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2017年05月02日

今を生きる 3

ウイリアム ロビンソンの「今を生きる」に呪文のように
カーペデイエムという言葉が繰り返されます。
これが「今を生きる」という意味ですが、本当はもっと強い意味があります。
「今、その花を摘み採れ‼️」ということです。
萎れるのは早いぞ、今しかないぞ」と唆かすのです。

あなたの前に色鮮やかな花が咲いているはずです。

見えないのなら
それはあなたの怠慢です。

いのちについて
ゴンドラの歌
1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日はないものを
2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)
の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬
に ここには誰れも 来
ぬものを
3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬも
のを

この詩は黒澤監督の映画で「生きる」に挿入された情熱を秘めた歌です。この歌は決して若い女性だけに呼びかけたものではありません。

主人公も定年間際の公務員なのです。彼は胃がんを宣告され余命が少ないことを自覚しました。自分と家族のことだけを考えて小市民的に生きてきた人生を変えようとします。戦後の荒廃した街の空き地を児童公園にしようと考えたのです。

その場所は
雨が降るとぬかるみ、蚊が発生して苦情が寄せられていたところです。
やっとそこに公園が出来上がり、彼はその公園に設置したブランコに座り冒頭の「ゴンドラの歌」を口ずさみ、歌い終わってそのまま息を引き取ります。感動的なラストシーンでした。

この映画のメッセージは「今を生きよ」です。
そして、今こうしたい!と思ったときこそが「なにかに恋したときであり、朱き唇や燃ゆる頬、心に炎が灯ったとき」だと呼びかけているのです。
「いのち」には血潮が宿った時こそが「いのち」としての意味を立ち上がらせるのです。
「いのち」は「生命」とも書きますが「生」は人というどうぶつとしての一面だけを表現しています。
「命」は社会的動物としての人間として「いのち」を表しています。
「命」とは命令です。人を一なるものが叩くと書きます。一なるものとは天のことです。天とは過去から未来を包含した人類の希求するモノのことです。それが「天命」というものなのでしょう。

天命という命令がわたしたちの心のドアをノックしたとき「熱き血潮」がたぎります。

昨日徒歩で全国行脚をしているという北海道に住む若者が事務所に訪ねてこられました。(真っ黒に日焼けしています!)
彼は北海道の札幌にある「あじと」という会社の人で、その会社では何人もの若い人がごみを回収しながらの徒歩全国行脚をされています。発端は代表者である奥村大亮さんが始めたのです。別に強制しているわけでもないのに自発的に志願者が現れ恒例のようにして実行されているようですね。

彼、飴谷さんは腎臓の片方がほとんど機能していません。この暑いさなかの行脚は常よりも大変なはずです。
では、なぜ彼らは、それをするのでしょうか。いえ、彼らだけではありません。
日本にはそうした伝統が昔からあります。古くは江戸時代の「お伊勢参り」であり、現在も連綿と続けられている「四国八十八箇所霊場めぐり」ですね。
藩の領土内からは離れられなかった民衆ですが、こればかりは許されていたのです。一生に一度きりの大冒険の旅であったわけです。
東海道の宿場町が発展したのもこれがあったからです。
ある種の精神的熱気に支配されて延々と歩いたわけです。もちろん物見遊山の人々も多かったでしょう。
でも現代よりもはるかに危険な旅でした。体調をいつも保たねばなりませんし、なによりも足が頼りです。
そこで江戸時代は民間療法としての「お灸」が一般的な知識としてだれにもあったのです。有名な「足三里のツボ」はみんなが必須の知識としてもっていたのです。足と消化器が調整される特効的なツボです。

ところで当時はだれでもがこうして行脚をしていましたが、現代は稀有です。それを実行する人たちはそれこそ例外なく「熱い血潮」がたぎらなければ実行できないことです。
私「なにを考えて歩いていますか」
彼「死について考えながら、どう生きるかを考えています」
わたしたちは人生という時間の奔流に流されて生きていますが、ときどきは岸に這い上がって「浮世」を眺めるときが必要なのです。

なぜ?
そのとうとうと流れる時の果てに、永遠という死への淵が待っているという真実を知るためにです。
その真実を胃の腑に落とすことで、自己の存在の意味を自覚することができるのです。
知ることと自覚することは雲泥の差があるのです。
わたしたちはやがては死ぬことを知っています。けれど自覚はしていません。
「生きる」の主人公は癌の宣告を受けることで死を自覚し、それが「使命感」につながり生の燃焼へとつながったのでした。燃焼することで誰でも「朱きくちびる、燃ゆる頬となり、心のほのおが燃え立つ」のです。

「使命感」とは天にわたしの「命」を委ね、己の「いのち」を使っていただく幸せを感じるということです。
よく考えてみれば分かることですが、この世に「自分のモノ」といえるものは一つもありません。すべては一時的に与えられたもの、借り物にすぎないのです。「いのち」でさえ他者や環境とのつながりで支えられているものなのです。
ですから「使命感」を持って天命で生きるのはごく自然でストレスのない生き方になるのでしょう。

それにしても凡人はついに「死の宣告」を受けなければ、自覚に到れないのでしょうか。
父母から受け継いだいのちの炎を燃やすだけならたやすいことです。
「朱きくちびる」を一生絶やすことなく、その心の炎が消えぬまにその生をとじたいものですね。
ちなみにわたしの使命はみなさんに玄米を食べていただき、その上でしっかりまっすぐに立ち、歩いていただくことに貢献することです。

posted by 変才冨田 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

禁止と制限がなぜ生じるのか

火の性質は奔放で自由です。

社会を維持するためにはみんなが好き勝手にやっていては困るので

禁止や制限を加えます。

これは有益面です。

けれどこれが強化され過ぎると人も世の中も硬直化してしまい、

結果として楽しくない世界になります。

制限や禁止の多い会社や学校、はたまた夫婦関係においても

不幸になります。

楽しくない組織はいじめや暴力も生みます。

強化される理由はそれでメリットがある人達が存在するからです。

戦前は治安維持法があり国民は萎縮しました。

産軍一体のメリットがあり
戦争に反対する政党や団体を禁止して国民には制限をかけました。

戦後すぐに朝鮮戦争をするためにレッドパージを行い

ハリウッドでも自由な表現追求をする映画人を密告させて追放しました。


会社においても過剰な禁止や制限を作るのは会社のメリットに通じるからですが、

そういう会社は硬直して、やがては世の中から除外されていきます。

共通の価値観を失えば制限や禁止などに関係なく解消するところです。

逆に言えば共通の価値観が保持できない求心力を失った会社が

その告白として禁止や制限を作ります。

自信がないのです。

夫婦関係や恋人関係でも同じです。

自信を失った彼や旦那が奥さんや彼女の行動をいちいちチェックするのです。

生徒を指導できない学校が校則を強めます。

灘高などは校則はかなりゆるいです。

軍隊などは権力がないと維持できない組織です。

崩壊するときはあっという間です。

会社は給料支給で拘束できますが、それが無理なら

洗脳して自らに制限をかけさせます。

楽しく生きられる組織ができないものでしょうか。

信頼に根ざした組織が欲しいです。


posted by 変才冨田 at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

選択肢を増やす生き方

「人生は選択の連続だ」といわれているけれど、これには違和感がある。

なぜ、わたしが違和感があると思ったのか考えてほしいのです。

と、三年前に書いたまま放置されていました。

続きを書きます。

選択をする時に自分の頭で考えて選択するということが「主体的に生きる」ことでしょうか?

それは違うと思うのです。

それではゲームをしている人と変わらないようです。

目の前に与えられた選択肢から選んでいるようでは受動的です。

選択肢をどう増やすか、与えられた条件以外に自分でもっと条件を増やす生き方があるはずです。

選択肢を増やす方法は実践しかありません。

実践すれば周辺は必ず変化します。

同時に自分の意識も変化します。

これが選択肢が増える理由です。

受け身では常に選ぶだけの身になって

与えられた情報量でコントロールされるだけの人生になります。

パートナーシップとは組んだ相手と共に船出をして

つまり実践をすることで選択肢を増やし、その事がお互いの成長を促し

主体的力量を増すという事を目指すものです。

それが苦しいことが楽しいという状況を創造します。

最近BL研究所であった話しですが、

集配に来る郵便局の人の態度が悪くて担当者を変えるように郵便局に苦情を申し入れるということになってい

ました。

それは簡単に解決できることですが、それでは「楽しく生きる」というパートナーシップのコンセプトは達成できません。

相手の態度に不快になるのは相手に自分の感情をコントロールされているわけで、受動的ですね。

これでは楽しくなりません。

相手の態度に一喜一憂している間は本当の楽しさの境地を手に入れることはできません。

集配の人が悪いという固定した眼差しでいる間は成長できません。

相手の態度を決めているのはこちらかもしれないのです。

集配作業がやり易いように配慮すれば良いのです。

荷物がたくさんあれば手伝うことです。

相手が楽になるようにすれば良いのです。

これが自分を変化させるチャンスなんですね。

それを ここからはあんたの仕事でしょ!‼️

と区切りを付けてはいけません。

こちらは客であんたはお店。

客にサービスするのは当たり前という態度に問題があります。

安い居酒屋を探してクレームを連発する人がいましたが、

それではサービスをより悪化させるだけです。

いつでもどこでも相手を楽しくさせる生き方が問われるのです。

posted by 変才冨田 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする