玄米を食べ続けて50年
マクロビオティックの創始者・桜沢如一先生が、提唱した半断食法「七号食」を何度も実践した結果、「未精製の穀物(玄米・古代米・雑穀米)を好きなだけ食べても7号食と同じ効果が得られる」事を発見、『トミタ式七号食』の普及に努めています。

ブログ記事も8000を超えました!


2006年05月22日

運命と食の秩序

「人間50年下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか・・・」  
(源平合戦のおり、若くして討ち死にした平敦盛を詠った「敦盛」)

 わたしはこの詩句がなぜか好きです。現在わたしは56歳ですが、50歳以前の記憶はもはや「夢まぼろしの如く」となっています。記憶の断片をよみがえらせたとき、それは夢の断片の印象と変わるところがありません。みなさんはいかがでしょうか。わずか4年前のことが夢まぼろしになったということは、今こうしてこの文章を書いているという現実も、いずれはまぼろしとして思い起こすことになりそうです。確かな現実感のあった体験やニュースなどの事柄がすさまじい勢いでセピア色に褪せてゆきます。まことに人生は「夢まぼろしの如く」だと思います。

 また「生者必滅」という原則も詠まれています。今このブログをみていただいているあなたは何歳でしょうか。これから30年後のあなたもまだこの夢まぼろしを味わっているでしょうか。この本の読者が全員私と同じ歳だと仮定しましょうか。そうすると30年後は半数以上の方は夢まぼろしの世界の住人でさえもなくなっています。
 30年は長いでしょうか、短いでしょうか。でもわずか4年でこの現実は「夢まぼろし」になってしまうのです。そういう意味でわたしたちは常に人生はあと3,4年なのです。みなさんは後3年の残された人生でなにをなすでしょうか。

 このブログのテーマは「運命と食の秩序」ですが、漠然としている食と運命の関係をもっと明確にしようという意図で書こうとしています。それが明確化されるなかで、「生命とはなにか、私とはなにか、自己とはなにか、人間とはなにか」という人間の古来よりの大命題に接近したいと思っています。その解明の過程で「人間が幸福を求める意味、健康に生きることの義務と意味」なども鮮明になることでしょう。

 結果として「長く生きながらえるよりも、よりよく生きたい」というわたしたちの頭脳に眠っている願望をあきらかにしたいと考えています。
 
 まずは、食の秩序から考えていきたいと思います。 
食の秩序を考えるということを、「食養」といいます。「食養」の道とは単に白米と玄米、お肉と野菜のどちらが有利かということではありません。「夢まぼろしの人生をより楽しい夢とし」「滅せぬモノのあるべき」を考えることなのです。

 すくなくとも私はこのような理解で「食養」を考えています。 
posted by 変才冨田 at 01:28| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック