が出てきているようですね。

余談ですが、このような本も出ています。
image.jpg
彼女はリタライフという水素風呂のファンで毎日2回の入浴、一回はシュノーケルで潜っているそうです。

シミやシワ、セルライトまで減らすというエビデンスがとれています。
それどころかB型肝炎やリュウマチまで完治しているという報告が先日のフォーラムで本人が体験発表されていました。

僕は本当の美容法は土台に健康法を据えるべきだと考えています。
脂肪過多や肝臓の不健康があるところでする美容法は欠点を隠す美容になってしまうでしょう。

さて、あるがままを認めるっていうのは重要です。
どう見ても可愛い女性が自分の顔が嫌い!
認知の歪みがあるのですね。

他者から見て修正を加えないとその認知の歪みがとれないのかもしれません。

でも、おそらくそれも難しいです。

いくらありのままを云ったところで本人は認知がゆがんでいるので否定します。

唇がゆがんで、鼻が団子で、丸顔だし、眉毛形悪いし・・・。

こうやって認知の歪みというのは全体性で捉えられないところからきます。

現代医学も同じです。

部分的思考なのですね。

血圧だけを正常にしようとするから副作用もでます。

身体は血圧を高くすることで全体として整合性を取ろうとしている。

血圧が高いことはある意味全体を無理なく統合する働きなので良いのです。

癌も同じです。

血液が過剰栄養になっているので(汚血状態)その余分なものをどこかに集めて血液をきれいにしておく働きが癌です。結果としては癌を作っておいた方がそうでないよりも長生きできるのです。
身体の整合性ある高度な働きの結晶が癌です。

欠点を隠す化粧法の背景には全体を見ない考え方があるのです。
シミを消すように、癌も切って消そうとします。

癌組織をもった豚は出荷するときに一部摘出肉という手続きで出荷されます。

癌もシミも全体として整合的に生まれたものです。

さっきの話題にもどります。

顔の一つ一つのパーツだけを見て、それらが精妙に配置されたとき、形が悪いと感じていたものが
全体として美しいものに変化します。

認知の歪みは全体を見ないところからできるのですね。

僕は顔というものはその人の生き方や感性がにじみ出るものなので
美しく活きる!という土台を保持してさえいれば
美しい人、魅力的な人と感じるのです。

そうそう
僕は自分の顔は近くでみるとげんなりします。大嫌いです。
けrど、遠目には気に入っています。(笑)







posted by 変才冨田 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。2

どうなるかがわからないというのが人生の本質です。

どうなるかわからないという本質性の人生に合理性や効率性を求めているわけです。

コントロールできない人生に目的や夢を設定するのは

矛盾ですね。

この矛盾がストレスを生み出し悩みが生じるわけです。

いえ、目的や夢を持ってはいけないということではないのです。

それに固執してはいけないということです。

目的や夢を追いかけている途上でなにに出会うかわからないのです。

もしかしたら出会ったソレはあなたの人生に素晴らしい意味をもっているものであるかもしれません。

その重要性をセレンディピティというのです。

むしろそれに出会うために目的や夢が設定されるのです。

最初に設定した夢や目的に固執しているから無駄な非生産的な悩みに苛まれるわけです。

固執する原因は「最初に決めたことをあなたはなぜ諦めるの!」という強迫観念があるからです。

人生は意志の力でコントロールできるという妄想が不毛で楽しくない人生を呼び込むわけです。

さっき、電話で「友達に血圧が170ある人がいて、どんな食べ物を教えてあげたらよいですか?」

という質問がありました。

わたし「血圧が上がる原因はたくさんあるからなんとも言えないよ」

彼女「別な人だけど甘酒を豆乳でわって飲んだら血圧もさがり肝臓の数値も篤なった人が「います」

わたし「おそらくその人はナトリウム過剰であったかもしれません。豆乳のカリウムがナトリウムを排泄して血圧が正常になり、同時に腸も浮腫んで腸の蠕動運動が低下していて、腸内環境悪化で肝臓も負担になっていた。ナトリウムが排泄されて腸の浮腫みが解消されると便秘も治り肝臓も助かった」

わたし「だからといって豆乳が全ての人に良いとはいえないですよ。果物などが大好きな人はカリウム過剰になって冷えがくるかもしれません。季節的にも冬に飲めばデメリットが目立つ人もいます」

彼女「さっきの友人はやせ形です」

わたし「だったらストレス性かもしれませんね」

彼女「そういえば煙草もお酒も飲むの。それやめたらストレス解消できないと言ってます」

わたし「毎日が楽しくないって言ってるでしょう」

彼女「そうそう、その人の口癖なんです」

わたし「処方箋は毎日楽しく活きるぞって決めることです」

楽しいこと探しのワークが必要なんですね。

人生に効率性ばかりを求めるとつまらないものになってしまいます。

身体に起きていることを手掛かりにして考え方を変えていくのです。

続く










posted by 変才冨田 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。

人は自分の行為に対して意味付けをしておかないとストレスで壊れかねません。

もちろん、したいことであれば意味づけなど必要ないですね。

したくないことばかりなので「意味づけ」という行為が必要になるのです。

さて 意味づけの視点によっては楽しくなって、したくなるかもしれません。


視点には大きく分けて二つあります。

1 役に立たせるのか
2 有用ではないが楽しいものにするのか

1はメリットを考える訳で、にんじんぶら下げてなんとか
やる気を出させる。
これができる人は、マアとりあえず楽しくなる。
今は楽しくないけれど、楽しい幻想が生まれます。

夢を持て‼️
ということです。

それができない人は、メリットなど考えないで今をどう楽しくするか
だけに集中する。

マア
玄米ごはんに喩えれば
不味くて嫌だけど
美味しいふりかけを創造するっていうことですね。

これが2ですね。

お化粧に喩えると
欠点を隠すお化粧はメリットで1ですね。

お化粧そのものに面白さを見いだす。
変身の面白さに集中する。

これは2でふりかけですね。

東京の表参道辺りを歩くと
2の人を多く見かけます。

さて、あなたは人生をメリットでしのいで行きますか?

花村先生流で言い直せば
人生を機能的にデザインしますか
それとも
人生を楽しくアートしますか?

ということになります。
posted by 変才冨田 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

壊れるから自由なんです。

壊れることはあたり前で自然なことです。

壊れない方が困るのです。

小腸の細胞は毎日ハード・ワークをやっています。

川のように絶えず上流からドロドロになった食べ物が流れてきます。

それを吸収したり、いらないものを拒否したりと忙しいのです。

ですから傷みます。

傷んだ細胞がいつまでも居座っていては機能不全になりますね。

そこで早く交代できなければいけないのです。

小腸の細胞は2,3日で入れ替わります。

そのためには壊れやすさこそが重要です。

食べ物も同じで「代謝」というものは

食べ物が壊れるから成立します。

食べ物が壊れなければ、それは食べた人の命に変化しません。

壊れやすい食べ物が必要です。

マーガリンの脂肪などは壊れにくいので代謝できないのです。

防腐剤や着色料なども同じですね。

壊れないから長期間身体に留まり悪さをします。

優しい食べ物とは壊れやすいものなのです。

消化器や酵素は食べ物を壊す働きをもっているのですから、それを拒否する食べ物は困りものです。


さて、人生においても変わらぬ目的とか夢を持てと言われます。

目的や夢も壊れにくいものでは困ると思うのです。

途中で目的にないものだけれど、素晴らしいものに出会うことは常です。

旅行の目的は次々変えて良いと思います。

最初に夢や目的ぬ執着しないことが自由なんです。
posted by 変才冨田 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

倉本聡さんの哲学

見える現象の背後には必ず見えないものが影としてまつわっています。

現象を作り出す原因ということですね。

現象の質量の大きさは見えないものの質量で決定されています。

あなたの見える身体も、その身体にまつわっているものはあなたがこれまでに食べてきたものです。

食べ物の質量と如何に食べたかが今のあなたの見える質量を作っています。

食べ物だって同じです。

光の量やミネラル量,それを作るための労力や時間などが見える食べ物の質量です。

見事なピアノ演奏も舞台以外の場所での誰も見ていないたゆまない練習があります。

ピアニストは毎日最低でも5時間以上練習しているのです。

倉本さんはシナリオを書くときに,ドラマでは表現されていない登場人物の履歴を細かく書いています。


いつ産まれて両親はいつ死んだか、両親の履歴にまで及びます。

女性であればいつ処女を失ったかまで設定されています。

それは大変重要でセリフはそうした背景から生まれ、発声にまで影響する。

それを倉本さんは木で例えます。

多くの人は枝ぶりや葉の茂り方を考えるが見えない根っこをどこまで掘り下げるかが重要だというのです。

登場人物の根を掘っていくことがその人物にリアリティーを作るということですね。

仕事も同じですよね。

一つの作業の背景を掘り下げることはその作業の意味づけになります。

意味づけを深く掘り下げている人こそがプロフェッショナルです。

形だけ真似しても薄っぺらい印象を与えるだけですよね。


それにしてもテレビでの倉本さんの歩き方を変えたいです。

82歳ですが、浮き指で歩いていらっしゃるので疲れるはずです。

靴履いているのになんで浮き指ってわかるかって?

そりゃあわかりますよ。

見えている歩き方から逆にたぐれば、見えない指がどうなっているかぐらいはわかるのです。

僕なら倉本さんを楽にしてあげられるのになあ〜・・・・・

足楽です輪や姿美人をプレゼントしたいです。

posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

新年おめでとうございます   人生を支配する「眼差しのデザイン」について

毎年の感慨ですが、昨年もわたしは成長させていただいた気がします。
面白いものでこの感慨は27年間、つまりBL研究所を立ち上げてから継続しています。

そういう次第なので
毎年の始まりは、年末を想像するのです。
きっと今年も僕は成長する。
どのような姿であろうかとワクワクするのです。

昨年良かったなあと思えること。

認証ワークがほぼ完成形に近づきました。

1 食の認証ワーク
これはずっと追いかけてきたものですが、7号食や食に対する概念はこの認証ワークのための準備のようなものだったと気づきました。
食を人生に位置づけることは、あたり前のことながら気づいていない人々が多いのです。
食をコントロールできてこそ命を人生をコントロールできるのです。

2 身体の認証ワーク
身体の繊細な感覚をどう気づくかは人生の欠かすことができないテーマです。
人はいろんな痛みに見舞われますが、全て身体の言うことに耳を傾けていなかったからです。
痛みとは「行き過ぎ  活き過ぎ  生き過ぎ  生き急ぎすぎ」であったことを知らせてくれます。
足楽です輪の開発は、当たり前の身体感覚を持っていただくためでした。
足指という脳からは辺境の場を脳に気づかせることが必要でした。
足指を脳が感じれば身体感覚の基本ができます。

今年は「菊池体操」を学べたことは大きな収穫でした。
それは環境としての身体を見直すきっかけでした。

同時にヴィッパサナー瞑想を体験できたことは食と身体の認証のインスパイアに役立ちました。
菊池体操もこの一連の体験に裏打ちされて理解が相互に深まりました。

食と身体の認証ワークは全ての認証ワークの土台で、これを経験することがほかの認証ワークを意味あるものにしてくれるでしょう。

3 他者の認証ワーク
自己認証は必要ないのです。
食と身体の認証こそが自己認証そのものなのですから。

他者を認証することでもう一人の「私」を認証することができます。

魚は水を認証することで自由に泳げるからです。
魚を自由に泳がせてくれるのは水の力です。
あなたにとっての水とは他者なのです。

4  お金の認証ワーク
お金はエネルギーです。エネルギーの使い方を間違えると大変です。
建設的、生産的に活きるか
浪費的、消費的に活きるか
お金の使い方のシーンが人生の分岐点です。
見慣れているのにソレを知らない!
お金について学びます。

5  仕事の認証ワーク
  食と職は表裏です。
  パンとパン以外のものを同時に追求することこそが大いなる活き方です。
  働くとはどういうことか、あなたのその職にはどんな意味があるのかを考えます。
  意味づけのない行為は脳にとってストレスです。
  働く意味づけを学びましょう。

6  1から5までの認証ワークの土台はここにあります。
   これができたら1から5はあたり前にできます。
   けれど、これが難しい!
生(性)と死の認証ワーク
   自分が確実に死ぬ存在であるといことを腑に落とせば
   すべての眼差しが変わります。

1から6までの認証ワークとは「眼差しのデザイン」にあるのです。


今年はこの六つの認証ワークを軸にして活動します。
これをDVDとしても制作する予定です。


もう一つ目標があります。


posted by 変才冨田 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

ヴィッパサナー瞑想について 解脱とはなにか1

途中で連載が途切れてしまっています。

僕がこの連載で書きたかったことは、結論として「解脱」をもっと普通のこととして解釈したかったからです。

これを書くと関係者に不快な思いをさせる可能性があるので控えていた考えがあります。

それで躊躇していたのですが、これからその周辺と核心部分を書いてみます。

その事を書かねばならないと思ったのは、やはり日常の生き方を見直すことに直結させたいからです。

続く

posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

花村先生の大学での講義

本日は京都精華大にて風景進化論の講義。
先週はイントロダクションだったので、今日のORIGINEから本格的に歴史に入っていく。
今の僕らの文明の価値観はたかだか150年ぐらいの歴史しかなく、それ以前の人類はもっと違うものを信じていた。
もし今の僕らの価値観を問い直そうとすると、その外側から何かを伝えねばならない。だからいつも宇宙の誕生と人類の誕生あたりから話をする。
今日はパパラギの話を少ししたが、留学生にも響いていたのはちょっと嬉しい。
サモアの酋長のツイアビが見た西洋文明を指し示した言葉を集めた本だが、鋭く僕らの矛盾を突いてくる。
以下はパパラギより抜粋。
(パパラギとはサモアの言葉で「白人」のこと)

 「パパラギはいつもお金を欲しがっている。そのために残酷になり、偽り、 人を信じなくなったりする」

「パパラギはたくさんモノがなければ暮らして いけない。少ししか物を持たない者は自分のことを貧しいと言って悲しがる」

「パパラギには暇がない」

「パパラギには職業というものがあるので毎日同 じことをしなければならない。そのためにひとつのことしかできなくなってしまう」

「パパラギは考えるという重い病気にかかっている。サバイまで船 で行くのに、岸を離れるとすぐサバイへ着くのに時間はどのくらいかかるか と考えるので、まわりに広がる美しい景色を見ようとしない」


コメント
いかがですか。

皆さんも思い当たることがたくさんあったでしょう。
僕も苦笑いですね。

最後の二つには茫然ですね。
職業というものがある・・・。
そのために一つのことしかできない。

そうやって我々は奇形化していきます。

考えるという重い病気にかかっている。
これが最も衝撃ですねえ。

未来や過去に思いを馳せることで、今の感覚や感動を台無しにしています。
それが病気だというわけですね。

その癖で
感動欠乏症 不安神経症に罹患しています。

posted by 変才冨田 at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

[ 「意のままに生きる」2

この場合の「意」とは「意志」のことであろう。

「志」とは心が指し示す方向性であり「意」がその方向へ行くために処々で対処する。

「意のままに生きる」とは思った通りに人生をコントロールできる境地を言うのであろう。

けれど、わたしたちの人生の実際は「意のままに」生きられない。

あちこちでぶつかり方向転換を余儀なくされ、何度も何度も阻止され思いもしない方向へ流されていく。

皆さんの現在はどうだろう。

今、こう在る姿を10年前に予測していただろうか。

すこしも「意のまま」ではなかったはずです。

ここいらであきらめればいいのに、人間はタフなものでなんとか「意のまま」にしたいと生きていくのです。

タフでない人は「うつ」になったりもします。

気付くことはそのあなたの「意」がいけなかったことです。

我を張るという「意」がいけなかったのです。

そのためにあなたを活かすはずの周辺の水がゼリー状の重いものに見えてしまっているのです。

あなたは「魚に泳ぐ能力がある」と考えているでしょうか?

魚にはその能力がないのです。






posted by 変才冨田 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月23日

ヴィパッサナー瞑想 20「意のままに生きる」という本の題名から考えること

そういう題名の本が事務所にありました。

僕はまだ読んでいませんが、皆さんはこの題名からどんなことを考えるでしょう。

posted by 変才冨田 at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

ヴィパッサナー瞑想18の質問2

質問2
自分の感情を認証することが、相手を認証することにも繋がる? だから、先に、自分の感情を認証する。 ですかね。

回答
未だ、自他の区別に拘っていますね。

逆も同じです。 相手の感情を観察することは自己の感情も同時に観察しています。

自分の感情も他者の感情も区別できないのです。

繋がっているからです。

感情にはここから自己所有でここから他者所有という切れ目はないのです。

自己という名前の他者なのです。

他者という名前の自己なのです。

これは「わたくしという存在」は妄想であるという考え方につながっています。




posted by 変才冨田 at 00:11| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする