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2017年12月09日

子宮とはお宮様だった

読んで字のごとく子宮とは子が鎮座するお宮様でした。

そう考えると神秘的な匂いがします。

毎月このお宮様ではお灯明が灯り
祀りの準備が始まるのです。
受精卵の降臨を待つのです。

すべての始まり

受精した卵子は宇宙の舞踏を見せながら
子宮に着床します。

多くの場合は舞踏をしない未受精卵です。

お祀りに使った舞台や幕などはかたずけられ
出血とともに流されてしまいます。
月経とは宇宙のため息だったのです。

このお祀りを女たちは毎月やっているのだ!

宇宙の偉大な大仕事を毎月平然とやっている。
女は偉い❗️


だからこそ

男たちはこのお宮様にお参りしたいのですね。

posted by 変才冨田 at 00:38| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月30日

「迷い」の探求ミッションとワーク 4 そもそも欲求力が低い人に

人が迷い始める大きな原因は欲求が低いことにありそうです。
欲求力が高い人々は考慮する前に掴みにかかります。

爬虫類脳や猫などのように大脳辺縁系の電圧が高いのでしょう。

小さい頃に不快と快のオンオフの切り替えができる環境だったと思います。

エゴギョウで言えば火性力を削がれなかったのです。
火性の阻害因子ももらったのでしょうが火を消されなかったという意味で両親に感謝ですね。

後は木性の判断力を磨く課題です。

さて
欲求の低い人々の特徴に
「心配性」というところがあります。

逆に言えば火性の高い人々は一切の心配をしません。
この原因は両親が「心配性」でなかったからです。

ではなぜ心配するのか?

両親が過度な安全癖にあると子供の安全に過度に心を配ります。
「心配」とは安全の対義語と言えます。

両親の心配への心の動きが子供にコピーされるのですね。

続く
posted by 変才冨田 at 10:51| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

ミッションとワーク 3 強い欲求に支えられたミッションがワークを支えるらしい。

今回はワークについて。

ワークとは文字通り手作業です。

手作業は手や身体に覚えこませることが
この場合のワークにおける目的(ミッション)になります。

一例
超一流のピアニストにインタビュアーが質問しました。

「演奏に個性が表現できるようになるには何が必要ですか?」
「それには超絶技巧の曲を目隠しして弾けるようになってからです」

いかがでしょう。
ワークとミッションの関係を見事に表現されていますね。

個性は表現されることで個性と認証されます。
つまり、表現とはワークで表せられるものなので、
ワークに習熟することしか個性的な表現者になれないのです。

習熟していない人の表現は個性的なのではなく
ある種の失敗を個性的だと誤認されているのです。
事実失敗の仕方は多様ですから誤認されやすいのです。

ピアニストがひたすらにハノンなどの指の器械体操を何時間でもできるのは良い表現者になろうとするミッションがあるからです。

日常のワークをおろそかにして一流を目指すというのは
妄想だということですね。




posted by 変才冨田 at 17:07| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

「迷い」の探求 2 失敗できる能力

さて
迷う原因の3つ目です。

欲求は高いのに迷うという問題です。

これは「過度に失敗を恐れる」というカラクリがありそうです。

エゴギョウの水性や木性の高低が関わっていそうですね。

失敗を何故恐れるのかわからないまま盲目的に恐れています。

おそらく私たちは失敗というものを誤解している。

かなり前に書いていた文章がありましたので引用します。

人が完全主義の陥穽に陥る原因は失敗を恐れるからです。

仮に完全に準備してそれができたとしましょう。
意図していたことが成功したのだから満足してしまい、
その時に失われたものは意識していないでしょう。

つまり、失敗した時に得られるものを失っている。
成功したということは失敗できるチャンスを失っているのです。

失敗できる能力を磨けば考えも及ばなかったことに気づきます。

失敗は偶然が入り込む余地が多い時に起きます。
偶然性に出逢うチャンスを失ってはいけないし、
偶然性に恐れてはいけない。

意図したように物事が進行するのはまずいことなのです。
成功を意図しながら失敗できる余地が必要です。

ですから、完璧に準備しなくて良いですよ。
30パーセント失敗できるぐらいにゆるく走り始めましょう。



posted by 変才冨田 at 23:19| Comment(1) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

食が運命を変える 水野南北の深い洞察

江戸時代末期の有名な観想家であった水野南北はその著書「食が運命を変える」で述べています。
それは現代人に向けたメッセージのように聞こえます。
耳を傾けてください。

福相であるのに現在不遇、凶相であるのに幸せな境遇の人を時々見かける。
何故そうなっているのかが理由がわからなかったが熟考した末に解答が出た。

経済が豊かになって食を華美にした者は運気が衰え、お金の有る無しに関係なく貧しい頃の食事を買えなかった人は運気が盛んである。

いかがですか?
この警告を無視した者こそ現代の日本人ではないでしょうか。

戦後頑張って経済を豊かにしましたが、豊かになるにつれて食事を華美にしてきました。
その結果が糖尿病や癌の蔓延です。

続く



posted by 変才冨田 at 10:37| Comment(1) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

「迷い」の探求

猫は迷うのだろうか?

迷うことはあるだろうが、そういうシーンにはあまり出くわせない。

おそらく猫は選択が明快であるからだろう。

不快か、そうでないか。

恐れを感じれば逃げる、それだけだ。

快を感じれば向かっていく、それだけだ。

おそらく「迷い」の感覚自体が不快なのであろう。

猫はエゴギョウ分析では火性が強いので快不快がハッキリ自分で選別できるのだろう。


さて、人はなぜ迷うのか?

1 決めたくない!実行したくない!という目的で無意識に迷う。
不快を無意識に感じている場合「迷う」という形のサボタージュに及びます。

2 判断できないから、と迷う人は言いますが判断できなくとも飛び込む人もいるのです。
  
  人間の行動の土台には欲求があるのだが、この欲求は判断を度外視して(乗り越えて)行動させます。

つまり1の人も2の人も「欲求力不足」で迷っている。

3 あるいは「欲求」はあるのだが「欲求」に対抗する疎外因子が強い場合も迷う。

まあ、欲求が高くなるほど迷いにくくなり、低いほど迷う。

〇△したい!これが決断の土台なわけだ。

では強い欲求はどのようにして生まれるのだろうか?

これは育ちの問題と思われる。

「欲求」の生みの親は「快不快」感覚の鋭敏さだろう。

つまり最初の猫の話題に戻ることになる。

快不快感覚が弱いので欲求が高められず、結果としては「迷う」人になる。

例えば

おむつを塗らせてその不快感覚で泣く。

泣けばお母さんがおむつを取り替えてくれる。

不快が取り除かれてご機嫌になる。

つまり快というものはもともと無く、不快が取り除かれた状態を快と感じるわけ。

これがタイミングよく交換が繰り返されることで赤ちゃんは快と不快の違いがハッキリわかるようになる。

食事などは毎日が快不快の学習の機会になる。

お腹が減る→不快→母乳を吸う→不快がなくなった。

不快が取り除かれるシーンではお母さんが常にいる(当たり前だが)のでお母さんに愛着が湧く。

お母さんも泣いている子を見るのは→不快だ→母乳を与えるとすやすや眠る→不快がなくなった→快だ!
子供が安らいだことで不快がない→快だ
子供への愛着が湧く

こうしたことが連続的に毎日繰り返されることで快不快感覚が身に沁みついてくる。

大人になってもなにが自分にとって「快か不快か」がわかる。

こういう人は迷わない。

こういう人の判断力はするかしないかで迷うのでなく、どのようにするかだけの選択で迷う。

こういう迷いは悪くない。建設的で積極的な迷いといえる。

するかしないかで迷う人はしてもしなくとも不快感がつきまとう。

しなかった後悔としてしまった後悔だ。

さて3はもっと複雑です。

続く







posted by 変才冨田 at 19:39| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

自然医学と生き方

自然医学の考え方の根本は奈辺にあるか。

自然医学は未来を考慮に入れないということがあります。

なので、自然療法を実行する人は

「私の病気はいつ治るか?」と訊いてはいけない。

自然医学の本質は

治るか治らないか?

そういう問いかけ自体が無意味なのです。

なぜなら、自然医学の対象は「今のみ」にあるからです。

自然医学は「今」の何を対象とするのか?

それは「今、不快でない」という感覚や感情を対象とします。

未来の感覚や感情を対象にしないのはあたりまえのことで、

未来は未だ来ていないのでコントロールできる範囲ではないからです。

もちろん過去も同じです。

意識でコントロールできないことは自然医学の対象になり得ません。

従って、自然医学は死んでからのあの世のことは口にしませんし、

過去のトラウマも一切問題にしません。
、、
「今」という生きている時だけを重要視します。

それ以外は「妄想」とみなします。

目的は「今!不快でない状態」を作り出すことです。

今、楽しいという状態も目的にしません。

なぜなら、「楽しい」という状態とは不快でない状態と同じなのです。

癌やアトピー性皮膚炎や重病を闘病中の方は、

これからどうなる?

それに焦点をあてないことです。

どうなるかわからない未来のことを煩うことは

妄想に身を委ねて却って良くない状態を作ります。

妄想とはコントロールできないことに囚われている状態をいうのです。

日々不快でない状態を連続することです。


そうやって考えると自然医学の考え方は生き方全般にわたりますね。

友人知人や親子、夫婦などの人間関係で生じる不快も

実はコントロールできない相手をコントロールしようとして不快を生み出します。

コントロールすることで未来の結果を期待しているからです。

そもそも期待とか希望も未来の想定概念ですね。

希望や未来が自己都合から発している場合は妄想になります。

今を生きる、というのは今を不快に生きないということです。


ということが自然医学の論理なので、その療法や生き方が確かなのかという根拠(エビデンス 科学的根拠)も問題にしません。

今を不快でない状態を日々連続させることで、結果として治病という現象が起きるのみです。

それは身体という自然が勝手に起こすのです。

私たちは自然をコントロールできませんが、自然力が当たり前に生じるように舞台は作れます。

人間には人参を作ることはできませんが土を作ることはできます。

同じように病的になった組織や細胞は自然が仕方なく必要で作ったものですから

私たちには消すことができません。

けれど、私たちは土でできているのだと思い至った時、

篤農家のようにもう一度ふかふかの土を作り出すような心構えで身体という大地に取り組めば

病的な組織や細胞は元に戻るのです。

同じ意味で冷たい硬くなってしまった心も

ミネラル豊富な水と太陽光を与えることで

柔らかな心を取り戻せます。

不快な心とはブルドーザーで土を固めたからです。

良い言葉と良い行為こそが柔らかな弾力ある心に撒く肥料です。

身体と心は一体のもですから

篤農家のように身体と心に接しましょう。

それが日々を不快でない状態を作るのです。

私もそのように生きようと思いますよ。








posted by 変才冨田 at 13:36| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月17日

自分で起こした問題は解決できる

「人類は解決できる問題のみ問題にする」

非常に凄い「まなざしのデザイン」ですね。

これを個人レベルにおとしてみましょう。

あなたが作った病気で巣から自分で治せます。

あなたが最大限できる範囲でなした暴飲暴食ですから

それはあなたが治せる範囲です。

それを治すのにあなたができる以上の方法を取れば

それは禍根となります。

薬物治療はどうでしょうか。

あなたの能力で作れないものを利用しているのです。

過剰の心身への干渉は、その過剰の逸脱分だけ

責任を取ることになります。

それを副作用と言います。


あるカップルが結婚をするときに夫の両親が

家の購入資金の半分を出してくれました。

後になって

奥さんが帰宅して洗濯物がベランダから片付けられていることに気づきました。

不気味ですね。

義理のお母さんが雨が降っていたので、家に入って片付けたと言いました。

義理のお母さんは「良いことをしてあげた」という意識ですね。

奥さんは驚きです。

鍵を持っていたんだ‼️

夫に言っても「してくれたんだから良かったじゃあないか。何が問題なんだ?」

結果は離婚です。

お母さんにすれば半分を出したという意識が

無意識に自分の家という感覚だったので鍵を所有していたのですね。

二人の生活は二人の実力の範囲内で賄うことをしなかったのです。

過剰分のトラブルは解決不能です。


生活習慣病は自分の能力の範囲内で作った作品ですから、

自分で作り直すことができますよ。

その実例は7号食をした人ならわかるでしょう。

7号食についてはBL研究所のHPや

このブログ「あすなろ日記」のカテゴリー7号食レポートをご覧ください。

明日の佐賀セミナーの主催者も自分で責任を取って身体に借金を返されたようです。

詳しくは明日続きを‼️



posted by 変才冨田 at 23:55| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

壊れやすさが自由を保証する。

壊れることはあたり前で自然なことです。

壊れない方が困るのです。

小腸の細胞は毎日ハード・ワークをやっています。

川のように絶えず上流からドロドロになった食べ物が流れてきます。

それを吸収したり、いらないものを拒否したりと忙しいのです。

ですから傷みます。

傷んだ細胞がいつまでも居座っていては機能不全になりますね。

そこで早く交代できなければいけないのです。

小腸の細胞は2,3日で入れ替わります。

そのためには壊れやすさこそが重要です。

食べ物も同じで「代謝」というものは

食べ物が壊れるから成立します。

食べ物が壊れなければ、それは食べた人の命に変化しません。

壊れやすい食べ物が必要です。

マーガリンの脂肪などは壊れにくいので代謝できないのです。

防腐剤や着色料なども同じですね。

壊れないから長期間身体に留まり悪さをします。

優しい食べ物とは壊れやすいものなのです。

消化器や酵素は食べ物を壊す働きをもっているのですから、それを拒否する食べ物は困りものです。


さて、人生においても変わらぬ目的とか夢を持てと言われます。

目的や夢も壊れにくいものでは困ると思うのです。

途中で目的にないものだけれど、素晴らしいものに出会うことは常です。

旅行の目的は次々変えて良いと思います。

最初に夢や目的ぬ執着しないことが自由なんです。
posted by 変才冨田 at 09:18| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月15日

難問 人はデザインされるべきか、アートされるべきか?

日本の自殺者は3万人を超えていますね。

この理由に存在の認証という命の土台にあたるものが希薄ということがありそうです。

それに対して
その人の機能的な部分、つまり
役に立つという能力が強く求められているということです。

能力がなければ(一面的な能力)存在してはいけないという脅迫観念に駆り立てられる。

役に立つことが、存在を保障する関係ですね。

家庭においては「あなたはいてくれているだけでいいよ」
という関係性ですが、家庭においても役に立つことを土台にすると
その人は大きく揺らぐことになります。

そうやって大人になってしまうと
役に立つことで存在価値を他者や会社、
あるいは妻や夫、恋人に求めてしまう関係性しか作れなくなってしまいます。

僕はいつも思うのですが

能力が求められる会社においてでも

存在価値を土台にした運営ができないものかと。
家族的会社経営っていうことですね。


若い頃の話です。

ある会社にハンテイングされました。

私「御社が期待するような成績が出せないかもしれませんよ」

相手「いや そんなものは期待していませんよ。冨田さんが居てくれれば凄く明るい雰囲気の良い社内になりそうです。それだけで良いので、たとえ売上なくても良いですから来てください」

忘れやすい性格なのに、妙に鮮明に覚えているのはどうしてでしょうか。

僕のセールス能力を評価されたのではなく、人格を認めてもらったのですね。

世の中にはどんどん役に立つものが生まれており、周辺は役に立つもので溢れていますね。

そうなると自分も役に立つべきものという想念が湧いてきます。

デザインとは役に立つものです。

一方アートは実用にはなりません。

みなさんは自分自身や人生をデザインしますか?
アートしますか?

デザインできなかった時
つまり有用になれなかった時

自分は役立たずだから居ない方が良いと考えてしまいますね。
存在の否定です。

自分はポンコツの出来損ないだと考えるのは、
役に立てないという自己への失望感ですね。

会社では有用性を求められるのですが、
家庭はその対極ですから
居てくれるだけで良いという基地になっています。
(この辺り微妙です。育児に夫が役に立とうとしないというのが離婚を考える理由になっていますので。
日常的には役立つよう活きる。病気で家庭に一切役立てなくても存在は許されるような関係性が家庭であろう)

その家庭が会社のように有用性を求められたら
役に立つことを証明せねばならなくなります。

その結果、自分の存在価値を証明をするために余計な仕事を増やし、
ストレスフルを自ら作り出すのです。
役に立つことを証明しないと安心感ができないというのは、それだけで不幸ですね。
posted by 変才冨田 at 19:02| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ご飯を食べるが如く人を食べよ

前回にコミュニュケーションのあり方について書きました。

対話とはお互いに変化を促しあって、結果として両者ともに元の立ち位置に戻れなくなる。
すなわち思考の発展が刻印されて、もはや以前のレベルに戻れなくなるということです。

料理もコミュニュケーションです。
小豆とカボチャを鍋に置いただけでは対話はできませんね。

対話に至るには条件があります。

そう、水に浸けること。
それだけでもダメですね。
そう、熱を加えて煮ることです。

鍋と水に熱を加えて「対話の場」が生まれ、
それは小豆とカボチャが変性する場です。

小豆とカボチャのいとこ煮の完成ですね。
もはや小豆とカボチャは元に戻れません。

それどころか、元々両者に無かった性質が生まれていますよ。
これを食べると(対話すると)糖尿病が改善するのです。

糖尿病という波を起こしている場にいとこ煮の場が入り対話が始まります。
料理とは素材を切ることで、調理とは素材同士のそれぞれの波を混合して
、つまり対話してもらうことです。
塩と熱によって素材は混濁し変性します。

対話には鍋と水という場だけではダメなんですね。

二人が部屋(鍋)に居るだけではダメで、なんらかの共有している
方向性(水)があり、そこに熱が加わると対話に至ります。

お互いの熱意で変性場が出来上がります。

料理も調理も人の対話も同じです。

もう一つ重要なことがあります。

続く
posted by 変才冨田 at 17:54| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月09日

千と千尋 12 ワークとミッション

カボチャを大きく切った彼は味噌汁を作るというミッションが無く、
ワークとして野菜を切っただけなのです。

ミッションを失うとワークも無意味にしてしまいます。

ミッションのないワークができるのは「名を奪われている」状態だからです。

名を奪われている状態とは主体性を失った状態と同義語です。

では、彼は料理の面だけが主体性がないのかというと

人生において全てです。

これを同質性の構造というのです。

こういう人は自分が選択して決めておきながら
(本当は決めていない)
うまくいかないと他者や条件のセイにするのです。

千が最後のシーンで豚の群れに両親はいないと判断できた理由は
豚にされてしまった両親を人間に戻すというミッションを忘れていなかったからです。


ワークだけで生きている人は
ミッションを忘れ
ミッションを忘れた人は洗脳されます

自分で主体的に決められない人は失敗を恐れています。

失敗を恐れている人はミッションを失った人です。

ミッションを忘れていない人は失敗への考え方が違うのです。

一つ失敗した時に
この方法ではダメだと気付いただけです。

失敗は成功への手段だと思っているのです。

ミッションこそが必要です。


ミッションはワークを丁寧に繰り返してできる耐性を作るのです。

ミッションのない生き方は生きてはいるけれど

活きてはいない状態なのです。

ミッション
あなたはありますか?






posted by 変才冨田 at 01:44| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月08日

千と千尋 11 ワークとミッション

久しぶりに千と千尋の続きです

洗脳される条件に自らのミッションを保有していないということがあります。

日常がワークの連続でしか生きていない人です。

ワークのみで生きている人は視野も狭く、考慮する範囲が今だけです。

卑近な例がありました。

東京分室でのセミナー参加者の為に玄米ランチを作りました。

お味噌汁はいつもの精進出しで作ります。

セミナーの内容は7号食だったので、
14日目の回復食の具沢山味噌汁でオススメの甘い野菜です。

キャベツ カボチャ 人参 玉ねぎ

どれも煮込めば甘くなる野菜たちです。

たまたま訪れた若い男性に人参とカボチャを切っていただきました。

私「お味噌汁を作るのでその具としてカボチャを切ってください」

切る厚さは薄く切ってください、とだけ伝えました。

これは甘さを引き出す為です。

さて、私がお鍋に切った野菜を投入しようとしたところ、

カボチャが大きすぎるのです。

そのカボチャを三つに切ってちょうど良い大きさになります。


味噌汁を作るのはミッションで野菜を切り分けることはワークです。

続く

posted by 変才冨田 at 00:37| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月31日

自分が何をしているか?

人は今自分が何をしているかがわからない存在だ

その発した言葉や行為の意味をどこまで捉えているだろう。

善意でやっているつもりが、実は真逆であったりする。

その言動の結果が未来に何を生じるのか予測できない。

僕は子供の頃

当時は白衣を着て路上でアコーディオンを弾く男によく出会った。

傷痍軍人が食べるために芸を見せて寄付を募っていた。

マア、乞食ですね。

僕は彼らを見るとそのアコーディオンの悲しい響きに誘われ
母から小銭をもらってその前に置いてある空き缶に入れていた。

僕はその行為を大人になった時恥ずかしいと思った。

posted by 変才冨田 at 22:31| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

千と千尋 10 洗脳の定義

私たちは社会的に生きているので、その社会の仕組みに順応するようになっています

その仕組みが良いとか悪いとかはないのです。

意味付けなどは後です。

取り敢えず適応するのです。

気がついたら適応していたのです。

これは洗脳と言えなくもないのですが、

もう一つの洗脳と比較できなくなります。

要は洗脳されて有利な場合は洗脳とは言わない。

生きていくのに結果として不利になる適応を洗脳と言います。

誰かが君臨するために意図的にその他の人に植え付ける価値観を洗脳と言います。

要するに支配しやすい仕組みに洗脳は付き物なのです。

母親が子供に父親の悪口を日常的に流す。

子供を味方にするためで、子供たちのためではないですね。

母親が子供に君臨しているのです。

子供たちの父親を見る眼差しにフィルターをかけています。

立派な洗脳です。

ある事例
そうやってお父さんが大嫌いという姉弟がいました。
お父さんが末期ガンで一時的に帰宅になる日。

母親が自宅で休んでいるお父さんに出先から電話しました。
それは車で迎えにきて欲しいという内容です。

それを聴いて息子と娘は驚きました。

ええー、お父さんは末期ガンで休んでいるのに迎えに来いって言っているお母さんってなに‼︎

それから親戚中にリサーチしてお父さんは素晴らしい人だということがわかりました。

洗脳が解けたのですね。

決して浮気ばかりしていたお父さんではない。
実は真面目なお父さんだった。

今までお父さんが自分たちにしてくれていたのは真心だった、お母さんが言うようなご機嫌取りではなかったと。

事実は全て逆だったのですね。

このように特定の人や団体に有利になる情報だけを選別して流し
その他の人々の目に特殊なフィルターをかける行為を洗脳と言います。


湯婆婆は主体性を剥奪する象徴としての名を奪い
ハクや湯屋で労働する人々に君臨しています。

湯婆婆は洗脳していますね。

お金にだけ価値があると言う洗脳です。

洗脳とは単一のものにだけ価値があると言います。

あれもこれもそれも良いですよ、は洗脳ではないですね。

一神教はその点で洗脳です。

選べない‼︎ という状況は洗脳の基本です。

二者択一は洗脳から覚める状況作りです。

湯婆婆は最後に豚の群れから両親を見つけろと言います。

千はどうしてそこに両親が居ないとわかったのか?

豚の群れという限定された状況の中で探させること。

これが洗脳の技法なのです。

選んでいるという錯覚を作るのです。

選択は自由意志でしたという錯覚を作るのです。

千は限定された状況から視野を広げ

豚の群れにいないかもしれないという広い視野を得ました。

主体性とは提供された状況を乗り越えることなのです。

千はすでに名を取り戻していたのでそれができたのですね。


さて、僕は本日に期日前投票に行ってきました。

豚の群れから本物を選んできましたよ。

最近できたなんとかの党なんて本当に豚の群れという感じがします。
自分の当選というパンのこときりしか考えていない群れです。

さらに、日本の湯婆婆は自民党と希望の党という選択肢だけ提示して見せて、どちらかを選びなさいと言っているようです。

自由に選択したという錯覚を起きさせていますね。

実際は豚の群れから選んでいるのにネエ 笑










posted by 変才冨田 at 00:54| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

千と千尋 9

現行医療に対する洗脳は小さい時から始まっていますから強固です。

洗脳されているかどうかは、その行為に自身で意味付けしていないことでわかります。

ある事例

ある男性です。

しいたけと切り干し大根のスープを数か月奥様につくっていただき飲用していました。

その甲斐あって高脂血症の数値がずいぶんよくなったのです。

医師に「もう少しで正常になるので血液サラサラの薬出しておきましょう!」

その男性は薬を飲み始め、無くなったらクリニックに行って貰ってきます。

それを知った家族は「・・・」


さて、この男性はスープを飲む意味づけもなかったし、薬を飲む意味づけもありません。

奥様にスープを出されたから飲む、医師に言われたから呑む。

この男性を笑うことはできません。

わたしたちは、一日の大半の行動に意味づけないまま過ごしています。

刺激→感覚・感情が動く→反応

最後の→に意味づけをしましょう。


私たちは普通洗脳されており、この洗脳が生きていくのに都合が良いかどうかです。

ただ、ここで洗脳の定義を付けておきます。


続く



posted by 変才冨田 at 14:04| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月17日

なぜ、我々は穀物が命なのか?

元米と健康づくり
(1) 人類と穀物
穀物の発見は人類史上非常に大きなエポックで、穀物のメリットを得て人類はやっと歴史時代が始まったと言えるだろう。
人類にとっての穀物のメリット
1 貯蔵できる食べ物
エンゲルスは「猿が人間になるにあたっての労働の役割」で、肉食は高エネルギーを得ることで剰余時間を与えた。この剰余時間で労働や創作活動時間が与えられ知能を発達させたと述べている。
ところが獲物を射止めてもその肉は貯蔵できず速やかに腐ってしまう。しかも、獲物が狩ることができないことも多かったはずで、剰余時間どころか飢餓に悩まされていたはずだろう。
おそらく森林火事の焼け跡で焼き米が皮の中でできており、その香ばしい匂いに惹かれて見つけたのでしょう。
そして、同じ被子植物を求めて歩き回り貯蔵したことと思われます。
たくさん集めることで飢えから解放され、その栽培にも乗り出したことでしょう。
貯蔵できるということと栽培できるということが道具をつくる労働時間を保証しイメージを拡大できる偉大な脳を作ったのでしょう。

昨今に流行りの糖質制限食の論がある。「人類は元々は肉食であったから、肉の方が米よりも生理的、体質的に適合している」と言うが、穀物の発見こそが人類の心身を進化させたことを見ていない無知な論だと思う。
その後の人類は穀物食に適合する生理的進化を遂げただけでなく、穀物の栽培によって天文などの知識、栽培法の知識を学ぶことで脳をも進化させた。
しかももっと後年になっからですが穀物の安定確保は野性の動物の家畜化も可能にした。動物を殺すと腐敗をおこすので、新鮮にその肉を保つ方法は飼うことです。
飼うためには食べさせなければならず、飼える動物は肉食獣では危険なので草食性の動物を飼うことは必然です。豊富な草原や「穀物の貯蔵があって初めて家畜化のイメージをもつに至ったのです。
posted by 変才冨田 at 18:45| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

千と千尋 9 洗脳のされ方

自分は洗脳などされていない‼️

簡単な事例から考えてみます。

薬です。

風邪を引いて風邪薬を、痛いとロキソニンを、
血圧が高いので降圧剤を服用する。

立派に洗脳されています。

風邪引いて病院に駆けつける人は「つける薬がない」くらい洗脳が進行しています

薬は毒であるという真実を知らないのです。

冷え性の方が「体温を上げるためには何を食べれば良いですか?」
と尋ねられます。

世の中には冷やす食べ物があると信じられています。
それは相対的なものです。

食べ物は全て体温をあげます。

もしも何かを食べて体温が下がったらそれは毒物です。

降圧剤はどうでしょう。

血圧が下がったらそれは毒物に対しての身体の反応です。

毒物の効果が血圧低下です。

下がりましたねえ、と医者と一緒に喜んでいる場合ではないのです。

解熱剤も同じです。

せっかく治癒反応として熱を正しく上げた天晴れな身体の意思に反して
薬で邪魔しています。
毒物を盛った結果が体温低下です。

痛みも治癒反応です。
そのまま放っておくのです。
治そうとして血液通そうとしている時に痛みます。
痛み止めは血行を止めることで痛魔なくさせるのです。

正座して立つ時に痺れが起きるでしょう。
どうしますか?
結構回復を待つでしょう。
痺れ止めの薬を服用しますか?

薬に対する意味づけのないまま服用しています。
自分が何をしているのかがわからないのです。

薬や病院に頼っている人は多いです。
薬や病院が疾患を治してくれるものと信じています。

洗脳は日常的ですね。
posted by 変才冨田 at 23:23| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千と千尋 8 洗脳のされ方1

自分にしかできない役割に気づいていない状況が洗脳されている。

気づいた瞬間に洗脳が解ける。

その瞬間に自分が自分として活き始める。

自分を取り戻すということを
宮崎駿は「名を思い出す」と言っているわけです。

ところで釜爺は洗脳が解かれています。
けれど、釜爺は湯屋において過剰適応(手足が仕事順応で伸びきっている)
でもはや他所では生きていけないことに気づいています。

資本主義という仕組みに過剰適応してしまった人々がいかに多いか‼️


さて、洗脳されている状況とはどうなっているか?

1 自分の言動の意味がわからない。
2 というよりも、自分の言動の意味を自分に問いかけられない。
3 問いかけても、その解答自体がある与えられた枠組みの範囲で、
その制限の枠を超えられない。

最後の「制限された枠を乗り越えられない」こそが洗脳の仕組みです。

大阪府大の花村先生の提唱する「眼差しのデザイン」は乗り越える転機を与えます。
これについては改めて書きます。先生の本が近く出版されますのでBL研究所でもご紹介します。

続く
posted by 変才冨田 at 09:43| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

千と千尋 7 名の意味

宮崎駿が考えている名とは誕生して両親によって付けられた名ではない。

では、宮崎駿が言うところの名とは何なのか?

それは自の主体に目覚めた人が自ら命名する名です。

つまり、自分の使命に気づいた人がその使命に名を付けるのです。

名とは使命の内容に付ける役職名のことなのですね。

ニギハヤミコハクヌシというのがハクの名前ですが、コレ役職名ですね。

つまり、

自分の命を何に向かって使うかに気づいた人。
自分が何の役に立つのかに気づいた人。

その瞬間に『名」を思い出すのです。
奪われていた名を思い出し取り戻したのです。

これは洗脳が解かれた瞬間ですね。

問題は「名」をなぜ奪われたのか?

それは次回




posted by 変才冨田 at 22:15| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

千と千尋 6 洗脳と主体

洗脳する人も洗脳されています。

湯婆婆は巨大な赤ちゃんに日々翻弄されています。

あのワガママ勝手で鳴き声と横暴な力で湯婆婆を圧倒しています。

けれども、湯婆婆の世話がないと生きていけません。

自分の近くで生きていけないのです。

それゆえに暴力的な力を発揮して他者を支配します。

そうです。

あの巨大な赤ちゃんは「権力」なのです。

その権力に翻弄される湯婆婆、湯婆婆が支配する湯屋で働かされている人々、
そこにお金をもってばらまく神々。
湯屋の全員が見えない妄想によって支配されています。

お金が神様という妄想ですね。

お金=食べ物

生を全うするには食べないといけません。
食べもの=お金を得るためには「パンのみでも」生きるが優先課題です。

お金を握った者に生をゆだねる。
これが主体を失ったものです。
その象徴が「名を取られた」ということになるわけですね。

名を奪うもの、それは権力者だということです。
権力者が妄想を、洗脳を日々拡大しているのです。

では、洗脳されないためにはどうするのか?

posted by 変才冨田 at 21:54| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

千と千尋 5 名とは結局何か

名を奪う、取り戻す。

この物語の縦軸テーマが名とは何かということですね。

横軸のテーマは主体的に生きるとはどういうことなのか。

名と主体の関係です。

宮崎がこだわる「名」とは主体性ということと切り離せないようです。

さて、「名」とは何か。

名を取られることと洗脳がなぜリンクするのか。

名とは単なる記号なのか。

それとももっと深い意味があるのか。

続く

posted by 変才冨田 at 22:55| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千と千尋 4 名の意味と洗脳

この物語のメインテーマは「名」とは何かということですね。

「名」を忘れることは生き方を喪失することだと宮崎駿は言います。

命の使い方、すなわち「使命」は「氏名」に一致することは偶然ではない。

何をする為に生まれてきたか、それが使命なのですが
名を忘れるとそれも忘れる。

湯屋には名を忘れてしまい、ただ働くだけの人々が夥しくいます。

仮の名を与えられてただ働らくだけの日々を過ごします。
そこでは働かないと生きていけないのです。

やはりこの魔界は現世で私たちが生きる世界そのものですね。

ただ働らくだけの日々が湯屋にあります。
つまり、パンのみが生きる内容になっています。

この場合のパンとはお金💰のことですね。

私たちはお金を稼ぐ為に生まれてきたのか。

湯屋の人々はただ働らくだけのようです。

自分の行為の意味を問わない生き方がなぜできるのか。

これを洗脳と言います。

意味を問いかけるとは、すなわち名を思い出す行為です。


湯屋で大金を使う「神々」も同じです。

お金に洗脳されています。

人々はお金に神のような価値を与えて
与えたはずの主体がお金に支配されています。

お金が発明されて以来お金に洗脳されることとなりました。

では、

湯屋の主である湯婆婆はどうでしょう。
湯婆婆も洗脳されています。

主体を奪われた→名がない→洗脳されやすい状態

湯婆婆も何者かに支配されています。

あの巨大な赤ちゃんは何者ですか?

posted by 変才冨田 at 15:00| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

千と千尋の神隠し 3  登場人物と背景

さて、カオナシとは誰の事か。

それはあなたかもしれない。
お金を湯水のように使う神々にあこがれて湯屋の周辺をうろついている人々は多い。

お金で幸せが買えるかもしれないと半ば確信もしつつ疑いもしている。
神々ほどにはどっぷり浸かってはいないけれど、お金が全てだという確信も足りない。

神々の様になりたいのだけれど成れないことも分かっている。

そこでもう一つの道もありそうだと嗅いでいる。
その香りを発散している千に惹かれているわけだ。

もう一つの道とは「パン以外のなにか」だろう。
神々はパンのみに生きて、カオナシはパン以外になにかあるのではないかと思案しているのだ。

聖書にある「人はパンのみにて生きるにあらず」がこのアニメの大きなテーマになっている。
この言葉は「パンは絶対に必要だけれどそれ以外もあるよね」と言っている。
要は両方あって人間だというわけだ。

パンを食べて人という動物性を満たし、それ以外を生きがいとして人間となる。
宮崎駿の人間観はバランスが良い。
精神性に偏っていない。

その証拠が湯屋の主である湯婆婆であり、双子の銭婆だ。
「わたしたちは本当は二人でひとつなのよ」と銭婆が語っている。
湯婆婆はパンのみで生きており、銭婆はパン以外を大切にしている。

カオナシはいったんはあこがれの神になって金を湯屋でばらまいてみたものの
虚しさに元に戻った。
カオナシは最終的には銭婆で居候することになったが、彼は今後どうなるのだろう。


posted by 変才冨田 at 01:12| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

千と千尋 カオナシと湯屋の神々など 様々なキャラクターの役割

先ず舞台設定です。

そこは昔に作られたパビリオンらしく、すっかり打ち捨てられた箱物。

古ぼけたパビリオンの入り口と思われる建物のトンネルのようなところを潜ると広大な敷地に
怪しげな建物群がありました。

このトンネルのような暗い道は産道の象徴か。
そこをくぐり抜ける新しい世界と生への不安を千尋は訴えます。

両親は欲望のままに(豚のように)飲食し豚になりました。

父親は都会から左遷されて地方都市に来たのですが
少々投げやりです。

つまり夢破れた両親です。
あとで出てくる湯屋の神々になろうとしてなれなかったのです。
かといってこれから真面目に働く意欲も失せているので、
食うだけでは豚になる以外ないのです。
その魔界は働かない人は生きていけないか、
豚になる以外にないルールです。

いかがですか?
この世界のルールそのものですね。
従ってこの魔界は私が生きているこの世界をデフォルメしたものなのです。

私が生きているこの世界の本質を宮崎はさらけ出して見せているのですね。

湯屋にお客として訪れる奇妙な姿の化け物は
「神々」という設定です。

確かに湯屋にとってはお金を落としてくれるお客なので「神様」ですね。

彼ら「神様達」は現行の資本主義という仕組みを是認し、そのシステムを利用して「神様として栄耀栄華を満喫」しています。

では湯屋で名前を奪われた神々に接待する彼女達は何の象徴でしょうか。

ひたすら接待して食い繋げている名前の意味を忘れてしまった労働者達です。
生きるためにはお金が不可欠。
それ以外に何がある?
お金がないと幸せになれないと信じた人々ですね。

そういう意味では神々も彼女達もお金一神教に洗脳された人々です。


では、湯屋の周辺をうろつき、千につきまとうカオナシとは誰のことでしょうか。




posted by 変才冨田 at 16:26| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

栄養学と食養学 2 

(3)穀物と人の進化
さて、何を食べるべきか。いいえ、わたしたち人の食性はなにを食べるようにできているのか。
動物はエサを求めて東奔西走します。明日の食べ物が保証されていません。今を充足させる。
それを連続させることに必死です。
一方社会的動物に進化した人間は蓄えることを覚えました。蓄えることを可能にしたのは穀物です。穀物の発見から人は人間へと進化する道にのれました。
保存できる穀物は人間にゆとりの時間を与えました。文化というものが生まれた原因も保存性に優れた穀物があったからです。
また、同時に保存できるがゆえに私有財産という概念も生まれ、その奪い合いの歴史も始まりました。その配分のための社会的仕組みをつくり、その配分システムの進化を歴史というわけです。
穀物はわたしたちの全存在に入り込みつつ多様な食文化を創造したのです。
この点はどんなに紙数を尽くしても書ききれないでしょう。
それゆえにBL研究所は健康づくりの中心軸に穀物を中心に据えているのです。
BL研究所は穀物を中心としたライフ・スタイルを提唱します。
(5)元のお米
「元のお米」という意味には二つ含まれています。
@ 数百年にわたって品種が固定されている。
つまり、元々のお米であって品種改良を繰り返し行ったものではないことです。
したがって、野性味のある元気なお米です。元の身体に戻すのであればお米も数百年にわたって食べられてきたものに替えます。
A 白米にしないで元の玄米で食べること。
白米はミネラル、ビタミンが乏しく主食にするには役不足ですね。白米だけでは生きていけません。白米ばかり食べていた時代は脚気患者が多かったのです。
7号食に見られるようにそればかり食べていても病気になりません。かえって元気になっていますね。
(6)美味しくて炊飯が簡単でなければ続けられない玄米食
BL研究所がお勧めする玄米は「蒼の元米」というもので、長年の玄米食の方がその美味しさに驚かれます。しかも、岡山の山間僻地で完全無農薬にて栽培されたものです。
さらに、炊き方が簡単で電気炊飯器の白米ボタンで水加減も白米と同様で簡単に炊けます。

この「蒼の元米」は全国に配送しています。
現在は会員価格で5kg4374円で販売しています。
送料は5400円以上で無料です。
玄米甘酒、足楽です輪、新製品の「集中できます輪」などとともにお買い求めください。
tetu.tomita@gmail.com
050−1193−9391
メールでもお電話でもご注文できます



posted by 変才冨田 at 17:53| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

栄養学と食養学

江戸時代後期に水野南北という有名な観相家がいます。
南北は人相を観るに「万に一つの過ちなし」と言われていました。

その南北の言っていたことです。
「非常に福相であるのに現在の境遇が悪い人、非常に凶相であるのに幸せな境涯を送った人がいる。この理由を研究すると、裕福になって食べ物を贅沢にした人が運気を損なっている。お金が入るようになっても、食を質素に保った人はたとえ凶相であっても運勢が良い。つまり食こそがその人の運命を決めているのだ」と人生の真実を喝破したのです。

現代の日本は長寿にはなっているけれども慢性疾患や痴呆や癌疾患、さらには鬱まで増加の一途をたどっています。
南北の喝破通りではないですか。豊かになるにしたがって飽食グルメを実行した結果が現状でしょう。
それは同時にカロリー学説を土台にした現代栄養学の敗北とも言えそうです。それが役に立つものであれば人の健康づくりの防波堤としての役割を果たすはずだからです。
栄養の「養」とは羊を良くすると書くように、決して人間だけを対象にしているわけではないのです。羊や牛を良くするとは「病気にしないことと太らせる」ことです。
家畜を栄えさせるという意味が栄養学にあるのです。人間にとって都合の良い育て方をすること、「つまり太らせることが栄え」なのです。
どんどん食べさせれば食産業にとって都合が良いのです。人の家畜化を実現させたものが栄養学の本質です。

一方食養学はどうでしょうか。
「食」の字は人を良くするとありますね。食養とは人を対象にするだけでなく大切にしているのです。
それゆえに栄養学のようにマスで個人にあてはめるのではなく、民族性、住んでいる場所の緯度、個々の体質の違いなどを考慮する個別性に食養学では重点が置かれます。

posted by 変才冨田 at 00:36| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

身体と心 2

消化器官の末端が口になり、たくさんの食べ物やそうでないものが口の中を刺激して

食べ物とそうでないものを選別するために、口のそばに神経の束をつくりました。

それが将来に脳になります。

要は身体が先で脳は後です。

食べ物を求めて身体の動きが生まれ、刺激は多様になり

その刺激が末梢から常に脳に送り出され、脳はますます強化されます。

今置かれている環境が苦でない場合の動きと

苦の時の動きは自ずと違い、その動きが将来の心を生み出します。

心が発生したことで身体の動きはより機能的、繊細いなります。

心も身体と同じで環境に対して「より適応」することで進化したものでしょう。

心は単独では存在するものではなく環境との相応性で生まれたものです。

環境が変化すれば心は環境を反映して常に変化します。

そういう意味で心も生命と同じく虚実の存在と考えられるでしょう。

虚の生命や心は環境中に偏在し、実の生命と心は身体に存在しています。

虚の側が無ければ生命も心も存在しえないですね。

虚実という「左右の手」があってはじめて拍子が打たれ

生命や心という現象が生まれます。

自分の心は家族や友人に存在し、自動車や家にも存在しているのだと言えます。

虚とは波のようなものであって区切られないものです。偏在です。

従って自分の心を変化、進化させる方法は意識を通して環境に働きかけ

環境を創造することで新しい心を生み出すことができます。

命も心も

つまり

自分という存在は徹底して「環境に依存した子供」であるということではないでしょうか。

確かな一個の自己が存在してはいないのです。




posted by 変才冨田 at 02:47| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月04日

神は死んだ! 若者よ、その安穏な望みをこそ壊せ!

これはニーチェの有名な言葉ですね。
現代風に云えばキャッチ・コピーですね。

この場合の「神」とは現行の価値観という「権威」です。
私たちの考え方はこの「権威付け」された価値観の奴隷になっています。

社畜という言葉がありますが、サラリーマンでなければ生きていけないという考え方に縛られています。

大手の会社に勤めているときに、そのブラックな勤務に気づいて公務員試験を受けて晴れて公務員になりました。
けれどその給与や、大して変わりないブラックな勤務形態にいや気がさして、現在はさらに大きな自治体の公務員試験を受けようとしています。
そちらの方が給与が良いからとのことです。

20代の若さでありながら現代の「神」を信仰しています。

「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言います。
別に鶏頭となるも牛尾となるなかれとも言います。これは誤用ですが意味は通じています。

小さい組織でもトップが良い。
牛の肛門を甞めるなということです。

大きな組織で自分の活き方を考えるな、という意味です。

自分が全て決める、つまり主体者となれ!
これがニーチェの「神は死んだ」の真意です。

大きな組織で大本を握られた状態で、限られた範囲での主体性は意味のないものです。

大きな組織で安心を保証された状態で自分を活かす、というのでは
一度だけの人生をボロボロになっても生き抜くという気概が失せています。

安全は死を招き
危険は生を躍動させます。

ブロイラー飼育の鶏舎のなかのような一生を終えてもよいのか、
自分たちの子供も鶏舎で生んでよいものか

当たって砕けろ!
これは勇気を出せ!
ということですね。

それができないのは
自分にありもしない価値を付けているからでしょう。

命には価値がない。
その価値のない命が紡ぎ出す人生にも価値もない。

もともと価値がない自分をどうして安全な場所において守るのでしょうか。


僕のところに相談に来る人の多くは安穏を望んで生理や自律神経を損なっています。
身体が病もうがどうなろうが本当はどうでもよい生き方があります。

その生き方をすると自分のことが気にならないのです。
そういう人は病を得たとしても、病気ではないのです。

「神は遠い昔に死んでいる。
若いくせいに、判ったような顔で死んだ神の葬式に行くなかれ」

リクルートスーツに身を包んだ若い人たちは
喪服を着こんでいるように思えてならないのです。

誰の葬儀に行くのか?
自分の魂の葬儀です。







posted by 変才冨田 at 21:01| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

出産であらわれる生き方のお手本

岡野さんのお話にもありましたが

現代女性の身体が原因で自然分娩ができない状況があります。

帝王切開による出産データでは5人に一人が帝王切開で出産しており、20年で倍増しています。

宇宙が仕組んだ出産のプロセスを踏むためには何が必要でしょうか。

というより、何が欠けてしまったのでしょうか。

自分で産む力、自分で生まれる力を失った理由はなんでしょうね。

吉村産科医院では帝王切開に至ったケースは50人に一人となっています。

実に一般産科と比較すると10分の1ですね。

つまり、まだ女性も胎児も自分で生まれる力は失っていないということです。

異常出産が増えたのは産科医院の仕組みもあるようです。

吉村医院にあって、一般産科にないものってなんでしょう。

吉村産科では

@ ゴロゴロ、パクパク、ビクビクさせない
A 胎児と妊婦の準備を忍耐強く待つ。

つまり、妊婦と胎児の主体力を尊重している。

これは吉村先生の生き方そのものと思えます。

宇宙は主体力を命に発揮させることをミッションとしているようです。

吉村先生自身がそのように宇宙の意思を具現化されています。

人生の活き方をどうするかは

出産シーンがお手本になっています。

一般病院での出産であれ

病気で病院に行くのであれ

自分の意思をしっかり医師に伝えられることができるようになることです。

自分が命の責任者であるということから

改めて人生を始めたい。


風立ちぬ(心の奥深くから自ら生きる力を風として感じ)

いざ‼️ (勇気が立ち上がり)

生きめやも (一歩を踏み出そう)
posted by 変才冨田 at 15:14| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする