玄米を食べ続けて50年
マクロビオティックの創始者・桜沢如一先生が、提唱した半断食法「七号食」を何度も実践した結果、「未精製の穀物(玄米・古代米・雑穀米)を好きなだけ食べても7号食と同じ効果が得られる」事を発見、『トミタ式七号食』の普及に努めています。

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2016年11月03日

わたしたちはジャッジメントをなぜするのだろう

「人を裁いてはならない」

そうあろうとしても、いつしか会話の中でも心の中でもひとを裁いています。

ジャッジメントが必要ななこともあります。

それは自分の運命に関するときです。

選挙や政治的課題に直面したときです。

ジャッジメントしてはいけないシーンとは、自分が関係していないときです。

いわゆるゴシップもそうですね。

近所づきあいや職場での人間関係もそうです。

誰がなにをしようが、自分のこととは無関係であれば一切の裁きをしてはいけません。

その時間は無駄です。浪費的な時間です。

ジャッジメントをなぜするのだろうか?

その問いかけの解答は、ジャッジメントする人とは「主体的に生きていない」ということからくるのです。

自分とは無関係のことがらに首を突っ込んで「あれはいけない、これは良い」とみんなで裁くのです。

「随所作主」という意味についてこれまでに書いてきました。

いつでも、どこでもあなたは自分の人生の主人公であらねばならない、という意味です。

自分の目の前の課題に主体的に取り組んでいる人々は、自分の活き方と無関係なことには首を突っ込まないのです。

暇な人々こそが「他者を裁く」のです。

それは人生の課題を見失った人たちです。

首を突っ込んで裁いたところで、あなたがその人の取った行動に対して責任を取るわけでもありません。

人は自分の取った行動に最終的にその人自身が責任を取るのです。

その人自身が今の自分の課題に向き合って取った行動を他者は裁けないのです。

裁けないことなのに裁くことに時間を取っていること、それが人生の浪費ということです。

それでも裁きたくなるのは、自分が自分に課している制限や禁止を他者が破っているとき黙っていられなくなるのです。

実はその制限や禁止をほかならぬ自分自身が邪魔に感じているのです。

破りたいことをやっている人を見ると自由に見えてうらやましくなるのです。

「そんなことをしていると、いつか報いがくるわよ」
と言ってあげたいわけですが、報いがくるのは他者ですからあなたには無関係なのです。
他者への忠告という名の裁きをやってはいけません。

みんな自分の課題に向き合っているのです。他者が何を見てどう取り組もうとしているかはその人たちの課題なのです。

自分とは関係のないトラブルに首を突っ込むことで、かえって他者のトラブルを大きくして
やがてはあなた自身がその余波を受けるのです。

すでに大切な取り返しようのない時間を浪費してしまっています。

自分の課題に一心不乱に取り組むには「随所作主」の徹底した主体性が必要です。

人は裁かれるのがとても嫌です。

裁かれることにビクビク恐れているのです。
裁いている人の顔は気持ちよく晴れやかです。
自分も裁かれることを恐れているので、逆に裁くことは勝利者心理を誘発して
自信ありげな顔つきになります。

そんなことに自信を持ったところで時間の無駄です。












posted by 変才冨田 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 認め合うということ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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