玄米を食べ続けて50年
マクロビオティックの創始者・桜沢如一先生が、提唱した半断食法「七号食」を何度も実践した結果、「未精製の穀物(玄米・古代米・雑穀米)を好きなだけ食べても7号食と同じ効果が得られる」事を発見、『トミタ式七号食』の普及に努めています。

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2017年11月25日

「迷い」の探求

猫は迷うのだろうか?

迷うことはあるだろうが、そういうシーンにはあまり出くわせない。

おそらく猫は選択が明快であるからだろう。

不快か、そうでないか。

恐れを感じれば逃げる、それだけだ。

快を感じれば向かっていく、それだけだ。

おそらく「迷い」の感覚自体が不快なのであろう。

猫はエゴギョウ分析では火性が強いので快不快がハッキリ自分で選別できるのだろう。


さて、人はなぜ迷うのか?

1 決めたくない!実行したくない!という目的で無意識に迷う。
不快を無意識に感じている場合「迷う」という形のサボタージュに及びます。

2 判断できないから、と迷う人は言いますが判断できなくとも飛び込む人もいるのです。
  
  人間の行動の土台には欲求があるのだが、この欲求は判断を度外視して(乗り越えて)行動させます。

つまり1の人も2の人も「欲求力不足」で迷っている。

3 あるいは「欲求」はあるのだが「欲求」に対抗する疎外因子が強い場合も迷う。

まあ、欲求が高くなるほど迷いにくくなり、低いほど迷う。

〇△したい!これが決断の土台なわけだ。

では強い欲求はどのようにして生まれるのだろうか?

これは育ちの問題と思われる。

「欲求」の生みの親は「快不快」感覚の鋭敏さだろう。

つまり最初の猫の話題に戻ることになる。

快不快感覚が弱いので欲求が高められず、結果としては「迷う」人になる。

例えば

おむつを塗らせてその不快感覚で泣く。

泣けばお母さんがおむつを取り替えてくれる。

不快が取り除かれてご機嫌になる。

つまり快というものはもともと無く、不快が取り除かれた状態を快と感じるわけ。

これがタイミングよく交換が繰り返されることで赤ちゃんは快と不快の違いがハッキリわかるようになる。

食事などは毎日が快不快の学習の機会になる。

お腹が減る→不快→母乳を吸う→不快がなくなった。

不快が取り除かれるシーンではお母さんが常にいる(当たり前だが)のでお母さんに愛着が湧く。

お母さんも泣いている子を見るのは→不快だ→母乳を与えるとすやすや眠る→不快がなくなった→快だ!
子供が安らいだことで不快がない→快だ
子供への愛着が湧く

こうしたことが連続的に毎日繰り返されることで快不快感覚が身に沁みついてくる。

大人になってもなにが自分にとって「快か不快か」がわかる。

こういう人は迷わない。

こういう人の判断力はするかしないかで迷うのでなく、どのようにするかだけの選択で迷う。

こういう迷いは悪くない。建設的で積極的な迷いといえる。

するかしないかで迷う人はしてもしなくとも不快感がつきまとう。

しなかった後悔としてしまった後悔だ。

さて3はもっと複雑です。

続く







posted by 変才冨田 at 19:39| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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