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2017年04月15日

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。3

さて、次はお化粧問題です (笑)

ある美容専門の先生のお話ですが

今の化粧は欠点を隠すことが主になっている。

シミやシワ、顔色の悪さを隠すということですね。

だから意識が欠点にばかり向いて、自分の顔の良いところをみつけられなくなっている、というわけです。

ナルホドですね。

欠点を隠すことにかなりお金を浪費しています。

僕から言えば隠す必要のない状況をつくっていただきたいです。

7号食や水素風呂もその一つですし、ライフスタイルを変えるということを土台にしておけば

化粧の意味づけも根本的に変わると思います。

最近はインナービュウティの方向が出てきているようですね。

余談ですが、このような本も出ています。
image.jpg
彼女はリタライフという水素風呂のファンで毎日2回の入浴、一回はシュノーケルで潜っているそうです。

シミやシワ、セルライトまで減らすというエビデンスがとれています。
それどころかB型肝炎やリュウマチまで完治しているという報告が先日のフォーラムで本人が体験発表されていました。

僕は本当の美容法は土台に健康法を据えるべきだと考えています。
脂肪過多や肝臓の不健康があるところでする美容法は欠点を隠す美容になってしまうでしょう。

さて、あるがままを認めるっていうのは重要です。
どう見ても可愛い女性が自分の顔が嫌い!
認知の歪みがあるのですね。

他者から見て修正を加えないとその認知の歪みがとれないのかもしれません。

でも、おそらくそれも難しいです。

いくらありのままを云ったところで本人は認知がゆがんでいるので否定します。

唇がゆがんで、鼻が団子で、丸顔だし、眉毛形悪いし・・・。

こうやって認知の歪みというのは全体性で捉えられないところからきます。

現代医学も同じです。

部分的思考なのですね。

血圧だけを正常にしようとするから副作用もでます。

身体は血圧を高くすることで全体として整合性を取ろうとしている。

血圧が高いことはある意味全体を無理なく統合する働きなので良いのです。

癌も同じです。

血液が過剰栄養になっているので(汚血状態)その余分なものをどこかに集めて血液をきれいにしておく働きが癌です。結果としては癌を作っておいた方がそうでないよりも長生きできるのです。
身体の整合性ある高度な働きの結晶が癌です。

欠点を隠す化粧法の背景には全体を見ない考え方があるのです。
シミを消すように、癌も切って消そうとします。

癌組織をもった豚は出荷するときに一部摘出肉という手続きで出荷されます。

癌もシミも全体として整合的に生まれたものです。

さっきの話題にもどります。

顔の一つ一つのパーツだけを見て、それらが精妙に配置されたとき、形が悪いと感じていたものが
全体として美しいものに変化します。

認知の歪みは全体を見ないところからできるのですね。

僕は顔というものはその人の生き方や感性がにじみ出るものなので
美しく活きる!という土台を保持してさえいれば
美しい人、魅力的な人と感じるのです。

そうそう
僕は自分の顔は近くでみるとげんなりします。大嫌いです。
けrど、遠目には気に入っています。(笑)







posted by 変才冨田 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。2

どうなるかがわからないというのが人生の本質です。

どうなるかわからないという本質性の人生に合理性や効率性を求めているわけです。

コントロールできない人生に目的や夢を設定するのは

矛盾ですね。

この矛盾がストレスを生み出し悩みが生じるわけです。

いえ、目的や夢を持ってはいけないということではないのです。

それに固執してはいけないということです。

目的や夢を追いかけている途上でなにに出会うかわからないのです。

もしかしたら出会ったソレはあなたの人生に素晴らしい意味をもっているものであるかもしれません。

その重要性をセレンディピティというのです。

むしろそれに出会うために目的や夢が設定されるのです。

最初に設定した夢や目的に固執しているから無駄な非生産的な悩みに苛まれるわけです。

固執する原因は「最初に決めたことをあなたはなぜ諦めるの!」という強迫観念があるからです。

人生は意志の力でコントロールできるという妄想が不毛で楽しくない人生を呼び込むわけです。

さっき、電話で「友達に血圧が170ある人がいて、どんな食べ物を教えてあげたらよいですか?」

という質問がありました。

わたし「血圧が上がる原因はたくさんあるからなんとも言えないよ」

彼女「別な人だけど甘酒を豆乳でわって飲んだら血圧もさがり肝臓の数値も篤なった人が「います」

わたし「おそらくその人はナトリウム過剰であったかもしれません。豆乳のカリウムがナトリウムを排泄して血圧が正常になり、同時に腸も浮腫んで腸の蠕動運動が低下していて、腸内環境悪化で肝臓も負担になっていた。ナトリウムが排泄されて腸の浮腫みが解消されると便秘も治り肝臓も助かった」

わたし「だからといって豆乳が全ての人に良いとはいえないですよ。果物などが大好きな人はカリウム過剰になって冷えがくるかもしれません。季節的にも冬に飲めばデメリットが目立つ人もいます」

彼女「さっきの友人はやせ形です」

わたし「だったらストレス性かもしれませんね」

彼女「そういえば煙草もお酒も飲むの。それやめたらストレス解消できないと言ってます」

わたし「毎日が楽しくないって言ってるでしょう」

彼女「そうそう、その人の口癖なんです」

わたし「処方箋は毎日楽しく活きるぞって決めることです」

楽しいこと探しのワークが必要なんですね。

人生に効率性ばかりを求めるとつまらないものになってしまいます。

身体に起きていることを手掛かりにして考え方を変えていくのです。

続く










posted by 変才冨田 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メリットで生きるか 楽しいで生きるか。

人は自分の行為に対して意味付けをしておかないとストレスで壊れかねません。

もちろん、したいことであれば意味づけなど必要ないですね。

したくないことばかりなので「意味づけ」という行為が必要になるのです。

さて 意味づけの視点によっては楽しくなって、したくなるかもしれません。


視点には大きく分けて二つあります。

1 役に立たせるのか
2 有用ではないが楽しいものにするのか

1はメリットを考える訳で、にんじんぶら下げてなんとか
やる気を出させる。
これができる人は、マアとりあえず楽しくなる。
今は楽しくないけれど、楽しい幻想が生まれます。

夢を持て‼️
ということです。

それができない人は、メリットなど考えないで今をどう楽しくするか
だけに集中する。

マア
玄米ごはんに喩えれば
不味くて嫌だけど
美味しいふりかけを創造するっていうことですね。

これが2ですね。

お化粧に喩えると
欠点を隠すお化粧はメリットで1ですね。

お化粧そのものに面白さを見いだす。
変身の面白さに集中する。

これは2でふりかけですね。

東京の表参道辺りを歩くと
2の人を多く見かけます。

さて、あなたは人生をメリットでしのいで行きますか?

花村先生流で言い直せば
人生を機能的にデザインしますか
それとも
人生を楽しくアートしますか?

ということになります。
posted by 変才冨田 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

壊れるから自由なんです。

壊れることはあたり前で自然なことです。

壊れない方が困るのです。

小腸の細胞は毎日ハード・ワークをやっています。

川のように絶えず上流からドロドロになった食べ物が流れてきます。

それを吸収したり、いらないものを拒否したりと忙しいのです。

ですから傷みます。

傷んだ細胞がいつまでも居座っていては機能不全になりますね。

そこで早く交代できなければいけないのです。

小腸の細胞は2,3日で入れ替わります。

そのためには壊れやすさこそが重要です。

食べ物も同じで「代謝」というものは

食べ物が壊れるから成立します。

食べ物が壊れなければ、それは食べた人の命に変化しません。

壊れやすい食べ物が必要です。

マーガリンの脂肪などは壊れにくいので代謝できないのです。

防腐剤や着色料なども同じですね。

壊れないから長期間身体に留まり悪さをします。

優しい食べ物とは壊れやすいものなのです。

消化器や酵素は食べ物を壊す働きをもっているのですから、それを拒否する食べ物は困りものです。


さて、人生においても変わらぬ目的とか夢を持てと言われます。

目的や夢も壊れにくいものでは困ると思うのです。

途中で目的にないものだけれど、素晴らしいものに出会うことは常です。

旅行の目的は次々変えて良いと思います。

最初に夢や目的ぬ執着しないことが自由なんです。
posted by 変才冨田 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

倉本聡さんの哲学

見える現象の背後には必ず見えないものが影としてまつわっています。

現象を作り出す原因ということですね。

現象の質量の大きさは見えないものの質量で決定されています。

あなたの見える身体も、その身体にまつわっているものはあなたがこれまでに食べてきたものです。

食べ物の質量と如何に食べたかが今のあなたの見える質量を作っています。

食べ物だって同じです。

光の量やミネラル量,それを作るための労力や時間などが見える食べ物の質量です。

見事なピアノ演奏も舞台以外の場所での誰も見ていないたゆまない練習があります。

ピアニストは毎日最低でも5時間以上練習しているのです。

倉本さんはシナリオを書くときに,ドラマでは表現されていない登場人物の履歴を細かく書いています。


いつ産まれて両親はいつ死んだか、両親の履歴にまで及びます。

女性であればいつ処女を失ったかまで設定されています。

それは大変重要でセリフはそうした背景から生まれ、発声にまで影響する。

それを倉本さんは木で例えます。

多くの人は枝ぶりや葉の茂り方を考えるが見えない根っこをどこまで掘り下げるかが重要だというのです。

登場人物の根を掘っていくことがその人物にリアリティーを作るということですね。

仕事も同じですよね。

一つの作業の背景を掘り下げることはその作業の意味づけになります。

意味づけを深く掘り下げている人こそがプロフェッショナルです。

形だけ真似しても薄っぺらい印象を与えるだけですよね。


それにしてもテレビでの倉本さんの歩き方を変えたいです。

82歳ですが、浮き指で歩いていらっしゃるので疲れるはずです。

靴履いているのになんで浮き指ってわかるかって?

そりゃあわかりますよ。

見えている歩き方から逆にたぐれば、見えない指がどうなっているかぐらいはわかるのです。

僕なら倉本さんを楽にしてあげられるのになあ〜・・・・・

足楽です輪や姿美人をプレゼントしたいです。

posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

新年おめでとうございます   人生を支配する「眼差しのデザイン」について

毎年の感慨ですが、昨年もわたしは成長させていただいた気がします。
面白いものでこの感慨は27年間、つまりBL研究所を立ち上げてから継続しています。

そういう次第なので
毎年の始まりは、年末を想像するのです。
きっと今年も僕は成長する。
どのような姿であろうかとワクワクするのです。

昨年良かったなあと思えること。

認証ワークがほぼ完成形に近づきました。

1 食の認証ワーク
これはずっと追いかけてきたものですが、7号食や食に対する概念はこの認証ワークのための準備のようなものだったと気づきました。
食を人生に位置づけることは、あたり前のことながら気づいていない人々が多いのです。
食をコントロールできてこそ命を人生をコントロールできるのです。

2 身体の認証ワーク
身体の繊細な感覚をどう気づくかは人生の欠かすことができないテーマです。
人はいろんな痛みに見舞われますが、全て身体の言うことに耳を傾けていなかったからです。
痛みとは「行き過ぎ  活き過ぎ  生き過ぎ  生き急ぎすぎ」であったことを知らせてくれます。
足楽です輪の開発は、当たり前の身体感覚を持っていただくためでした。
足指という脳からは辺境の場を脳に気づかせることが必要でした。
足指を脳が感じれば身体感覚の基本ができます。

今年は「菊池体操」を学べたことは大きな収穫でした。
それは環境としての身体を見直すきっかけでした。

同時にヴィッパサナー瞑想を体験できたことは食と身体の認証のインスパイアに役立ちました。
菊池体操もこの一連の体験に裏打ちされて理解が相互に深まりました。

食と身体の認証ワークは全ての認証ワークの土台で、これを経験することがほかの認証ワークを意味あるものにしてくれるでしょう。

3 他者の認証ワーク
自己認証は必要ないのです。
食と身体の認証こそが自己認証そのものなのですから。

他者を認証することでもう一人の「私」を認証することができます。

魚は水を認証することで自由に泳げるからです。
魚を自由に泳がせてくれるのは水の力です。
あなたにとっての水とは他者なのです。

4  お金の認証ワーク
お金はエネルギーです。エネルギーの使い方を間違えると大変です。
建設的、生産的に活きるか
浪費的、消費的に活きるか
お金の使い方のシーンが人生の分岐点です。
見慣れているのにソレを知らない!
お金について学びます。

5  仕事の認証ワーク
  食と職は表裏です。
  パンとパン以外のものを同時に追求することこそが大いなる活き方です。
  働くとはどういうことか、あなたのその職にはどんな意味があるのかを考えます。
  意味づけのない行為は脳にとってストレスです。
  働く意味づけを学びましょう。

6  1から5までの認証ワークの土台はここにあります。
   これができたら1から5はあたり前にできます。
   けれど、これが難しい!
生(性)と死の認証ワーク
   自分が確実に死ぬ存在であるといことを腑に落とせば
   すべての眼差しが変わります。

1から6までの認証ワークとは「眼差しのデザイン」にあるのです。


今年はこの六つの認証ワークを軸にして活動します。
これをDVDとしても制作する予定です。


もう一つ目標があります。


posted by 変才冨田 at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

ヴィッパサナー瞑想について 解脱とはなにか1

途中で連載が途切れてしまっています。

僕がこの連載で書きたかったことは、結論として「解脱」をもっと普通のこととして解釈したかったからです。

これを書くと関係者に不快な思いをさせる可能性があるので控えていた考えがあります。

それで躊躇していたのですが、これからその周辺と核心部分を書いてみます。

その事を書かねばならないと思ったのは、やはり日常の生き方を見直すことに直結させたいからです。

続く

posted by 変才冨田 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

花村先生の大学での講義

本日は京都精華大にて風景進化論の講義。
先週はイントロダクションだったので、今日のORIGINEから本格的に歴史に入っていく。
今の僕らの文明の価値観はたかだか150年ぐらいの歴史しかなく、それ以前の人類はもっと違うものを信じていた。
もし今の僕らの価値観を問い直そうとすると、その外側から何かを伝えねばならない。だからいつも宇宙の誕生と人類の誕生あたりから話をする。
今日はパパラギの話を少ししたが、留学生にも響いていたのはちょっと嬉しい。
サモアの酋長のツイアビが見た西洋文明を指し示した言葉を集めた本だが、鋭く僕らの矛盾を突いてくる。
以下はパパラギより抜粋。
(パパラギとはサモアの言葉で「白人」のこと)

 「パパラギはいつもお金を欲しがっている。そのために残酷になり、偽り、 人を信じなくなったりする」

「パパラギはたくさんモノがなければ暮らして いけない。少ししか物を持たない者は自分のことを貧しいと言って悲しがる」

「パパラギには暇がない」

「パパラギには職業というものがあるので毎日同 じことをしなければならない。そのためにひとつのことしかできなくなってしまう」

「パパラギは考えるという重い病気にかかっている。サバイまで船 で行くのに、岸を離れるとすぐサバイへ着くのに時間はどのくらいかかるか と考えるので、まわりに広がる美しい景色を見ようとしない」


コメント
いかがですか。

皆さんも思い当たることがたくさんあったでしょう。
僕も苦笑いですね。

最後の二つには茫然ですね。
職業というものがある・・・。
そのために一つのことしかできない。

そうやって我々は奇形化していきます。

考えるという重い病気にかかっている。
これが最も衝撃ですねえ。

未来や過去に思いを馳せることで、今の感覚や感動を台無しにしています。
それが病気だというわけですね。

その癖で
感動欠乏症 不安神経症に罹患しています。

posted by 変才冨田 at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

[ 「意のままに生きる」2

この場合の「意」とは「意志」のことであろう。

「志」とは心が指し示す方向性であり「意」がその方向へ行くために処々で対処する。

「意のままに生きる」とは思った通りに人生をコントロールできる境地を言うのであろう。

けれど、わたしたちの人生の実際は「意のままに」生きられない。

あちこちでぶつかり方向転換を余儀なくされ、何度も何度も阻止され思いもしない方向へ流されていく。

皆さんの現在はどうだろう。

今、こう在る姿を10年前に予測していただろうか。

すこしも「意のまま」ではなかったはずです。

ここいらであきらめればいいのに、人間はタフなものでなんとか「意のまま」にしたいと生きていくのです。

タフでない人は「うつ」になったりもします。

気付くことはそのあなたの「意」がいけなかったことです。

我を張るという「意」がいけなかったのです。

そのためにあなたを活かすはずの周辺の水がゼリー状の重いものに見えてしまっているのです。

あなたは「魚に泳ぐ能力がある」と考えているでしょうか?

魚にはその能力がないのです。






posted by 変才冨田 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月23日

ヴィパッサナー瞑想 20「意のままに生きる」という本の題名から考えること

そういう題名の本が事務所にありました。

僕はまだ読んでいませんが、皆さんはこの題名からどんなことを考えるでしょう。

posted by 変才冨田 at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月15日

ヴィパッサナー瞑想18の質問2

質問2
自分の感情を認証することが、相手を認証することにも繋がる? だから、先に、自分の感情を認証する。 ですかね。

回答
未だ、自他の区別に拘っていますね。

逆も同じです。 相手の感情を観察することは自己の感情も同時に観察しています。

自分の感情も他者の感情も区別できないのです。

繋がっているからです。

感情にはここから自己所有でここから他者所有という切れ目はないのです。

自己という名前の他者なのです。

他者という名前の自己なのです。

これは「わたくしという存在」は妄想であるという考え方につながっています。




posted by 変才冨田 at 00:11| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

ヴィパッサナー瞑想18 質問 

質問がありました。

質問ですが、相手を認証することと、自分の潜在意識を認証すること、どちらがさきですか。

回答
同じことなんです。

潜在意識とは他者と同じです。
潜在意識をわたしたちは決して所持しているわけではないのです。

潜在意識の宿る場所は身体ですね。

身体は自然物であって自分のものではないからです。

そして、他者の何を認証するのかというと他者の潜在意識を認証するのです。

他者の潜在意識も自己内部の潜在意識も仲間ですね。

さらにもっと具体的に云えば

潜在意識の認証とは自己内部や他者内部の子供性を認証する作業ですから同じことですね。
posted by 変才冨田 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィパッサナー瞑想 17 ありのままに観るとストレスはない

突発性難聴はストレスで起こります。

人に言葉で傷つけられるようなことが連続すると「聞かないフリ」をして自分を保とうとします。

やがて本当に聴こえなくなることが起こりえます。


潜在意識は身体に属しています。

顕在意識は「わたくし」という仮の存在で生じています。

顕在意識は社会的なものに属します。

社会的な存在で生じるものが言葉を操る顕在意識です。

わたしたちの苦悩は顕在意識と潜在意識の葛藤で生じるものです。

顕在意識は常に潜在意識に命令しています。

これは「社会性意識」が身体性意識である潜在意識をコントロールしようとしているということです。

同じように身体性である潜在意識は社会性の顕在意識をコントロールしようとしています。

両者の目的が一致しておれば悩みはないのですが、目的が異なっていると悩ましいことになります。

どちらが主かといえば、身体性が土台ですからねえ。

強いのは身体に根付いている潜在意識ですね。


厭なこと不快になることを聞かされてもそれに堪えないといけないことは日常よくあることです。

その忍耐が限界を超えてもなおかつ堪えようとすると潜在意識は強硬手段に訴えます。

潜在意識は身体性に根付いていますから、いとも簡単に身体に異常をつくり出します。

顕在意識に対抗する手段は身体を使ってストップさせる以外にないですね。

病気とはおおむねこの図式になります。

ではどうすればいいのでしょうか。

顕在意識が潜在意識の現れである感覚とか意識の微細な変化に気づくことです。

大きな怒りはさすがに本人も気づきやすいですが(けれど怒っていても怒っていると気づかない人は多い)

微細な感覚や感情は見逃します。

見逃すというよりも蓋をするのです。

会話中にもわたしたちの心の照明は明るくなったり暗くなったりを繰り返しています。

その明度の変化に気づかないのです。

暗くなったときにその一瞬の陰りを見なかったことにする人は多いのです。

その一瞬の暗さを暗さとして感じてはいけないこととする顕在意識によって瞬時に蓋をされます。

ハンサムで物腰もよく品もあって良い会社に勤めているという彼のことが大好きな女性がいると仮定しましょう。
その彼に暗い側面を見たときに(たとえばその人とデート中に第三者に対してぞんざいな扱いを見た)
一瞬イヤー気分になるのですが見なかったことにしてしまうのです。

潜在意識は嫌な気分になりますが、厭な気分になった自分の気分をなかったことにします。

顕在意識が潜在意識に対して「見るな!」と命令した一瞬です。

無視され、認証されなかった潜在意識は楽しくありません。

楽しくない気分のままデートをするわけですが、顕在意識は「わたしは彼が好き」と思い込もうとするのです。

ではどうするか。

ありのままに自分のイヤーな気分を見つめるのです。

感情の観察ですね。

じっくりとイヤーな気分を観察すると本当の自分の嘘偽りのない本音が見えてきます。

それは判断力に影響するのです。

「楽しいはずだ」から「本当に楽しいのか?」と問いかけるのです。

楽しくないことは正しくもないのです。

潜在意識の気分をこそ大切に観察しましょう。


潜在意識と顕在意識の関係は親子の関係と類似しています。

親は常に子供を監視して従わせようとします。

あまりにも従わせていると子供はやがて反抗することになります。

親の役割は子供の主体性を認めてあげることで活気のある子供に変化します。

上司と部下の関係にも類似しています。

子供や部下の気分の変化を見て取れない親や上司はやがて困ったことになるでしょう。

潜在意識を認証しないこと(気づかない)が継続すると非常手段が待っています。

それはサボタージュという病気です。

身体をストップさせることで気づかせようとするのです。

潜在意識の「彼が嫌い」と顕在意識の「好きになろう、ならねば」は矛盾で、悩みはここからくるのです。

自分の心の一瞬の変化に気づくことで本当の自分に出会うことができるのです。


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2016年09月07日

30数回にわたって実施した夜学の意味

昨日は大阪で夜学でした。

僕にとって非常に意味のあるセミナー内容でした。

始まる前から今晩の夜学は大きな意味がありそうだと予感して始まりました。

自分でもどのような話になるのか予想ができませんでしたが、

話しながらその内容が自然とこれまでの夜学の集大成になっていることに気づき

終わった時には30回以上にわたった夜学の意味がやっと分かりました。

そして、今後の大きなテーマにも気づき探求が続きそうです。

わたしの趣味のような話に毎回夜分にもかかわらずよく付き合って下さった皆さんに感謝です。

食の認証  身体の認証  他者の認証  お金の認証  仕事の認証

各ワークが全体として有機的に関係しあうためには「観察」が必要です。

これからはこのブログでこれまでのワークを紹介していくつもりです。
posted by 変才冨田 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月05日

ヴィパッサナー瞑想 16 ありのままに観るとはメジャヴの視点が必要

さて、「ありのままに観る」ということって可能でしょうか?

無理なんです!

それはそれぞれの生き物に与えられた感覚というものがあって、その感覚から完全に逃れることはできません。


「ありのまま」というのは別な言葉で云えば「真理」ということです。

「すべては変化する」ことが真理ですから、従って真理も変化します。ですから完全「ありのままに観る」ってことは不可能です。

不可能ですが限りなく近づくことはできます。

さて、生物学的に「ありのままは無理」なのですから、この場合の「ありのままに観る」の意味は

総体的な世間の価値観から自由になるということです。

よく「あなたは、ありのままでいいよ」という意味は世間の価値観で自分や他者を測らないということです。

森という意味を与えて森を見る。

机とう意味を与えて机を見る。

自分に意味を与えて自己を見る。

ソノ人に意味を与えてソノ人を見る。

以前書いたメジャヴというのは「いつも見ているものなのに違って見える」ということを書きました。

デジャヴの逆ですね。

違って見えるようになるのは今までの意味づけを捨てたからです。

ソレ(他者や私など)をいろんな視点で見ることができるというのが「知恵」だと書きました。

それは世間的価値観の意味づけから脱却することです。

広い意味でこれを「解脱とか悟り」だと意味づけをしたいわけです。





posted by 変才冨田 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月02日

ヴィパッサナー瞑想 15 ありのままに観るってどういうこと?1

さて、13からの続きです

「森でない森を観る」ってどいう状態だったのかですね。

庭園でボヤーっと蟻を見ていました。

自分の倍くらいある獲物を運んでいます。

上から見ていると右往左往状態で同じところをグルグル回っていてもどかしい限りです。

巣穴に早く戻ってくれと応援していました。

何処に巣穴があるのか追いかけるつもりでした。

こりゃあストーカーですね。

しばらくして、集中は続かないもので妄想に入りました。

すると、芝生が迫ってきて美しい模様に見えたのです。

緑もより鮮やかに3D以上の効果で迫ってきます。

なんだコリャア!

その瞬間に元通りの芝生になりました。

もう一度その鮮やかさを再現したくなって、芝生を見ながらにしてみないというモードにします。

眼は見ているけれど脳は見ていないという感覚にするのです。

そのためには脳は芝生に注意してはいけないのです。

すると再度素晴らしい模様が迫ってきたのです。

凄い!

そう思った瞬間に元の芝生に戻ります。

脳の意識が芝生に注意した瞬間にソレは芝生となるのですね。

それはこういうことです。

脳は「芝生という意味づけ」を芝生に与えて芝生を見るのです。

わたしたちの人間の脳はソレに意味を与えてからそのように見るらしいのです。

虫さんや鳥さん、犬さんは芝生をきっと違って見ているはずです。

そぞれぞれの生き物は自分のフィルターを通して外界を見ているのです。

ソレ、そのものを見ていません。都合の良い見え方をしているだけです。

客観的に見るというのは「観る」ということです。

けれど人は客観的に、つまりものごとを「ありのままに観る」ということができるのでしょうか?




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2016年09月01日

ヴィパッサナー瞑想 14 欲望と嫌悪の観察でコントロールできる

コメントがありました
観察して、欲望があることをみつけても、その通りにはしなくてよいということですかね。

七号食中は、食べたくてもその通りにできない、結果的にしない、ですものね。 怒りも反応だから、同じなのでしょうか。

回答
欲望があることを見つけたら、その通りにしなくなってしまうのです。

欲望(仏教では渇望という)が在る、ということに気づくと反応が抑えられるわけです。

7号食中に「ケーキ」が食べたいと欲望したときに、それを食べる。これが反応ですね。

渇望に気づいた時に「わたしはケーキを食べたいと思っている」と声に出すとケーキを食べたくなくなるのです。

要は渇望に気づく、嫌悪に気づくという間に気づきが割って入ればいいのです。

けれど、もっとこの刺激→感覚→反応のことを詳細に見ておきたいですね。

次回書きます
posted by 変才冨田 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィパッサナー瞑想の影響?

コメントがありました。
「反応」する前に「観察」。 先生、「投稿」する前に「確認」、とかするようになりましたか? 瞑想から帰ってから、誤字が少なくなったような。。。 いや、ひとりごとです。失礼しました。

私から
同じことを別な方からも指摘されましたねえ。(笑)
誤字が少なくなっていると。

実は投稿前の確認作業は全くしていません。
書く瞬間々々に確認しているのかもしれませんね。
どうなのか分からないです。
面白いですね。

わたしは無意識行動が多すぎる人間なので、ウッカリが多いです。
手に持ったものを無意識にどこかに置いて探し回ります。
そういうわけで、私の事務所での仕事の三分の二は何かを探しているという状況です。

さらに、具合がわるいことにわたしは探し物に認証されていないせいか、彼らはわたしを見つけることができないようです。
「おーい、ここだよー」って声がかからないので見つけられません。

ヴィパサナー後でも変わりません。


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2016年08月31日

ヴィパッサナー瞑想 13  「ジャメヴ」の視点こそ知恵

身体の観察だけでなく
日常の瞬間に注意を向けるということがヴィパッサナー瞑想の中心部分です。

すぐに反応を起こさないということです。

このことはハナムラ先生の提唱する「ジャメヴ」に通じてきます。
「デジャヴ」は初めてきた街なのに以前この風景を見たような気がするという感覚ですね。
「ジャメヴ」はいつも見ているのに違ったものに、新鮮に見えるという感覚です。

いつも見ているものに対して神経は「無かったこと、見なかったこと」にします。
臭い部屋に入っても5分したら臭わなくなります。
嗅覚神経は弱いので、その臭いを無視するわけです。

視覚も同じでいつも見ているものは無視します。

きっとあなたもご主人を無視しているはずです。見なかったことにする。
ご主人も同じです。きっとあなたが髪型を変えても気づかないでしょう。

神経は鈍くなる宿命です。

同じ刺激に対して同じ感覚を起こし、そのまま同じ反応を起こす。
こうした自動化システムは便利ですが
「生きている、今まさに息づいている!」という鮮烈な感覚を失わせ、今を色褪せたセピア色に着色します。

ヴィパッサナー瞑想での身体の観察というメソッドは、やがてその他のことに対しても観察する習慣につながります。

同じ観察でも違う視点でないと意味のないものです。

仏教でいうところの知恵とはソレをどれだけ多様な視点で観察できるかということだといいます。

「ジャメヴ」の視点はまさに知恵なのですね。

病院で癌を宣告された上に余命まで言われた人の体験談に

「帰り道で見た風景はキラキラと見えた」という人が少なからずいらっしゃいます。

自分が死ぬということを実感すると「ジャメヴ」が起きる人がいるのですね。

ところで、わたしにもヴィパッサナー瞑想中の5日目にこれが起きました。

わたしが何を見たのか。

森を観ていて森でない森を観てしまったのです。

いつもの森でなく、森そのものを見てしまった体験です。

続く




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ヴィパッサナー瞑想 12 ダイエットは観察でできる

わたしたち人間が感覚に反応しやすいのは性と食べ物ですね。

これは本能から突き上げてくるものですからやっかいです。

さきぞや俳優の男性が性犯罪を犯しましたが、感覚→反応をそのままやってしまったわけです。

食べ物も同じです。

そもそも食べる(刺激)→美味しい! あるいは不味いという感覚→渇望 あるいは嫌悪

渇望は限度を超えた食べ方になり、嫌悪は避けて食べなくなります

感覚と反応のはざまに観察を置かない習慣の人は食べ物に支配されるのです。

この渇望と嫌悪は視床下部がやっており、そのなかの摂食中枢の働きです。

最近の脳研究によれば

思考の前頭葉の前に視床下部(古い脳)に刺激が届き、その刺激という情報から感覚が生まれ、視床下部で
好きか嫌いかのレッテルがソレに貼られてから前頭葉にいくのです。

前頭葉が好き嫌いを決めるわけではないのですね。

猫や犬と同じ古い脳(大脳辺縁系)が先に働いてから前頭葉に好き嫌いという「色付け」された情報が届くわけです。

もうすでに色が着色されているので、不快な情報であれば前頭葉も嫌悪という感情に支配されてちゃんと判断しなくなるわけです。

坊主難けりゃ袈裟まで難いという状況ですね。

嫌いな先生の授業科目まで嫌いになります。

そうした渇望(好き)と嫌悪(きらい)に従った習慣から抜け出すこと。

これがヴィパッサナー瞑想です。

渇望と嫌悪をつくる反応は潜在意識の範疇ですがその、潜在意識に冷めた顕在意識を介入させるということです。

そのコツは自分の感覚や感情に気づくということが重要です。

満腹するまで食べるというのはあきらかに常軌を逸しているわけで、満腹する前に自分の異常行動に気づくかどうかということです。

もっと前に食欲が湧いた時のその食欲の色を気づくというにことです。

お腹が空いてもいないのにアレコレ食べたがる心理的な動きに気づくということです。
これは単に腹が減った食欲なのか、ストレスからやってくる食欲なのかに気づくということです。

ストレス食いは余計なものと余計な量を食べることですから、ストレスに気づけるようになれば
ダイエットはそれだけで成功します。

ストレスは高脂肪食を誘引します。
これは脂肪が効率の良いエネルギー源なので、危機を察知すると脂を食べたがるのです。
脂を欲しがっている場合はストレスを観察することで、感覚→即反応が抑制できます。

7号食はこのストレス刺激→不快感覚→過食→不快感覚→過食 という連鎖を止めることになり

さらに、7号食中に身体を観察することで全てに対して感覚→即反応の条件反射を止めることができ

結果として「怒らない」体質になるわけです。



posted by 変才冨田 at 10:30| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月30日

ヴィパッサナー瞑想 11

ヴィパッサナー瞑想の中心核は「今、この一瞬に注意する」ということです。

感覚→反応 これは意識が今の瞬間に作動していないのです。
条件反射で動いたのですね。

これでは動物の域を一歩も出ていません。

今の一瞬の感覚に気づくということを重要視するのです。

無意識に「怒る」のも同じです。

この無意識をコントロールするための修行が今の感覚に気づくということなのです。

無意識の莫大なエネルギーを建設的な生き方につなげるのです。

そのためには無意識に属する感覚に気づく必要があるのです。

気付けば自動的な条件反射がなくなりますよね。

子供や部下、夫が言うことを聞かない。→ムカッ

ムカッとしたことにいち早く気づくと次の言動が違ってきます。

このことを食という現場でどうなっているのか考えてみます。

ストレス食いについて検討します。
続く
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2016年08月29日

ヴィパッサナー瞑想 10

さて、蚊が腕に止まったらどうしますか?

ヴィパッサナー瞑想10日間は「殺生の禁止」があります。

庭園に出てくつろいでいると蚊がやってきます。

わたしは  蚊の刺す刺激→感覚→反応をせっせとやっていました。

蚊を見た瞬間に叩いていたのです。

叩くとき一瞬ですが蚊に対する「憎悪」の感情に気づきました。

実はこの瞑想に出発する前に事務所に蛾が大量発生しました。

無数に飛び回り壁にもくっついています。

私はひたすら新聞紙で叩きまくっていました。

叩いているうちに快感さえ感じていたのです。

蚊や蛾を見る叩くという反応がすぐに起きる。

この反応の前に観察をしなさい、というのがヴィパッサナー瞑想です。

そのことが一体どういう意味があるのか?

これを皆さんは知りたいところでしょう。

一言で云えば「怒らない人」になれるのです。

前回書きましたように「怒っていない」という状態は「いつも機嫌が良い」ということなのです。

なぜ反応の前に観察を置けばこういう状態になれるのかですね。

続く


コラム
ところで何人かに「蚊が腕に止まったらどうしますか?」と尋ねました。

腕で吹く  孫はコップで取って窓に逃がしている

などがあり、みんな優しいなぁ〜。













posted by 変才冨田 at 14:53| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

ヴィパッサナー瞑想 9

身体の観察をすることで、なぜ釈迦が解脱できたのか?
釈迦の解脱については

それは動物の特性として刺激→感覚→反応
これを克服されたということが先ず挙げられるでしょう。
感覚→観察 反応しないで観察をおいたわけです。

わたしたちは「怒らないでおこう」そう決意していても
無意識に怒ってしまいますね。

さらに怒っているという事実にも気が付きません。

ここで怒るということについてコメント
わたしはそんなに怒らないという人もいるかと思いますが
見た目で判るような顔を真っ赤にして起こる状態だけが怒りではないのです。

静かな怒りの方が圧倒的に多いのです。
不機嫌も怒りの一種であるし、嫉妬や恨みも怒りです。
それどころか「悲しみ」も怒りのある種の状態なのです。

つまり「楽しくない」状態は常に「怒り」なのです。


さて、感覚が生じて即反応している状況からその感覚を観察するということを釈迦は勧めているのです。

まあ、判りやすくいえば「ちょっと待て!」ですね。
東尋坊の自殺の名所にもこの立札があります。

新聞記事をにぎわしているほとんどの事件は動物としての反応があるだけで観察がないのですね。
少しずつ怒りが蓄積され、それにも気づかないで不機嫌になり、いつしか爆発するわけです。

刺激→不快→反応をしています。
自分の不快の根っこを知らないまま時が過ぎます。

ここで不快の原因が判らなくとも良いし追求しなくて良いのです。
ただ自分の不快を観察するわけです。
わたしが不快になっていると考えるのではなく、そこに不快があると観察するだけです。
わたしと不快を切り離して相対化します。
それがヴィパッサナー瞑想の中心課題なのです。

そして観察を続けると消えていきます。
必ず消えてしまうのです。

瞑想であぐらを組むのですが、しばらくすると痛みがでます。
その痛みを観察します。
わたしが痛いのではなく、痛みがある そう観察します。
そうすると消えるのです。
わたしの場合も確かに消えました。
というよりその痛いという状況をほぐして解消してはいけないということだったので
もはや「諦めた」ということですが・・・(笑)

ここで皆さんに質問です。

自分の腕に蚊が止まったらどうしますか?






posted by 変才冨田 at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

ヴィッパサナー瞑想 8

さて、5日目のことでしたが、個人瞑想の時間に庭園でボヤ―っと瞑想していたときに(そういうのは瞑想とは言いません、妄想に近いです)

ふと気づいたことがあります。

もうじき67歳になる自分が「今ここに存在している」という不思議です。

なぜ自分という生き物が今ここに居るのかと不思議に思えたのです。

一言で云えば「許されてここに居る」という感覚が体内の深いところからジワ―っと押し寄せてきました。

多くの人の力でここに運ばれてきた・・・。

こんな素晴らしい庭園で遊べる自分がとても幸せ者に思えてきたのです。

感謝だなー、と思うとなにか熱いものがこみ上げてきました。

66歳という人生の半ばでここに来れたのは、きっとこれからの66年という半生を今までとは違う生き方にする転機なのかもしれません。

さて、瞑想です。

4日目から頭頂部を観察です。

次に頭皮全体→額→眼→耳→口→右腕→ひじから手首まで→手のひら→手の甲→各指

左腕→ひじから手首まで→手のひら→手の甲→各指

胸全体→お腹全体→背中全体→右脚太腿→膝から下→足首から下

このように身体の各部をスキャンするように舐めていくように観察します。

何度も頭頂部からつま先まで繰り返して観察します。

90分で5、6回繰り返しているわけです。

わたしは30分だけの瞑想だったので3回くらい繰り返していました。

痒みがあればその痒みがそこに在ると、痛みならそこに痛みが在ると観察します。

観察だけであってほぐしたり掻いたりしません。

状況を観察するだけなのです。

痛みがあれば、痛い理由を探ってもいけないし座りなおして痛みを解消してもいけないのです。

痛みを観察するのみです。

なぜこのようなことをするのか・・・。

皆さんも疑問に思えませんか?

考えてみてください。




posted by 変才冨田 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

ヴィパッサナー瞑想体験 7 今日の朝学の確認事項です。

これから書くことはわたしなりの解釈なのでもしかしたら違うかもしれません。
最終的には体験して皆さん独自の発見をどうぞ。

ヴィパッサナー瞑想とは釈迦が発見した究極の瞑想法で「観察の瞑想」です。
自分が今なにをしているのか?
本当に今ソレをしたいのか?
今の自分はどういう状態なのか?

などを瞑想しますが。
先ずは最初の二つは三番目をするだけで判ってしまうのです。

最初の三日間は鼻と唇のさんかっけいにだけ意識を集中します。
空気が入ってくる感覚や出ていく感覚を観察するのです。
これは4日目からのヴィパッサナー瞑想に入る前の段かいです。

いわば集中力を高めるために行います。
鼻の内側の感覚やすぐ鼻の下の感覚状況を発見します。

まさに発見です。それは日頃からある感覚なのに意識が無視している感覚です。
観察とは無視されて置き去りになっている日頃の感覚を大切にするのですね。
その感覚を今瞬間瞬間に感じること、それが今を生きるに通じるわけです。

これはこのコースの一〇日目を目標にしているわけでなく
このプロセスそのものを味わうことが目的なのです。

目的は先(未来)にあるわけでなく今まさにそこに目の前、いえこの掌中にあるのです。
未来につながる今、未来を生む今です。

今を無視して未来に目標をもつなど妄想だというわけですね。

まだ目の前にない未来にわたしは一切の手を下すことができません。
できないことを考えているのは妄想なのです。
できないので誰の役にも立てない一生になります。

できないことに挑戦する!そういうと勇壮で価値のあることをしているような錯覚になりますが、
ストレスだけ溜まり不機嫌はいっそう募るだけです。

けれども今、目の前の現実には手を下すことができます。
できることしかできませんね。
非常に具体的な課題だけが目の前に見えます。

できないことを考えてソレを目標にするのは馬鹿げています。
今目の前のことであれば、みんなできることしか考えないでしょう。
目的は遠い先にはなくて目の前だけなのです。

そういう今現在瞬間に活きているということを腑に落とすための瞑想が最初の三日間です。
もちろん10日間はソレがテーマなのです。



posted by 変才冨田 at 01:05| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

ヴィパッサナー瞑想体験 6 いびきとツンツン・セラピー

セミの抜け殻と最後の姿を同時に見たのは偶然でしょうが、わたしにとっては「意味のある偶然」でした。

このことを考え抜くことはなにかを示唆されているようです。

嗚咽したのはセミのいのちと我がいのちを重ね合わせたのだろうし、

「ちゃんと相手を見つけて終わったか?悔いがなかったか?」とセミの骸に呼びかけたのは

わたしが私自身に問いかけたのでしょう。

一週間の命も80年の命も同じなのです。

いのちの本分をしっかり全うしたかどうかだけですね。

なにか切なくて、泣いてしまったのですが

泣いて感情を逃がすのではなく、泣くという反応をしないで観察するところでした。

それがヴィッパサナー瞑想の中心課題なのです。

そして、考えるだけではまだ足りない。

瞑想コースを終了してとんでもない夢まで見させられることになりました。

このことはこの連載の最後に書きます。

さて、10日間の生活は寝食を共にしますので、いろいろありました。

同居人のいびきがすごかったです。

女性の方に参加したスタッフの話ですが

眠るといきなり1人がスゴイいびきであったそうです。

三人部屋で一人はそれで眠れなくなったとか。

それがずっと毎日続いて「聖なる沈黙」が解かれた時に
「私いびき酷くなかった?」と言われたそうです。

そこで、もう一泊あったのでスタッフがツンツンセラピーをしました。

あごの骨の下の両サイドと真ん中が施術点です。

見事に決まってまったくいびきがなくなって二人は驚いたということでした。

さて、私の方も面白かったですね。

二日目に三名が井戸端会議のようにささやかないびきを洩らしていました。

三人で話し合っているかのような会話調いびきです。

そこへいきなり重戦車が乗り込んできたような迫力あるいびきが飛び込んできました。

さっきまでの平和ないびき三重奏が制圧されてしまいました。

この時から最後まで独裁体制が敷かれました。(笑)

明日から具体的に瞑想中になにをやっていたかを書きます。


posted by 変才冨田 at 21:48| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

ヴィパッサナー瞑想体験 5

この画像はセミの抜け殻だったのです。
それがこの枝にだけ13匹も連なっていたのです。
IMG_2009[1].JPG
その後で自室に戻ってから「アレはなんだ?」と自問したところ
唐突に嗚咽してしまいました。
その嗚咽の意味が自分でもわからずとまどいました。
胸をひくひくさせながら「なんで泣いている?」となんども考えていました。

わたしは何に感動したのでしょう。
あれを見たときに「これは生死のドラマなのか?」と考えていたことでした。
そうすると不思議なことですが
一匹のセミがキチキチキチと羽を振るわせる音をまき散らし空中を大きく回転し、わたしの足元に落ちました。
指で触れると少し羽を振るわせました。
脱皮して歓喜の生を全うした最後の姿です。
彼に呼びかけました。
「ちゃんと相手を見つけて終わったか?悔いがなかったか?」と。

瞑想のチャイムが鳴って去ったあともう一度確認しました。
仰向けになって静かに横たわっていました。
昆虫って死んだときには大概仰向けの躯をさらしているのはどうしてでしょうか。
最後に天空を見たくて全力で羽を地にぶっつけてひっくり返るのでしょうか。
最後は彼の瞳にどのような風景が映っているのでしょうか。

翌日にはその骸も消えていました。

興奮が収まって気づきました。
あれが「無常」ということなのだと。

わたしの「一生の姿」を見たのです。

全ては変化する。

全ての生命は水の一瞬の形であるゆえに
やがては溶けてしまうのです。

全ては「溶解」へと突き進んでいるのですね。

「なんちゃって瞑想」しかしていませんでしたが、ちゃんと気づきがあったのです。

この時わたしに浮かんだ考えは「解脱」とはこういうことではないのかと。
解脱とは生きながらにして「涅槃」に意志で往復できることと講和での話でしたが
それは単なる比喩であって
この世に在ってもこの世の価値の思い込みから抜け出ることを言うのではないかと。

自分が死なない。
そのように思っているうちは、この虚構の妄想の価値観が絶対と思ってしまうのですが
「自分もまたセミのように消滅するもの」と腑に落とせば、この世界に与えられてしまった思い込み(妄想)
から抜け出られるわけです。
どっぷりと泣き笑いの浮世で過ごして苦しい状況から抜け出て高いところから自分の右往左往を観察できる。
その高い場所を「涅槃」と言ったのではないでしょうか。





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2016年08月21日

ヴィパッサナー瞑想体験 4

さて、二日目ですが

早速ながら大胆な行動に出ました。

みんなが自主瞑想中に庭に出て植え込みに布団を被せて天日干しにしました。

板切れでパンパンとほこりをたたき出しました。

静かな雰囲気の中に「パンパン!!」です(笑)

で、第一回目のイエローカードを引き出しました。

コース・マネージャ
「これから派手なことする時は事前に相談していただけますか?」(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
わたし「大変、モーシワケナカッタです!」平身低頭 (~_~;)

個人瞑想の時間になると庭園に出ると白いリゾート風の椅子があって、そこですっかりくつろいでいると
コースマネージャー「あのー、自由時間ではなく瞑想をやるということなので散歩は4,5分だったらいいのですが瞑想をお願いします。他の人たちのてまえもあるので・・・」

わたし「タイヘン、モウーシワケナカッタです!!」
と云いながら翌日も庭園でくつろいでいました。

この庭園は素晴らしいのです!
IMG_2016[1].JPG
中央に見える建物の二階に瞑想ホールがあります。

さて、この庭で4日目に震えるような体験をしました。
IMG_2009[1].JPG
これなにか判りますか?



posted by 変才冨田 at 12:52| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

ヴィパッサナー瞑想体験 3

ついでに、べジ食の意味は殺生の禁止という意味のみではなく、他の動物の血肉を取り入れると、その動物の見えない精神性も取り入れることになるので、それは瞑想の障害になるということもあります。
ちなみに思い出しましたが、
ビバルディの演奏で有名なイタリアのイ・ムジチという室内楽団の首席バイオリニストにブッカレッカさんにお会いしたことがあります。
彼の上半身を見るとすごく気鋭な肌で、訊けばマクロビ食をして長いということでした。
肉を食べると演奏に濁りができるので肉は食べないということでした。

さて、本題です。

同室は6名でベッドでした。けっこうゆとりがありました。
その他の部屋を見ると、床に布団という形で部屋も狭く布団が隙間なく並べられています。

思うに、私の部屋は年寄りが集められていたようで優しくしてくれたみたいです。

参加者受付の当日
17時から受付が始まり、明日からのガイダンスと注意点の話がありました。
その後、毎晩行われる創立者の「ゴエンカ師」の講和です。
直接のゴエンカ師の語りを女性が通訳されています。
明日からの瞑想指導があり、30分だけ瞑想の練習でした。
その日は夜の9時30分にはすでにわたしは眠っていたようです。

第一日目から三日間の状況
16時に気持ちの良い鐘の音で芽を覚まし、さっそくシャワーを浴びました。
で、ホールにて瞑想開始です。
で、これが・・・。
辛かったのです。
あぐらを組んで座るのですが30分で痛みが起きて、何度も座り直し瞑想に集中しません。
少しは動いても構わないということでしたが、わたしは正座したり、膝を立てたり、再度あぐらを組むなどセカセカと忙しいことでした。
眼を閉じていないといけないのですが、わたしは30分を過ぎてずっと眼を開けており、周辺を見るとみんな静止しており立派だなぁ〜と感心しておりました。

それで決意しました。
10日間をどうやって過ごすか方針を決めたのです。

どうせ30分しか集中できないのだから最初の30分だけ集中して取り組み、残りの時間は
「楽しい妄想タイム」にすると決めました。
さらに独りでする1時間半の瞑想は全て自由時間とする。
もうこの時点で最初の規律を破っていますねエ・・・。

一日三回のグループ瞑想があるので合計90分は集中して瞑想する。
90分の講和も集中して聴く。
これを自分に律しました。

このように年齢を重ねると素直に云われた通りにしなくなるのですね。
自分ルールを勝手に決めるので周囲は振り回されます。

現実に私に振り回されたのがコース・マネージャーでした。


続く
posted by 変才冨田 at 19:25| Comment(2) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴィッパサナー瞑想体験 2

費用とか食事やお風呂などの実際的なこおもお知らせします。

基本的に費用はかかりませんが、最終日に寄付をしたい人はどうぞということです。

スタッフは基本的にボランティアです。

この瞑想コースを体験した人たちが自主的に志願されています。

このコースでの質疑応答をしてくれる先生もボランティアですから、人件費は0です。

シャワーや水道代などの光熱費は実質お金があかりますし、宿舎や瞑想会場の建造費にもお金が要ります。

これらも含めて寄付で補っています。

主催団体は宗教法人ではなく社団法人です。

そういう点では非常に安全安心(悪意の洗脳教育を企図していない)な瞑想会で、お金を目的にしていないので仏教瞑想の趣旨に合致しています。

世界中にこうした施設が100か所以上あって、全て善意のボランティア団体です。

参加者には国際色豊かでいろんな国の人が参加されています。

年齢は20、30代が多く、私が参加したときの最高齢者が77歳でした。

職業もいろいろで学生、主婦、ヨガの先生、業界紙の記者、アーテイストなど多彩で

56歳の現役で世界中のアンダーグランドでの格闘技家なども参加されていました。

この方はスゴイです。完璧な股割りをして腕で歩くという技を見せていただきました。

参加の動機は「平静心」を養うためということでした。

ちなみにタイムスケジュールは以下で、世界中のどこでも同じプログラムです。
引用
午前 4:00 起床のベル

4:30 - 6:30 ホールまたは各自の部屋で瞑想

6:30 - 8:00 朝食と休憩

8:00 - 9:00 ホールでグループ瞑想

9:00 - 11:00 ホールまたは各自の部屋で瞑想

11:00 - 1:00 昼食と休憩

午後 12:00 - 1:00 指導者との面談

1:00 - 2:30 ホールまたは各自の部屋で瞑想

2:30 - 3:30 ホールでグループ瞑想

3:30 - 5:00 ホールまたは各自の部屋で瞑想

5:00 - 6:00 お茶と休憩

6:00 - 7:00 ホールでグループ瞑想

7:00 - 8:15 ゴエンカ師の講話

8:15 - 9:00 ホールでグループ瞑想

9:00 - 9:30 ホールで質問の時間

9:30 就寝/消灯

10日間はこれに従って行動していく。

ざっと毎日10時間程度瞑想する事になる。

規律は
【戒律】


コース中は
生き物を殺さない
盗まない
性行為を行わない
嘘をつかない
酒・麻薬をやらない



古い生徒は更に
正午以降食べ物を摂らない。
娯楽を行わず、装飾をしない。
贅沢な、高い寝台で寝ない。



などの戒律がある。



正午に食べ物を摂らないというものは、フルーツやお茶などならOKだが、量に規制はない。(とは言え食べ過ぎると瞑想に差し支えるとされている。)




瞑想参加中は指導者に従う。
瞑想参加中はいかなる宗教的儀礼をしない。
聖なる沈黙:10日目の朝まで身体・言葉・心、あらゆる他者とのコミュニケーションを取らないようにします。
一人で孤立して働いているような気持ちを培うように専念します。
男女は結婚していようが分離して生活します。
原則合宿参加中は歩行運動のみにとどめます。
断食は許可していません。
外部との接触はしません。
音楽機器、読書なども禁止。

引用終了

どうですか?
参加したくなった人は変人でしょう (笑)

生き物を殺さない・・・
皆さんは蚊が腕に止まったときどうしますか (笑)
僕は無意識にぴしゃりとやって殺してしまうなぁ・・・

そういう「戒律」なので食事は全てべジで肉は出ません。
牛乳は出ますから、動物性が禁止なのではなく、あくまで殺生に関係してべジ食です。

続く








posted by 変才冨田 at 01:46| Comment(1) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする