◆BL研究所トップページ◆
◆7号食についてのQ&A等はコチラ◆
※水素風呂についてはこちら※
◆梅ごぼうの作り方◆
◆商品案内はこちらです◆

2017年10月18日

千と千尋 9

現行医療に対する洗脳は小さい時から始まっていますから強固です。

洗脳されているかどうかは、その行為に自身で意味付けしていないことでわかります。

ある事例

塗るだけでたった7日でシミが、ぽろっ
寝る前の15秒塗るだけでシミが剥がれました!モニター価格80%オフで購入できました!
Girls Lab
AD ある男性です。

しいたけと切り干し大根のスープを数か月奥様につくっていただき飲用していました。

その甲斐あって高脂血症の数値がずいぶんよくなったのです。

医師に「もう少しで正常になるので血液サラサラの薬出しておきましょう!」

その男性は薬を飲み始め、無くなったらクリニックに行って貰ってきます。

それを知った家族は「・・・」


さて、この男性はスープを飲む意味づけもなかったし、薬を飲む意味づけもありません。

奥様にスープを出されたから飲む、医師に言われたから呑む。

この男性を笑うことはできません。

わたしたちは、一日の大半の行動に意味づけないまま過ごしています。

刺激→感覚・感情が動く→反応

最後の→に意味づけをしましょう。


私たちは普通洗脳されており、この洗脳が生きていくのに都合が良いかどうかです。

ただ、ここで洗脳の定義を付けておきます。


続く



posted by 変才冨田 at 14:04| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月17日

なぜ、我々は穀物が命なのか?

元米と健康づくり
(1) 人類と穀物
穀物の発見は人類史上非常に大きなエポックで、穀物のメリットを得て人類はやっと歴史時代が始まったと言えるだろう。
人類にとっての穀物のメリット
1 貯蔵できる食べ物
エンゲルスは「猿が人間になるにあたっての労働の役割」で、肉食は高エネルギーを得ることで剰余時間を与えた。この剰余時間で労働や創作活動時間が与えられ知能を発達させたと述べている。
ところが獲物を射止めてもその肉は貯蔵できず速やかに腐ってしまう。しかも、獲物が狩ることができないことも多かったはずで、剰余時間どころか飢餓に悩まされていたはずだろう。
おそらく森林火事の焼け跡で焼き米が皮の中でできており、その香ばしい匂いに惹かれて見つけたのでしょう。
そして、同じ被子植物を求めて歩き回り貯蔵したことと思われます。
たくさん集めることで飢えから解放され、その栽培にも乗り出したことでしょう。
貯蔵できるということと栽培できるということが道具をつくる労働時間を保証しイメージを拡大できる偉大な脳を作ったのでしょう。

昨今に流行りの糖質制限食の論がある。「人類は元々は肉食であったから、肉の方が米よりも生理的、体質的に適合している」と言うが、穀物の発見こそが人類の心身を進化させたことを見ていない無知な論だと思う。
その後の人類は穀物食に適合する生理的進化を遂げただけでなく、穀物の栽培によって天文などの知識、栽培法の知識を学ぶことで脳をも進化させた。
しかももっと後年になっからですが穀物の安定確保は野性の動物の家畜化も可能にした。動物を殺すと腐敗をおこすので、新鮮にその肉を保つ方法は飼うことです。
飼うためには食べさせなければならず、飼える動物は肉食獣では危険なので草食性の動物を飼うことは必然です。豊富な草原や「穀物の貯蔵があって初めて家畜化のイメージをもつに至ったのです。
posted by 変才冨田 at 18:45| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

千と千尋 9 洗脳のされ方

自分は洗脳などされていない‼️

簡単な事例から考えてみます。

薬です。

風邪を引いて風邪薬を、痛いとロキソニンを、
血圧が高いので降圧剤を服用する。

立派に洗脳されています。

風邪引いて病院に駆けつける人は「つける薬がない」くらい洗脳が進行しています

薬は毒であるという真実を知らないのです。

冷え性の方が「体温を上げるためには何を食べれば良いですか?」
と尋ねられます。

世の中には冷やす食べ物があると信じられています。
それは相対的なものです。

食べ物は全て体温をあげます。

もしも何かを食べて体温が下がったらそれは毒物です。

降圧剤はどうでしょう。

血圧が下がったらそれは毒物に対しての身体の反応です。

毒物の効果が血圧低下です。

下がりましたねえ、と医者と一緒に喜んでいる場合ではないのです。

解熱剤も同じです。

せっかく治癒反応として熱を正しく上げた天晴れな身体の意思に反して
薬で邪魔しています。
毒物を盛った結果が体温低下です。

痛みも治癒反応です。
そのまま放っておくのです。
治そうとして血液通そうとしている時に痛みます。
痛み止めは血行を止めることで痛魔なくさせるのです。

正座して立つ時に痺れが起きるでしょう。
どうしますか?
結構回復を待つでしょう。
痺れ止めの薬を服用しますか?

薬に対する意味づけのないまま服用しています。
自分が何をしているのかがわからないのです。

薬や病院に頼っている人は多いです。
薬や病院が疾患を治してくれるものと信じています。

洗脳は日常的ですね。
posted by 変才冨田 at 23:23| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千と千尋 8 洗脳のされ方1

自分にしかできない役割に気づいていない状況が洗脳されている。

気づいた瞬間に洗脳が解ける。

その瞬間に自分が自分として活き始める。

自分を取り戻すということを
宮崎駿は「名を思い出す」と言っているわけです。

ところで釜爺は洗脳が解かれています。
けれど、釜爺は湯屋において過剰適応(手足が仕事順応で伸びきっている)
でもはや他所では生きていけないことに気づいています。

資本主義という仕組みに過剰適応してしまった人々がいかに多いか‼️


さて、洗脳されている状況とはどうなっているか?

1 自分の言動の意味がわからない。
2 というよりも、自分の言動の意味を自分に問いかけられない。
3 問いかけても、その解答自体がある与えられた枠組みの範囲で、
その制限の枠を超えられない。

最後の「制限された枠を乗り越えられない」こそが洗脳の仕組みです。

大阪府大の花村先生の提唱する「眼差しのデザイン」は乗り越える転機を与えます。
これについては改めて書きます。先生の本が近く出版されますのでBL研究所でもご紹介します。

続く
posted by 変才冨田 at 09:43| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

千と千尋 7 名の意味

宮崎駿が考えている名とは誕生して両親によって付けられた名ではない。

では、宮崎駿が言うところの名とは何なのか?

それは自の主体に目覚めた人が自ら命名する名です。

つまり、自分の使命に気づいた人がその使命に名を付けるのです。

名とは使命の内容に付ける役職名のことなのですね。

ニギハヤミコハクヌシというのがハクの名前ですが、コレ役職名ですね。

つまり、

自分の命を何に向かって使うかに気づいた人。
自分が何の役に立つのかに気づいた人。

その瞬間に『名」を思い出すのです。
奪われていた名を思い出し取り戻したのです。

これは洗脳が解かれた瞬間ですね。

問題は「名」をなぜ奪われたのか?

それは次回




posted by 変才冨田 at 22:15| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

千と千尋 6 洗脳と主体

洗脳する人も洗脳されています。

湯婆婆は巨大な赤ちゃんに日々翻弄されています。

あのワガママ勝手で鳴き声と横暴な力で湯婆婆を圧倒しています。

けれども、湯婆婆の世話がないと生きていけません。

自分の近くで生きていけないのです。

それゆえに暴力的な力を発揮して他者を支配します。

そうです。

あの巨大な赤ちゃんは「権力」なのです。

その権力に翻弄される湯婆婆、湯婆婆が支配する湯屋で働かされている人々、
そこにお金をもってばらまく神々。
湯屋の全員が見えない妄想によって支配されています。

お金が神様という妄想ですね。

お金=食べ物

生を全うするには食べないといけません。
食べもの=お金を得るためには「パンのみでも」生きるが優先課題です。

お金を握った者に生をゆだねる。
これが主体を失ったものです。
その象徴が「名を取られた」ということになるわけですね。

名を奪うもの、それは権力者だということです。
権力者が妄想を、洗脳を日々拡大しているのです。

では、洗脳されないためにはどうするのか?

posted by 変才冨田 at 21:54| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

千と千尋 5 名とは結局何か

名を奪う、取り戻す。

この物語の縦軸テーマが名とは何かということですね。

横軸のテーマは主体的に生きるとはどういうことなのか。

名と主体の関係です。

宮崎がこだわる「名」とは主体性ということと切り離せないようです。

さて、「名」とは何か。

名を取られることと洗脳がなぜリンクするのか。

名とは単なる記号なのか。

それとももっと深い意味があるのか。

続く

posted by 変才冨田 at 22:55| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千と千尋 4 名の意味と洗脳

この物語のメインテーマは「名」とは何かということですね。

「名」を忘れることは生き方を喪失することだと宮崎駿は言います。

命の使い方、すなわち「使命」は「氏名」に一致することは偶然ではない。

何をする為に生まれてきたか、それが使命なのですが
名を忘れるとそれも忘れる。

湯屋には名を忘れてしまい、ただ働くだけの人々が夥しくいます。

仮の名を与えられてただ働らくだけの日々を過ごします。
そこでは働かないと生きていけないのです。

やはりこの魔界は現世で私たちが生きる世界そのものですね。

ただ働らくだけの日々が湯屋にあります。
つまり、パンのみが生きる内容になっています。

この場合のパンとはお金💰のことですね。

私たちはお金を稼ぐ為に生まれてきたのか。

湯屋の人々はただ働らくだけのようです。

自分の行為の意味を問わない生き方がなぜできるのか。

これを洗脳と言います。

意味を問いかけるとは、すなわち名を思い出す行為です。


湯屋で大金を使う「神々」も同じです。

お金に洗脳されています。

人々はお金に神のような価値を与えて
与えたはずの主体がお金に支配されています。

お金が発明されて以来お金に洗脳されることとなりました。

では、

湯屋の主である湯婆婆はどうでしょう。
湯婆婆も洗脳されています。

主体を奪われた→名がない→洗脳されやすい状態

湯婆婆も何者かに支配されています。

あの巨大な赤ちゃんは何者ですか?

posted by 変才冨田 at 15:00| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千と千尋の神隠し 3  登場人物と背景

さて、カオナシとは誰の事か。

それはあなたかもしれない。
お金を湯水のように使う神々にあこがれて湯屋の周辺をうろついている人々は多い。

お金で幸せが買えるかもしれないと半ば確信もしつつ疑いもしている。
神々ほどにはどっぷり浸かってはいないけれど、お金が全てだという確信も足りない。

神々の様になりたいのだけれど成れないことも分かっている。

そこでもう一つの道もありそうだと嗅いでいる。
その香りを発散している千に惹かれているわけだ。

もう一つの道とは「パン以外のなにか」だろう。
神々はパンのみに生きて、カオナシはパン以外になにかあるのではないかと思案しているのだ。

聖書にある「人はパンのみにて生きるにあらず」がこのアニメの大きなテーマになっている。
この言葉は「パンは絶対に必要だけれどそれ以外もあるよね」と言っている。
要は両方あって人間だというわけだ。

パンを食べて人という動物性を満たし、それ以外を生きがいとして人間となる。
宮崎駿の人間観はバランスが良い。
精神性に偏っていない。

その証拠が湯屋の主である湯婆婆であり、双子の銭婆だ。
「わたしたちは本当は二人でひとつなのよ」と銭婆が語っている。
湯婆婆はパンのみで生きており、銭婆はパン以外を大切にしている。

カオナシはいったんはあこがれの神になって金を湯屋でばらまいてみたものの
虚しさに元に戻った。
カオナシは最終的には銭婆で居候することになったが、彼は今後どうなるのだろう。


posted by 変才冨田 at 01:12| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

千と千尋 カオナシと湯屋の神々など 様々なキャラクターの役割

先ず舞台設定です。

そこは昔に作られたパビリオンらしく、すっかり打ち捨てられた箱物。

古ぼけたパビリオンの入り口と思われる建物のトンネルのようなところを潜ると広大な敷地に
怪しげな建物群がありました。

このトンネルのような暗い道は産道の象徴か。
そこをくぐり抜ける新しい世界と生への不安を千尋は訴えます。

両親は欲望のままに(豚のように)飲食し豚になりました。

父親は都会から左遷されて地方都市に来たのですが
少々投げやりです。

つまり夢破れた両親です。
あとで出てくる湯屋の神々になろうとしてなれなかったのです。
かといってこれから真面目に働く意欲も失せているので、
食うだけでは豚になる以外ないのです。
その魔界は働かない人は生きていけないか、
豚になる以外にないルールです。

いかがですか?
この世界のルールそのものですね。
従ってこの魔界は私が生きているこの世界をデフォルメしたものなのです。

私が生きているこの世界の本質を宮崎はさらけ出して見せているのですね。

湯屋にお客として訪れる奇妙な姿の化け物は
「神々」という設定です。

確かに湯屋にとってはお金を落としてくれるお客なので「神様」ですね。

彼ら「神様達」は現行の資本主義という仕組みを是認し、そのシステムを利用して「神様として栄耀栄華を満喫」しています。

では湯屋で名前を奪われた神々に接待する彼女達は何の象徴でしょうか。

ひたすら接待して食い繋げている名前の意味を忘れてしまった労働者達です。
生きるためにはお金が不可欠。
それ以外に何がある?
お金がないと幸せになれないと信じた人々ですね。

そういう意味では神々も彼女達もお金一神教に洗脳された人々です。


では、湯屋の周辺をうろつき、千につきまとうカオナシとは誰のことでしょうか。




posted by 変才冨田 at 16:26| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

栄養学と食養学 2 

(3)穀物と人の進化
さて、何を食べるべきか。いいえ、わたしたち人の食性はなにを食べるようにできているのか。
動物はエサを求めて東奔西走します。明日の食べ物が保証されていません。今を充足させる。
それを連続させることに必死です。
一方社会的動物に進化した人間は蓄えることを覚えました。蓄えることを可能にしたのは穀物です。穀物の発見から人は人間へと進化する道にのれました。
保存できる穀物は人間にゆとりの時間を与えました。文化というものが生まれた原因も保存性に優れた穀物があったからです。
また、同時に保存できるがゆえに私有財産という概念も生まれ、その奪い合いの歴史も始まりました。その配分のための社会的仕組みをつくり、その配分システムの進化を歴史というわけです。
穀物はわたしたちの全存在に入り込みつつ多様な食文化を創造したのです。
この点はどんなに紙数を尽くしても書ききれないでしょう。
それゆえにBL研究所は健康づくりの中心軸に穀物を中心に据えているのです。
BL研究所は穀物を中心としたライフ・スタイルを提唱します。
(5)元のお米
「元のお米」という意味には二つ含まれています。
@ 数百年にわたって品種が固定されている。
つまり、元々のお米であって品種改良を繰り返し行ったものではないことです。
したがって、野性味のある元気なお米です。元の身体に戻すのであればお米も数百年にわたって食べられてきたものに替えます。
A 白米にしないで元の玄米で食べること。
白米はミネラル、ビタミンが乏しく主食にするには役不足ですね。白米だけでは生きていけません。白米ばかり食べていた時代は脚気患者が多かったのです。
7号食に見られるようにそればかり食べていても病気になりません。かえって元気になっていますね。
(6)美味しくて炊飯が簡単でなければ続けられない玄米食
BL研究所がお勧めする玄米は「蒼の元米」というもので、長年の玄米食の方がその美味しさに驚かれます。しかも、岡山の山間僻地で完全無農薬にて栽培されたものです。
さらに、炊き方が簡単で電気炊飯器の白米ボタンで水加減も白米と同様で簡単に炊けます。

この「蒼の元米」は全国に配送しています。
現在は会員価格で5kg4374円で販売しています。
送料は5400円以上で無料です。
玄米甘酒、足楽です輪、新製品の「集中できます輪」などとともにお買い求めください。
tetu.tomita@gmail.com
050−1193−9391
メールでもお電話でもご注文できます



posted by 変才冨田 at 17:53| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

栄養学と食養学

江戸時代後期に水野南北という有名な観相家がいます。
南北は人相を観るに「万に一つの過ちなし」と言われていました。

その南北の言っていたことです。
「非常に福相であるのに現在の境遇が悪い人、非常に凶相であるのに幸せな境涯を送った人がいる。この理由を研究すると、裕福になって食べ物を贅沢にした人が運気を損なっている。お金が入るようになっても、食を質素に保った人はたとえ凶相であっても運勢が良い。つまり食こそがその人の運命を決めているのだ」と人生の真実を喝破したのです。

現代の日本は長寿にはなっているけれども慢性疾患や痴呆や癌疾患、さらには鬱まで増加の一途をたどっています。
南北の喝破通りではないですか。豊かになるにしたがって飽食グルメを実行した結果が現状でしょう。
それは同時にカロリー学説を土台にした現代栄養学の敗北とも言えそうです。それが役に立つものであれば人の健康づくりの防波堤としての役割を果たすはずだからです。
栄養の「養」とは羊を良くすると書くように、決して人間だけを対象にしているわけではないのです。羊や牛を良くするとは「病気にしないことと太らせる」ことです。
家畜を栄えさせるという意味が栄養学にあるのです。人間にとって都合の良い育て方をすること、「つまり太らせることが栄え」なのです。
どんどん食べさせれば食産業にとって都合が良いのです。人の家畜化を実現させたものが栄養学の本質です。

一方食養学はどうでしょうか。
「食」の字は人を良くするとありますね。食養とは人を対象にするだけでなく大切にしているのです。
それゆえに栄養学のようにマスで個人にあてはめるのではなく、民族性、住んでいる場所の緯度、個々の体質の違いなどを考慮する個別性に食養学では重点が置かれます。

posted by 変才冨田 at 00:36| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

身体と心 2

消化器官の末端が口になり、たくさんの食べ物やそうでないものが口の中を刺激して

食べ物とそうでないものを選別するために、口のそばに神経の束をつくりました。

それが将来に脳になります。

要は身体が先で脳は後です。

食べ物を求めて身体の動きが生まれ、刺激は多様になり

その刺激が末梢から常に脳に送り出され、脳はますます強化されます。

今置かれている環境が苦でない場合の動きと

苦の時の動きは自ずと違い、その動きが将来の心を生み出します。

心が発生したことで身体の動きはより機能的、繊細いなります。

心も身体と同じで環境に対して「より適応」することで進化したものでしょう。

心は単独では存在するものではなく環境との相応性で生まれたものです。

環境が変化すれば心は環境を反映して常に変化します。

そういう意味で心も生命と同じく虚実の存在と考えられるでしょう。

虚の生命や心は環境中に偏在し、実の生命と心は身体に存在しています。

虚の側が無ければ生命も心も存在しえないですね。

虚実という「左右の手」があってはじめて拍子が打たれ

生命や心という現象が生まれます。

自分の心は家族や友人に存在し、自動車や家にも存在しているのだと言えます。

虚とは波のようなものであって区切られないものです。偏在です。

従って自分の心を変化、進化させる方法は意識を通して環境に働きかけ

環境を創造することで新しい心を生み出すことができます。

命も心も

つまり

自分という存在は徹底して「環境に依存した子供」であるということではないでしょうか。

確かな一個の自己が存在してはいないのです。




posted by 変才冨田 at 02:47| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月04日

神は死んだ! 若者よ、その安穏な望みをこそ壊せ!

これはニーチェの有名な言葉ですね。
現代風に云えばキャッチ・コピーですね。

この場合の「神」とは現行の価値観という「権威」です。
私たちの考え方はこの「権威付け」された価値観の奴隷になっています。

社畜という言葉がありますが、サラリーマンでなければ生きていけないという考え方に縛られています。

大手の会社に勤めているときに、そのブラックな勤務に気づいて公務員試験を受けて晴れて公務員になりました。
けれどその給与や、大して変わりないブラックな勤務形態にいや気がさして、現在はさらに大きな自治体の公務員試験を受けようとしています。
そちらの方が給与が良いからとのことです。

20代の若さでありながら現代の「神」を信仰しています。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言います。
別に鶏頭となるも牛尾となるなかれとも言います。これは誤用ですが意味は通じています。

小さい組織でもトップが良い。
牛の肛門を甞めるなということです。

大きな組織で自分の活き方を考えるな、という意味です。

自分が全て決める、つまり主体者となれ!
これがニーチェの「神は死んだ」の真意です。

大きな組織で大本を握られた状態で、限られた範囲での主体性は意味のないものです。

大きな組織で安心を保証された状態で自分を活かす、というのでは
一度だけの人生をボロボロになっても生き抜くという気概が失せています。

安全は死を招き
危険は生を躍動させます。

ブロイラー飼育の鶏舎のなかのような一生を終えてもよいのか、
自分たちの子供も鶏舎で生んでよいものか

当たって砕けろ!
これは勇気を出せ!
ということですね。

それができないのは
自分にありもしない価値を付けているからでしょう。

命には価値がない。
その価値のない命が紡ぎ出す人生にも価値もない。

もともと価値がない自分をどうして安全な場所において守るのでしょうか。


僕のところに相談に来る人の多くは安穏を望んで生理や自律神経を損なっています。
身体が病もうがどうなろうが本当はどうでもよい生き方があります。

その生き方をすると自分のことが気にならないのです。
そういう人は病を得たとしても、病気ではないのです。

「神は遠い昔に死んでいる。
若いくせいに、判ったような顔で死んだ神の葬式に行くなかれ」

リクルートスーツに身を包んだ若い人たちは
喪服を着こんでいるように思えてならないのです。

誰の葬儀に行くのか?
自分の魂の葬儀です。







posted by 変才冨田 at 21:01| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

出産であらわれる生き方のお手本

岡野さんのお話にもありましたが

現代女性の身体が原因で自然分娩ができない状況があります。

帝王切開による出産データでは5人に一人が帝王切開で出産しており、20年で倍増しています。

宇宙が仕組んだ出産のプロセスを踏むためには何が必要でしょうか。

というより、何が欠けてしまったのでしょうか。

自分で産む力、自分で生まれる力を失った理由はなんでしょうね。

吉村産科医院では帝王切開に至ったケースは50人に一人となっています。

実に一般産科と比較すると10分の1ですね。

つまり、まだ女性も胎児も自分で生まれる力は失っていないということです。

異常出産が増えたのは産科医院の仕組みもあるようです。

吉村医院にあって、一般産科にないものってなんでしょう。

吉村産科では

@ ゴロゴロ、パクパク、ビクビクさせない
A 胎児と妊婦の準備を忍耐強く待つ。

つまり、妊婦と胎児の主体力を尊重している。

これは吉村先生の生き方そのものと思えます。

宇宙は主体力を命に発揮させることをミッションとしているようです。

吉村先生自身がそのように宇宙の意思を具現化されています。

人生の活き方をどうするかは

出産シーンがお手本になっています。

一般病院での出産であれ

病気で病院に行くのであれ

自分の意思をしっかり医師に伝えられることができるようになることです。

自分が命の責任者であるということから

改めて人生を始めたい。


風立ちぬ(心の奥深くから自ら生きる力を風として感じ)

いざ‼️ (勇気が立ち上がり)

生きめやも (一歩を踏み出そう)
posted by 変才冨田 at 15:14| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

正しいことはいくつもあるが、真理は、、、

立場によっていくつもの正しいことがある。

立場の数だけ正しさがある。

違う立場の人に自分の立場から「正しくない」

そういったところで相手が理解できるわけがなく、自分の正しさを言い合うだけだ。

あるいはどちらかが口を閉ざしてしまう。

だから自分の正しさを押し付けないことだ。


正しさは相対的なものなので、どれだけの広さ深さで見ているかでクルクル変わる。

では、正しさが無数にあるのならば

どんな生き方だって良いということになるか。

なるわけがない。

正しさというのは自分の立場から生まれるものなので、

正しさという呪縛から逃れる方法は自分を辞める以外にない。

自分の立場という檻から脱出できれば

正しさという意味不明な認知から逃れることができる。

では、僕たちは何を基準に生きれば良いのか。


自分が捨てられる過程で立ち現れて来るもの

それが真理というものだ。

真理は人の立場の属性ではなく、客観的にあるものだ。

真理は手にとってみることはできないけれど、

真理が生み出している各種法則は認識できる。

人間の個々の勝手な観念ではなく

世界の法則を認知することで

判断できるようになりたいものだ。

自分に固執している限り

正しさを争うことになり、自由は見えない。

自分が世界(宇宙)を見るのではなく

世界(宇宙)から自分という生き物を見たいものだ。







posted by 変才冨田 at 00:25| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

自分が自分であることから降りる 2

自分という檻を抜け出る、という意味は

好き嫌いを捨てるということ

自分の損得が除外されること


この二つのことができると

まるで怒れない人になるだろう。

感情から放たれる。


そういうことができるための土台条件に

健康であるということがある。

身体が劣化するほど身体は魂を放してくれない。

posted by 変才冨田 at 15:49| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

昨年のヴィパッサナー瞑想の思い出

この画像はセミの抜け殻だったのです。
それがこの枝にだけ13匹も連なっていたのです。
IMG_2009[1].JPG
その後で自室に戻ってから「アレはなんだ?」と自問したところ
唐突に嗚咽してしまいました。
その嗚咽の意味が自分でもわからずとまどいました。
胸をひくひくさせながら「なんで泣いている?」となんども考えていました。

わたしは何に感動したのでしょう。
あれを見たときに「これは生死のドラマなのか?」と考えていたことでした。
そうすると不思議なことですが
一匹のセミがキチキチキチと羽を振るわせる音をまき散らし空中を大きく回転し、わたしの足元に落ちました。
指で触れると少し羽を振るわせました。
脱皮して歓喜の生を全うした最後の姿です。
彼に呼びかけました。
「ちゃんと相手を見つけて終わったか?悔いがなかったか?」と。

瞑想のチャイムが鳴って去ったあともう一度確認しました。
仰向けになって静かに横たわっていました。
昆虫って死んだときには大概仰向けの躯をさらしているのはどうしてでしょうか。
最後に天空を見たくて全力で羽を地にぶっつけてひっくり返るのでしょうか。
最後は彼の瞳にどのような風景が映っているのでしょうか。

翌日にはその骸も消えていました。

興奮が収まって気づきました。
あれが「無常」ということなのだと。

わたしの「一生の姿」を見たのです。

全ては変化する。

全ての生命は水の一瞬の形であるゆえに
やがては溶けてしまうのです。

全ては「溶解」へと突き進んでいるのですね。

「なんちゃって瞑想」しかしていませんでしたが、ちゃんと気づきがあったのです。

この時わたしに浮かんだ考えは「解脱」とはこういうことではないのかと。
解脱とは生きながらにして「涅槃」に意志で往復できることと講和での話でしたが
それは単なる比喩であって
この世に在ってもこの世の価値の思い込みから抜け出ることを言うのではないかと。

自分が死なない。
そのように思っているうちは、この虚構の妄想の価値観が絶対と思ってしまうのですが
「自分もまたセミのように消滅するもの」と腑に落とせば、この世界に与えられてしまった思い込み(妄想)
から抜け出られるわけです。
どっぷりと泣き笑いの浮世で過ごして苦しい状況から抜け出て高いところから自分の右往左往を観察できる。
その高い場所を「涅槃」と言ったのではないでしょうか。


さて、上記から一年を経ました。

私はまだ生きています。

記憶は未だ繋がっています。

忘れた時こそが死んだということなのですが、

そういう意味では30年前の私はほとんど死んだようです。

30年前の自分と一向に繋がらないのです。

そんなに早く人間って死ぬのですね。



posted by 変才冨田 at 21:58| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

自分が自分であることから降りる

人間の自由は、最終的には自分という檻から脱出できるかどうかにかかっている。

自由を希求するものの最終ミッションは自分からの離脱だろう。

運命をコントロールできるどころか、それは宿命さえリセットしてしまう。

自分であるということを辞められるのか?

それはできる。

その方法は外に向かって開環を50%することだ。

元々いのちの性質は外に向かって開かれている。

いのちは解放系だということ。

外界の物質を取り込み自己化しつつ

徐々に自己であったなにかを外へ向けて排出している。

動物は人も含めてこれでいのちを躍進させている。

社会的動物である人間もこの自然界のモデルがふさわしい。

外から思想やなんらかの不定形なものを自己という固定化されたものが誘引している。

固定化された自己が50%

外から自己化されるものが50%流入し

固定化されていた50%の半分が失われ

流入してきたもので補われる。

7年もすれば今の自分であったはずのものは一切失われているというのが真実だ。

つまり自分というものは元々無い。

常に置き換えられている自己なので、いつでも離脱できる。

自己があるという幻想を抜け出す

それが悟りだ。

スリランカ仏教の伝道師であるスマナサーラさんのいうような

オカルトのような悟りを仏陀はしたわけではない。

涅槃(あの世)と現世をいったりきたりできたという超能力を獲得することが悟りではない。

では、どこまで自己から離脱できるだろう。

最低の自己保存欲求からは離脱できないけれど

自分の損得だけを考える思考からは抜けられるだろう。






posted by 変才冨田 at 19:14| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

男女の仲では判断力は機能させないという自然の掟を乗り越える

以下はブログ読者からのライン

こんばんは(happy face)
今日のYahoo!ニュースでとても興味深く、納得できる言葉をを見付けました(happy laugh)
フランスの劇作家の言葉ですが、「人間は判断の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶の欠如によって再婚する」お見事って言葉でしょ。

座布団100枚!

横浜市のゴミ分別検察ツールの検索ボックスに入力された「捨てたい物 旦那」の言葉への回答です。これ、AIの回答らしいです。続きがあって、「忍耐力を養ってみたらどうかな❗️」です。勿論、横浜市の資源処理課の職員さんがいろいろかき集めたそうです(happy face)ウィットに飛んでて暑さを吹き飛ばす回答ですよね(happy)

私も作って見ました。

人間は美しい誤解で恋愛し
都合の良い夢を見て結婚し
別の誤解で離婚して
新たな誤解に巻き込まれて結婚する。

つまり判断力というものは男女の仲では機能させないのが
自然の掟です。

私のは座布団一枚かなあ。

けれども
地球人も進化して宇宙人になれば
宇宙的判断力が機能します。

宇宙の陰陽を代表して男と女が宇宙の片隅でひっそりと結びを作ります。
posted by 変才冨田 at 14:24| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月18日

愛する人たちを残して逝くとき

海老蔵さん 辛そうですね。

手紙という高倉健主演の映画がありましたね。

奥さんが逝く時に遺書で遠くの離島郵便局に手紙を送っているので取りに行って見てくださいとありました。

遠路はるばるその手紙をいけ取りに行くのでした。

受け取って、開いてみると

ごく短く

私のことは忘れて、と書かれてありました。

残された人はこれからも生きていかねばならない。

いつまでも死んでいる自分のことに気を奪われてうつ状態になって欲しくない。

そのために

紋切りで

私のことは忘れて

と短文で書かねばいけないのですね。

余計なことを書くと未練を残すのですね。

逝くときに

残された方は

お前のことは忘れない‼️

逝く方も

私のことは忘れないで‼️

ということになりがちですね。


喪失感で相手を鬱にしない

元気に生きさせるという

最後の別れってどういうものでしょう。


下記は10も前に書いたものです。


2006年の記事「いのちについて4」からの引用です。

もう5年前の記事なのですね・・・。

このときと考え方は同じですね。

(進歩してない?)


いのちについて4

1 死について

いのちについて語るときに死について語らねばなりません。生死は表裏一体であるからです。

生とはなにかを俯瞰するとき、その視野に死が入っていなければ生の意味が捉えられません。

人は必ず死にます。生あるものはすべて死にます。

今事務所の外では車が走り、人々が歩いています。話し声も聞こえます。

さまざまなざわめきを作り出している人々ですが、その大半は50年もすればこの世には存在していません。

けれどやはり外では人々のざわめきは変わらないでしょう。流れる川の水は違っても、流れが止まることはありません。

諸行無常ということですね。

世界は常に変化流動のなかにあります。この世界は変化で成り立っているのです。その変化のなかにわたしたちの「生死」があります。

宇宙から眺めれば、個人の生死は真に一瞬で泡沫(うたかた)のような現象です。

宇宙という大海から泡の一つとして生まれた一瞬のいのちです。

そのいのち達が、たまたま同時代という舞台で居合わせています。みんな儚いいのちの仲間です。
その儚さを古人は以下のように謡ました。

「人生五十年 化転のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬもののあるべきか・・・」これは信長が桶狭間に奇襲をする前に舞ったとされる幸若舞です。

「一期は夢よ、ただ狂え」「世の中はちろりにすぐる ちろりちろり」
「ちろり」とはちょっと光がきらめくように過ぎてゆく、という意味です。

儚いからこそ光芒を放ついのちです。

自分のいのちも他者のいのちも、その切なさを感じるとき、愛しく狂おしくなりただただ抱きしめたくなります。


10年前のこと。ある印象的な記憶があります。

「死ぬのが怖い・・・、どうなるのか考えるだけで怖い・・・」

電話口の向こうで、小鳥が鳴くようにか細い声でそう言われたのは末期癌の60代の女性でした。

わたしは言うべき言葉もなく、ただウンウンと聞くのみでした。

けれどいまわのきわの彼女はけなげで立派でした。

息も絶え絶えになったとき、自ら酸素マスクをはずし「みんな、ありがとう。幸せだった!

とっても幸せだった・・・」と、

全員の鼓膜に最後の声を刻み込み旅立たれたのでした。

病室に居合わせた人々の胸は感動で満たされ、その残されたかすかな笑顔をいつまでもいつまでも見つめていたのです。

厳粛な静寂のなか、病室に居合わせた人々を一瞬のうちに温かい渦で包んだ彼女でした。

死する人が生き残る人々を励まし、希望を与えた一瞬でした。

死が避けられないものであれば、死する意義とはこういうものではないかと思ったもの



posted by 変才冨田 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

種とは何か 想と現実化

今年4月に菜園を借り整地しました。
IMG_0324.JPG
そして、本日の状態です。IMG_0312.JPGIMG_0311.JPG
僅か数ミリの在来種のタネがこんなに以前の現実を変えました。
小さいですが期待もしていなかった収穫です。
IMG_0323.JPGIMG_0314.JPG
タネって凄いです。
こんな小さなカマキリの命も産み落としました。
IMG_0315.JPG
タネには現実を変える力があるのです。
この数ミリのタネには何が詰まっているのでしょうか。
目に見える化学的な物質の向こうに想がいっぱいに詰め込まれていると思うのです。

この想に水や光、必要な養分という物質が縁として触れた時、
想は現実化へと動き始めるのです。

私たちの人としてのタネは卵子や精子ですね。
やはり想を持っています。
異性という縁に触れた時、歓喜して想を現実化します。

石には想がありません。
ですから光や水に触れても劇的変化を起こしません。
あくまでも想が全ての原因なのです。

外部の環境は縁という引き金であって因ではないですね。
原因はこちらの想にあるわけです。

私たちの一代の人生においてのタネは何処にあるでしょう。

私たちの想が詰め込まれているタネは頭脳にあります。

あなたの想が全ての原因です。

想とはヴィジョンでしょう。

そのヴィジョンにふさわしい縁に(他者や全ての環境)触れた時にだけ
ヴィジョンは現実化へ一歩踏み出します。

あの人は運が良いとか世間では言いますが、

その人のヴィジョンにふさわしい縁に出会った時にだけ
ヴィジョンは反応してそれを掴むのです。
それはヴィジョンを持ち続けている人の特権でしょう。

ヴィジョンのない人にはチャンスもないのです。

想をいつも育てましょう。

次回は
想の質の話しです。

posted by 変才冨田 at 01:23| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

鈴虫寺と煩悩 2 思い通りの人生で良いのか?

鈴虫寺での説法が良かったようです。

ご住職
ある朝のこと雪が階段に積もっておりました。
参詣の方がこけて怪我しないように雪かきを始めました。
これが大変な労力で、最初はお客様に為に為そうとしたのに途中で
こんな雪の日になんで来るのだ‼️とお客様が悪い‼️と思うのです。
けれど仕方ないと夢中で雪かきを続行して、いつの間にか終わって
気づいて上を見ると綺麗になっていた。

これは「結果自然成けっかじねんなり」という禅語につながります。

終了
この禅語の解釈は色々あるようですが、

僕なりの解釈をしました。

人の行為の最初は目的的で始めますが、

途中で目的から外れ、それでもやむ得ない気持ちで
目的さえ忘れて為す境地(夢中になる)になる。

意図を放してたった今に無我夢中になることが自然で

そうした行為は結果もなるようになっている。

こんな解釈でどうですかね。

無我夢中の時間をどれだけ経験するかは人生の質に関わってきそうです。

意図が生まれた時点ではなんらかのメリットやデメリット、

損得意識がありますよね。

無我夢中の境地は誰が悪いとか良いとかの意識も吹っ飛んでいます。

そうした後の結果はなるようになっている。

それこそが最良の当たり前の結果が目の前に広がっている。

それは「遊び抜いた結果仕事になっていた。仕事になるまで遊び抜け、ではなくその後も
仕事になっても遊び抜け‼️」ということにつながります。

人間の脳は遊んでいる時こそがパワー全開です。


本屋さんの本棚には「思い通りに生きられる」そういった内容の本が並べられています。

その想いのレベル、質によっては悩みの温床になりそうです。

その想いのレベルが低いと他人の迷惑になります。

自分の意図にいつまでも拘らずに、最初の目的意識から自由になることは

無我夢中になる為に必要なことです。

無我夢中になれる人は自由な人です。

メリットばかり考える、損をしたくないという意識が強いというのは、

そういう意識に縛られているので不自由な生き方になります。

無我夢中の時間はそこから解き放たれている時間で自由です。

思うに

自我こそが自分の牢獄ということですね。


他者と感動を分かち合って生きることは

自分の牢獄を半壊させるようなものです。

共感できる生き方は感動を呼び起こし

無我夢中のスイッチになるでしょう。

自分を解き放つということは

自分を忘れることなのです。





posted by 変才冨田 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鈴虫寺と煩悩

人の悩みの大半は

思い通りにならないことを

思い通りにしたい

そういう欲望から生まれるようです。

え?

わかっちゃいるけどやめられない

そうですよね。

それを諭すお坊さんも

煩悩の塊なんですからね。

うちのスタッフが
結婚できる願いが叶うということで有名な
鈴虫寺にお参りに行きました。

曰く「先生のお陰で素直にお参りできなかった‼️」

文句を言われたのです。

鈴虫寺では説法が面白いということで有名です。

「みなさんが良縁をお願いするときに個人の名前をあげてはいけません。キムタクなどとお願いしてはいけません。私にふさわしい人が見つかるように とお願いしてください」

如何ですか?

良いですね。

自分を棚に上げておいて、結婚相手は完璧な男をお願いする人が多いですね。

これは結婚相談所でも同じようです。

私にふさわしい相手と言ったときに眼差しのデザインが生じて、考え方が変化し結婚できるような資格ができてますね。

会社でも同じですね。

良い社員を願っていてもそうはなりません。

会社や特に社長にふさわしい人がやってくるのです。

夫や子供を見てため息が出る奥さんは

思い通りにならないため息ですね。


さて、鈴虫寺では年中鈴虫の音が聞こえるそうです。

8代目のご住職が年中鈴虫の鳴き声を参拝者に聴かせたいと思い

工夫を重ねて成功しました。

クーラーと暖房機があって、これは鈴虫のため鳴き声んだそうですね。

つまり、思い通りにならないことを思い通りにしたわけですね。笑

これはハウス裁判した冬のキュウリですね。

キュウリは身体を適当に冷やしてくれるので夏に食べ物です。

冬食べると冷えます。

鈴虫は晩秋にその鳴き声を聴きたいものです。

思い通りにならないことを思い通りにできると

案外つまらないものになります。

お寺の広告営業に利用された鈴虫も気の毒です。

どうにもならないことはどうにかしてはいけない
と思うのです。

せっかくふさわしい人が見つかるようにと願いなさいという
ご住職が思い通りにしてはいけないことをやってしまっています。

現代仏教は煩悩を抱えています。

posted by 変才冨田 at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月25日

仕事が憂鬱 2

全体性が見えると憂鬱でなくなると前回書きました。

部分しか見えないと不安が先に立つからです。

けれどその全体性を見通せるようになるためには興味を持つことが必要なのです。

興味は「好き」の母胎です。

要は「好き」になれば良いのです。

好きになれば脳は息を吹き返します。

そうなれば右回転が始まり、脳は加速して賢くなります。

そのための鍵が興味を持つことなのです。

やる気しない
興味ない

これが口癖になっていると
やがては
効率ばかりに気がとられて

疲れた 嫌だ が口癖になります。

それでも仕事しないと困ったことになるので

考えることも面倒になるので
「言われたことだけコツコツやれば良い」と
我慢してやるようになります。

西洋のことわざに「20歳で死んで60歳で埋められる」ということになるでしょう。

人のやっていることに無関心になると

効率が悪いことやってるとバカにするようになり、誰もがバカに見えてきます。

自分が一番バカな状態であるとは気がつかないくらいバカになっています。


さて、若い時は生活を考えてはいけません。

中村文昭さんは

「頼まれごとは試されごと」と言います。

「なんでも言ってください、任せてください‼️」

という構えが未来を切り開く原動力になります。

どんなことにも興味があろうがなかろうがあたって行けば

関係性が深まり興味が湧くのです。

なぜ子供がお母さんを好きになるのか?

それは自分の面倒を見てくれている母の存在に気付き

注意が注がれ興味が湧き、やがて好きになるのです。

生みの親より育ての親なんです。

関係性が深まり好きになるのです。

今目の前にある仕事に全身で当たることがないと関係性が強化されません。

「今日1日の全力実行が人生の全て」です。

いつか頑張れるはずと思っていると

それはすでに両脚を棺桶に入れた状態です。

今日何も進んでしなかったということは

今日一日中死んでいたのですから。


posted by 変才冨田 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

若い働き人に告ぐ 働くことが憂鬱ですか?

働くことが憂鬱だという人がいます。

働いていないともっと憂鬱になるのにそう言うのです。

問題点は自分だけがそうだと思っているところです。

多くの人は働くことが憂鬱だと知らないのです。

土曜日が最も快活で日曜日は明日からの出社を考えて憂鬱が始まり、月曜日が最も憂鬱な曜日です。

月曜病ということです。

火曜日から諦めて耐えて土曜日が待ち遠しいです。

多くの人がそのようになっています。

サラリーマンマンという奴隷状態がそうさせています。

本来人は拘束されることが嫌いなのです。

したくないことを「させられる」憂鬱ですね。

起業家はどうか?

この人たちも憂鬱は変わりません。

クライアントに拘束させられ、彼らに希望に沿ってさせられているのです。

多くの人が憂鬱ですね。

けれど多くの人はそれを口に出しません。

大人だから言わないのです。

未熟な人は口に出します。

働くことが「罰」を受けている感覚は

休みが多いほど良いということになるし、

1日の仕事の中身に隙間を作りたくなるのです。

労働は密よりも疎が良いということになります。

そういう人の思考法に「能率」という言葉は違った意味になります。

仕事を端折る(はしょる)ことが能率になります。

外形として仕事をしたようになっておれば良いのです。

本来の仕事とはワークとミッション(魂や志し)が統合されたものですが、

仕事を罰として感じている人はミッション抜きの能率を考えます。

作業の背景にあるもの、つまり全体性の中で個別の作業が本来生じているのですが、

ミッションの抜けた作業にしてしまうと部分的なものだけがパーツとして視野に入っているだけなので、能率よくするほど肝心なものが抜け落ちます。

さて、働くことが憂鬱だと公言するようになると

困った事態が生じます。

経営者は積極的に仕事を任せることに不安感を増して

仕事を任せなくなり、極めて限定的な仕事だけ回すことになります。

その結果、経験値が得られなくなり暦の上だけで年齢を重ねることになるでしょう。

それだとその仕事さえ誰かに奪われかねません。

いつでも交代可能な仕事をしているからです。

あなたにしかできない仕事を得るには

その仕事を生じさせている全体性を知って、そこにも嗅覚を伸ばさねばなりません。

全体性を知ることは周辺が明るくなってよく見えるということです。

目の前が暗いのは目の前の部分だけにスポットライトをあてているからです。

先が見えないことをしているから憂鬱になるのです。

自分の人生全体と仕事の未来を含めた全体性を重ねることです。

これが憂鬱から脱出する建設的なやり方です。

これをもする気になれないのであれば、あなたは一生憂鬱な生き方を選ぶことになるでしょうね。





posted by 変才冨田 at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

奪う生き方と与える生き方

表題を利己で生きるか利他で生きるかに変えても良い。

人という動物は利己で生きたがっている。

謂わば「欲しい!欲しい‼️」と生きたがっている。

それは至極真っ当な生き方で良いですよね。

一方の利他で生きたがっているのは社会的動物としての人間です。

人間とは抽象的な存在でジンカンとも読み、人と人の間にいる仮想の存在だ。

社会的というより世間的存在だといった方がわかりやすいでしょう。

この世間では本音である「欲しい、欲しい‼️」を多少は引っ込めて

利他を建前に生きる。


さて、この利己と利他は矛盾なのでしょうか?

対立概念で考えて良いのでしょうか?

これが今回皆さんに考えて欲しい宿題です。
posted by 変才冨田 at 01:29| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

小さくなってしまった男達 2

ずっと以前のことを思い出しました。

僕は女性は即物的、現実的なもので

非社会性がその性質という思い込みを持っていました。

男性は生きがいや人生論が好きで概念的なものに惹かれるとも。

事実は逆です。

むしろ女性は全ての面に全開しているようです。

男性は明日のことより今の酒です。

もちろん、基本的には性差よりも個人差でしょうが

女性は今と未来に大きな関心を寄せています。

夢は女性の方が抱いています。

男は疲れ果てているのでしょうか。

未来を夢見た社会的貢献行為には無関心です。

自分の周辺5メートル範囲にしか関心がない男が多いです。

明治維新は男達が担いましたが

これからの世直しは女がやるでしょう‼️

そう思うのは僕のセミナーにそうした女性が多く来ているからでしょうか。

男より女の方が僕の概念的な話に共感を寄せてくれます。
posted by 変才冨田 at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

待つ その意味 1

果物は熟さねば落ちない。

こちらの都合では落ちない。

やさいも米もジッと待ち続ける時期がある。

辛いね。

焦れることもあるよね。

雨だって止むのを待つ。

日照りも続けば辛いけれど、雨が降るまで待つ。

ジッと待つ。

子供の成長も待つ。

こうすれば良いのにという苦労しない方法を知っていても、子供が気がつくまで待つ。

恋人がいない。

それも待つ。

待たなければあなたに相応しい人に出会えない。

急いで募集すると魂が震える人に出会えない。


全てこちらの都合で意図的に動くと

熟す前の硬くて酸っぱい果物を手に入れることになる。


待っている間に本当にすべきことがある。

よく学び、よく遊んでいることだ。

ジッとソレを観察しておくことだ。

世界をより深く感じる感性を磨いておくことだ。


そうすればあなたのレベルに共振する現象が

光を放って現れる。

「今を生きる」とは

その開いた花を萎れないうちに摘み取ることだ。

蕾をジッと観察して待つ人だけが

今を生きることができる。



以上は最近の短気な私への助言です 笑

posted by 変才冨田 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を増やす生き方 2

コメント
制限を自らの意思で選ぶと選択肢が細やかに増える。。

これには ビックリと言うか、またまた世界の領域が変わりますね。言葉になると衝撃的であり、何だかまたまたワクワクします。

だってこれって人間の特技ですよね。魔法使いです。笑

最近、ワークショップでハリー・ポッターのように実際に魔法の学校に入学するのが人気みたいですが、

これこそ魔法使いになれる技ですよね🎵創造方法。
ホウキもスティックも 不要ですねー。

私のコメント
強制や与えられた選択肢は人間をダメにします。
主体的に選択肢を増やす為には先に制限の世界に飛び込むことですね。

制限という子宮にこそ自由の胎児が育ちます。

その辺りを実感するには、7号食は絶好の体験になります。

7号食をすぐに実行できるセットも用意されています。

一番上のリンクにBL研究所があるのでどうぞ。

posted by 変才冨田 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする