◆BL研究所トップページ◆
◆7号食についてのQ&A等はコチラ◆
※水素風呂についてはこちら※
◆梅ごぼうの作り方◆
◆商品案内はこちらです◆

2017年05月06日

小さくなってしまった男達 2

ずっと以前のことを思い出しました。

僕は女性は即物的、現実的なもので

非社会性がその性質という思い込みを持っていました。

男性は生きがいや人生論が好きで概念的なものに惹かれるとも。

事実は逆です。

むしろ女性は全ての面に全開しているようです。

男性は明日のことより今の酒です。

もちろん、基本的には性差よりも個人差でしょうが

女性は今と未来に大きな関心を寄せています。

夢は女性の方が抱いています。

男は疲れ果てているのでしょうか。

未来を夢見た社会的貢献行為には無関心です。

自分の周辺5メートル範囲にしか関心がない男が多いです。

明治維新は男達が担いましたが

これからの世直しは女がやるでしょう‼️

そう思うのは僕のセミナーにそうした女性が多く来ているからでしょうか。

男より女の方が僕の概念的な話に共感を寄せてくれます。
posted by 変才冨田 at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

待つ その意味 1

果物は熟さねば落ちない。

こちらの都合では落ちない。

やさいも米もジッと待ち続ける時期がある。

辛いね。

焦れることもあるよね。

雨だって止むのを待つ。

日照りも続けば辛いけれど、雨が降るまで待つ。

ジッと待つ。

子供の成長も待つ。

こうすれば良いのにという苦労しない方法を知っていても、子供が気がつくまで待つ。

恋人がいない。

それも待つ。

待たなければあなたに相応しい人に出会えない。

急いで募集すると魂が震える人に出会えない。


全てこちらの都合で意図的に動くと

熟す前の硬くて酸っぱい果物を手に入れることになる。


待っている間に本当にすべきことがある。

よく学び、よく遊んでいることだ。

ジッとソレを観察しておくことだ。

世界をより深く感じる感性を磨いておくことだ。


そうすればあなたのレベルに共振する現象が

光を放って現れる。

「今を生きる」とは

その開いた花を萎れないうちに摘み取ることだ。

蕾をジッと観察して待つ人だけが

今を生きることができる。



以上は最近の短気な私への助言です 笑

posted by 変才冨田 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を増やす生き方 2

コメント
制限を自らの意思で選ぶと選択肢が細やかに増える。。

これには ビックリと言うか、またまた世界の領域が変わりますね。言葉になると衝撃的であり、何だかまたまたワクワクします。

だってこれって人間の特技ですよね。魔法使いです。笑

最近、ワークショップでハリー・ポッターのように実際に魔法の学校に入学するのが人気みたいですが、

これこそ魔法使いになれる技ですよね🎵創造方法。
ホウキもスティックも 不要ですねー。

私のコメント
強制や与えられた選択肢は人間をダメにします。
主体的に選択肢を増やす為には先に制限の世界に飛び込むことですね。

制限という子宮にこそ自由の胎児が育ちます。

その辺りを実感するには、7号食は絶好の体験になります。

7号食をすぐに実行できるセットも用意されています。

一番上のリンクにBL研究所があるのでどうぞ。

posted by 変才冨田 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月03日

性格とは制限の仕方です。

以下は6年前の記事です。

私のOSに「禁止と制限」が大嫌いという好悪感情が中心にあるようです。

小さい頃、歳の離れた兄に散々禁止と制限を受けたことが原因のようです。

自分とは無関係でも禁止と制限のシーンを見たり話しを聞いただけでムカッときます。

昔からわたしは「きっと自分は野垂れ死にをするだろう」、そう思っていました。


映画「今を生きる」はまさしくそういう内容です。


今もそう思っていますし、「野垂れ死に」したいと思っています。

人の一生はどう生きたとしても同じで価値の高低はないでしょう。

ただ、これだけは言える。

「わたしたちは遊ぶために生まれてきたのだ」と。

面白く生きないといけません。

面白く生きるためには制限をかけてはいけません。

年齢や性別や人種や育ちなどは制限の理由にはならないです。無関係です。

人は変わります。

それは自然なことです。

もしも一向に変われない人がいるとしたら

それは自分自身に強い制限をかけているからです。

それはもはや制限の仕方が性格であるということです。

posted by 変才冨田 at 08:47| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

今を生きる 3

ウイリアム ロビンソンの「今を生きる」に呪文のように
カーペデイエムという言葉が繰り返されます。
これが「今を生きる」という意味ですが、本当はもっと強い意味があります。
「今、その花を摘み採れ‼️」ということです。
萎れるのは早いぞ、今しかないぞ」と唆かすのです。

あなたの前に色鮮やかな花が咲いているはずです。

見えないのなら
それはあなたの怠慢です。

いのちについて
ゴンドラの歌
1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日はないものを
2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)
の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬
に ここには誰れも 来
ぬものを
3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬも
のを

この詩は黒澤監督の映画で「生きる」に挿入された情熱を秘めた歌です。この歌は決して若い女性だけに呼びかけたものではありません。

主人公も定年間際の公務員なのです。彼は胃がんを宣告され余命が少ないことを自覚しました。自分と家族のことだけを考えて小市民的に生きてきた人生を変えようとします。戦後の荒廃した街の空き地を児童公園にしようと考えたのです。

その場所は
雨が降るとぬかるみ、蚊が発生して苦情が寄せられていたところです。
やっとそこに公園が出来上がり、彼はその公園に設置したブランコに座り冒頭の「ゴンドラの歌」を口ずさみ、歌い終わってそのまま息を引き取ります。感動的なラストシーンでした。

この映画のメッセージは「今を生きよ」です。
そして、今こうしたい!と思ったときこそが「なにかに恋したときであり、朱き唇や燃ゆる頬、心に炎が灯ったとき」だと呼びかけているのです。
「いのち」には血潮が宿った時こそが「いのち」としての意味を立ち上がらせるのです。
「いのち」は「生命」とも書きますが「生」は人というどうぶつとしての一面だけを表現しています。
「命」は社会的動物としての人間として「いのち」を表しています。
「命」とは命令です。人を一なるものが叩くと書きます。一なるものとは天のことです。天とは過去から未来を包含した人類の希求するモノのことです。それが「天命」というものなのでしょう。

天命という命令がわたしたちの心のドアをノックしたとき「熱き血潮」がたぎります。

昨日徒歩で全国行脚をしているという北海道に住む若者が事務所に訪ねてこられました。(真っ黒に日焼けしています!)
彼は北海道の札幌にある「あじと」という会社の人で、その会社では何人もの若い人がごみを回収しながらの徒歩全国行脚をされています。発端は代表者である奥村大亮さんが始めたのです。別に強制しているわけでもないのに自発的に志願者が現れ恒例のようにして実行されているようですね。

彼、飴谷さんは腎臓の片方がほとんど機能していません。この暑いさなかの行脚は常よりも大変なはずです。
では、なぜ彼らは、それをするのでしょうか。いえ、彼らだけではありません。
日本にはそうした伝統が昔からあります。古くは江戸時代の「お伊勢参り」であり、現在も連綿と続けられている「四国八十八箇所霊場めぐり」ですね。
藩の領土内からは離れられなかった民衆ですが、こればかりは許されていたのです。一生に一度きりの大冒険の旅であったわけです。
東海道の宿場町が発展したのもこれがあったからです。
ある種の精神的熱気に支配されて延々と歩いたわけです。もちろん物見遊山の人々も多かったでしょう。
でも現代よりもはるかに危険な旅でした。体調をいつも保たねばなりませんし、なによりも足が頼りです。
そこで江戸時代は民間療法としての「お灸」が一般的な知識としてだれにもあったのです。有名な「足三里のツボ」はみんなが必須の知識としてもっていたのです。足と消化器が調整される特効的なツボです。

ところで当時はだれでもがこうして行脚をしていましたが、現代は稀有です。それを実行する人たちはそれこそ例外なく「熱い血潮」がたぎらなければ実行できないことです。
私「なにを考えて歩いていますか」
彼「死について考えながら、どう生きるかを考えています」
わたしたちは人生という時間の奔流に流されて生きていますが、ときどきは岸に這い上がって「浮世」を眺めるときが必要なのです。

なぜ?
そのとうとうと流れる時の果てに、永遠という死への淵が待っているという真実を知るためにです。
その真実を胃の腑に落とすことで、自己の存在の意味を自覚することができるのです。
知ることと自覚することは雲泥の差があるのです。
わたしたちはやがては死ぬことを知っています。けれど自覚はしていません。
「生きる」の主人公は癌の宣告を受けることで死を自覚し、それが「使命感」につながり生の燃焼へとつながったのでした。燃焼することで誰でも「朱きくちびる、燃ゆる頬となり、心のほのおが燃え立つ」のです。

「使命感」とは天にわたしの「命」を委ね、己の「いのち」を使っていただく幸せを感じるということです。
よく考えてみれば分かることですが、この世に「自分のモノ」といえるものは一つもありません。すべては一時的に与えられたもの、借り物にすぎないのです。「いのち」でさえ他者や環境とのつながりで支えられているものなのです。
ですから「使命感」を持って天命で生きるのはごく自然でストレスのない生き方になるのでしょう。

それにしても凡人はついに「死の宣告」を受けなければ、自覚に到れないのでしょうか。
父母から受け継いだいのちの炎を燃やすだけならたやすいことです。
「朱きくちびる」を一生絶やすことなく、その心の炎が消えぬまにその生をとじたいものですね。
ちなみにわたしの使命はみなさんに玄米を食べていただき、その上でしっかりまっすぐに立ち、歩いていただくことに貢献することです。

posted by 変才冨田 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁止と制限がなぜ生じるのか

火の性質は奔放で自由です。

社会を維持するためにはみんなが好き勝手にやっていては困るので

禁止や制限を加えます。

これは有益面です。

けれどこれが強化され過ぎると人も世の中も硬直化してしまい、

結果として楽しくない世界になります。

制限や禁止の多い会社や学校、はたまた夫婦関係においても

不幸になります。

楽しくない組織はいじめや暴力も生みます。

強化される理由はそれでメリットがある人達が存在するからです。

戦前は治安維持法があり国民は萎縮しました。

産軍一体のメリットがあり
戦争に反対する政党や団体を禁止して国民には制限をかけました。

戦後すぐに朝鮮戦争をするためにレッドパージを行い

ハリウッドでも自由な表現追求をする映画人を密告させて追放しました。


会社においても過剰な禁止や制限を作るのは会社のメリットに通じるからですが、

そういう会社は硬直して、やがては世の中から除外されていきます。

共通の価値観を失えば制限や禁止などに関係なく解消するところです。

逆に言えば共通の価値観が保持できない求心力を失った会社が

その告白として禁止や制限を作ります。

自信がないのです。

夫婦関係や恋人関係でも同じです。

自信を失った彼や旦那が奥さんや彼女の行動をいちいちチェックするのです。

生徒を指導できない学校が校則を強めます。

灘高などは校則はかなりゆるいです。

軍隊などは権力がないと維持できない組織です。

崩壊するときはあっという間です。

会社は給料支給で拘束できますが、それが無理なら

洗脳して自らに制限をかけさせます。

楽しく生きられる組織ができないものでしょうか。

信頼に根ざした組織が欲しいです。


posted by 変才冨田 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を増やす生き方

「人生は選択の連続だ」といわれているけれど、これには違和感がある。

なぜ、わたしが違和感があると思ったのか考えてほしいのです。

と、三年前に書いたまま放置されていました。

続きを書きます。

選択をする時に自分の頭で考えて選択するということが「主体的に生きる」ことでしょうか?

それは違うと思うのです。

それではゲームをしている人と変わらないようです。

目の前に与えられた選択肢から選んでいるようでは受動的です。

選択肢をどう増やすか、与えられた条件以外に自分でもっと条件を増やす生き方があるはずです。

選択肢を増やす方法は実践しかありません。

実践すれば周辺は必ず変化します。

同時に自分の意識も変化します。

これが選択肢が増える理由です。

受け身では常に選ぶだけの身になって

与えられた情報量でコントロールされるだけの人生になります。

パートナーシップとは組んだ相手と共に船出をして

つまり実践をすることで選択肢を増やし、その事がお互いの成長を促し

主体的力量を増すという事を目指すものです。

それが苦しいことが楽しいという状況を創造します。

最近BL研究所であった話しですが、

集配に来る郵便局の人の態度が悪くて担当者を変えるように郵便局に苦情を申し入れるということになってい

ました。

それは簡単に解決できることですが、それでは「楽しく生きる」というパートナーシップのコンセプトは達成できません。

相手の態度に不快になるのは相手に自分の感情をコントロールされているわけで、受動的ですね。

これでは楽しくなりません。

相手の態度に一喜一憂している間は本当の楽しさの境地を手に入れることはできません。

集配の人が悪いという固定した眼差しでいる間は成長できません。

相手の態度を決めているのはこちらかもしれないのです。

集配作業がやり易いように配慮すれば良いのです。

荷物がたくさんあれば手伝うことです。

相手が楽になるようにすれば良いのです。

これが自分を変化させるチャンスなんですね。

それを ここからはあんたの仕事でしょ!‼️

と区切りを付けてはいけません。

こちらは客であんたはお店。

客にサービスするのは当たり前という態度に問題があります。

安い居酒屋を探してクレームを連発する人がいましたが、

それではサービスをより悪化させるだけです。

いつでもどこでも相手を楽しくさせる生き方が問われるのです。

posted by 変才冨田 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

今を生きる 2 パートナーシップについて 2

パートナーシップを結ぶ相手は同じ方向を向いているという条件が必須です。

旅たって事を為すためにパートナーシップを結ぶのですから、

相手の首の向きが違うとさすらうだけになりますからね。

さらに旅の途中でパートナーシップの中身が喪失しているのに

惰性で続けている人たちは多いのではないでしょうか。

なかなか転職しない人の中にはしたい仕事があるのに

職場の人たちが良い人ばかりで辞めにくいということもあります。

微温状態の土性で停滞しています。

仕事という組織だけではなく、夫婦恋人なども同じです。

こうした見ているところが違うという解決できないトラブルを

トラブルが起きる前に解決できないものでしょうか。

それは可能です。

要はあなたがしっかりした軸と目指す方向性があるという前提です。

まだそれがしっかりした輪郭がない場合は少し先しか見えていないので、

今の現実だけで判断します。

現実と一言で言いましたが、現実の本質は過去現在、未来がたたみ込まれています。

この現実の三要素からどれに注目するかです。

それが判断力の高さを示します。

過去だけ見ている人たちはすでに死んでおります。

過去と現在だけを見ている人は判断力の低下があります。

現在だけを見ている人は難破船状態です。

未来だけ見ている人はファンタジーの世界で生きています。


現在と未来を見ている人は建設的思考の持ち主です。

この中でどれだけ先が見えているかで判断力の高低が決まるでしょう。

脚はしっかりり地に着け眼差しは遠くに向かっています。


posted by 変才冨田 at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月29日

今を生きる 1 パートナーシップについて1


全ての人は自己の判断力の範囲内の世界で暮らしています。

判断力の範囲は全員違いますから、その違った人々がチームを組んで何事かを為そうとした時にトラブルが生じます。

そのトラブルには解決可能なトラブルとどうにも解決できないトラブルがあります。

判断力とはどう見えているかで決定されます。

ということは、方向がまるで違うところをそれぞれが見ている場合は

解決不能です。

話せば分かるということではない次元です。

話せば分かるという次元のトラブルは遠近の違いがあっても

同じ方向を双方が向いている場合です。
posted by 変才冨田 at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

世界を喪失しつつあるという感覚

最近僕の意識に不思議な流れが生じていますよ。

思春期にありがちで非常に青臭いことですが、

自分が自分であるということが不思議でなりません。

世界をこの独特な自分という感覚容器で日々感じているのですが、

この受容器を失えば全てを失うということが腑に落ちてしまい
困っています。

この感覚受容器の性能次第で世界が褪せばんだり
鮮烈になったりするのです。

老界に達するということは感覚の衰えを伴いますので、
日々世界は私から遠ざかるということになります。

いわば死というものが現実には毎日起きており

日々世界を失っているわけです。

例えれば
みなさんのポケットから歩くだけでお金がこぼれ落ちていると想像してください。

ポケットを抑えたくなり、それでもダメということが分かったら歩こうとしなくなりませんでしょうか。

僕が困っているわけが想像できましたか?

これは思春期に対して
老秋期の感覚でしょうか。

ポケットを抑えるような抵抗をしているわけですが
世界を失ってしまいそうな気分というのは切ないですね。

なぜなら世間的なことに意味を見出せない状況は
全ての意欲にも意味づけを失うからです。
存在を根底で意味づけする世界を失う感覚は困ります。

posted by 変才冨田 at 19:55| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月15日

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。3

さて、次はお化粧問題です (笑)

ある美容専門の先生のお話ですが

今の化粧は欠点を隠すことが主になっている。

シミやシワ、顔色の悪さを隠すということですね。

だから意識が欠点にばかり向いて、自分の顔の良いところをみつけられなくなっている、というわけです。

ナルホドですね。

欠点を隠すことにかなりお金を浪費しています。

僕から言えば隠す必要のない状況をつくっていただきたいです。

7号食や水素風呂もその一つですし、ライフスタイルを変えるということを土台にしておけば

化粧の意味づけも根本的に変わると思います。

最近はインナービュウティの方向が出てきているようですね。

余談ですが、このような本も出ています。
image.jpg
彼女はリタライフという水素風呂のファンで毎日2回の入浴、一回はシュノーケルで潜っているそうです。

シミやシワ、セルライトまで減らすというエビデンスがとれています。
それどころかB型肝炎やリュウマチまで完治しているという報告が先日のフォーラムで本人が体験発表されていました。

僕は本当の美容法は土台に健康法を据えるべきだと考えています。
脂肪過多や肝臓の不健康があるところでする美容法は欠点を隠す美容になってしまうでしょう。

さて、あるがままを認めるっていうのは重要です。
どう見ても可愛い女性が自分の顔が嫌い!
認知の歪みがあるのですね。

他者から見て修正を加えないとその認知の歪みがとれないのかもしれません。

でも、おそらくそれも難しいです。

いくらありのままを云ったところで本人は認知がゆがんでいるので否定します。

唇がゆがんで、鼻が団子で、丸顔だし、眉毛形悪いし・・・。

こうやって認知の歪みというのは全体性で捉えられないところからきます。

現代医学も同じです。

部分的思考なのですね。

血圧だけを正常にしようとするから副作用もでます。

身体は血圧を高くすることで全体として整合性を取ろうとしている。

血圧が高いことはある意味全体を無理なく統合する働きなので良いのです。

癌も同じです。

血液が過剰栄養になっているので(汚血状態)その余分なものをどこかに集めて血液をきれいにしておく働きが癌です。結果としては癌を作っておいた方がそうでないよりも長生きできるのです。
身体の整合性ある高度な働きの結晶が癌です。

欠点を隠す化粧法の背景には全体を見ない考え方があるのです。
シミを消すように、癌も切って消そうとします。

癌組織をもった豚は出荷するときに一部摘出肉という手続きで出荷されます。

癌もシミも全体として整合的に生まれたものです。

さっきの話題にもどります。

顔の一つ一つのパーツだけを見て、それらが精妙に配置されたとき、形が悪いと感じていたものが
全体として美しいものに変化します。

認知の歪みは全体を見ないところからできるのですね。

僕は顔というものはその人の生き方や感性がにじみ出るものなので
美しく活きる!という土台を保持してさえいれば
美しい人、魅力的な人と感じるのです。

そうそう
僕は自分の顔は近くでみるとげんなりします。大嫌いです。
けrど、遠目には気に入っています。(笑)







posted by 変才冨田 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。2

どうなるかがわからないというのが人生の本質です。

どうなるかわからないという本質性の人生に合理性や効率性を求めているわけです。

コントロールできない人生に目的や夢を設定するのは

矛盾ですね。

この矛盾がストレスを生み出し悩みが生じるわけです。

いえ、目的や夢を持ってはいけないということではないのです。

それに固執してはいけないということです。

目的や夢を追いかけている途上でなにに出会うかわからないのです。

もしかしたら出会ったソレはあなたの人生に素晴らしい意味をもっているものであるかもしれません。

その重要性をセレンディピティというのです。

むしろそれに出会うために目的や夢が設定されるのです。

最初に設定した夢や目的に固執しているから無駄な非生産的な悩みに苛まれるわけです。

固執する原因は「最初に決めたことをあなたはなぜ諦めるの!」という強迫観念があるからです。

人生は意志の力でコントロールできるという妄想が不毛で楽しくない人生を呼び込むわけです。

さっき、電話で「友達に血圧が170ある人がいて、どんな食べ物を教えてあげたらよいですか?」

という質問がありました。

わたし「血圧が上がる原因はたくさんあるからなんとも言えないよ」

彼女「別な人だけど甘酒を豆乳でわって飲んだら血圧もさがり肝臓の数値も篤なった人が「います」

わたし「おそらくその人はナトリウム過剰であったかもしれません。豆乳のカリウムがナトリウムを排泄して血圧が正常になり、同時に腸も浮腫んで腸の蠕動運動が低下していて、腸内環境悪化で肝臓も負担になっていた。ナトリウムが排泄されて腸の浮腫みが解消されると便秘も治り肝臓も助かった」

わたし「だからといって豆乳が全ての人に良いとはいえないですよ。果物などが大好きな人はカリウム過剰になって冷えがくるかもしれません。季節的にも冬に飲めばデメリットが目立つ人もいます」

彼女「さっきの友人はやせ形です」

わたし「だったらストレス性かもしれませんね」

彼女「そういえば煙草もお酒も飲むの。それやめたらストレス解消できないと言ってます」

わたし「毎日が楽しくないって言ってるでしょう」

彼女「そうそう、その人の口癖なんです」

わたし「処方箋は毎日楽しく活きるぞって決めることです」

楽しいこと探しのワークが必要なんですね。

人生に効率性ばかりを求めるとつまらないものになってしまいます。

身体に起きていることを手掛かりにして考え方を変えていくのです。

続く










posted by 変才冨田 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。

人は自分の行為に対して意味付けをしておかないとストレスで壊れかねません。

もちろん、したいことであれば意味づけなど必要ないですね。

したくないことばかりなので「意味づけ」という行為が必要になるのです。

さて 意味づけの視点によっては楽しくなって、したくなるかもしれません。


視点には大きく分けて二つあります。

1 役に立たせるのか
2 有用ではないが楽しいものにするのか

1はメリットを考える訳で、にんじんぶら下げてなんとか
やる気を出させる。
これができる人は、マアとりあえず楽しくなる。
今は楽しくないけれど、楽しい幻想が生まれます。

夢を持て‼️
ということです。

それができない人は、メリットなど考えないで今をどう楽しくするか
だけに集中する。

マア
玄米ごはんに喩えれば
不味くて嫌だけど
美味しいふりかけを創造するっていうことですね。

これが2ですね。

お化粧に喩えると
欠点を隠すお化粧はメリットで1ですね。

お化粧そのものに面白さを見いだす。
変身の面白さに集中する。

これは2でふりかけですね。

東京の表参道辺りを歩くと
2の人を多く見かけます。

さて、あなたは人生をメリットでしのいで行きますか?

花村先生流で言い直せば
人生を機能的にデザインしますか
それとも
人生を楽しくアートしますか?

ということになります。
posted by 変才冨田 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

壊れるから自由なんです。

壊れることはあたり前で自然なことです。

壊れない方が困るのです。

小腸の細胞は毎日ハード・ワークをやっています。

川のように絶えず上流からドロドロになった食べ物が流れてきます。

それを吸収したり、いらないものを拒否したりと忙しいのです。

ですから傷みます。

傷んだ細胞がいつまでも居座っていては機能不全になりますね。

そこで早く交代できなければいけないのです。

小腸の細胞は2,3日で入れ替わります。

そのためには壊れやすさこそが重要です。

食べ物も同じで「代謝」というものは

食べ物が壊れるから成立します。

食べ物が壊れなければ、それは食べた人の命に変化しません。

壊れやすい食べ物が必要です。

マーガリンの脂肪などは壊れにくいので代謝できないのです。

防腐剤や着色料なども同じですね。

壊れないから長期間身体に留まり悪さをします。

優しい食べ物とは壊れやすいものなのです。

消化器や酵素は食べ物を壊す働きをもっているのですから、それを拒否する食べ物は困りものです。


さて、人生においても変わらぬ目的とか夢を持てと言われます。

目的や夢も壊れにくいものでは困ると思うのです。

途中で目的にないものだけれど、素晴らしいものに出会うことは常です。

旅行の目的は次々変えて良いと思います。

最初に夢や目的ぬ執着しないことが自由なんです。
posted by 変才冨田 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

倉本聡さんの哲学

見える現象の背後には必ず見えないものが影としてまつわっています。

現象を作り出す原因ということですね。

現象の質量の大きさは見えないものの質量で決定されています。

あなたの見える身体も、その身体にまつわっているものはあなたがこれまでに食べてきたものです。

食べ物の質量と如何に食べたかが今のあなたの見える質量を作っています。

食べ物だって同じです。

光の量やミネラル量,それを作るための労力や時間などが見える食べ物の質量です。

見事なピアノ演奏も舞台以外の場所での誰も見ていないたゆまない練習があります。

ピアニストは毎日最低でも5時間以上練習しているのです。

倉本さんはシナリオを書くときに,ドラマでは表現されていない登場人物の履歴を細かく書いています。


いつ産まれて両親はいつ死んだか、両親の履歴にまで及びます。

女性であればいつ処女を失ったかまで設定されています。

それは大変重要でセリフはそうした背景から生まれ、発声にまで影響する。

それを倉本さんは木で例えます。

多くの人は枝ぶりや葉の茂り方を考えるが見えない根っこをどこまで掘り下げるかが重要だというのです。

登場人物の根を掘っていくことがその人物にリアリティーを作るということですね。

仕事も同じですよね。

一つの作業の背景を掘り下げることはその作業の意味づけになります。

意味づけを深く掘り下げている人こそがプロフェッショナルです。

形だけ真似しても薄っぺらい印象を与えるだけですよね。


それにしてもテレビでの倉本さんの歩き方を変えたいです。

82歳ですが、浮き指で歩いていらっしゃるので疲れるはずです。

靴履いているのになんで浮き指ってわかるかって?

そりゃあわかりますよ。

見えている歩き方から逆にたぐれば、見えない指がどうなっているかぐらいはわかるのです。

僕なら倉本さんを楽にしてあげられるのになあ〜・・・・・

足楽です輪や姿美人をプレゼントしたいです。

posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

新年おめでとうございます   人生を支配する「眼差しのデザイン」について

毎年の感慨ですが、昨年もわたしは成長させていただいた気がします。
面白いものでこの感慨は27年間、つまりBL研究所を立ち上げてから継続しています。

そういう次第なので
毎年の始まりは、年末を想像するのです。
きっと今年も僕は成長する。
どのような姿であろうかとワクワクするのです。

昨年良かったなあと思えること。

認証ワークがほぼ完成形に近づきました。

1 食の認証ワーク
これはずっと追いかけてきたものですが、7号食や食に対する概念はこの認証ワークのための準備のようなものだったと気づきました。
食を人生に位置づけることは、あたり前のことながら気づいていない人々が多いのです。
食をコントロールできてこそ命を人生をコントロールできるのです。

2 身体の認証ワーク
身体の繊細な感覚をどう気づくかは人生の欠かすことができないテーマです。
人はいろんな痛みに見舞われますが、全て身体の言うことに耳を傾けていなかったからです。
痛みとは「行き過ぎ  活き過ぎ  生き過ぎ  生き急ぎすぎ」であったことを知らせてくれます。
足楽です輪の開発は、当たり前の身体感覚を持っていただくためでした。
足指という脳からは辺境の場を脳に気づかせることが必要でした。
足指を脳が感じれば身体感覚の基本ができます。

今年は「菊池体操」を学べたことは大きな収穫でした。
それは環境としての身体を見直すきっかけでした。

同時にヴィッパサナー瞑想を体験できたことは食と身体の認証のインスパイアに役立ちました。
菊池体操もこの一連の体験に裏打ちされて理解が相互に深まりました。

食と身体の認証ワークは全ての認証ワークの土台で、これを経験することがほかの認証ワークを意味あるものにしてくれるでしょう。

3 他者の認証ワーク
自己認証は必要ないのです。
食と身体の認証こそが自己認証そのものなのですから。

他者を認証することでもう一人の「私」を認証することができます。

魚は水を認証することで自由に泳げるからです。
魚を自由に泳がせてくれるのは水の力です。
あなたにとっての水とは他者なのです。

4  お金の認証ワーク
お金はエネルギーです。エネルギーの使い方を間違えると大変です。
建設的、生産的に活きるか
浪費的、消費的に活きるか
お金の使い方のシーンが人生の分岐点です。
見慣れているのにソレを知らない!
お金について学びます。

5  仕事の認証ワーク
  食と職は表裏です。
  パンとパン以外のものを同時に追求することこそが大いなる活き方です。
  働くとはどういうことか、あなたのその職にはどんな意味があるのかを考えます。
  意味づけのない行為は脳にとってストレスです。
  働く意味づけを学びましょう。

6  1から5までの認証ワークの土台はここにあります。
   これができたら1から5はあたり前にできます。
   けれど、これが難しい!
生(性)と死の認証ワーク
   自分が確実に死ぬ存在であるといことを腑に落とせば
   すべての眼差しが変わります。

1から6までの認証ワークとは「眼差しのデザイン」にあるのです。


今年はこの六つの認証ワークを軸にして活動します。
これをDVDとしても制作する予定です。


もう一つ目標があります。


posted by 変才冨田 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

ヴィッパサナー瞑想について 解脱とはなにか1

途中で連載が途切れてしまっています。

僕がこの連載で書きたかったことは、結論として「解脱」をもっと普通のこととして解釈したかったからです。

これを書くと関係者に不快な思いをさせる可能性があるので控えていた考えがあります。

それで躊躇していたのですが、これからその周辺と核心部分を書いてみます。

その事を書かねばならないと思ったのは、やはり日常の生き方を見直すことに直結させたいからです。

続く

posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

花村先生の大学での講義

本日は京都精華大にて風景進化論の講義。
先週はイントロダクションだったので、今日のORIGINEから本格的に歴史に入っていく。
今の僕らの文明の価値観はたかだか150年ぐらいの歴史しかなく、それ以前の人類はもっと違うものを信じていた。
もし今の僕らの価値観を問い直そうとすると、その外側から何かを伝えねばならない。だからいつも宇宙の誕生と人類の誕生あたりから話をする。
今日はパパラギの話を少ししたが、留学生にも響いていたのはちょっと嬉しい。
サモアの酋長のツイアビが見た西洋文明を指し示した言葉を集めた本だが、鋭く僕らの矛盾を突いてくる。
以下はパパラギより抜粋。
(パパラギとはサモアの言葉で「白人」のこと)

 「パパラギはいつもお金を欲しがっている。そのために残酷になり、偽り、 人を信じなくなったりする」

「パパラギはたくさんモノがなければ暮らして いけない。少ししか物を持たない者は自分のことを貧しいと言って悲しがる」

「パパラギには暇がない」

「パパラギには職業というものがあるので毎日同 じことをしなければならない。そのためにひとつのことしかできなくなってしまう」

「パパラギは考えるという重い病気にかかっている。サバイまで船 で行くのに、岸を離れるとすぐサバイへ着くのに時間はどのくらいかかるか と考えるので、まわりに広がる美しい景色を見ようとしない」


コメント
いかがですか。

皆さんも思い当たることがたくさんあったでしょう。
僕も苦笑いですね。

最後の二つには茫然ですね。
職業というものがある・・・。
そのために一つのことしかできない。

そうやって我々は奇形化していきます。

考えるという重い病気にかかっている。
これが最も衝撃ですねえ。

未来や過去に思いを馳せることで、今の感覚や感動を台無しにしています。
それが病気だというわけですね。

その癖で
感動欠乏症 不安神経症に罹患しています。

posted by 変才冨田 at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

[ 「意のままに生きる」2

この場合の「意」とは「意志」のことであろう。

「志」とは心が指し示す方向性であり「意」がその方向へ行くために処々で対処する。

「意のままに生きる」とは思った通りに人生をコントロールできる境地を言うのであろう。

けれど、わたしたちの人生の実際は「意のままに」生きられない。

あちこちでぶつかり方向転換を余儀なくされ、何度も何度も阻止され思いもしない方向へ流されていく。

皆さんの現在はどうだろう。

今、こう在る姿を10年前に予測していただろうか。

すこしも「意のまま」ではなかったはずです。

ここいらであきらめればいいのに、人間はタフなものでなんとか「意のまま」にしたいと生きていくのです。

タフでない人は「うつ」になったりもします。

気付くことはそのあなたの「意」がいけなかったことです。

我を張るという「意」がいけなかったのです。

そのためにあなたを活かすはずの周辺の水がゼリー状の重いものに見えてしまっているのです。

あなたは「魚に泳ぐ能力がある」と考えているでしょうか?

魚にはその能力がないのです。






posted by 変才冨田 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月23日

ヴィパッサナー瞑想 20「意のままに生きる」という本の題名から考えること

そういう題名の本が事務所にありました。

僕はまだ読んでいませんが、皆さんはこの題名からどんなことを考えるでしょう。

posted by 変才冨田 at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

ヴィパッサナー瞑想18の質問2

質問2
自分の感情を認証することが、相手を認証することにも繋がる? だから、先に、自分の感情を認証する。 ですかね。

回答
未だ、自他の区別に拘っていますね。

逆も同じです。 相手の感情を観察することは自己の感情も同時に観察しています。

自分の感情も他者の感情も区別できないのです。

繋がっているからです。

感情にはここから自己所有でここから他者所有という切れ目はないのです。

自己という名前の他者なのです。

他者という名前の自己なのです。

これは「わたくしという存在」は妄想であるという考え方につながっています。




posted by 変才冨田 at 00:11| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

ヴィパッサナー瞑想18 質問 

質問がありました。

質問ですが、相手を認証することと、自分の潜在意識を認証すること、どちらがさきですか。

回答
同じことなんです。

潜在意識とは他者と同じです。
潜在意識をわたしたちは決して所持しているわけではないのです。

潜在意識の宿る場所は身体ですね。

身体は自然物であって自分のものではないからです。

そして、他者の何を認証するのかというと他者の潜在意識を認証するのです。

他者の潜在意識も自己内部の潜在意識も仲間ですね。

さらにもっと具体的に云えば

潜在意識の認証とは自己内部や他者内部の子供性を認証する作業ですから同じことですね。
posted by 変才冨田 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィパッサナー瞑想 17 ありのままに観るとストレスはない

突発性難聴はストレスで起こります。

人に言葉で傷つけられるようなことが連続すると「聞かないフリ」をして自分を保とうとします。

やがて本当に聴こえなくなることが起こりえます。


潜在意識は身体に属しています。

顕在意識は「わたくし」という仮の存在で生じています。

顕在意識は社会的なものに属します。

社会的な存在で生じるものが言葉を操る顕在意識です。

わたしたちの苦悩は顕在意識と潜在意識の葛藤で生じるものです。

顕在意識は常に潜在意識に命令しています。

これは「社会性意識」が身体性意識である潜在意識をコントロールしようとしているということです。

同じように身体性である潜在意識は社会性の顕在意識をコントロールしようとしています。

両者の目的が一致しておれば悩みはないのですが、目的が異なっていると悩ましいことになります。

どちらが主かといえば、身体性が土台ですからねえ。

強いのは身体に根付いている潜在意識ですね。


厭なこと不快になることを聞かされてもそれに堪えないといけないことは日常よくあることです。

その忍耐が限界を超えてもなおかつ堪えようとすると潜在意識は強硬手段に訴えます。

潜在意識は身体性に根付いていますから、いとも簡単に身体に異常をつくり出します。

顕在意識に対抗する手段は身体を使ってストップさせる以外にないですね。

病気とはおおむねこの図式になります。

ではどうすればいいのでしょうか。

顕在意識が潜在意識の現れである感覚とか意識の微細な変化に気づくことです。

大きな怒りはさすがに本人も気づきやすいですが(けれど怒っていても怒っていると気づかない人は多い)

微細な感覚や感情は見逃します。

見逃すというよりも蓋をするのです。

会話中にもわたしたちの心の照明は明るくなったり暗くなったりを繰り返しています。

その明度の変化に気づかないのです。

暗くなったときにその一瞬の陰りを見なかったことにする人は多いのです。

その一瞬の暗さを暗さとして感じてはいけないこととする顕在意識によって瞬時に蓋をされます。

ハンサムで物腰もよく品もあって良い会社に勤めているという彼のことが大好きな女性がいると仮定しましょう。
その彼に暗い側面を見たときに(たとえばその人とデート中に第三者に対してぞんざいな扱いを見た)
一瞬イヤー気分になるのですが見なかったことにしてしまうのです。

潜在意識は嫌な気分になりますが、厭な気分になった自分の気分をなかったことにします。

顕在意識が潜在意識に対して「見るな!」と命令した一瞬です。

無視され、認証されなかった潜在意識は楽しくありません。

楽しくない気分のままデートをするわけですが、顕在意識は「わたしは彼が好き」と思い込もうとするのです。

ではどうするか。

ありのままに自分のイヤーな気分を見つめるのです。

感情の観察ですね。

じっくりとイヤーな気分を観察すると本当の自分の嘘偽りのない本音が見えてきます。

それは判断力に影響するのです。

「楽しいはずだ」から「本当に楽しいのか?」と問いかけるのです。

楽しくないことは正しくもないのです。

潜在意識の気分をこそ大切に観察しましょう。


潜在意識と顕在意識の関係は親子の関係と類似しています。

親は常に子供を監視して従わせようとします。

あまりにも従わせていると子供はやがて反抗することになります。

親の役割は子供の主体性を認めてあげることで活気のある子供に変化します。

上司と部下の関係にも類似しています。

子供や部下の気分の変化を見て取れない親や上司はやがて困ったことになるでしょう。

潜在意識を認証しないこと(気づかない)が継続すると非常手段が待っています。

それはサボタージュという病気です。

身体をストップさせることで気づかせようとするのです。

潜在意識の「彼が嫌い」と顕在意識の「好きになろう、ならねば」は矛盾で、悩みはここからくるのです。

自分の心の一瞬の変化に気づくことで本当の自分に出会うことができるのです。


posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(4) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

30数回にわたって実施した夜学の意味

昨日は大阪で夜学でした。

僕にとって非常に意味のあるセミナー内容でした。

始まる前から今晩の夜学は大きな意味がありそうだと予感して始まりました。

自分でもどのような話になるのか予想ができませんでしたが、

話しながらその内容が自然とこれまでの夜学の集大成になっていることに気づき

終わった時には30回以上にわたった夜学の意味がやっと分かりました。

そして、今後の大きなテーマにも気づき探求が続きそうです。

わたしの趣味のような話に毎回夜分にもかかわらずよく付き合って下さった皆さんに感謝です。

食の認証  身体の認証  他者の認証  お金の認証  仕事の認証

各ワークが全体として有機的に関係しあうためには「観察」が必要です。

これからはこのブログでこれまでのワークを紹介していくつもりです。
posted by 変才冨田 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月05日

ヴィパッサナー瞑想 16 ありのままに観るとはメジャヴの視点が必要

さて、「ありのままに観る」ということって可能でしょうか?

無理なんです!

それはそれぞれの生き物に与えられた感覚というものがあって、その感覚から完全に逃れることはできません。


「ありのまま」というのは別な言葉で云えば「真理」ということです。

「すべては変化する」ことが真理ですから、従って真理も変化します。ですから完全「ありのままに観る」ってことは不可能です。

不可能ですが限りなく近づくことはできます。

さて、生物学的に「ありのままは無理」なのですから、この場合の「ありのままに観る」の意味は

総体的な世間の価値観から自由になるということです。

よく「あなたは、ありのままでいいよ」という意味は世間の価値観で自分や他者を測らないということです。

森という意味を与えて森を見る。

机とう意味を与えて机を見る。

自分に意味を与えて自己を見る。

ソノ人に意味を与えてソノ人を見る。

以前書いたメジャヴというのは「いつも見ているものなのに違って見える」ということを書きました。

デジャヴの逆ですね。

違って見えるようになるのは今までの意味づけを捨てたからです。

ソレ(他者や私など)をいろんな視点で見ることができるというのが「知恵」だと書きました。

それは世間的価値観の意味づけから脱却することです。

広い意味でこれを「解脱とか悟り」だと意味づけをしたいわけです。





posted by 変才冨田 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月02日

ヴィパッサナー瞑想 15 ありのままに観るってどういうこと?1

さて、13からの続きです

「森でない森を観る」ってどいう状態だったのかですね。

庭園でボヤーっと蟻を見ていました。

自分の倍くらいある獲物を運んでいます。

上から見ていると右往左往状態で同じところをグルグル回っていてもどかしい限りです。

巣穴に早く戻ってくれと応援していました。

何処に巣穴があるのか追いかけるつもりでした。

こりゃあストーカーですね。

しばらくして、集中は続かないもので妄想に入りました。

すると、芝生が迫ってきて美しい模様に見えたのです。

緑もより鮮やかに3D以上の効果で迫ってきます。

なんだコリャア!

その瞬間に元通りの芝生になりました。

もう一度その鮮やかさを再現したくなって、芝生を見ながらにしてみないというモードにします。

眼は見ているけれど脳は見ていないという感覚にするのです。

そのためには脳は芝生に注意してはいけないのです。

すると再度素晴らしい模様が迫ってきたのです。

凄い!

そう思った瞬間に元の芝生に戻ります。

脳の意識が芝生に注意した瞬間にソレは芝生となるのですね。

それはこういうことです。

脳は「芝生という意味づけ」を芝生に与えて芝生を見るのです。

わたしたちの人間の脳はソレに意味を与えてからそのように見るらしいのです。

虫さんや鳥さん、犬さんは芝生をきっと違って見ているはずです。

そぞれぞれの生き物は自分のフィルターを通して外界を見ているのです。

ソレ、そのものを見ていません。都合の良い見え方をしているだけです。

客観的に見るというのは「観る」ということです。

けれど人は客観的に、つまりものごとを「ありのままに観る」ということができるのでしょうか?




posted by 変才冨田 at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

ヴィパッサナー瞑想 14 欲望と嫌悪の観察でコントロールできる

コメントがありました
観察して、欲望があることをみつけても、その通りにはしなくてよいということですかね。

七号食中は、食べたくてもその通りにできない、結果的にしない、ですものね。 怒りも反応だから、同じなのでしょうか。

回答
欲望があることを見つけたら、その通りにしなくなってしまうのです。

欲望(仏教では渇望という)が在る、ということに気づくと反応が抑えられるわけです。

7号食中に「ケーキ」が食べたいと欲望したときに、それを食べる。これが反応ですね。

渇望に気づいた時に「わたしはケーキを食べたいと思っている」と声に出すとケーキを食べたくなくなるのです。

要は渇望に気づく、嫌悪に気づくという間に気づきが割って入ればいいのです。

けれど、もっとこの刺激→感覚→反応のことを詳細に見ておきたいですね。

次回書きます
posted by 変才冨田 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィパッサナー瞑想の影響?

コメントがありました。
「反応」する前に「観察」。 先生、「投稿」する前に「確認」、とかするようになりましたか? 瞑想から帰ってから、誤字が少なくなったような。。。 いや、ひとりごとです。失礼しました。

私から
同じことを別な方からも指摘されましたねえ。(笑)
誤字が少なくなっていると。

実は投稿前の確認作業は全くしていません。
書く瞬間々々に確認しているのかもしれませんね。
どうなのか分からないです。
面白いですね。

わたしは無意識行動が多すぎる人間なので、ウッカリが多いです。
手に持ったものを無意識にどこかに置いて探し回ります。
そういうわけで、私の事務所での仕事の三分の二は何かを探しているという状況です。

さらに、具合がわるいことにわたしは探し物に認証されていないせいか、彼らはわたしを見つけることができないようです。
「おーい、ここだよー」って声がかからないので見つけられません。

ヴィパサナー後でも変わりません。


posted by 変才冨田 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月31日

ヴィパッサナー瞑想 13  「ジャメヴ」の視点こそ知恵

身体の観察だけでなく
日常の瞬間に注意を向けるということがヴィパッサナー瞑想の中心部分です。

すぐに反応を起こさないということです。

このことはハナムラ先生の提唱する「ジャメヴ」に通じてきます。
「デジャヴ」は初めてきた街なのに以前この風景を見たような気がするという感覚ですね。
「ジャメヴ」はいつも見ているのに違ったものに、新鮮に見えるという感覚です。

いつも見ているものに対して神経は「無かったこと、見なかったこと」にします。
臭い部屋に入っても5分したら臭わなくなります。
嗅覚神経は弱いので、その臭いを無視するわけです。

視覚も同じでいつも見ているものは無視します。

きっとあなたもご主人を無視しているはずです。見なかったことにする。
ご主人も同じです。きっとあなたが髪型を変えても気づかないでしょう。

神経は鈍くなる宿命です。

同じ刺激に対して同じ感覚を起こし、そのまま同じ反応を起こす。
こうした自動化システムは便利ですが
「生きている、今まさに息づいている!」という鮮烈な感覚を失わせ、今を色褪せたセピア色に着色します。

ヴィパッサナー瞑想での身体の観察というメソッドは、やがてその他のことに対しても観察する習慣につながります。

同じ観察でも違う視点でないと意味のないものです。

仏教でいうところの知恵とはソレをどれだけ多様な視点で観察できるかということだといいます。

「ジャメヴ」の視点はまさに知恵なのですね。

病院で癌を宣告された上に余命まで言われた人の体験談に

「帰り道で見た風景はキラキラと見えた」という人が少なからずいらっしゃいます。

自分が死ぬということを実感すると「ジャメヴ」が起きる人がいるのですね。

ところで、わたしにもヴィパッサナー瞑想中の5日目にこれが起きました。

わたしが何を見たのか。

森を観ていて森でない森を観てしまったのです。

いつもの森でなく、森そのものを見てしまった体験です。

続く




posted by 変才冨田 at 15:49| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィパッサナー瞑想 12 ダイエットは観察でできる

わたしたち人間が感覚に反応しやすいのは性と食べ物ですね。

これは本能から突き上げてくるものですからやっかいです。

さきぞや俳優の男性が性犯罪を犯しましたが、感覚→反応をそのままやってしまったわけです。

食べ物も同じです。

そもそも食べる(刺激)→美味しい! あるいは不味いという感覚→渇望 あるいは嫌悪

渇望は限度を超えた食べ方になり、嫌悪は避けて食べなくなります

感覚と反応のはざまに観察を置かない習慣の人は食べ物に支配されるのです。

この渇望と嫌悪は視床下部がやっており、そのなかの摂食中枢の働きです。

最近の脳研究によれば

思考の前頭葉の前に視床下部(古い脳)に刺激が届き、その刺激という情報から感覚が生まれ、視床下部で
好きか嫌いかのレッテルがソレに貼られてから前頭葉にいくのです。

前頭葉が好き嫌いを決めるわけではないのですね。

猫や犬と同じ古い脳(大脳辺縁系)が先に働いてから前頭葉に好き嫌いという「色付け」された情報が届くわけです。

もうすでに色が着色されているので、不快な情報であれば前頭葉も嫌悪という感情に支配されてちゃんと判断しなくなるわけです。

坊主難けりゃ袈裟まで難いという状況ですね。

嫌いな先生の授業科目まで嫌いになります。

そうした渇望(好き)と嫌悪(きらい)に従った習慣から抜け出すこと。

これがヴィパッサナー瞑想です。

渇望と嫌悪をつくる反応は潜在意識の範疇ですがその、潜在意識に冷めた顕在意識を介入させるということです。

そのコツは自分の感覚や感情に気づくということが重要です。

満腹するまで食べるというのはあきらかに常軌を逸しているわけで、満腹する前に自分の異常行動に気づくかどうかということです。

もっと前に食欲が湧いた時のその食欲の色を気づくというにことです。

お腹が空いてもいないのにアレコレ食べたがる心理的な動きに気づくということです。
これは単に腹が減った食欲なのか、ストレスからやってくる食欲なのかに気づくということです。

ストレス食いは余計なものと余計な量を食べることですから、ストレスに気づけるようになれば
ダイエットはそれだけで成功します。

ストレスは高脂肪食を誘引します。
これは脂肪が効率の良いエネルギー源なので、危機を察知すると脂を食べたがるのです。
脂を欲しがっている場合はストレスを観察することで、感覚→即反応が抑制できます。

7号食はこのストレス刺激→不快感覚→過食→不快感覚→過食 という連鎖を止めることになり

さらに、7号食中に身体を観察することで全てに対して感覚→即反応の条件反射を止めることができ

結果として「怒らない」体質になるわけです。



posted by 変才冨田 at 10:30| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする