玄米を食べ続けて50年
マクロビオティックの創始者・桜沢如一先生が、提唱した半断食法「七号食」を何度も実践した結果、「未精製の穀物(玄米・古代米・雑穀米)を好きなだけ食べても7号食と同じ効果が得られる」事を発見、『トミタ式七号食』の普及に努めています。

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2017年11月15日

難問 人はデザインされるべきか、アートされるべきか?

日本の自殺者は3万人を超えていますね。

この理由に存在の認証という命の土台にあたるものが希薄ということがありそうです。

それに対して
その人の機能的な部分、つまり
役に立つという能力が強く求められているということです。

能力がなければ(一面的な能力)存在してはいけないという脅迫観念に駆り立てられる。

役に立つことが、存在を保障する関係ですね。

家庭においては「あなたはいてくれているだけでいいよ」
という関係性ですが、家庭においても役に立つことを土台にすると
その人は大きく揺らぐことになります。

そうやって大人になってしまうと
役に立つことで存在価値を他者や会社、
あるいは妻や夫、恋人に求めてしまう関係性しか作れなくなってしまいます。

僕はいつも思うのですが

能力が求められる会社においてでも

存在価値を土台にした運営ができないものかと。
家族的会社経営っていうことですね。


若い頃の話です。

ある会社にハンテイングされました。

私「御社が期待するような成績が出せないかもしれませんよ」

相手「いや そんなものは期待していませんよ。冨田さんが居てくれれば凄く明るい雰囲気の良い社内になりそうです。それだけで良いので、たとえ売上なくても良いですから来てください」

忘れやすい性格なのに、妙に鮮明に覚えているのはどうしてでしょうか。

僕のセールス能力を評価されたのではなく、人格を認めてもらったのですね。

世の中にはどんどん役に立つものが生まれており、周辺は役に立つもので溢れていますね。

そうなると自分も役に立つべきものという想念が湧いてきます。

デザインとは役に立つものです。

一方アートは実用にはなりません。

みなさんは自分自身や人生をデザインしますか?
アートしますか?

デザインできなかった時
つまり有用になれなかった時

自分は役立たずだから居ない方が良いと考えてしまいますね。
存在の否定です。

自分はポンコツの出来損ないだと考えるのは、
役に立てないという自己への失望感ですね。

会社では有用性を求められるのですが、
家庭はその対極ですから
居てくれるだけで良いという基地になっています。
(この辺り微妙です。育児に夫が役に立とうとしないというのが離婚を考える理由になっていますので。
日常的には役立つよう活きる。病気で家庭に一切役立てなくても存在は許されるような関係性が家庭であろう)

その家庭が会社のように有用性を求められたら
役に立つことを証明せねばならなくなります。

その結果、自分の存在価値を証明をするために余計な仕事を増やし、
ストレスフルを自ら作り出すのです。
役に立つことを証明しないと安心感ができないというのは、それだけで不幸ですね。
posted by 変才冨田 at 19:02| Comment(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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