玄米を食べ続けて50年
マクロビオティックの創始者・桜沢如一先生が、提唱した半断食法「七号食」を何度も実践した結果、「未精製の穀物(玄米・古代米・雑穀米)を好きなだけ食べても7号食と同じ効果が得られる」事を発見、『トミタ式七号食』の普及に努めています。

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2008年02月13日

生き方の方向性と羅針盤

今日、以下のような相談がありました。

「職場でわたしを監視しているかのような人がいて、細かいミスがあると一々指摘される。こうしろああしろと指示します。最近はそういうことが積み重なり、職場に行く気分が重くなっています。そういう人とどうお付き合いすればよいのでしょうか」

その人は職場の上司ではないけれど先輩だそうです。

一つは誰とでも仲良くならなければいけない、という思い込みも関係しているのですが、考えなければならないのは、もっと大きな問題です。

自分の生き方の方向性を失ってしまうと、羅針盤を観察できなくなり、
今自分の存在する場所がわからなくなってしまいます。

対人関係上の問題が悩みになるのはそういうときです。
自分が生きがいをもっている場であれば、そうした問題は矮小化され悩みにはならないのです。

気にならない、という状態になるわけです。

視野に全体性が失われると、部分が極大にクローズアップされ
、小さな問題が大きく見えるのです。

「あなたは最初の頃は、その仕事に意義を感じ、だから生きがいにもなっていたのでしょう。それがどういう理由からか生きがいを感じれなくなった。その欠落感覚がそうした症状を出しているのでしょう。
要はその生きがいを感じれなくなった原因を考えて、それが経営者との考えの違いに元があるのなら、辞めたほうがよいのです」

人は人と多くつながったとき生きがいを感じます。つながりが切れそうになったとき不安感が生じ、潜在的な問題が(どうでもよいような問題)浮かび上がるわけです。

つながりを感じられなくなった理由に会社自身が外部環境(お客様とか)とつながりを持てないような不活性状態になったのかもしれません。

他者の夢に多く関わる夢を持つと、生きがいを感じられるようになるわけです。

posted by 変才冨田 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハッピールールの共時性

ある女性からメールが来ました。
読むとびっくりしました。

というのは
昨日ハッピールールに関する本を偶然手に入れたばかりで
その具体的なエピソードが送られてきたからです。

以下、引用

>人生を豊かにするのは、行動するための少しの勇気と、たくさんの失敗!
>
>ミルトン・エリクソンという有名な心理学者とあるおばあさんの実話です。
>
>ある時、エリクソン博士の旅行先に、お金持ちのおばあさんが訪ねてきました。
>「私はお金に不自由は全くなく、大邸宅に住んでいます。 イタリアから取り寄せた見事な家具に囲まれて、コックが毎日、素晴らしい料理を作ってくれます。
>私は庭仕事が好きでしますが、ほかのことは全部メイドがやってくれます。
>
>けれども私ほど不幸な者はいません。寂しくて寂しくてたまりません」
>
>とその人は訴えました。
>エリクソン博士はその話を黙って聞いていました。
>『わかりました。あなたは教会に行きますか?』
>
>「時々行きます」
>
>『では、あなたが行っている教会で、その教会に属している人のリストをもらいなさい。そのリストに誕生日を書き入れてもらいなさい』
>と言いました。
>
>『あなたは庭仕事が好きといったけれど、園芸の中で何をするのがいちばん好きですか?』
>
>「アフリカすみれを育てるのがいちばん好きです。
>水やりも大変ですし、そう簡単には増えません。
>でも私はそれが上手にできます」
>
>と老婦人は答えました。
>『家に帰ったら、教会の人のリストを誕生日の順に並べなさい。
>
>そして、誕生日が来た人のところに、あなたが育てた花にきれいなカードを添えて置いてきなさい。
>
>誰にも見つからないように、
>そして、誕生日が来た人のところに、あなたが育てた花にきれいなカードを添えて置いてきなさい。
>
>誰にも見つからないように、
>そして、誰から来たかわからないようにするのですよ。
>
>これが宿題です。そのうちに、あなたがいちばん幸せな人になることを請け負います。
>
>もし幸せになれなかったら、飛行機に4時間乗って、私のところにいらっしゃい』
>と博士は言いました。
>
>その老婦人は心が虚ろでたまらなかったので、さっそくこれを試してみました。
>博士から言われたとおりに、今月は誰が誕生日か調べ、きれいな鉢を作りました。
>
>誰にも見つからないように、朝三時に起きてこっそり鉢を届けました。
>
>そのうちに、そのことが町で評判になりました。
>
>この町は素晴らしい町で、
>天使が誕生日にすみれの鉢をお祝いに持って来てくれる、という噂がたちました。
>なぜなら贈り主がわからなかったからです。
>その人はエリクソン博士に電話をかけて、「誰にも気づかれないで宿題は成功しています」と報告しました。
>
>博士は 『あなたはどうですか、まだ不幸ですか?』と聞きました。
>
>老婦人は「えっ、私が不幸だなんて…」と答えました。
>
>『あなたは半年前に私のところに来て、「私ほど不幸な者はおりません。お金もあるし立派な家もあるけれど、心の中は空っぽです」
>と、私に話したではありませんか』
>とエリクソン博士が言いました。
>
>老婦人は
>「そうでしたね。すっかり忘れていました」と答えました。
>
>3ヶ月が経ってクリスマスがきました。
>
>クリスマスの夜に、その老婦人からエリクソン博士に
>また電話がかかってきました。
>
>「先生、今日のクリスマスほど不思議なクリスマスはありませんでした。
>庭師が大きな門のそばにクリスマスツリーを飾りました。
>
>今朝、そのツリーの下に、クリスマスプレゼントがたくさん置かれていました。
>
>その贈り物には名前もなんにも書かれていません。
>でもどれも私がほしいようなものでした。
>
>いつも私がかぶっているような帽子だとか、いつもしている手袋とピッタリ合うスカーフなどが並んでいました。
>
>花の種や新しい誕生日カードもたくさんありました。
>いったい誰から贈られたのかわかりません」
>
>町に住む1人のおばあさんが、明日は85歳になるから老人ホームに入ろうと家族で相談していました。
>そして、我が家での最後の誕生日を迎え、皆に祝ってもらいました。
>
>テーブルの上にきれいなすみれの鉢が置いてあるので、おばあさんが
>「これは誰からのプレゼント?」と聞きました。
>
>「天使から」と家族中が答えました。
>
>おばあさんは本当に天使からだと思いました
>
>自分のことを思ってくれる人が家族以外にいる、ということがとても嬉しかったのです。
>
>老人ホームに行くのはとても寂しかったけれど、移っていく勇気が湧いてきました。
>あんなにおばあさんの気持ちを変えるような贈り物をしてくれた人は誰だろうと、この家族が調べました。
>
>それが大邸宅の奥様だとわかりました。
>
>何も不自由はしていないだろうけれども、自分たちも同じことをしようと思い、町中で相談して贈ったのです。
>
>「自分の人生の中で、こんなにうれしいクリスマスを迎えたことはありません」
>と老婦人は言いました。
>エリクソン博士は
>
>『“おたがいさま”という言葉があるように、あなたは喜んで今日のプレゼントをもらっていいのですよ。
>あなたが庭に種を蒔くと、その種は花になってあなたのところに返ってきます。
>あなたは小さい種をいっぱい蒔いたから、立派な花になってクリスマスに返ってきてくれたのですよ』
>
>と言いました。

引用終了

素晴らしい本があります。
この本には仕掛けがたくさんあります。
この本を落ち込んでいる人にこっそりプレゼントします。
誰が贈ったかわからないように、自分の名前は伏せます。
相手の名前を書く場合も筆跡で知られないために
左手で書くのです。

その本の最後に感動の仕掛けがあるのです。

posted by 変才冨田 at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

若いときは、小欲では大成しない。

わたしは若いときは一切収入のことは考えてはいけないと考えている。

もっと言えば、若くなくても収入は考えない方がよい。
もっとも責任ある立場になれば考えざる得なくなるであろうが
それは、ブレーンが考えればよい。

お金の多少で行動を決めてはいけない。
すでに心が曇ってしまっている。

曇った心では判断力がすでに低いといえる。

若いときは最低食えるだけでよい。

昔は徒弟制度が普通で、若い人の修行時代としてあった。
一生の食べる術を教えてもらうのだから当然だ。

今でもケーキ職人などにはこれがある。
もっとも給料はもらえる。
が、とても少ない。

それをワーキングプアととらえるかどうかだろう。

本物のワーキングプア状態とは
経験がいつまで経っても生かされない状態で
経験そのものが単純労働で、いつでもだれかにとって替わられるものだろう。

そういう単純労働を10年やっても技術的にも人間的にも成長が期待できない。
単純労働であるがゆえに賃金も低く抑えられでしまう。

もし君がそういう労働状態であれば
一刻もはやくやめるべきだろう。

もしも今していることが将来に役立つと思えるものであれば
収入のことは考えてはいけない。

低収入でもやっていける人は大欲があるからだ。

大欲がある人は、今きっと価値あることに取り組んでいるはずだ。
お金を払ってでもしたいことであるはずだ。

テンツクマンのアジトは小豆島にあり、そこではボランテアスタッフがいる。
今日、そのボランテアスタッフが事務所にやってきた。

長期も短期もありさまざまな若者がやってくるようだ。
そこでは食べさせてもらって、さまざまな仕事に従事する。
だれも時間給を求めてはいない。

そこでは職業訓練校ではないので技術の習得はできないだろうが
「いのちの生かし方」という素晴しい技術を学べるところだ。
そこで若い魂は灼熱されて、島を飛び出す。

そこは若い魂の孵卵器となっている。

若いときに時間給を計算するようでは大成しないだろう。

収入は結果であり、目的ではない。
目的は充実感ではなかろうか。

君がサラリーマンでなく独立を目指すなら
小欲、小利に奔ってはならない。
まして、他の人に夢をもたせる任務を感じているのなら
なおさらだ。

小欲と夢は同居できないのだから。

「豊かさ」の尺度とはお金の多少ではない。
「豊かさ」とはどれだけ他者の夢と関係しているかだ。

他者の夢とつながっているあなたの夢ならば
お金はかってに入ってきて、勝手に出て行くだろう。

お金はエネルギーだ。
夢のボルテージに比例してお金の出入りも決まるだろう。







posted by 変才冨田 at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

命を大切にする、というのは・・・

命を大切にする、というのは・・・、長生きすることではない。

これはテンツクマンの一言。

こういう言葉は、わたし、好きです。

触発されてしまいますね。
わたしの内部が共振して、さまざまな想が飛び出します。

命は使い切る、ということですね。
それが使命ということ。

心身は借り物、レンタル品。
それを使いもしないで返却するなんてもったいない。

ところで、ここからが考えどころ。

心身を借りている主体はなんでしょう。

レンタル屋さんで心身と言うモノを借りている
あなたはナニモノであろうかということ。

考えてみましょう。




posted by 変才冨田 at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | わたしの哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする